二〇世紀ひみつ基地

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2005年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年04月

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マジソンバッグの70年代

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マジソンスクエアガーデンバッグ、通称マジソンバッグ
実物は濃紺

70年代のヒット商品、マジソンバッグが発売されたのは、1968年(昭和四十三年)。当初は神戸、横浜・横須賀あたりで反響を呼び、特に女子高生がセカンドバッグとして使用したのがきっかけとなり、70年代はじめには全国の中高生の通学用セカントバッグや、スポーツ用として愛用され、発売から約十年におよぶロングヒットを記録。その背景には、60年代のアイビールックから、60~70年代初頭のヒッピームーブメントと、日本の若者文化に影響を与え続けた、アメリカへの憧れがあった。

ナイロンバッグのパイオニア「ACE(エース)」が開発・製作した、日本初の英文字入りスポーツバッグであるマジソンバッグは、ACEの正規品だけで、十年のあいだに約一千万本を売り上げ、他社から発売された類似品を含めると、推定二千万本が売られたというから驚く。セカンドバッグとして学校から指定を受けていた例もあるようだ。

濃紺の絹目ビニール生地に配置した白い英字の絶妙なバランス、シンプルでありながらインパクトのあるデザインは、今も古さを感じさせない。ほかに黒、後には白のバージョンがあったはずだが、それは別物のようにダサかった。

ACEのロゴマーク入りのオリジナルは大・1300円、小・1000円、73年のオイルショック以降は、2500円、2300円と当時としては高額商品。類似品にはかなり安いものも出回っていたが、オリジナルの方が生地が厚く、形くずれがなくて長持した。類似品では「鷲にUSA」マークのものが有名。


ヤンキーはカバンをぺちゃんこにつぶして持ち歩いたものだが、類似品の中には最初から幅の狭いヤンキーバージョンもあった。ACEのオリジナルは、一貫して同じスタイルだったのは、契約の問題もあったのかもしれない。


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県民会館とセドリック

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ニッサン セドリック
羽後日産モーター株式会社 広告
昭和四十一年(1966)

秋田県民会館をバックにした写真は、フロントグリルの形状から「ニッサン・セドリック・カスタム6」と思われる。イタリアのピニンファリーナがデザインした130系セドリックは、ハイヤーやパトカーでも使われた、お馴染の車体。色気のあるデザインだが当時のユーザーには不評だったらしい。

フロントとリアには開閉式の三角窓が装備され、それを開けて走ると、心地よい風が車内を吹きぬけた。角度を変えると風の調節ができ、とても便利なものだったが、どんな車にもついていた三角窓はいつのまにか消えてしまう。

1971年にフルモデルチェンジしたセドリック230系には三角窓はない。60年代後半から70年代は四輪車の生産台数が増加の一途をたどった時代、大量生産にはコストがかかりすぎるという理由から、あの三角窓は残念なことに廃止されてしまう。

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舛屋薬局・町家

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舛屋薬局
秋田市土崎港中央三丁目(旧加賀町)
木造二階建・塗屋造

明治二年(1869)の建築と伝えられる、外壁を漆喰塗にした塗屋造、二階には虫籠(むしこ)窓を設ける。屋根は当初は瓦葺きだったが今はトタン葺。くすんだ色彩の、切妻・妻入の町家が建ち並ぶ通りにあって、漆喰の白壁がまぶしい平入りの店舗は、さぞかし湊っ子の眼を惹いたものだろう。

店内に入ると、黒地に白の「大波小波」を描いた鏝(こて)絵の見事さに圧倒される。いかにも湊町らしい意匠だが、「波」は「水」のシンボルであり、火伏せの願いが込められたものだ。鏝絵の脇には「MASUYA」のローマ字があり、土崎で一番最初に洋服を着たという、初代店主のハイカラぶりがうかがえる。上がり框(かまち)の向こう側は畳敷きで、創業当時と変わらない座売りを続けている。

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初代の升屋助吉は、廻船問屋として有名な豪商・間杉五郎八家から、久保田城下の老舗・那波三郎右衛門祐生の娘に婿入りし、文久二年、土崎に分家、薬店を開業。那波家の屋号「升屋」を、屋号兼名字としたが、二代目からは加藤を名乗り、当主は代々助吉を襲名する。

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白壁に映える家印

那波三郎右衛門家(升屋)の家印「一に三角」に「○」が付加されたのが升屋薬店(現・舛屋薬局)の家印。

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「升屋薬店」錦絵広告(明治中期)
お客さんに配った錦絵は、現代の広告チラシかポスターのようなもの

