二〇世紀ひみつ基地

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2005年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年09月

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アカと呼ばれた野良猫のこと

千秋公園の弥高神社付近に数匹の野良猫が暮らしている。ほとんどが捨て猫、もしくはその子供たち。以前は八匹ほどいたが、今はもっと少ない。

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その中に毛色からアカと呼ばれた猫がいた。
アカは野良猫にしてはやけに人懐っこく、かつては大切に育てられた飼い猫だったことを想像させたが、今年に入ってから公園からその姿を消してしまう。

野良は病気に感染しやすく、過酷な環境にさらされることからその寿命は短い。また、人懐こい猫は、拾われて飼い猫になるケースもある。猫同士の事情から居場所を替えたのかも知れない。

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千秋公園に暮らす猫たちのために、朝夕かかさずにエサを与え、病気のときは病院に連れていったりと世話をしている人がいる。その人の話では、今年の二月、アカは普段は行くことのない脳研側の道路へ降りて、轢かれているのを発見されたのだという。自らそれを選択したかのような哀しい最期だった。

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市電が走る街・大町

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県庁前通り・昭和二十五年
秋田市大町二丁目交差点から東を望む

左手に大正期に建てられた勧業銀行秋田支店、直進して二丁目橋を渡った突当りには県庁舎。当時の道幅は12.7mほど。

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勧銀前 宝くじ売り場

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野口時計店側

右手の店舗は野口時計店。
店舗脇の電柱に、「哀愁の港 やくざブルース」「旭座」の文字が見える映画看板。旭館は市内十人衆町(大町六丁目)にあった映画館で、のちに銀映座と改称、昭和四十年頃に閉館。

車両番号「112」の電車は、市営になる前の昭和五年、栗原源蔵の秋田電車株式会社が創業時に購入したもの。

まだ自動車の数も少なく、歩道と車道の区別など無い、どこもかもが歩行者天国だった時代の、路面電車が写る風景には、のどかな空気が流れている。

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山王大通り二丁目交差点から東を望む

昭和四十五年(1970)、13mに満たない通りは、36mに拡幅され、通称・山王大通り(またの名を竿燈大通り)となり、取り壊された勧銀は川向こうの現在地に移転。その北隣にあった石川書店が現在のスカイビル(スカイホテルが入居)のオーナーになっている。突当りにあった県庁舎は昭和三十二年(1957)焼失し山王に移転、跡地の一角には高層ビルが天を突いている。日銀の南隣、道路沿いにあった三光堂書店は、中央通りに移転後、残念ながら廃業してしまった。

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足下の江戸・古川堀反町遺跡

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古川堀反通り
広小路方向から北を望む

左に秋田カトリック教会、その向こうが工事中の秋田警察署。
右手の堀側にはかつて、貸ボートと金魚・熱帯魚の「秋田水族館」、「金鳥園」の熱帯魚部、水交会館などが並んでいたが、今は駐車場になっている土地も多い。

佐竹氏の居城からも近いこの付近は、大物クラスの家臣が配置されていた武家屋敷で、昭和三十八年に警察署が移転するまでは、根本家の武家門が残り、武家屋敷の風情をわずかに残していた。

その武家門をくぐると秋田県立病院(前身は秋田組合病院)があったのは、昭和二十年代までのこと。県立病院は国立病院と合併し、秋田県立中央病院として昭和二十九年、大手門通りに(現・脳研の地)移転している。

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明治元年当時の周辺地図
黄色でマーキングされたあたりが発掘調査区域

日本画の大家・寺崎広業(1866-1919)は慶応二年、カトリック教会の地にあった、母の実家・疋田家で生まれている。

秋田中央署の改築に伴う古川堀反(ふるかわほりばた)町遺跡の発掘調査は、今年三月から七月にかけて行われ、小野岡家の敷地から陶器や木製品、キセルなど、約三千五百点が発掘された。

