二〇世紀ひみつ基地

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2005年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年05月

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花祭り・田の神・お花見

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キリストさんの誕生日を浮かれ騒ぐ、いちおう仏教徒であるはずの日本人のほとんどが、お釈迦さんの誕生日を知らず祝うこともない。

釈迦牟尼の誕生日・灌仏会(かんぶつえ)は旧暦の四月八日ということになっていて、秋田仏教会では桜の花の咲くころ、四月二十九日、みどりの日に、寺町の寺院が持ち回りで会場となって開かれる。お寺を出発した稚児行列は、誕生仏を乗せた白い象を曳いて大町周辺を一周して戻り、誕生仏に甘茶を掛け法要をとり行う。

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仏教の花祭りは、夏のお盆と同じく、日本古来の習俗と仏教行事が融合したもの。旧暦四月八日のころ、霊山に登って花を摘み、山の神様を里に向かい入れる行事が各地にあり、「春山入り」「花の日」「花祭り」などと呼ばれていた。

山の神は里に降りて田の神となる。田の神(稲穂の穀霊)の名を「サ」と呼び、「サ」を迎える祭りを「サオリ・サ降り」や「サビラキ・サ開き」という。田植えが終り、田の神がひとまず山に帰られることを「サノボリ・サ昇り」というのは、「サナブリ」の語源で、この日は「サナエ・早苗」を植える「サオトメ・早乙女」を上座に据えて、サの神(田の神)を送る饗宴を開き皆の労をねぎらう。

「花祭り」のころは桜の花を愛でる花見の季節。桜は古くから農耕に関連して日本人に親しまれ、桜の開花により田植えの時期を知り、咲き具合、散る姿を見てその年の稲の収穫を占った。

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葉と花が一緒に開くヤマザクラ

サの神(田の神・穀霊)が「サクラ」の語源という説がある。「サ」は穀霊、「クラ」は穀霊が降臨する「神座・カミクラ」、すなわち「サクラ」は農耕の神が宿る依り代(ヨリシロ)というのである。それを象徴する神が「木花之佐久夜毘売命・コノハナサクヤヒメ」。コノハナサクヤヒメは山の神の総元締め「大山祗神・オオヤマツミノカミ」の娘で、父の命を受け、桜花に姿を変え、稲の穀霊として地上に現れたとされる見目麗しき女神。

田植え前の一日、野山に出て山桜の木の下で、稲の成熟を神に祈願する行事が、お花見のルーツという。花見酒は神に捧げるお神酒であり、人はそのお下がりを頂戴した。「サケ・酒」は「サカズキ・杯」に、「サカナ・肴」は「サラ・皿」に載せて……、これらの頭にサの付くモノも、サクラと同じく神と関わりのあるコトバという説も。

東北の農民は、桜に先だって開花するコブシの花を「田打ち桜」または「種まき桜」と呼び、この花が咲くと、田起こしを始めても良い時期とし、花の咲く向きで稲の豊凶を占った地方もあるという。芽吹き始めた山里に点描の如く白い花を開くコブシの花、これもまた農耕の神が宿る「サクラ」であった。

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川反に土手があったころ

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「秋田 旭川の清流」佐藤写真館発行
昭和初期ころの絵葉書

川反一丁目橋から二丁目橋を撮影。
カラーフイルムなど無い時代、職人がモノクロ写真から三色版を製版した人工着色印刷。

東側(左)には佐竹氏の町割のとき、旭川の堀替で出た土砂を積み上げて形成した土手が、この当時は通町橋から五丁目橋まで断続的に残っていた。その上には松と桜の並木が続き、桜の季節は見事であったという。土手の東側の通りを土手長町というのも、長い土手が続いていたための命名。

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川反側には柳が植えられ、その向こうには白い二丁目橋。この橋は大正十一年竣工の県内初のコンクリート橋で、その風情は「秋田のミラボオ橋」とも称されたが、昭和四十年代、山王大通りの拡張にともない撤去される。旭川には二艘の小舟が何かを運んでいる。かつては雄物川流域の米、炭などの物資が舟で運ばれ、旭川の川端に陸あげされた。

