二〇世紀ひみつ基地

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2005年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年07月

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お家も見えるよ「本金タワー」

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昭和四十年(1965)

本金デパートのタワーは、先行した木内デパートの展望塔よりも高く築き、その展望の良さを誇ったのだと、この広告から想像できる。

木内デパートの展望塔は三階建てだが、天井が低く、店舗部分に換算すると、おおよそ二階建ての高さで、店舗三階+二階で最上部までおよそ五階建てに相当。これでも周囲に高層建築物がなかった時代は大層見晴らしが良かった。対して本金デパートは、最上階の180度ガラス張りの展望室は地上八階。当時は市内最高層の建物だったに違いなく、「お家も見えるよ」というコピーも誇大表現ではない。

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昭和四十三年(1968)

タワーを見せずにタワーをアピールするデザインが洒落ている。

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木内デパート屋上から大町方向を望む・昭和三十年代

天を衝く「本金タワー」。
東芝テレビのネオンの向こうが「秋田名店街」、まだ「新秋田ビル」は建っていない。その手前の幸橋は現在は広小路の突当りにあるが、ご覧のように掛け替えられる前は、もうすこし南側(左側)にあって、川べりの「新秋田ビル」一階部分を通って「秋田名店街」入口のある川反通りに抜けるようになっていた。

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現在の幸橋周辺

左手のグレーのビルが「新秋田ビル」。
ワシントンホテルの文字が見えるあたりに「本金タワー」が聳えていた。
あの日本海中部地震で倒壊するまでは・・・・。

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長町通り「勧工場」

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秋田市長町通・昭和始めころ

前回の「殻堀橋」と同じく、土手長町通りの風景だが、これもまた現在とのあまりの違いに驚かされる。

場所は中央通りの突当り、歩道橋付近、そこから南(有楽町方向)を望んでいる。

左手の建物は大正十四年竣工の県物産館(現・北都銀行本店)。右手に連なる商店は、大正十一年に旭川の土手の一部を切り崩して造成して誕生した勧工場(かんこうば)。

勧工場は勧商場とも呼ばれ、様々な商店が寄合った、今でいう名店街ようなもので、中央通りの突当りから三丁目橋まで、モルタル洋風二階建ての長屋に、帽子店・洋品雑貨店・高級玩具店・レコード店・絵葉書専門店などが入居していた。

大東亜戦争も押し詰まった昭和20年、道路を拡幅し空襲による損害を少なくすることを目的に実施された強制建物疎開のため勧工場は取り壊される。

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昭和十四年 勝平得之『旭川暮色』よりトリミング

二丁目橋から三丁目橋方向を眺めた風景。物産館の向かいに、旭川に張り出して建つ勧工場。

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ひときわ大きなファサードが眼を惹く看板建築の「近江屋玩具店」。店頭にはゴムマリが入ったガラスケースと子どもたち、隣の帽子屋から「春の新型帽子」の看板が張り出している。

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近江屋玩具店広告・『秋田案内』大正二年版より

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現在の同地点

川べりの歩道のあたりに勧工場があった。


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今は幻の「殻堀橋」

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「長町通り」大正始めころ

「長町通り」とは、川反五丁目橋から通町橋まで、旭川の東を通る土手長町通りのこと。左手には外町と内町を隔てる土手が旭川沿いに連なり、木橋の欄干には「からほり橋」「明治四二年八月・・」の文字が記されている。

撮影地点は、有楽町から五丁目橋を左手に見て、土手長町通りを北に少し進んだ「旧あきたくらぶ」のあたり。ここに橋があったなんて、今となっては信じられない。

藩政期、後の「あきたくらぶ」の地には藩営の米蔵があり、蔵の北側をとりまく堀は旭川に通じていた。この堀を「殻堀(からほり)」という。米は仙北方面から雄物川を舟で運ばれ、旭川に入り、殻堀の米蔵に荷を下ろした。その当時、土手長町は殻堀と土手で切断され、直進することができなかった。