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井戸

地下水が豊富なため保存状態が良い。

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馬櫛(まぐし)・木製品

灰均しの可能性もあるが、馬の毛を梳く馬櫛と思われる。

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人形・木製品

かなり古い時代のものと思われる、コケシの原型のような素朴な人形。
円空仏のような良い顔をしている。

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陶磁器類

出土品のほとんどが、ごみ捨て場から発掘されているため割れた雑器が多いが、なかには織部焼も。

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土人形類

いくつか人形の型のようなものがある。もしかしたら、武士の内職として土人形や張り子の人形を造り、苦しい家計の足しにしたのかもしれない。

現代人が生活を営む地面のすぐ下の、あちらこちらに江戸の人々の暮らしが眠っているのだ。


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追悼・池田修三氏

版画家の池田修三が昨年の暮れ逝去したという。

検索してもおくやみの記事が見つからないのは密葬だったためだろうか。

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修三は大正十一年(1922)秋田県象潟町に生まれ、旧制本荘中学から東京高等師範学校に進学。昭和二十一年から由利高校教員として六年間勤務した後、秋田市の聖霊学園に三年間勤務、昭和三十年に上京し、木版画に専念する。少女や子供たちの情景を得意とした。

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この作品は美術教師として聖霊学園に勤務していた時代の習作。
校舎か宿舎らしき建物で、清々しい朝の光を浴びる女生徒の姿が、モノクロの陰影に印象深く刻まれている。聖霊の制服は当時はセーラー服だった。

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これも同時代の習作。
千秋公園から太平山を眺めたものだろうか。
晩年のものよりも、この時代のモノクロ作品に魅力を感じる。

芸術的評価は決して高くはなかったが、80年代には秋田相互銀行(あけぼの銀行)のカレンダーや通帳に、修三の版画が使われたため、名前は知らなくとも、秋田県民にとってその作品はなじみ深いものになっている。

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池田修三・画像検索

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七夕と御盆

日本古来の七夕(タナバタ)は、大陸から七夕(シチセキ)行事が渡来する以前からの民間信仰。東北の七夕行事である、ネブリナガシ(ネブタ、竿燈など)が終わると御盆が始まるが、七夕は、水で体を清め慎んで祖霊を迎える準備をする、ミソギの行事であったという。この日は秋田県内でも、七たび水浴びし身を清める習慣があった。竿燈祭りの期間中、竿燈のてっぺんに飾られて、ケガレや睡魔が付いた御幣を、最終日の翌日の早朝に川に流す「御幣流し」は、かつての七夕行事の名残。

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竿燈と御幣

収穫祭としての七夕も古来の行事で、胡瓜や瓜、茄子や茗荷などの畑の作物の成熟を神に感謝してそれらを供え、竹笹を神の依代(よりしろ)として立て、神の乗り物として、胡瓜の馬、茄子の牛を飾った。それが後には盆飾りへ引き継がれていく。季節の野菜が豊富にならぶ草市は、いにしえの収穫祭の片影だ。

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胡瓜の馬、茄子の牛

牛馬は地方によっては稲藁やマコモで作る。
「精霊をお迎えするのが胡瓜の馬、荷物を積む為の茄子の牛」とも、「迎えは馬で早く、送るときには牛でゆっくり」ともいわれている。

御盆と正月は仏教渡来以前からの「魂(タマ)祭り」が起源。正月には「お正月さま」が、お盆には「お精霊さま」という祖先の霊が、山からこの世を訪れ、生者と交歓する不思議な時空間を作り出す。それがやがて仏教と習合して日本独自の盆行事となった。

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精霊棚の供え物

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お地蔵さまの供え物

盆踊りは訪れてきた精霊を慰め、生者と共に遊びたわむれるものだった。手ぬぐいで頬被りしたり、菅笠や頭巾をかぶって顔を隠して踊るのは、踊り手が精霊を演じているのだという。

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草市・馬口労町

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勝平得之「盆市」(部分)昭和二十一年

八月十二日、近郊の農家が集り、お盆に使う花、野菜、果物、精霊棚の供え物などを売る草市(盆市)は、秋田市内では保戸野通町と馬口労町で古くから続いているが、往年の情緒を今に残す草市は、馬口労町だけになってしまった。

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馬口労町通り

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盆花(精霊花)

盆の数日前に山に入り花を採ってくる行事は「盆花折り」などと呼ばれ、山にいる祖霊は盆花に乗って家に帰ってくるとの言い伝えもある。本来は購入するものではなく、それぞれの家が山から採取するもので、先祖迎えも兼ねた行為だったのだろう。

