二〇世紀ひみつ基地

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2005年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年10月

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生け花の野外展示という試み

九月二十四日、通町商店街の「通の市」会場で、竹青華道会が主催する「はなプロムナード」と題された、生け花展が開催されていた。

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この手の野外イベントは天候に左右されるため難しい面も多いが、散歩しながら気軽に見る生け花展は、とても面白い試みだと思う。初秋の太陽のもと、開放的空間に配置された花々たちは、室内空間よりもいきいきと輝いているようにだった。

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なかには、花を使わないばかりか、金属などの無機物だけで構成された作品もある。これがはたして生け花と言えるんだろうか。これではモダンアートのオブジェやインスタレーションとなんら変わらないではないか。

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草月流創始者・勅使河原蒼風が、敗戦後の焼け跡の中で、そこらに転がっていた鉄屑や針金を使ってオブジェを造り生け花として発表した作品には、時代を象徴するそれなりの意味があり、それは既成の伝統生け花に対するアンチテーゼでもあったのだろうが、それらのモノマネから始まった、現代のいわゆる前衛生け花のなかには、自由と個性をはき違えた、作者の自己満足としか思えない、あだ花のような作品もある。

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神仏に花々を捧げるることから始まった生け花の美は、限りある生命のひとときの輝き、やがて散りゆく命の刹那の美しさを活けることにある。花の死骸を含めた生物素材を全く使わない無機質な作品を「生け花」と称するのはどうも納得がいかない。

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明治の洋館にチターの調べ

九月二十五日
第十一回赤れんが館音楽コンサート

今回は開館二十周年を記念して、日本チター協会の内藤敏子会長によるレクチャーコンサート。

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共鳴胴の上に旋律用のフレット付き五本弦と三十本ほどの伴奏弦がある、ギターとハープがドッキングしたようなチターは、ピアノと同じくらいの音域をもち、チェンバロに似た音を出す。古代の一本弦のハープが永い時代を経て、現在のかたちになったのは十八世紀の末という。

チターといえば、1949年に公開されたサスペンス映画「第三の男」のテーマ曲として有名。アントン・カラスの奏でる哀愁の旋律は、チターというマイナーな楽器を一躍世界に知らしめることとなる。

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内藤さんがスイスに滞在していたとき、森の中でチターをつま弾くと、たくさんの鳥が集まり木々に並んでさえずり続けたという。そんな逸話もうなずける、心の琴線に触れる演奏に、しばし忘我の境に遊ぶ心持ちであった。

この建物は音響も雰囲気も良いが、ときどき外を通る大型車両の低音振動が館内に侵入するのが玉にキズ、特にチターのようなデリケートな楽器ではそれが気になってしまう。防音など考慮されていない明治の銀行なので当然なのだが。

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関連リンク

内藤敏子 講演録・1998 東京・読売ホールにて
当日の演奏ファイルがあるが、あまりにも酷い録音のため聴かないほうがよい

アントン・カラス 第三の男 試聴

アントン・カラスの生涯

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秋田市通町・青物市場

羽州街道筋にあり、城下と近郊農村を結ぶ商業のメインストリートであった通町は、早い時期から自然発生的に市が開かれていたというが、文久四年(1864)、上通町、中通町、大工町の三町(現在の通町)が朝市の家督を認められ、名実ともに市の街となって以来、連日、青物市場が開かれ賑わっていた。

未明から正午まで、近郊の農家や土崎湊から、野菜・果物・薪・柴などが集まり、路上にムシロを広げて商いをする。雨の日や冬期は、商店の軒下の土間(コミセ)を借りて雨風をしのいだ。

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FAMOUS PLACES AKITA 秋田市通町市場
大正末ころの絵葉書

撮影場所は佐野薬局前、頬被りのおばちゃんたちは今日の商いを終え後片づけ中のようだ。ということは正午近く。

「FAMOUS PLACES AKITA」は「秋田名所」の意訳。戦前の風景絵葉書のタイトルは「○○名所」と冠するのが慣例だった。「○○名所」という呼び方は、江戸時代の挿絵・浮世絵に始まり、明治の錦絵へと続いた伝統で、日本では明治後期に誕生した絵葉書もまた、錦絵の流れを継ぐビジュアルメディアといえる。