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現在の同地点

戦後に架けられた幸橋(現・大町公園橋)で二丁目橋が隠れている。その向こうでに、こんもりと茂る樹木は、那波家の防火林。

一丁目橋と二丁目橋の間、広小路からの突当りに、幸(さいわい)橋ができたのは昭和三十六年。その年に誕生した秋田名店街への通行の便のために架けられた私設橋だった。

昭和六十二年、幸橋の少し上流に架け替えられた大町公園橋が開通し、秋田名店街および本金の跡地に、ショッピング街(AD)とワシントンホテルが入った新秋田大町ビルがオープンする。

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太平川の桜並木

今年の桜はゴールデンウイーク中に見ごろを迎えるようだ。
秋田市内で私のお気に入りは楢山愛宕下付近の「太平川の桜並木」。
総延長2km以上に及ぶ、染井吉野の桜並木は、昭和三十五年(1960)、浩宮の生誕を記念して植樹されたもの。
川面に映る桜が美しく、散る花びらで彩られる有終の美もまた良し。

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昨年の太平川桜並木


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神輿渡御祭・弥高神社

弥高神社例祭・神輿渡御祭
四月二十四日
イヤタカ会館→平田篤胤生誕地→アゴラ広場→千秋公園・弥高神社

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八橋「おでんつぁん」のお祭り

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八橋天神まつり
四月二十四・二十五日 
秋田市八橋 菅原神社

八橋の「おでんつぁん(天神様)」と親しまれた菅原神社は、天王町出戸字北野にあったものを、慶安(1648)のころ川尻総社神社の地に移したと伝えられている。現在地に移ったのは延享三年(1746)。祭神は天満大自在天神、これは学問の神・菅原道真公のこと。

城下の町民から、手習い学問の神としてあがめられ、祭りの日には額納めという、子供たちが習字を奉納する風習があり、古くは寺子屋の、後には市内の小学生で賑わった。

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明治時代八橋の天神神杜に四月二十四日五日、秋田市内の小学校の生徒は皆「習字の額」を奉納として持参。当時は自動車等もなく、全生徒が、先生につれられて、列を正しく、歩調をとって八橋まで歩いて参詣に行ったものであった。
雑誌「秋田」(鷲尾よし子主筆) 昭和五十年二月号より


寺子屋のころは、杉板に書いた習字を奉納したあとは、久保田一の行楽地であった八橋山で遊ぶ、楽しいリクリエーションの一日だったらしい。

門前や街角には「おでんつぉん」を始めとする八橋人形の店も出た。

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勝平得之 [秋田風俗百態] 天神様 昭和十三年

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通町の雑貨屋の店頭を借りた八橋人形売り(昭和初期)

菅原神社には道真公の愛した梅の花が多い。「おでんつぁん」のお祭りのころは、ちょうど秋田では梅の時期。今年はまだ五、六分咲きであった。

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「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」道真

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鏝絵・左官職人の心意気

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鏝絵「波に雲龍」
秋田市下北手桜・鈴木家

鏝絵(こてえ)とは、左官職人が鏝(コテ)を絵筆として、民家の土蔵の壁や扉、室内の欄間、壁などに、「鯉の滝登り」「鶴亀」「波乗リ兎」「雲龍」「お多福」などの縁起の良い意匠を、漆喰の浮彫りで描き彩色したもので、秋田市内では主に、下北手、太平、豊岩などに残されている。

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漆喰を使った鏝絵を考案したのは、文化十二年(1815)伊豆松崎に生を受けた入江長八(通称・伊豆の長八)といわれ、その技術は幕末から大正にかけて全国に広まってゆく。秋田市内では、とくに広面が多くの左官の名工を輩出した地で鏝絵の名人もいた。左官職人が本業の壁塗りを終え、鏝絵を描いたのには、いい仕事させてもらった施主への感謝の意味もあった。

