二〇世紀ひみつ基地

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2005年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年08月

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旧金子家住宅・町家

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秋田市大町一丁目
切妻・妻入り造り
市有形文化財

江戸時代のメインストリートである羽州街道に沿い、商業の中心地であった大町に残る町家・金子家は、安政元年(1854)に質屋兼古着屋を始め、明治四年(1871)に呉服卸売商を創業して以来、昭和五十七年(1982)までこの地で呉服商を営んできた。主家は明治十九年(1886)の俵屋火事で土蔵を残して焼失、再建は明治二十年頃と言われている。

平成八年(1996)秋田市に売却され、九年には江戸後期の町家の特徴を残す貴重な建物として、秋田市指定有形文化財に指定された。

築後百十余年の年月、風雪に耐えた建物は老朽化が激しく、店舗兼住宅として長く使われていたため、使いやすいように改築された部分も多く、土蔵は昭和五十九年の日本海中部地震によって大きく破損されていたため、市では平成十三年(2001)から四カ年計画で復元整備工事を行い昨年完工、土間の三和土(たたき)の乾燥を待って、七月二十八日から一般公開している。

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復元前

建物の右手部分は潰され、金子商店のモルタル造りの建物が建ち、廃業後は駐車場になっていた。

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通り土間

玄関を入ると右手に店があり、長い通り土間が奥の土蔵まで続く。

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土蔵(内蔵)

通り土間を進むと突当りに広い土間があり、黒漆喰で仕上げられた大きな土蔵が現れる。
幕末期に造られ、明治十九年の大火・俵屋火事で焼け残ったという土蔵は、主に商品を保管し、通り土間を通って搬入、搬出された。

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天水甕(てんすいがめ)
実際に使用され保存されていた甕を展示している

屋上の防火用の天水甕は秋田の町家の特徴のひとつ。
現在は二個の甕が復元されているが、当初は六個配置されていたのを、昭和三十三年ころ、屋根の葺き替えの際に整理して二個にしたという。その後、甕が破損し、しばらくは台が一つだけ残っていた。

日本を愛し日本美を世界に紹介したドイツ人建築家・ブルーノ・タウトは、秋田の町家の屋上に置かれた雨水を溜める器に注目した。著作「Houses and People of Japan」(1958・再版)では、金子家の天水甕が紹介されている。

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Fig. 375 Water Vessel on Top of the Roof at Akita
「Houses and People of Japan」(1958・再版) より

屋根の葺き替え後、昭和三十年代の写真、二つの台と一つの甕が見える。
解説にも本文にも建物の名称は載っていないが、間違いなく金子家のものだ。

ただし天水甕が写った写真は初版には載っていない。
1937年刊行の「Houses and People of Japan」初版には、天水甕を紹介する図版として、勝平得之の版画「五月の街」から、手形田中町、橋本酒造店の屋上の天水甕をトリミングしたモノクロ写真が掲載されている。

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勝平得之「五月の街」昭和十年(部分)

しかし、初版で使用された挿図の原版が戦災で失われたため、タウトが没してから二十年後に刊行された再版本には、勝平得之が新たに撮影した秋田の写真が数枚使われているのだ。金子家の写真も勝平が写したもの。だから市が作製した資料に「ブルーノ・タウト氏によって世界に紹介された旧金子家住宅」とあるのは、厳密にいうと正確ではない。再版本の図版に関しては、すでに亡くなっていたタウトは一切関わっていないのだから。

タウトが勝平得之の案内で秋田の建物を取材したのは昭和十年五月のこと。当時はまだ多くの町家の屋上に天水甕が存在しタウトの目を惹いたことだろう。大町から通町周辺も歩いているので、六個上がっていたという金子家の天水甕も目にしたと思われる。

旧金子家住宅 周辺地図
ねぶり流し館となり
八月二十一日まで観覧無料

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| 秋田市今昔 | 21:30 | comments:1 | trackbacks:1 | TOP↑

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1973 県民会館の土手から


1973.6

まだ広小路が秋田のメーンストリートとして機能していた昭和四十八年六月の日曜日の昼下がり、秋田県民会館の土手から、お堀越に「加賀屋商店」と「木内デパート」屋上遊園地を望む。

堀には貸ボート、「たけやのパン」の赤い看板のある「加賀屋商店」は大判焼きと、夏はかき氷。観覧車やメリーゴーランドの見える「木内」屋上は家族連れで賑わう。





2005.7

あの日から三十余年後、ツツジが成長して見通しが悪くなった土手から。

お堀の貸ボートは廃業、「木内」屋上の遊具は撤去され、展望塔は白壁で被われている。
現在営業しているのは、一階フロアだけ。かつての賑わいが嘘のように閑散とした広小路。

