二〇世紀ひみつ基地

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2005年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年11月

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烏瓜の灯火とカボチャランタン

ハロウィンといえば、カボチャをくり抜き、目鼻と口を開け、中にロウソクを灯すランタンが付き物だが、これは、死者の霊を導き、悪霊を追い払う、古代ケルトのかがり火に由来するものという。日本での御盆の迎え火、送り火(灯籠流し)に相当し、その時期、ハロウィンのようにカボチャや瓜で灯籠を造り、迎え火とする地方もある。

ハロウィンのカボチャのランタンは、子供のころの「烏瓜の提灯」の想い出につながる。

夏休みの終わる頃、隣家の生け垣に黄烏瓜が青い実を付ける。この実を使い提灯を造って遊ぶのが楽しい恒例行事となっていた。

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烏瓜の実が適度に育った時期、近所の子供たちが集まり、青くて固い烏瓜をもぎとり、父親たちの指導のもと、ナイフで穴を開けて種をほじくり出し、目鼻を開ける。尻から釘を刺してロウソク立てとし、頭のツルに針金をからませて持ち手となる木の枝を結び完成する。当時は目と口だけで鼻は開けなかったような気もする。

小さなロウソクに火と灯すと、チラチラとゆらめくあかりで烏瓜は緑色に透き通り、ロウソクの熱で皮が焼ける特有の香りがあたりに漂う。このあと、子供たちは手に手に烏瓜の提灯を提げ、暑さも和らいだ夜の街を徘徊するのだった。

宮沢賢治の小説には「烏瓜のあかり」が何度か登場する。賢治も幼少のころ烏瓜で提灯を造って遊んだのだろう。

それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。
『銀河鉄道の夜』より

星祭の夜、子供たちが手に手に烏瓜の灯火をもって、送り火の灯籠流しのように川へ流しに行くのだが、カンパネルラは烏瓜の灯火を流そうとして、過って川に落ちた級友・ザネリを水に飛び込み助けるものの、自身は帰らぬ人となってしまう。

徳冨健次郎(徳冨蘆花の本名)の随筆には、「烏瓜の燈籠」のことが記録されている。

 今日誤ってもいだ烏瓜を刳(く)って細君が鶴子の為に瓜燈籠をつくり、帆かけ舟を彫って縁につり下げ、しばしば風に吹き消されながら、小さな蝋燭をともした。緑色に透き徹った小天地、白い帆かけ舟が一つ中にともした生命の火のつゞく限りいつまでもと其表(おもて)を駛(はし)って居る。
(明治四十五年 七月十八日)
徳冨健次郎『みみずのたはこと』より

母親が娘のために造った烏瓜の燈籠には、風流な帆掛け船の透し彫りがほどこされ、初夏の縁側をゆらめきながらほのかに照らしている。そんな情景が眼に浮かぶような、さすがの名文である。

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黄烏瓜の花

夕刻に開き朝には花を閉じる白き花は妖艶で幻想的。

烏瓜は東北地方南部以南にみられ、青い果実には縞があり、秋には赤く熟すが、東北以北にもみられる黄烏瓜は縞が無く、秋には黄色く熟す。秋田で烏瓜といえば黄烏瓜のことをさし、賢治の「烏瓜のあかり」も黄烏瓜と思われる。

黄烏瓜の根から採取される澱粉は、解熱、催乳剤や、あせもの治療薬である天瓜粉(てんかふん・天花粉とも)の原料となった。今でも年寄りはベビーパウダーのことをテンカフと呼ぶ。

| 祭り・民俗・歳時記 | 23:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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ハロウィンと七夕・御盆

キリスト教徒でも無い者が、キリスト降誕のクリスマスを祝い、聖人バレンタインの祝日・セントバレンタインデーは、チョコレートメーカーのキャンペーンに利用され、変質して日本に定着した。最近ではハロウィンなどというものが幅を利かせている。日本人はなんて無節操な人種なのだろうか。