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中央部拡大

歩道と車道の区別などない通りを闊歩するカンカン帽に前掛け姿の男。その後ろに、高学年ほどの女の子三人が、風呂敷包みを手に顔を見合わせ語らいながら歩いている。

通町の突当りの新大工町(保戸野鉄砲町)には電気軌道株式会社の建物がかすかに見える。ここには秋田市と土崎(この当時はまだ秋田市に編入されてない)を結ぶ路面電車の乗り場があった。そのため通町は停留所前のメインストリートとして、土崎方面からの客も集め、多いに賑わうことになる。

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佐野薬局前

木製車輪の大八車には、木箱や大きな籠が載せられている。まだ日の昇らないうちから昨日採った野菜を大八車に載せ、舗装もされていない長距離の道を曳いてくるのは相当の重労働だったはず。日本でリヤカーが誕生したのが大正十年ころ、それが地方まで普及するのは大正末から昭和初期ではなかったろうか。

商店の前をこんなにも占拠してしまう市は、商売の邪魔だったのではないかと心配になるが、それが杞憂であることを、昭和五十七年、佐野薬局の九十歳になるおばあさんが証言している。

……前略……
家の前は、在郷のおがあちゃん方の市場でした。朝五時ころからムシロ敷いて物売りに来たもんです。太平とか仁井田とかから野菜売りに来るわけ。朝まに「おがはん、今日もお世話になるよ」なんて、毎日のことだから親しくなって、「はい、おばあちゃん、これあがってけれ」と、昔は青物なんてお金出して買ったことはなかった。
……後略……
聞きとり・昭和57年9月21日
『秋田県婦人生活記録史』より

農家のおばちゃんたちと、通町の商店がうまく共存していた当時の様子がうかがえる、ほほ笑ましいお話だ。市が立つことによって街は賑わい、商店もまた相乗効果で繁盛したことだろう。

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左手看板拡大

佐野薬局の向いには、道路が拡張された現在と同様に富樫電気商会。その奥が近江屋楽器店。電柱には中山太陽堂の「カテイ石鹸」の看板。

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現在の同地点

右に佐野薬局、左の「大町商屋館」にトガシ電気が入居している。
往時の面影をわずかにとどめるのは、佐野薬局の屋根看板だけ。

秋田市上肴町・魚市場



光と闇を結ぶ「通町橋」



通町橋から秋田市役所を望む

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三丁目大蒜亭焼失す

九月二十日午後九時ころ、秋田市大町三丁目、赤れんが館(旧秋田銀行本店)向いの「大蒜亭」から出火し、木造二階建ての店舗を全焼した。

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「三丁目ラーメン」を改装して「大蒜亭」になったのは1980年前後のことだったろうか。年輩の人たちには昔の名前の方が通りがよい。夜遅くまでやっているため川反帰りの酔客が多い店だった。

「三丁目ラーメン」の時代、焼き物を担当していたおじいさんがいて、この人の作る焼肉のタレは他にはない絶品だった。薄汚れた店が改装され名前が変わったとき、長年使い込まれた調理用具までも新調したため、一時期、味が落ちたことを憶えている。フライパンひとつがこんなに顕著に味覚に反映するとは思ってもみなかった。

そのころ学校帰りに座敷で遊んでいた二人の子供たちは、いつの間にか成長し、店の手伝いをはじめ、やがて嫁いだ女の子は子供連れで姿をみせるようになった。

ずいぶん長いこと寄ることもなかったが、焼失の報を聞いてから、無性にこの店の「ホルモン炒め定食」が喰いたくなってきた。早期の再建を祈る。

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テキ屋のジョニー君

今年の竿燈期間中、秋田駅前ポポロードで、怪しげでどこかなつかしい実演販売を見た。

通路の中央にできた円陣の人込みに足を止めると、三十代なかばほどの男が、小さな人形を声で操っている。人形は手のひらにすっぽり隠れるほどの大きさで、胴体は紙、脚がゴムとスポンらしきもので作られていて、男が「ジョニー君、ジャンプ!」と命令すると、直立した人形はまるで生きているかのようにピョンピョンと飛び上がり、差しだされた紙の上に乗った。そのほか「正座」「腹筋」「おやすみ」「宙返り」「回転」など、ジョニー君はどんな命令も簡単にこなす。