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下北手桜のこの物件は、明治中期の制作で、普通は土蔵の一部に描かれる鏝絵が、正面を除く壁全面をとりまくように「波に雲龍」が描かれている。龍の眼にはガラスを使用。これほどの規模と迫力のある大作は全国的にみても珍しく、技術的、芸術的にも優れている。しかし、長年の風雨にさらされて崩落が激しく、このままでは近い将来消えてゆく運命にあることが惜しまれてならない。

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龍は富貴・吉祥・豊饒のシンボル、また雲を呼び雨を降らせる水神であることから、波とともに土蔵を火災から守ることを願ったもの。

関連リンク
「鏝絵」展示室(秋田市内)
大分の鏝絵
安心院の鏝絵(大分)
山香鏝絵(大分)
摂田屋の鏝絵(長岡)
鏝絵技術の芸術性調査へ/富山県教委

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産館ホールへ行こう

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秋田産業会館 昭和三十年代

秋田県庁が山王に移転した空地の一角に、県内の物産品の公開展示、産業経済のセンターを目的とした「秋田産業会館」、通称「産館」が竣工したのは昭和三十五年(1960)。

九百五十人収容の大ホールでは、式典、大会、コンサートのほかに、秋田おばこコンテスト、見本市などの各種イベントが開かれる、県民にとってはなじみ深い施設だった。

常に若い世代とともに、その時々の流行の音楽が流れ、天井にはミラーボールが輝いていた産館ホール。初期にはダンパ(ダンスパーティー)の会場として連日のように満員になったという。男女の出会いの場でもあったダンパで奏でられる音楽は、ジャズからロカビリー、そしてゴーゴーダンスのエレキサウンドへと変遷、その後はフォークソングブーム、ロックバンドブームと続いた。

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完成して間もない産館ホール内部
一階の椅子を移動すると、広いフロアになる

私の世代は60年代末から70年代のフォークソングブームのころ。
秋田のフォークソングムーブメントのカリスマ的存在であった山平和彦が率いる「あきたおんがくくらぶ」主催のコンサートでは、地元の山平をはじめとして、山平のバックバンドで後に「東京」でミリオンヒットを飛ばすマイペース、八竜の鬼才・友川かずき、能代高校同期生デュオ・とんぼちゃん、今は地元限定タレントあべ十全のデュオ・田吾作、天井桟敷の俳優・昭和精吾などがステージに上がり、中央からは先日五十六歳の若さで逝去した高田渡、永遠の少年・あがた森魚などのゲストを迎えて、産館ホールはおおいに盛り上がったものだ。

いつも若いエネルギーが満ちあふれていた産業会館は、平成一年(1989)にオープンしたアトリオンに受け継がれ、旧産業会館は別館として残ったが、老朽化と再開発用地であったことから取壊され、跡地はBMX、スケボー、ローラースケートの練習場となっている。

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仲小路側から産館スケートパーク
その向こうに協働社ビルの跡地に建つ高層マンション
夏草やつわものどもが夢のあと


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附録:70年代「秋田フォークソングムーブメント」関連リンク

山平和彦 Discography
山平和彦 official
飯田川町に生まれ、秋田市立高在学中に 「あきたおんがくらぶ」結成。三年生のときデビューシングル「7月21日早朝に」をレコーディングし、卒業と同時に日本初のアンダーグランドレーベルURCからデビュー。
放送禁止を皮肉ったシングル「放送禁止歌」が、文字通り放送禁止に、同曲が収録された初アルバム内の「大島節」、「月経」が猥褻を理由に発売禁止、後に曲を入れ替えて発売。
名古屋に定着しDJ、プロデューサーなど。
昨年、轢き逃げ事故により逝去、享年五十二歳。