明治四十二年(1879)、堀の両側から土をもって橋を掛けたのが「殻堀橋」。堀の水はしだいに枯れ、大正のころは小さなドブ川になっていたという。昭和七年(1932)、コンクリート橋に掛け替えられるが、戦中には堀を埋立て「殻堀橋」は撤去される。

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「からほり橋」周辺
左図・明治元年(黒い太線は土手) 右図・大正期

五丁目橋(横町橋)と四丁目橋に挟まれた赤くマーキングした地点が「殻堀橋」、黄色が「藩の米蔵」があった場所。明治元年の殻堀には小さな橋が架かっている。藩の米蔵を囲んでいた殻堀は、「あきたくらぶ」の日本庭園の池として生き残ったが、戦後、ニューグランドホテルを建てるために大幅に縮小されてしまう。

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左手の土手は初代藩主佐竹義宣が、久保田城下町づくりの時、築いたもので、松と桜が植えられ、北は中島から南は亀ノ丁西土手町(有楽町)まで延々と続いていたが、戦中戦後に削られ、現在のように旭川べりまで道が広げられた。

右手のきれいに刈り込まれたイチョウの木は、ニューグランドホテルの場所にあった、医師で書家の赤星藍城(らんじょう・安政四~昭和十二年)家のもので、藍城は、その書斎を「十声楼」と名付けている。その由来は、「殻堀橋」をカラコロと渡る下駄の音、「あきたくらぶ」の弦歌、旭川に櫓を漕ぐ音、つるべ井戸の音など、十種類の音がこの家に聞こえたためという。なんとも風情のある命名で、ほとんど騒音しか聞こえない現代とは隔世の感がある。

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現在の同地点

「あきたくらぶ」と「ニューグランドホテル」は倒産し、跡地にはルートインジャパン経営のホテルと、温浴施設「華の湯」が本年五月オープン。かつての堀川の名残であった池を配して、名園と謳われた「くらぶ」の庭園や、長い土塀は取り壊され、すっかり景色が変わってしまった。


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殻堀橋跡

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遠足のお供に「カルミン」

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15粒入り 50円

大正十年(1921)、明治製菓の前身、東京菓子株式会社から発売されたロングセラー。
原料の「炭酸カルシウム」と「ミント」を組みあわせて「カルミン」と命名。
表面に刻印されたMSの文字は明治製菓の頭文字。
青地に赤、黄色文字が眼を惹くパッケージデザインが秀逸。

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大正十二年 新聞広告

進物用カルミン詰め合わせである。
「世界随一の栄養錠菓 カルシウム入り」と、その栄養価を謳い、お菓子というよりは健康滋養食品のような扱いが時代を感じさせる。「カルミン」が発売された大正後期には、カルシウム入りビスケット「カルケット」、グリコーゲン入りキャラメル「グリコ」、乳酸飲料「カルピス」などの滋養食品が次々に世に出ている。

発売当初から、ほとんど変わらぬ味という、白きタブレットを口に含むと、なぜかホッとするのは、遥かな郷愁の風味であるからだろうか。

最近は輸入物を含めてミント系タブレット菓子が数多く出回っているが、ミントが強すぎたり、変な癖があるものが多い。その点、絶妙なミントの配合とシンプルで優しい味わいの「カルミン」は、さすが、八十余年、絶えることなく庶民に親しまれ続けた薄荷菓子である。

小学校の頃は10円、ミニサイズが5円で、遠足の定番菓子だった。
あのころと変わったのは、ビニールパックに密閉されていることと、原産国がシンガポールになったこと。工場をシンガポールに移したのは、1980年代半ばからという。

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ジャズスポット「ロンド」

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川反一丁目

昭和五十一年(1976)中央通りから現在地に移転。
高堂屋酒店の米蔵を改修して再生させたため、当初は酒麹の甘い香りが漂って良い感じだった。

はじめは中央通りの木内に通じる小路の東角、郵便局(現・マンション)の二階で営業していた。狭い階段を上ると、薄暗くて眼が馴れるまでは客の顔もよく見えない。ほの赤い照明と会話が聞き取れぬほどの大音量のリズムに身を任せる体験は、あたかも母親の胎内で羊水に揺られて心臓の鼓動を聞いているかのようで、とても安らげる空間であった。その大音量に、階下の郵便局からは抗議の電話が毎日のようにかかってきて、マスターや奥さんが対応していたのを覚えている。