その姿はさながら、中世の陰陽師が、紙に命を吹き込み操ったという式神が現代に蘇ったかのよう。

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見ていた子供が声を掛けても同様に命令に従う。おまけにジョニー君はバイリンガルなので英語でも日本語でも聞き分けるのだ。

どんな仕掛があるのかとしばらく見物していたが、操る糸も不審な動作も全くみられない。ジョニー君の頭の上を紙で遮ったまま命令してもジャンプを続ける。

ひとしきり実演したあと「これにはタネと仕掛がありますが、ちょっと練習すれば誰でも簡単にできます。説明しますと……」といいながら、ジョニー君の背中を指さし、「この部分にこのシールを貼ってください。あとは説明書を読めば誰でもできます」と、その厚手のシールにこそ重大な秘密があるかのような素振りをみせ、一体1000円のジョニー君を売りはじめる。

それ以来、頭の隅っこに引っかかっていたジョニー君の正体が気になってネットで検索してみると、たくさんの情報が掛かってきた。

そのタネを要約すると、見物人の中にサクラがいて手品用の見えない糸でジョニー君を操っているが、見ているほうは実演に注目しているので、指先をかすかに動かしているサクラには意識がいかない。販売用のジョニー君には、釣り糸のような見える糸が入っていて、タネとして説明された背中に貼るシールは、糸を固定するものらしい。

男は「もっと近くに寄って見てください」と再三声を掛けていたが、客が後ろに下がってしまうとサクラの動きが後ろから覗かれてしまうためだ。客を円陣に集めるのも、サクラの後ろに人を集めないための工夫なのだろう。

通常の販売価格は1セット500円。人出の多い時期は1000円。
見ているうちに何体か売れていたが、家に帰ってがっかりした人も多かったのではないだろうか。しかしそれに文句を言うのは野暮というもの。原価数十円のものが1000円では暴利だが、大道芸としてみれば、口上とテクニックで人を惹きつける見事なパフォーマンスといえる。

サクラと口上を駆使する手口はテキ屋のやり方と同じ。ジョニー君の実演販売は、かつて祭りの露店や、学校の校門近くの路上に現れて、インチキネタ(商品)を売っていたテキ屋のおじさんの現代版なのだ。

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ジョニーくん
小さな動画あり(外人売人)

魔法使いジョニー

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山王さんの秋祭り

九月十八日
日吉八幡神社秋季大祭(山王祭)・宵祭り

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三つ巴の神紋が灯る宵宮の外町

江戸時代は山王社と呼ばれた八橋の日吉(ひえ)八幡神社は、元和元年(1615)初代藩主佐竹義宣が「統治の安定と外町町人の発展」を願い、近江の日枝山王と京都の石清水八幡を勧請して創建。外町(現在の大町、川反、旭南)の鎮守として、古くから「八橋の山王さん」と親しまれてきた。

十八日夕刻からの宵宮のメインは夕刻からの御差鉾渡御(おさしぼ・とぎょ)。
おごそかな神事はクライマックスを迎え、明かりを全て消した拝殿から、神主の「オォォォォ~」という警蹕(けいひつ・降神の音霊)の声が響き、闇の中からほの白く輝く御差鉾(おさしぼ)が登場する。これからお囃子の屋台車を先頭に、外町の全ての町内を祓い清めながら練り歩き、商売繁盛や家内安全などを祈願するのだ。

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神社を出立する御差鉾

神の分霊(わけみたま)である御差鉾は、和紙をたばねた大きな御幣で、無病息災と火伏せに霊験あらたかと伝えられ、外町の古くからの家では、御差鉾から千切った御幣を頂き神棚に供えるのが慣例になっている。神社を出立したときには、たっぷりふくらんで重そうだった御差鉾も、外町の全ての町内を巡り終わったころには、すっかりやせ細っている。