ハロウィンは古代ケルト民族の収穫祭が起源で、アメリカへはアイルランド移民によってもちこまれ、キリスト教の行事と習合したという。どうりで一神教のキリスト教らしからぬ、魔女や精霊が闊歩する愉快な祭りなわけだ。

古代ケルト暦では十月三十一日が一年の終わりの日。その夜は収穫感謝祭が行われ、また、死者の霊が親族を訪れる日でもあった。ドルイド教の祭司たちは、かがり火を焚き、作物と動物を神に捧げた。翌十一月一日、新年の朝、祭司は各家庭にかがり火の燃えさしを与える。この火を家に持ち帰り、カマドの付け火とした。かがり火は死者の霊を導き、作物を荒らす悪霊を払う聖なる火であった。

これらの一連の行事は、日本での七夕(ミソギ・収穫祭)から、御盆の迎え火までの流れと良く似ている。作物を荒らす悪霊を払う、かがり火は、あたかも稲の害虫を追い払う「虫送り」の松明であるかのようだ。

京都の八坂神社に「おけら参り」という聖なる火に関する古来の風習がある。
大晦日の夜、八坂神社に参詣し、火縄に招福除災の「おけら火」を頂いて、消えないようにクルクル 回しながら持ち帰り、神仏の御灯明とし、新年にはカマドの付け火として利用する。この火で焚いたお雑煮には無病息災の御利益があると伝えられている。神聖なる火を新年にカマドの付け火とするのは、古代ケルトの習俗と全く同じ。

古代ケルト民族と日本民族は、アニミズム(精霊・多紳=八百万の神)信仰という共通基盤を持つため、共通項も多いのだろうか。



「ロウソク貰い」と「Trick or treat」

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ハロウィンで子供たちが「Trick or treat!(なんかくれなきゃいたずらするぞ)」と、家々に押しかけておねだりすることの由来は、祭りに使う食料を貰い歩いたさまを真似たものといわれるが、これと似たものが日本にもある。

北海道全域にみられる「七夕のロウソクもらい」は、八月七日(月遅れの七夕)の夜、子供たちがグループで近所の家々を訪ね、ロウソクや小銭、お菓子を貰い歩く。そのときの、はやし歌は様々だが、内陸部の多くでは

ロウソク 出せ 出せよー
出さないと カッチャク(引っ掻く)ゾー
おまけに クイツクゾー

と、ハロウィンよりもさらに過激で乱暴な言葉を使う。この日ばかりは子供たちも無礼講なのだ。

東北や北陸にもみられるロウソクやお菓子などを貰い歩く風習は、元々は七夕の眠り流し行事の灯籠や提灯に大量に使う、かつては高価だったロウソクを貰い集めたことが起源という。

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枯葉の蒲団にくるまって

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場所・秋田市千秋公園
モデル・与次郎稲荷神社の猫

掃き寄せられた枯葉にくるまって気持ち良さそうな猫に、「こっち向いて」と猫語で声を掛けたら、レンズに顔を向けてくれた。
お願いだからそんな眼で見つめないでおくれ。

| 散歩写真・路上観察 | 22:30 | comments:5 | trackbacks:1 | TOP↑

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「ミルク焼」は郷愁の風味



五十年以上の歴史がある鈴為の「ミルク焼き」。
大判焼きよりも高価、しかも限定生産で早めに売りきれるため、子供のころはめったに口にすることのできないものだった。

「ミルク焼き」といってもミルクは入っていない。その命名は上質の小麦粉を使った乳白色の皮からという。香ばしく弾力のある皮のなかに、少し塩味の利いた十勝産小豆の粒餡がたっぷり。白き薄皮をやぶらんばかりに詰まった、ごろりとした粒餡は、外観の白い肌と、柔らかなネーミングには似合わぬ野趣をも感じさせる。独特の風味は昔と変わらず、包装も昔ながらの経木、その移り香もまた名物の一つ。