以前の看板は木製だった。中央通りから移転の際に、常連客たちから樫の木の手造り看板を贈られるが、受験生が表札を盗む縁起担ぎか、過去六回ほど盗難に遭いまた戻ってきている。受験生たちにとっては、表札よりもパワーがある木製の立派な看板は伝説的な存在だったのかもしれない。

現在地に移転してしばらくはレコード盤の音が流れていたが、その後すべてCDになってしまう。

オーナーの那珂さんは80年代に自主製作映画「隙間」を製作、テレビドラマやCMも手がける映像作家でもある。秋田県薬剤師協会のCMは、平成十五年ギャラクシー賞を受賞している。

秋田県薬剤師会CMギャラリー
http://www.akiyaku.or.jp/movie/

那珂静男インタビュー
http://freett.com/moveakita/naka/naka.html

隙間
http://www.the-indies.com/movie/sakuhin/3rd/movie/26/
ロケ地は秋田市広小路と新宿のビルの隙間

ジャズ喫茶マッチの旅・秋田編
http://kitan.semana.co.jp/jazzmach/akita/akita.html
かつて川反にあった「もなみ」と「ロンド」の、なつかしいマッチ箱が見られる。

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高堂酒店・造り酒屋

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高堂酒店 川反一丁目

切妻屋根の下に太い梁首を突きだし、屋根の笠木も張り出した秋田の典型的町家。
かつては夕方になれば仕事帰りに盛切(もっきり)をあおる客(近くの魁社員が多かった)で賑わっていた。

万延元年(1860)、高堂兵右衛門が久保田町川端(現・川反)一丁目に創業した造り酒屋。明治八年、灘より杜氏を招き新技術を導入するなど醸造技術の改良と酒質の向上に努めた。清酒品評会で優等賞をはじめとして数々の賞に輝いた「程よし」の他に、白酒、味醂、生醤油も製造、販路は市内をはじめ、県内各地の鉱山、北海道、関東にもおよんだ。醸造部は昭和十九年、国の企業整備令により廃業、秋田酒類製造株式会社(高清水)に株主構成員として統合される。

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「程よし」看板

平成九年秋、高堂酒店の裏に「あくらフォー・スクエア」誕生。

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ビール醸造所、二階「ビアカフェあくら」

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ビアレストラン「プラッツ」

高堂屋酒店の文庫蔵を改修して、ビアレストランとして再生させた。
青空に映える白壁と破風のカーブが美しいが、空調設備の導入は内部を乾燥させ蔵の寿命を縮めることになったという。この蔵の裏(川反通り)の米倉も改修され、ジャズスポット「ロンド」が入居しているが、どちらも俵屋火事(明治十九年)の翌年の建築という。

地ビールの「あくら」
http://www.aqula.co.jp/index.html


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光と闇を結ぶ「通町橋」

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通町橋・明治末から大正初期

木製の橋の右手には白壁の土蔵造り店舗の吉川雑貨店(現須田薬局)、その奥には高砂堂の店舗がみえる。高砂堂が現在の店舗に建替えられる前だから、撮影は大正七年以前。

両手に野菜を沢山入れたコダシ(アケビづるで編んだ買い物カゴ)を持った婦人は、外町(商人・職人町)で買い物をして内町(武家町)に帰るところ。上肴町と通町を廻れば食料品は取揃えることができた。戦前まで、外町の商人は内町から来たお客さんが帰るとき「お静かに」とか、「お平に」と声をかけ、それ以外のお客さんには「おありがとうございます」と使い分けたという。

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日傘をさした婦人たちも買物をして内町に帰るところのようだ。
ひときわ大きい妻入りの建物の屋根には、防火用の天水瓶(てんすいがめ)を支える木枠が二つみえる。ここに置いた瓶に雨水を溜めてイザというときの備えとしたもので、陶器の瓶のほかに木製の樽も利用された。この建物は野口周次郎酒造と思われる。