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馬口労町

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下肴町

祭りといえば神社にお参りに行くのが普通だが、ここでは神様が御差鉾に乗って町内にわざわざ出向いて来てくれる。その理由は、鎮守としては距離があることと、八橋までの道が現在のように整備されておらず、簡単にお参りすることができなかったためらしい。

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九月十八日
日吉八幡神社秋季大祭(山王祭)本祭 統前町・室町
神輿渡御、子供神輿、稚児行列

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山王祭の日は六十騎もの神輿が一日中町を練り歩いたという文化年間(1804~1818)の記録が残っているように、かつて山王祭は久保田(秋田市)を代表する祭りだった。昭和初期には全県から見物人が集り、臨時列車が出るほどの賑わいだったという。

主だった町内では、高さ十メートルの曳山を出したが、やがて電線が空を被うようになり、曳山は身動きがとれなくなったため、巨大な置山と豪華な飾り人形になる。道路をまたいで設置した櫓舞台では、秋田音頭やコッカラ舞、手品、萬歳、浪曲など、中央から招いた芸人も交えて多彩な演芸がみられたという。

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昭和三十年ころの山王祭

軍配の町紋がみえるので、本町六丁目が統前町だろうか。
横町の西端の大町との交差点に櫓があり、その上では神楽のようなものを演じ、周囲は見物する鈴なりの人で埋めつくされている。

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横町から本町六丁目へ左折する神輿(上の写真と同じ場所)

現在の神輿の数は、子供神輿を合わせて三騎。
統前町の規模により、祭りの様相も毎年変化する。たとえば大店が集中する大町一、二丁目が当番になると、町内を歩行者天国にして出店を開き、竿燈を出竿したりするが、今年のように商店などスポンサーの少ない普通の町内では質素な祭りになってしまう。

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せきやの「たこあげくん」

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たこあげくん・三個パック 240円

旬のイイダコまるごと一匹を使い油でカラッと揚げた、たこやきならぬ「たこあげくん」は、秋田市保戸野通町「せきや」総菜コーナーの人気商品。直径約5.5cmのボリュームは食べごたえがある。

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外はカラッと中はしっとりとして野菜たっぷり、タコの歯ごたえも良く、これを食べたあとでは、フツーのたこやきでは物足りなくなるのだ。

イイダコの季節以外は、大きめのタコ足が入ったものになるが、大きさは同じで値段は安くなる。

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川反の灯ひとつ消え……

山王大通り「升屋」の角を川反通りに曲り、少し歩いた交番の斜向かいに、老舗割烹「いくよ」がある。古き良き川反の風情を今に伝える純和風建築の料亭だ。

子供のころ「いくよ」という店名は「行くよ」だと思って「いくよに行くよ」などと言葉遊びをしていたが、その由来は「幾代」にも続く繁栄を願って命名されたものだろうか。

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先日のたそがれ時、川反を歩いていたら、いつもはそこにあるはずの馴染の風景が変わっていた。割烹「いくよ」が忽然と姿を消していたのだ。思いもよらぬ出来事に、しばし呆然とその場に立ち尽くしてしまった。

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「いくよ」秋田市大町三丁目(川反三丁目)

「いくよ」の初代経営者は、六郷町に生まれ、川反の料亭で修業を積み、艱難辛苦を乗り越えて、大正十三年には念願であった自分の店を開いた立志伝中の女性で、川反でその存在を知らぬ者はなかったという。

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「いくよ」が創業した大正末から昭和始めは川反の全盛期、芸妓置屋が四十軒ほど、芸妓、半玉の数は二百人に達したという。それから約八十年の歳月、川反の栄枯盛衰、そこに生きる人たちと、行き交う人々の流れを眺め、川反の歴史とともにあり続けた料亭。

先年の老舗料亭「あきたくらぶ」の倒産と同様、バブル崩壊に次ぐ不況、官官接待の社会問題化による官公庁の利用激減が廃業の要因か。

かつて高級料亭は敷居の高さこそがステイタスだったが、今ではそれがかえってウイークポイントになり、一般市民は敬遠してしまうため旧態のままで営業を続けるのは難しい。そのため、大正八年創業の老舗料亭「濱乃家」では、別館に和風レストランを開き、明治十九年創業の老舗割烹「かめ清」では、和風建築からモダンな店舗にニューリアルし、和風ダイニング「さい賀」を併設したりと、敷居を低く大衆化して生き残りを図っているのが現実なのだ。