かつては、すぐ近くの聖霊学園の生徒が放課後に寄る人気の店だった。今も県内外の卒業生たちが青春時代の味を求めてやってくるという。

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鈴為もちや
秋田市南通みその町2-1
聖霊学園通り

本業は餅屋なので、忙しくなる年末の一週間と、痛みやすい夏場の一ヶ月はミルク焼きはお休みになる。


大きな地図で見る

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関連リンク

鈴為餅店オフィシャルサイト

| 食材・食文化 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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幻の仁別川の流れを辿る

佐竹氏転封以前、仁別川(旧旭川)の流れは、神明山(千秋公園台地)の西裾をすれすれに流れていた。手形鉄橋付近を起点とし、通町橋から五丁目橋までは直進する現在の旭川の一部は、堀替えによる人工の運河ということになる。

久保田城築城と同時に着工し、約十六年の歳月を要したといわれる、初代藩主佐竹義宣による旭川堀替の大工事は、仁別川の流れを堀替えて西方に移して現在の河道とし、川を境に西側を町人の町(外町・トマチ)、東側を侍の町(内町・ウチマチ)とした。

堀替で出た大量の土砂で、運河の東側(土手長町)に土手を築き防禦とし、東側に残った古川を整備して、久保田城を取り囲む外堀とした。堀替でできた運河もまた、土手を備えた外堀であった。

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仁別川(旧旭川)想像図

左端の手形鉄橋付近から、川反五丁目橋(横町橋)までのピンクでマーキングしたラインが、かつての仁別川(旧旭川)のおおよその流れ。「中島」という地名は、古川と新川の間にはさまれた「中ノ島」が由来。

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久保田城(千秋公園)西側・明治元年

水色が仁別川の流れを改修して造られた思われる堀。

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穴門の堀・北端から南を望む

左に和洋高校、左手には古川堀反通り、正面に木内デパートとキャッスルホテルが並ぶ広小路。この堀が一ヶ所だけ今に残された仁別川の跡。

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千秋公園外堀・明治末 クリックで拡大
古き仁別川を利用して造られた外堀

左手の堀が上の画像の「穴門の堀」、左寄りの土橋のあたりから左手を向き撮影している。その土橋から右手の堀は戦前から戦後にかけて埋立てられた。

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上長町(古川町)・木内デパートの小路

仁別川の流れは広小路を横断して、木内デパートのあたりを南下していたため、古くは木内デパート西側から南に延びる通りに沿った町を古川町と呼んだ。

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中央通り側から中長町、下長町(古川町)を望む

周辺はかつては中級武士の町、明治以降は開業医が多い静かな住宅街だったが、今ではマンションとホテルが立ち並ぶ町になった。

穴門の堀から古川町を南下した仁別川は、「旧あきたくらぶ」の敷地を通って五丁目橋付近に至り、現在の旭川に流れていたと推定される。

藩政期、「旧あきたくらぶ」の場所には藩営の米蔵があり、蔵の北側をとりまく堀は旭川に通じていた。この堀を「殻堀(からほり)」と称し、米は仙北方面から雄物川を舟で運ばれ、旭川に入り、殻堀の米蔵に荷を下ろした。この「殻堀」も仁別川を利用して造られたものとされている。

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水路・明治元年

赤色が藩営の米蔵があった場所。その北側(左)が殻堀(仁別川の名残)。
水色でマーキングした南北に延びる細い水路は、河道の切替え後、古川の一部を排水溝として残したものらしい。

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「旧あきたくらぶ」日本庭園の池 明治期

旧ニューグランドホテルの方向から、川反方面(西側)を眺めている。
この大きな池こそが、藩営の米蔵の北側にあった殻堀の跡、つまり仁別川の名残だ。

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「旧あきたくらぶ」周辺地図 明治末期

大ざっぱな地図だが当時の池の大きさが想像できる。

この大きな池はニューグランドホテル建築の際に大幅に埋立てられ、わずかにその面影を残していたが、「あきたくらぶ」と「ニューグランドホイル」の倒産にともない、完全に消え、跡地はルートインジャパン経営のホテルと、温浴施設「華の湯」が建っている。

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「旧あきたくらぶ」仁別川・名残の池

倒産して数ヶ月後の撮影、荒れ果てた庭園は、かつて名園と謳われた面影もない。

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| 秋田市今昔 | 23:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「羊羹だんご」と「羊羹パン」