森田 貢(マイペース)プロフィール
「東京」試聴
山平のバックバンドをやっていた、マイペース。
「東京へはもう何度も行きましたね~」の「東京」は、フォークソングでは異例のミリオンヒット、ロングセラーとなる。今も現役の森田は才能豊かだった。

友川かずき official
友川かずき インタビュー
音楽生活30周年記念アルバムによせて 文/嵐山光三郎
ロック大学/友川かずき
八竜町出身。
繊細にして過激、秋田なまりのカタリと透明な絶叫、笑いと緊張の交差するライブ。
フォークソングという枠を超え、日本のオリジナルパンクなどと称される。
数々の伝説を残した、70年代秋田出身では最も印象深いアーチスト。
いまだに表現者としてのパワーは衰えず、昨年、三池崇史監督による映画『IZO』に、本人「友川かずき」役で出演し劇中歌を歌う。

とんぼちゃんファンサイト
能代高校同期生デュオ・とんぼちゃん
現在、市川(よんぼ)は秋田市のリバーシティオフィス社長(プロデュース業)。
鶴瓶に楽曲を提供し、秋田でジョイントコンサートを開いたことも。
卒業と同時に上京したので、秋田での活動は短い。

昭和精吾 official
大館鳳鳴卒業後上京、演劇の道へと進み、東映では『網走番外地』にも出演。
寺山修司のアングラ劇団「天井桟敷」に参加し多数の舞台に出演する。
70年ころ秋田で奥羽企画を立ち上げ、フォークシンガーらと活躍。
スタイルはギターを弾きながらの詩の絶唱だった。
奥羽企画の最初の企画が秋田県民会館でのコンサート。
高田渡、加川良、遠藤賢司、三上寛、あがた森魚、友川かずき、山平和彦という豪華メンバーで、2000人の動員を記録している。

あべ十全(田吾作)
「田吾作音頭」でメジャーデビューしたフォーク・デュオ「田吾作」は、シングルおよびアルバムを各一枚リリース。

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秋田駅前「瀧の頭」

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秋田駅前の居酒屋「瀧の頭」
超激辛「地獄ラーメン」四分完食賞品が変わっていた。
以前の賞品はこちら

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ダッコちゃんブーム

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昭和三十年代後半のほとんどの家庭には「ダッコちゃん」が居て、腕に抱きつかせて、一緒にどこへでも連れて行った。

昭和三十五年(1960)七月、宝ビニール工業所(現・タカラ)が、空気でふくらませるビニール製人形を製作。「木のぼりウインキー」と名付け、東京浅草のツクダ屋玩具から発売、価格百八十円。この人形を腕にからませて闊歩する若い女性を報道したマスコミが「ダッコちゃん」と命名。「ダッコちゃん」を買い求める客で開店前から行列ができ、混雑するデパートでは、整理券を発行するほどの人気にダフ屋も登場、製造が間に合わず多くの偽物も出回った。この年、六ヶ月だけで二百四十万個が販売され、のちの「タカラ」の基盤をつくった。

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本物は見る角度によって目玉がウインクするが、偽物はウインクできない。これはレンチキュラー印刷というらしいが、簡単には真似のできない技術だったようだ。その後、偽物用に貼る「ウィンクをする眼」のシールを売る業者まで現れる。正式名が「木のぼりウインキー」とあるように、このウインクする目玉と、腕に抱きついて一緒にお出かけできることが、この商品の目玉であったのだろう。

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左のが偽物くさい

昭和五十年、発売元のタカラが創業二十周年を迎えた記念として、ダッコちゃんを復活させたが、その後、「ちび黒サンボ」の黒人差別論争に巻き込まれ、製造販売を中止(のちに色違いや、頭のとがった進化形で復活)、タカラの基盤をつくりあげた「ダッコちゃん」の登録商標も、平成二年(1990)四月に使用停止している。