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昭和三十四年 『秋田百点』より

建物の古さからいえば、大正八年創業の「濱乃家」に次いで、川反で二番目の歴史を有する建築物だったが、増改築を重ねた「濱乃家」とくらべ、「いくよ」は創業時とほぼ変わらないたたずまいを見せていただけに、諸行無常とはいえ、その消失が惜しまれる。

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北隣にあったスナック喫茶「ダブ」も同時に取り壊され、晒された広大な空地が虚しい。跡地は駐車場になるのだという。


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2005 PMA・大町で音楽に浸る

The Power of Music from AKITA(PMA)は、仙台の定禅寺通ストリートジャズフェスティバルを手本に、「音楽の力で秋田の街から、ドキドキ、感動を」をコンセプトに、この日曜日、第一回目が開かれた。

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前夜祭 サン・パティオ大町

九月四日の日曜日、大町通りから通町にかけての六会場に、伝統音楽からロックまで、プロも含めた幅広いジャンルの演奏者が集まり、あたりは音楽に溢れ、老若男女の区別なく、ひとときの音の祝祭空間を楽しむ姿がそこにあった。

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あくら・中庭 アコーステック系

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日銀駐車場 ビックバンド・ゴスペルなど

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旧金子家住宅・土蔵 筝曲、シタールなど伝統音楽

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サン・パティオ大町 プロのステージ

写真は名曲「いとしの第六惑星」を唄う、あがた森魚。
秋田では70年代初めに産業会館と県民会館で、いずれも合同コンサートのゲストとして、昨年のパンテオンシネマズのオープニングイベントでは、若いころに監督した映画「僕は天使ぢゃないよ」の上映に合わせて来秋し三曲ほど唄っている。デビュー時からかかさずアルバムを買い続けている思い入れのある歌い手。こんなかたちでその歌声を耳にすることができるとは夢にも思わなかったので、感慨深いものがあった。

「赤色エレジー」でデビュー後、80年代初頭の一時期、A児を名乗り、パンクなテクノポップバンド「ヴァージンVS」を結成。アニメーション「うる星やつら」のエンディング・テーマ曲「星空サイクリング」は、ヴァージンVS時代のあがたが唄っていることはあまり知られていない。この曲は原曲の「コズミック・サイクラー」のほうが数段出来が良い。

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ダースコちんどん隊

最近あちこちのイベントで見かける天王町のダースコちんどん隊、今回はPMAの街頭宣伝から自らのライブまで一日中活躍していた。今年の四月、富山市で開かれた第五十一回全日本チンドンコンクールに初出場し、素人部門最優秀賞を受賞。

デカダンの香り漂う見せ物小屋の口上に続く、サーカスのジンタ「美しき天然」の歌、明治演歌(演説歌)、さらにはエノケンの浅草オペラまで、近代芸能のルーツを見るようなそのパフォーマンスは、ちんどん芸を基本としながらもレパートリーも豊富で、もはやアマチュアの域を超えた質の高いエンターテーメントになっている。見せ物に徹する、という極めて明確で、いさぎのよいスタンスが見ていて気持が良い。

関連サイト
PMAオフィシャル
あがた森魚オフィシャル

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どこにもない絵・友川カズキ

杉浦康平による美しい装丁でお馴染みの「季刊・銀花」最新号に、絵描きとしての友川カズキ(昨年「かずき」から改名)が特集されている。

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「銀花」もネタ切れか、焼きが回ったもんだな、なんて声が聞こえそうだが、過去の特集の傾向をふり返れば決して意外な人選ではない。