横手の名物に「花見だんご」がある。
その特徴は、平べったくつぶされただんごに、羊羹の餡がコーティングされていること。これは全国的にみても珍しいだんごではないだろうか。県内では横手だけではなく、県南地方に広くみられるものだ。

食べやすい形状と、羊羹のなめらかな舌触りが特有な食感を生み、甘さは控えめでさっぱりとしている。

春先から六月ころまでの期間限定商品だが、最近は生地に菊の花を練り込んだ「菊見だんご」を秋に販売しているようだ。

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羊羹だんご

写真は、なつかし系の地菓子を作っている大曲の佐貫食品のもの。
こちらはほぼ一年中作っているようで、秋田市内のスーパーなどでパック販売されているし、市民市場の「たけや売店」では、だんご四個付きのものが一串づつバラ売りされている。

かつては、あんパンほどの大きさのパンの上に、羊羹がコーティングされた「羊羹パン」(これが正式名称かわからないが)があった。中に餡が入っていた気もするが定かではない。

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記憶の中の「羊羹パン」

物心がつき始めたころからの数年、三時のおやつの少し前になると、近所にあったお菓子屋のおばさんが、藤蔓で編んだ大きなバスケットに菓子パンを入れて売りに来た。バスケットには、メロンパンやコロネなどにまざって「羊羹パン」が入っていた。あれは当時菓子パンで有名だった「スゞヤのパン」ではなかったろうか。後にはたけや製パンからも販売されていたはず。

「羊羹だんご」を口にするとき、パンのおばさんと、「羊羹パン」を食べていた当時の光景がなつかしく想いだされるのだ。

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関連リンク

横手市観光協会の「花見だんご」紹介

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佐野薬局・通町

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秋田市保戸野通町・佐野薬局
昭和三十年代

平入りの旧店舗。薬品名がズラリと並んだ名物の屋根看板。左の伊藤履物店と佐野の間にある、間口の狭い通町郵便局は大正期からこの場所にあった。

佐野家の先祖は越後の人で、元和年間(1615-1624)に秋田に入り、故郷の地名を冠した「越後屋」の屋号で商売を始めた。寛政年間、藩から名字帯刀を許され、当主は代々「佐野八五郎」を襲名、薬種問屋の他に呉服・小間物問屋も営んでいた。江戸時代には那波祐生が創設した救済組織「感恩講」の設立に参画している。

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佐野薬局・新店舗

通町の拡幅により新築された店舗は、切妻造りをイメージしたデザイン、旧店舗を飾っていた屋根看板が再利用されて、今も店のシンボルとして生き残っているのが嬉しい。店内には明治期からの薬の掛け看板が飾られている。

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屋根看板

屋号は金網ベースに木製の切り抜き文字。かつては両側の薬品名も同じ様式だったが、後にホーロー看板になり、今は味気のないプレートになってしまった。

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大正末頃の屋根看板

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持ち送り板

玄関軒下の両サイドに据え付けられていた「持ち送り板」(支柱)も再利用され、店のアクセントになっている。片面が「雲」、その裏側が「波」の彫刻は、雨を呼ぶ雲と水の力に、火伏せの願いを託したもの。

すぐ近くの旧金子家住宅の玄関にも、同形の「持ち送り板」があるが、その彫刻は裏表どちらも「雲」の図案であり、細工もこれと比べると粗い仕上がりになっている。

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松の木に刻まれた戦争

千秋公園に散在する矢羽根形に皮をはがされた松の木、それは子供にとって不思議な存在だった。低学年のとき「昔のサムライがこれを弓矢の的にしたんだ」と推理し、そのことを父親に話すと、あれは戦争中にショウコンユを採った跡だと教えてくれた。