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タカラは「ダッコちゃんは黒人ではない。夏に日焼けして真っ黒になった日本人の少年をモチーフに商品化した。黒人差別とは全く関係がない」としていたが、この説明は無理がある。当時の社長も、黒人シンガーや、マラソンのアベベなどのブラックパワーの活躍もヒントになったようなことを語っていたはず。正直に「黒人をモデルにしたが、差別意識など全くなかった」と堂々と言えばいいものを、保身的でヘタな言い逃れはやめてほしいものだ。

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続・春を告げる「だるまさん祭り」


手のひらサイズのミニだるま

鬼門除けの守り神、火伏せ、風邪除けの神という「星辻だるま」は、明治までは神社の講中で造っていたが、今は県外産。五万円もする大きなものから百円のミニダルマまであるなかで、この百円のものが、いちばん素朴で愛らしく、人気があって初日には売りきれてしまう。頭の上に「星」、お腹には「川反一丁目」を表す「川」と「一」の装飾文字。大きなだるまには「福一満」の文字があるが、これは比較的最近のもので、伝統的なデザインは「川一」である。かつては川反の芸者さんのマスコット的存在でもあった。

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もともと秋田市内、特に外町周辺の祭りだったのが、市外からも参拝者が集まるようになったのは、昭和四十年代のこと。「火伏せ」と「鬼門除け」、近年では「商売繁盛」「学業成就」を祈る参拝客は、一年間の役目を終えた、だるまを持って神社に納め、新しいだるまを買い求める。毎年一万五千個ほどのダルマが売られるが納められるダルマの方が多い。というのも他所で買い求めただるまも納めていく人もいるから。そのため古いだるまは境内を埋め尽くすほどの量になる。

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役目を終えた古いだるまを納める

納められた大量のだるまは、六月にお祓いののち数個を旭川に流し、他は焼却されるが、四十年代の後半には、すべてのだるまを秋田大橋まで運び、雄物川から日本海に流していた。日時は六月の最終日曜日、人のツミケガレをヒトガタに託して川に流す、六月晦日の「大祓・オオハラエ」も兼ねた行事であったのだと思う。

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かつての「だるま流し」

この「だるま流し」は、公害問題もあって数年間で終わってしまうが、大量の赤いだるまが川を下る姿は壮観であった。

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露店が出るのは宵宮の十二日だけ

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春を告げる「だるまさん祭り」

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福一満星辻神社 だるま祭り
四月十二日 宵宮
  十三日 本宮
両日とも朝七時から夜九時まで
秋田市川反一丁目

星辻神社は境内に天保一四年(1843)と刻まれた手洗石ある古い神社だが、藩政期は聖護院(清光院)という修験の堂宇で、本尊は虚空蔵菩薩であった。そのため、お年寄りはこの神社を「セイゴイさん」とか「セイコウさん」と呼ぶ。明治維新の神仏分離の際に、虚空蔵信仰と縁の深い北斗七星、明星信仰の神社に衣替えし、星辻神社と名をかえ今に至る。

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昭和四十年代の「だるま祭り」
今はコンビニ袋に入れられるが、このころは裸で持ち帰った

境内で「だるま」が販売されるようになったのは、明治になってからで、明治十九年の俵屋火事のあと、外町の火伏せの神さまとして急速に信仰を集めたといわれる。「火伏せだるま」の異名があるように、祭典の日には必ず雨が降り火難を防ぐと伝えられ、雨が降らないと大火があるともいわれる。