カラー10ページ
モノクロ3ページ
書き下ろし・綴じ込み絵本

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歌手・友川カズキの魂の繪「ユメなら、ある」
●ユメなら、ある--歌手・友川カズキの“どこにもない絵”の世界……●作家・立松和平に「感性まるだしヒリヒリするようにして裸で立っている男だ」と評された友川カズキ●フォーク全盛の七十年代半ば、歌「生きているって言ってみろ」で鮮烈に登場した彼は、鋭利な言葉で魂を抉るがごとく歌う。●独学で絵をよく描く彼は個展を開いて洲之内徹の目に留まるなど、絵でもまた人々を魅了してきた。●秋田から上京して三十数年、ユメの在処を求めて彷徨う人の「どこにもない絵、とんでもない絵」を。

●魂の歌を絶叫する人の絵には、不思議な静けさが漂う。●なんとも言えないユーモアと哀しみが同居する。

裏表紙より


「ユーモアと哀しみの同居」と言えばピエロを連想するが、友川もかつて「道化師」と評されたことがあった。

誰にも真似のできない友川の歌のような友川の絵、ウマイ・ヘタを超越した場所にある表現。「どこにもない絵、とんでもない絵」=「どこにもない歌、とんでもない歌」。

季刊「銀花」オフィシャル
特集記事で使われた画像数枚あり

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公園外濠ノ景・風景を読む

消えた堀の記憶(一)

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公園外濠ノ景・明治末
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千秋公園(久保田城)を取り囲む外堀を写した明治末期の絵葉書。記念スタンプには「国民新聞主催東北遊覧会歓迎記念明治四十二年九月十九日秋田市」とある。しかし、あまりにも現在の景観と変わっているため、初見ではこれが一体どこなのかさっぱり見当がつかなかったが、調べていくうちに、公園西側の千秋明徳町周辺を千秋公園の高台から写したものという結論に至った。

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公園外濠ノ景・解説図

穴門橋はすでに埋め立てられて土橋になっているが、明治二十四年までは堀にかかる木橋で、城から通町を通って八橋、土崎湊に向かう重要地点のため、橋を渡った和洋高校入口付近の穴門には足軽番所があって、二十四時間態勢の警備はきびしかったという。

城へ入る穴門橋は、ゆるやかにそり返った木橋であったが、明治二十四年に取り壊し、その下の堀を埋立てて土橋とした。


古川堀反町から久保田城を望む・明治初期

穴門堀にかかる穴門橋、右上の建物は御出し書院、左手に御隅櫓。

古川堀反(ふるかわほりばた)町(現・秋田市千秋明徳町)の「古川」とは、「旧旭川」のことをさす。徳川時代以前の旭川は仁別川と呼ばれ、佐竹氏による掘り替え工事が行われるまでは、現在よりも東側の千秋公園の裾すれすれを蛇行して流れていた。写真に写る外堀は、旧河川の一部を改修して外堀としたもので、仁別川と呼ばれていた往年の旭川の面影を色濃く残している。

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左端に小さく見える白壁の店舗は広小路の木内商店。その背後が県庁舎と関連施設。古川堀反通りの堀端には数軒、掘立小屋のような建物が見える。

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現在、JAあきた会館の建つ場所には馬が放牧されている。

スタンプに隠れている大きな二階建ての建物は、明治四十年開校の「秋田女子技芸学校」。同四十一年に茶町から土手長町(現在の大橋旅館の地)に移転。県内でもっとも歴史のある私立学校で、のちに現在地(平野美術館の隣)に移転し、現在は「学校法人敬愛学園・国学館高等学校」と改称し男女共学の学校となった。

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明治期の周辺地図

緑色が土塁。写真は赤丸でマーキングしたあたりから撮影したと思われるが、今は成長した樹木と建物が邪魔をして全く見通しが効かない。

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現在の周辺地図

この周辺で今に残る堀はL字の穴門の堀と県民会館北の内堀のみ。穴門の堀も周囲を埋め立てて建物を建てため、少しだけ狭くなっているのがわかる。

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現在の穴門橋(上図のピンク部分)

通町方向から千秋公園へ向かう、ゆるやかな坂道。往時はこの小路を南北(左右)に横切って仁別川(旭川)が流れ、佐竹氏の時代には、堀となって穴門橋が架かっていたことなど今となっては想像もできない。

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