「加賀屋商店」の場所には最近、山本ヒサヒロの美容室「モードスタジオQ」本店が大町から新築移転した。

モードスタジオQ
http://www.jonasun.com/~hiroweb/index.html

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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1983「本金タワー」倒壊

昭和五十八年(1983)五月二十六日昼過ぎ、秋田県能代西方沖約100kmを震源とするマグニチュード7.7の日本海中部地震発生、秋田市大町二丁目では、本金デパートの名物「本金タワー」が倒壊し屋根を直撃、四階で催事の準備をしていた主婦三人が下敷きになり、一人が帰らぬ人となった。


倒壊直後

ガラス張りの展望室は潰れ、その上のタワー上部が倒壊し、屋上に増設されたプレハブの屋根を突き破っている。

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倒壊現場

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倒壊図

本金デパートのシンボルだった「本金タワー」の倒壊は、その後の「本金」の運命を象徴するような、印象的な事件であった。

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| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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楢山表町・かき氷ストリート

人気のかき氷屋が集中する通りが、秋田市楢山本町(通称・表町)にある。

「斎藤もちや」は、削り刃を微妙な角度に調節し、きめ細かい氷に仕上げているのが特徴。特に、自家製白玉入りのかき氷は絶品。本業である厳選された材料を使った大福餅も昔からの人気商品だ。


斎藤もちや

我家の正月餅は、かつてはこの店に頼んでいて、大晦日、まだ柔らかい大きなのし餅が届くと、包丁で切り揃え切り餅にするのが、楽しい恒例行事だった。

「斎藤もちや」の斜向かいにあるのが、和菓子の「広栄堂」。
以前は普通のかき氷の店だったが、シロップの代わりに、果肉入り生ジュースを使い、氷の上にソフトクリームがトッピングされたものを出すようになってから、本業のお菓子よりも、かき氷で有名になってしまった。

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広栄堂(昨夏)

氷とソフトクリームの絶妙なハーモニー、果汁の自然な甘味はサッパリとして後味も良く、これならば甘いものが苦手な人にもお薦めできる。メニューは、イチゴ、オレンジ、バナナ、パイナップルなど。なかでも、グレープフルーツを使った「生グレープフルーツソフト」、略して「生グソ」が人気で、夏場はこれ目当てに行列ができるほど。八月中旬ころからは、「巨峰」「ネクタリン」がメニューに加わる。この店の人気に火を付けたのは、近くの聖霊高校の生徒たちに違いない。

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広栄堂

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「斎藤もちや」の向かいは、銭湯「星の湯」。
かつての銭湯の近くには、かき氷屋がある場合が多く、夏の夜、一風呂浴びたあと、涼みながらのかき氷は格別だった。



| 食材・食文化 | 23:00 | comments:3 | trackbacks:3 | TOP↑

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エレベーターガールと恋と家出

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昭和四十三年(1968)(クリックで拡大)

タワー部分の五・六階にゲームコーナーがあるが、階段の踊り場を少し広くしたほどのスペースで、ピンボールやジュークボックスが置かれていた。屋上にはプレハブ造りのゴルフショップとゴルフ練習場ができている。エスカレーターは一階から二階までしかない。

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中学校の先輩が本金デパートのエレベーターガールに恋をした。
先輩は自分の家のサイドボードに飾られていた、小さな陶器製の犬の置物を、その女性にプレゼントするというので付きあわされたわけだが、それが可笑しくて、ついついからかってしまったことが怒りを買い、誰もいないガラス張りの本金タワー展望棟でボコボコに殴られ、しばらく顔の腫れが治まらず、家からも出ることができなかった。

同じ中学校に通っていたエレベーターガールの弟は、ある日突然家出してしまう。しばらくのあいだ見つからず、すがったのはモーニングショーの「家出人公開捜査」のコーナーだった。両親と姉がテレビに出て呼びかけて間もなく、弟は都内で見つかり、番組内で家族との涙の御対面を果たす。

その朝、教室のテレビからは、その番組が流れていた。
「お前らも、こんな恥ずかしい目に会いたくなかったら、家出なんかするなよ」といういましめであったのか、学校では教育の一環として特別に生徒たちに視聴させたのである。その番組の名は「木島則夫モーニングショー」、モーニングショーのさきがけとなった歴史的な番組だった。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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