上肴町に明治二十八年に生まれた、文化人・鷲尾よし子は明治期の「だるまさんの祭り」の様子を書き残している。

 秋田市で春一番のお祭りは、一丁目川反の星辻神杜の「聖護院のだるまさん」のお祭りである。おまつりそのものより、重苦しい冬から解放された喜びを証拠立てるように嬉しがる。四月十二日の夜、
「サア、行こ行こ。せいごいさんのおまつりさ!」
と若いものたちがそわそわめくと、子供達が
「おらも行くう!」と、うなる。祖母が、
「赤いいしょう着て!」と晴れ着を出してくれる。一、二丁目先のお宮まで行くのにも晴着に着かえるのは、神仏を崇めて敬意を捧げるためであった。私は母の妹の叔母につれて行って貰った。
 春初めてのお祭りには、人がぞろぞろと出ていた。古いお宮にまずおまいりしてだるまさんを買う。屋台店が並んでいるが、まだアセチリンがない時代で、ローソクでうすぐらかった粗末な売台には、このお祭りにつきもののウチワ餅が、並べられていた。お餅を将棋の駒型に切ったのへ、黒砂糖をネットりつけて串にさされている。それにカルメやき、軽やきも賑かに見えていた。
 私は叔母とだるまさんを大事にして帰ったが、通町角で、ウチワモチをつけられても泣かずに帰った。が、みんなに笑われてしまって、泣きそうになったら、祖母が拭いてくれながら、泣かなかったことをほめてくれた事を思い出す。
雑誌「秋田」(鷲尾よし子主筆) 昭和五十年二月号より

ここに出てくる「ウチワ餅」という名物は、黒蜜をたっぷり塗った押し餅で、悪ガキどもが、娘たちの晴着にこれをペタペタとつけるイタズラが流行、あまりのひどさに警官が見張りに立つ始末であったという。


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続・春を告げる「だるまさん祭り」


沈丁花の香りはダルマ祭りの記憶とともに





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高砂堂・大正ロマンの町家

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高砂堂店舗 大正七年建築
秋田市保戸野通町
木造二階建、塗屋造、瓦葺、平入り
設計・施工 藤本東三郎 
国登録有形文化財

塚本家の祖は佐竹の家臣、明治になってからは、写真館、リンゴ園などを経営。店内には、明治二十七年一月・大日本帝国発行「菓子製造営業免許鑑札」が掲げられている。菓子製造を目的に砂糖を使うには、国の許可が必要な時代だった。初期の店名は「高砂楼」、明治三十五年「高砂堂」と名を改める。

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明治三十五年から大正七年までの店舗

現在の店舗は、大正七年(1918)に宮大工の藤本東三郎が設計・施工したもの。ケヤキ材の柱を支えるために、地下四メートルまで松の木を埋めて基礎としているという。漆喰の白壁に黒瓦、屋根の四隅の瓦は、五本骨扇に切り輪違(わちが)いの家印が彫られている。

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家印入り黒瓦

外観は純和風、しかし、一歩店内に入ると、そこには洋風のハイカラな空間が広がる。男鹿石が敷き詰められた床、ショーケースには大理石やオニックス(しまめのう)が使用され、天井は青く塗装された鉄板に花模様がプレスされ米国製の装飾板、インテリアはアールデコ風にまとめられている。

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男鹿石の床、大理石のショーケース台

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装飾鉄板にシャンデリア

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レトログラード(扇型)時計

平成七年(1995)、通町の道路拡幅にともなうセットバックで、取り壊される運命にあったが、大正ロマンの面影を惜しむ市民の声が高まり、そのまま四メートルほど曳屋して保存されることになった。土地を提供した保証金は、曳屋工事と修理復元工事で飛んでしまったという。

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生ゴミ回収車が来た時代

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厨芥車「スクリュードラム」 昭和三十年代
ペイントされた文字は「はえのいないまちに」

昭和三十年代後期の生ゴミ回収風景。
生ゴミの入れ物は、バケツ、洗面器、ボウルとさまざまで、なかには木製の桶のようなものもみえる。夏休みだろうか、子供たちが物珍しそうに眺めているのが、ほほえましい。

昭和三十六年(1961)八月、秋田市八橋に七十五トンのゴミ焼却炉が完成。しかし、この焼却炉は残飯類のような水分がたっぷり含んだゴミ処理には向かない非力なものであったため、焼却炉を効率良く運転するには、生ゴミは一般ゴミと分別し、投棄所に捨てるしかなかった。