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千秋公園・長坂
ケロイド状にふちどられた傷跡が痛々しい

大東亜戦争末期、南方の占領地からの石油輸送が困難になると、時の政府はオクタン価が高く航空機の燃料として最適だった松根油の増産に乗りだす。昭和十九年十月、農商務省が「松根油緊急増産対策」を発表、翌二十年三月の閣議決定を経て、国を挙げての「松根油緊急増産運動」が展開された。全国各地の松の木から松根油を生産するために、老人、女学生、子供らが勤労奉仕として大量動員された。

ゴムの木から乳液を採取する要領で、幹に小刀でV字形の切り込みを入れ、空缶や竹筒をぶら下げ、翌日に溜まった松脂(まつやに)を集める。前日の切り口の少し上に、またV字を切り込む。これを繰返し、石油缶いっぱいになった松脂は工場に運ばれ精製された。この他、一般的な方法として古い松の根を掘りだし、釜で蒸し焼きにして油を取る方法もある。

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千秋公園・長坂
V字の傷がまゆ毛と眼、顔のような傷跡

以前は何重にも付けられたV字の傷はクッキリと、松脂がしたたる松が多かったが、永い歳月を経て、表皮の傷口は丸みを帯びて収縮し、ほとんど傷跡が消えているものもある。

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千秋公園・本丸
左手の松はほとんど傷跡がふさがっている

当初は年間40万キロリットルを生産する計画だったが、製油所の多くが爆撃されたこともあり、最終的に精製された量はわずかで、実際に松根油を使って飛行した公式の記録は残されていない。

赤松のまだ傷癒えぬ終戦日


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金萬は秋田名物ではなかった!?

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秋田名物「金萬」は、卵・蜂蜜と小麦粉で作った焼皮に白餡を包んだお菓子。昭和28年、秋田駅前の金座街に誕生したことから「金萬」と名付けられた。初期の広告などでは「金万」と表記されている。

駅の真向かい、パチンコ屋の並ぶ通りにあった「金萬」には、製造機が設置されていて、カシャンカシャンとリズミカルな音を響かせて、半自動的にまんじゅうが作られる工程を見ることができた。機械の音と焼きたての甘い香り、時折その様子をジッとみつめる子供の姿は秋田駅前の風物詩だった。

現在は東通の工場で製造しているため、製造工程の実演は見ることができない。駅前の公営駐車場(かつて金座街があったあたり)にある本舗には、ガラス越しに製造機が置かれているが、近ごろ動いているのを見ないので、今はオブジェと化しているのではないだろうか。

「金萬」は秋田だけのオリジナル菓子だと思っていたが、どうやらその認識は間違いだったようだ。店頭でまんじゅう製造機による実演販売をする店もある、カステラ生地の皮に白餡を包んで焼印を入れた「金萬」そっくりな小さな円筒形のまんじゅうは、北海道から九州まで全国各地に点在している。

値段は一個三十円から七十円ほど、菓子名で一番多いのは「都まんじゅう」または「都まん」「みやこまん」。その他、「ロンドン焼き」「清水焼き」「カステラまんじゅう」「とうまんじゅう」等々。それぞれに「高知名物」「平塚土産」「茅ヶ崎名物」「桑名銘菓」などと冠されて、その土地の名物になっているのだ。各地のまんじゅうを並べて味比べしてみたい。

秋田のオリジナルと信じていた「金萬」が、どこもにでもあるお菓子だと知って、ちょっとショック。しかしね「金萬」というネーミングは秀逸だと思うよ、と自分を慰めてみたりする。

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▼追記

「金萬」の起源・歴史についての詳細は、下記関連記事「秋田銘菓?「金萬」製造ロボットを見学しよう!」に。

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都まんじゅう調査隊
最近は更新が止まっているが、各地の都まんじゅう系お菓子の情報がまとめられている。
リンクには「都まんじゅう製造風景」の動画あり。

都まんじゅう - Wikipedia

札幌名物「とうまん」物語

都まん本舗(高知)
焼印を隠せば金萬と間違えてしまいそう。

浅草 中村屋・都まんじゅう
東京に居ると「金萬」がなつかしいなんて、こんな近くに同じものがあるじゃん。

ロンドンヤのロンドン焼(京都)

都まんじゅう・イメージ検索

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