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スーパーなどでは規格外れとされ見ることができない、伸び伸びと育った茄子と胡瓜

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精霊棚の供え物

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鬼灯(ホオズキ)と飾り灯籠

鬼灯は精霊の乗物、精霊を導く灯火。
食品に分類される飾り灯籠は、たけや製パン製。

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笹巻き(三角ちまき)

本当はイグサで結ぶのだが・・・、これではせっかくの笹巻きが不味く見える。

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秋田の郷土料理「赤ずし」

別名「盆ずし」「けいとまま」「赤まんま」など。
炊いたもち米を桶に薄く敷き、その上に胡瓜の塩漬、塩もみした赤紫蘇を加え、笹の葉をかぶせて漬け込む。精霊棚や墓に供え、砂糖や醤油をかけて食べ、客にもふるまう。サッパリとした味わいは、食欲の落ちる真夏にはかかせないものだった。

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懐かしのマクワウリ

値札には「メ瓜」と記されていた。「メ」は「うめ(旨い)」という秋田方言でが短くなったもので、「メ瓜」とは「旨い瓜」の意。

子供のころ、夏になると瓜売りがやって来た。その売り声も聞いたような気もする。瓜は西瓜よりも大衆的な夏の風味だったが、プリンスメロンなど、より甘く安価な交配種が出回るようになって市場から消えていった。

最近では精霊棚も省略する家が増え、こんな草市の光景も、やがては消えてしまうのかも知れないが、後世に残して欲しい夏の風物誌である。


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竿燈妙技会2005・昼竿燈

第五十九回、竿燈妙技会
秋田市保戸野通町にて


合同演技

竿燈まつり期間中、八月四日から六日まで、通町を会場に開催される竿燈妙技会の面白さは、本番の夜竿燈を凌ぐものがあるのだが、秋田市内に住んでいても一度も目にしたことが無い人も多い。

競技種目は、大若団体規定、大若自由演技、大若個人戦、囃子方、小若囃子方、小若団体規定。

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大若規定演技・北都銀行

大若団体規定は、チーム五人で「流し」「平手」「額」「肩」「腰」の演技を各々三十秒ずつ行い、七人の審査員が持ち点十点の五十点満点で審査をし、合計点を競い合う。継ぎ竹は二本使用し、型の美しさ、地面に根がついたような安定した姿勢が審査のポイントとなり、地面にテーピングした円いリングから出たら減点される。

最終日の三日目は予選を勝ち残った十六チームがトーナメント方式で対戦。二チームが赤・白のリングに隣りあわせて同時に演技を行い、七人の審査員が赤・白の旗を揚げて勝者を決定する。その瞬間、会場は最高の盛り上がりをみせる。

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竿燈技五種

「流し」南通
次の指し手が継竹を継ぎやすいように支える基本技。一見地味だが継竹を握ったまま静止させるには相当の握力と技術が必要とされる。
「平手」 城町
高々と竿燈をかざす力強く豪快な技。差し上げた利き腕と、ふんばる軸足が一直線になるのが理想的。
「額」保戸野鉄砲町
高難度の技。鉢巻きの上に乗せるが、50キロ以上の竿燈の重さで額が傷つくため、鉢巻きに緩衝材を入れる人も。
「肩」北都銀行
最も指しやすく安定する技。利き腕を高く伸ばし、軸足と肩を一直線にする。
「腰」保戸野鉄砲町
バランスをとるのが最も難しい大技。

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審査員

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大若団体規定優勝・新川向南町(Aチーム)

感極まって抱きあって涙を流す姿が感動を呼び貰い泣きする観客もいた。

その年の秋田で一番の差し手を決める大若個人戦は、団体戦から「流し」を除いた四種目を一人で行うが、50キロの竿燈を一分二十秒の間あげ続けるには相当な体力と技術を必要とする。