そのため、市では厨芥車二台を購入、週二回、市内四百二十三カ所を回り、各所に三分間ずつ停車させ、生ゴミを収集することにし、収集日、時間、場所などをチラシや広報で市民に徹底させた。厨芥車が到着すると、鈴を鳴らして住民に知らせるようにしたが、最初のうちはアイスキャンデー売りと間違われて、ますば子供が集まってきたという、いかにものんびりとした時代らしいエピソードもある。生ゴミの回収は、特に夏季の悪臭とハエに悩まされていた主婦にとって、とてもありがたい行政サービスであったという。

はじめは投棄所に捨てていた生ゴミも、のちには豚のエサとして活用されるようになる。市内の養豚業者は、ちゃっかりと厨芥車の後についてまわり、残飯だけを集めていったが、経費と手間の削減になるのだから、市では文句は言えないどころか、むしろありがたい協力者であった。

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八橋清掃センター
左上に陸上競技場

昭和四十三年(1968)、八橋に百八十トン焼却炉が完成し、生ゴミは分別しなくとも焼却できるようになり、一般ゴミと一緒に混合収集されるようになった。


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千秋公園より手形方面を望む

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絵葉書「(羽後)千秋公園より手形方面を望む」
明治末から大正初期

太平山の下方に、明治四三年四月に創立された、秋田鉱山専門学校(秋大鉱山学部の前身)、その右手には、秋田師範学校(秋大教育学部の前身)と思われる建物がある。学校の手前の広大な空地は、歩兵第一七連隊の練兵場。その手前には、手形休下町から旭川村へ抜ける道路が見える。

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部分拡大「鉱山専門学校」

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絵葉書「秋田市千秋公園より鉱山学校及び太平山を望む」
明治末

上の写真よりも北に寄った位置からの撮影。鉱山学校の左に見える屋根は白馬寺だろうか。それ以外に建物は確認できない。

手形の地名は、「手潟」という沼からでた名で、その場所は鉱山学校の手前に広がる、旧練兵場の一帯といわれるが、そんな往時の面影が偲ばれる風景である。

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千秋公園から秋大方面を望む 2005

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「猫イラズ」掛看板

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掛看板・升屋薬店(現舛屋薬局・土崎)県立博物館収蔵
大正初期

本舗 東京 成毛商店
猫より働く不思議によくきく鼠とり薬
登録商標「猫イラズ」
特約店 升屋薬店

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暇そうにアクビする猫の首には「免職」の札、ネズミ取りには「オハライ物」の札が付けられ、うち捨てられている。

インパクトのある「ズライ猫」のロゴ、全体のデザイン、彫刻も秀逸で保存状態も良い。

「猫イラズ」は、明治三十八年、成毛商店から発売され、大正一年に商標登録される。それにしても「猫イラズ」とは、ナイスネーミング!。

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大正八年広告

廿銭の猫イラズは百五十疋の殺鼠力があります然(し)かも使用法は誠に手軽で安全でそれで鼠が腐敗せずにミーラとなる不思議の霊薬なり
偽物あり猫イラズに御注意を乞う
発売元 薬種問屋 成毛英之助


「猫イラズ」の主成分、黄燐は、経口致死量・体重1kgあたり1mgという猛毒であることから、中毒事故や毒殺事件が発生し、大正のころには、猫イラズによる自殺が流行し、それを称して「猫自殺」などと呼ばれた。

また、戦後のヤミ市には「猫イラズ入りドブロク(または焼酎)」なるものが売られていたという。酒に少量の猫イラズをブレンドしたものを飲むと、しびれたような感触が味わえ早く酔える。ただしそれは、入れ過ぎるとあの世行きという命がけの快楽であった。秋田駅前のヤミ市でも、客の注文に応じて「猫イラズ入りドブロク」を出すホルモン屋があったと聞く。

成毛製薬は、主成分を変更した「安全ネコイラズ」を、現在も発売しているらしい。

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