橋の落成は元禄二年(1689)、外町と内町を結ぶ橋のたもとには番所が建ち、夜間は通行禁止の警戒線が張られていた。また、この橋は五丁目橋とならぶ死刑囚の首晒しの場でもあった。宝暦三年(1753)、親殺しの本宮村多兵衛という男が、ここで鋸挽(のこぎりびき)の刑に処せられている。鋸挽は主人殺しなどの反儒教的犯罪に科される重罪で、罪人を首だけ出して土に埋め、または箱に入れ、わきに鉄と竹のノコギリを置いて希望者に鋸で首を挽かせるという恐ろしい刑罰。江戸時代にはノコギリは見せしめのための小道具となり、二日間晒した後は刑場で磔(はりつけ)にされた。

洪水で何度も流された木橋が、コンクリート製の永久橋になったのは昭和十三年。平成十年には道路が大幅に拡張され、現在の橋が完成した。


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通町橋余話・間杉家の悲劇

安永四年(1775)五月晦日、この橋のたもとで一人の青年が切腹して果てた。青年は土崎湊の廻船問屋・間杉五郎八の嫡子・辰蔵、弱冠二十七歳。

さかのぼること数カ月前・・・・・・
参勤交代のため江戸屋敷に在った八代藩主義敦は、久保田までの道中費用が不足し、帰ることができなくなり、一万両用意してくれるようにと久保田の家老に書状を送る。大勢の家来を従える大名行列は大金を要し各藩の財政を圧迫していた。

藩ではさっそく土崎湊の廻船問屋・船木助左衛門と間杉五郎八を呼び寄せ、費用の調達を申し渡すが、一万両といえば現在の十億円にも相当し、いかに富裕な廻船問屋でも簡単には用意できず、船木助左衛門は辞退するが、藩主の書状を見せられた間杉五郎八は「藩の庇護あって今日ある身なれば御受けしなければなるまい」と承諾する。しかし一万両の大金は手元にない。そこで、藩の蔵米を売って金にすることを引き受け、老年の五郎八の代理として長男の辰蔵を大坂に走らせた。やっとの思いで大阪商人と藩米の売買契約を結んだ辰蔵は、代金一万両を先受けし藩の大坂屋敷に渡し、任務を全うし帰国する。

間もなく大坂からは藩米を積み取る船が下ってきた。安永四年五月晦日、五郎八の代理として辰蔵が久保田城に登り催促すると、奉公たちは「米に差支えがあり(米はない)何ともしようがないから、其方の所存によって大坂の商人をほどよく取扱って返すように」と言う。辰蔵は困惑してしまう。米を用意できないとなれば、自分が契約した商人たちに合わせる顔がないし、一万両という大金をつくる当てもない。藩と大坂商人の板挟みになった辰蔵は、藩の奉公たちに裏切られた憤りを抱え、城を下る途中、通町橋で切腹して果てたのであった。まったくひどい話である。藩のために必死で働いた末に裏切りを受けた辰蔵の想いはいかばかりであったか。

間杉家では辰蔵の死を「宿元で病死」と届け、五郎八の奔走の末、一万石余の米と、不足分は金子をもって残らず大阪商人に渡し、違約という恥をさらすこともなく事を済ませたが、一万両は間杉家の借金として残ってしまう。

藩が財政窮迫のとき、頼れるのは藩の保護によって富み栄えている家督商を始めとした富豪たちで、彼らに御用金(謝金)を命じ、上納金(寄付金)を強制的に要求した。しかし「借金」という名目で証文を貰っても、実際には返済しないことが多く、商家には藩からの証文が残るばかり、その代価に名字帯刀を許し士分の資格を与え、御用金の証文を帳消しにする場合もあった。

十八世紀の末までに、廻船問屋・間杉家が藩に用立てた御用金は、合計三万三千七百両余、現在の貨幣価値では三十三億七千万円にも及んだという。さらに、土崎湊に入った船から税金を集める仕事を任されていた中村三右衛門家では、藩に対して拠出した御用金が二十七万両余、現在の二百七十億円にも達したというから、当時の湊商人の並外れた富力と繁栄がうかがえる。

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