大若自由演技は規定のような継ぎ竹の制限は無く、規定と同じ五種目をチームで演技する。花笠やマトイなどの飾りを付け、途中で継ぎ竹を足されて高さと重量は増し折れやすくなるため、安定させるには力と高度な技術が要求される。余裕が出ると、片手に番傘、片手に扇を持ったり、竿燈をあげたまま地面に膝を着いたりと派手な演技も飛びだし会場から喝さいを浴びる。以前は継ぎ竹の本数が点数に計上されていたが、そればかりを争うことがエスカレートして竿燈自体の安定性が損なわれたため、昨年からは五本以上足しても加算されないようになった。

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継ぎ竹五本の竿燈を持上げる・城町
竹のしなりの美しさ

基本的には何でもありの自由演技、2003年の決勝戦で下米町一丁目は、継ぎ竹をゴルフバックに入れたキャディさんを登場させ笑いを誘い、マトイからは鳩と紙吹雪を出す仕掛で観客から喝さいを浴びる。

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2003 大若自由演技・下米町一丁目のキャディさん

今年の下米町一丁目の自由演技は、花笠の下の容器に鳩を二羽入れ、竿燈が安定したところで容器につないでいた釣り糸を引っ張ると、鳩が飛びだす仕掛けを披露し、成績は自由演技第三位。

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大若自由演技・下米町一丁目の鳩が出る仕掛け

野外での競技は、天候、特に風に影響を受け公平な採点が難しい。そのため、一時は体育館を会場に行われていたが、無風の室内では竿燈の動きが少なく盛り上がりに欠けることから、再度野外に戻され、現在地に移るまでは千秋公園中土橋を会場としていた。風神を味方につける強運もまた実力のうちということだろうか。今でも雨天は市立体育館が会場となるのだが、室内での競技ではその魅力は半減してしまう。風で押し流された竿燈を傾けて、力技で6メートルのリングに戻すときの姿、それが成功したときの喚声は室内では味わう事ができない。しかし現在の通町会場は中土橋に比べて風が強すぎるため差し手にとっては不評なのだという。

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囃子方演技・新川向南町

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小若囃子方演技・向馬口労町

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大若団体規定優勝・新川向南町

夜の本番、優勝チームは優勝旗とトロフィーを持ち先頭を切って誇らしげに入場する。

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戦前の竿燈風景

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広小路 昭和初期

右手前の平屋店舗が、木内デパートの前身、木内商店。店の前で使用人らしき二人が見物中。その後ろがキャッスルホテルの場所にあった裁判所の煉瓦建築。

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竿燈の提灯には「蕗ラム子」の文字

「蕗ラムネ会社」は明治三十六年(1903)、馬口労町に創業した県内初のラムネ工場。明治四十一年には社員とその身内によって竿燈が出された。これが広告竿燈の始まりという。白シャツに半栲衣、白手拭の装束が珍しい。

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広小路 昭和初期

これも木内商店前。
堀端に大きな柳の木、人力車。左が城町、右が室町の竿燈。
継ぎ竹は三本。現在は工夫と進化により、継ぎ竹五本はあたり前、最高で七本の記録があるが、当時はこれが限界だったらしい。

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室町の差し手

袢纏は今より長い長袢纏、栲衣も長めで、揃いも揃って手拭で頬被りしている。明治から大正の写真では、浴衣を着て尻端折りした姿が多い。

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御幣渡しの式・ねぶり流し

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八月三日・八幡秋田神社仮拝殿

ねぶり流し(竿燈)初日の早朝、干秋公園本丸、八幡秋田神社にて、神主のお祓いを受け祭りの安全を祈願し、各団体に竿燈のてっぺんに飾り付ける神社の霊符の付いた御幣と、二段重ねの紅白の餅が配布される。

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頂いた御幣と重ね餅は、各町内竿燈事務所に持ち帰り祭壇に供えた後、御幣は竿燈の先端に取り付けられ、夜の本番を迎える。

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竿燈に無くてはならない竹は、神聖な植物とされ古来から祭事に使われてきた。その竹のてっぺんに神の依代〔よりしろ〕であり災厄やケガレを祓い清める御幣を飾り付けることにより、竿燈は天と地を、人と神を繋ぐ祭りのための装置として完成する。

祭りの期間中、竿燈を飾った御幣は、最終日の翌日、八月七日早朝、各町内の代表者が刈穂橋に集まり旭川に流される。

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