上部に自家製薬品の名称がならび、末尾には「秋田県南秋田郡土崎湊加賀町 調合所 升屋助吉」と、この当時は「舛屋」ではなく「升屋」の屋号を使い、秋田市楢山牛島橋通りに支店を構えている。「秋田市」とあるから、市制施行され秋田町が秋田市となった明治二二年以降に発行されたもの。二階に設けられたベランダや、洋装の人物など、文明開化の香り漂う美しい錦絵だ。

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錦絵部分拡大

上がり框(かまち)に腰を下ろし、なにやら話し込んでいる風な客、一人は旅人風、菅笠と赤い風呂敷を持ち紺色の脚半をつけている。棚にならんだ薬瓶。赤い洋服に山高帽の男はこうもり傘をステッキにして店内を眺め、その左には升屋の屋号を付けた荷箱を乗せた荷車。うつむく馬の前脚がしばられているのが面白い。馬繋ぎのない場所ではこのようにして動けないようにしたものだろうか。

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錦絵部分拡大

赤い椅子に腰掛けるシルクハットに洋装の客。右の薬箪笥の手前には薬袋が置かれ、薬を切る道具らしきものも見える。店頭の小屋根の付いた看板には、黒地に赤く達磨の絵と「風のくすり」の文字が読みとれるが、これと同じ薬品名の看板が県立博物館に保存されている。

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 官許 日本無類 
 ふりいだし「風のくすり」
 本家調合所 秋田湊加賀町 升屋助吉謹製

ふりいだし(ふり出し)とは、沸かしたお湯に袋入の生薬を入れて振ると、成分がすぐに煮出される、ティーパックの元祖のようなもの。

錦絵では赤く塗られた達磨が、永いあいだ紫外線にさらされ、すっかり退色しているのが時代を感じさせる。
自家製品名と政府からの「官許」を金文字で彫り込んだ看板は店の権威と自信を示し、「金看板」「表看板」とも呼ばれるようになり、「看板に傷がつく」ことを嫌い大切にあつかわれた。外に出している掛看板は閉店時にはしまわれる。そこから、店じまいすることを「本日はこれで看板」という言い回しが生まれた。書き込みも長くなったので「今日はこれにて看板」。


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2012年5月「桝屋薬局」解体、新店舗となる。詳細は下記リンク先に

二〇世紀ひみつ基地 土崎「桝屋薬局」解体・錦絵に描かれた町家

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紙鉄砲で遊ぶ

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紙鉄砲のつくりかた・クリックで拡大
紙は新聞紙がベスト。

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遊びかた
強く降り下ろすことにより、風圧で折り込んだ部分が開き、大きな音を出す。

油断している友だちや兄弟の背後に、足を忍ばせ近づき、おもいっきり降り下ろす。
「パン!」。
その大きな音に、目を丸くして驚いている姿をみて歓声をあげ、相手によっては、その場から逃げ出したり、駆けっこのピストルの代わりにも使った紙鉄砲。

こんな単純な遊びなのに、あんなに夢中なっていたあのころを、紙鉄砲をつくって想いだしてみませんか。

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恥ずかしがり屋の看板

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秋田市旭南

「ヒゲタ醤油」のホーロー看板が取り付けられたすぐあとに、右側の建物が建ったため、人の目にも触れず、日陰者のような存在になってしまった可愛そうな物件。

「山に髭田」のロゴマークが、眉毛と眼のようにもみえて、まるで、恥ずかしがり屋さんが、物陰に隠れてこちらを窺っているかのようだ。涙目のようにもみえる。

昭和の遺産ともいえるホーロー看板が街角から消えてゆく運命にあるなか、この看板だけは取り外されることもなく静かに生き永らえている。

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那波紙店・町家

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那波伊四郎商店 秋田市大町四丁目(旧・茶町梅之丁)
木造一部二階建、切妻造

茶町の通称「那波紙店」は、初代伊四郎が、那波三郎右衛門家から分家して、現在地に明治十一年(1878)創業。現在は紙・事務用機器を扱うが、創業当初は「升伊」を屋号とし、茶、砂糖などを販売していたという。当主は代々那波伊四郎を襲名。

創業時の建物は、明治十九年の俵屋火事で焼失したが、すぐに土崎湊の船宿を買い取り現在地に移築したもので、立ち上がりが高く、急勾配の屋根を構える明治期の町家と比べ、立ち上がりが低く、屋根勾配も緩いのが江戸時代の特徴という。

昭和四十年代まで、店に入ると土間があり、格子囲いの帳場で昔ながらの座売りを続けていたが、現在は改造され、近代的な店内になっている。初代から続いていたお茶の販売は、平成に入って先代が亡くなってからやめてしまった。

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道路に面した南側面

奥行きが深い角地の町家で、道を隔てた南側にも古い土蔵が現役として活躍している。

那波伊四郎商店の向かい角地(現駐車場)には、明治四十二年創業の、県内初の電動活版印刷機(県立博物館収蔵)を備えた印刷会社・秋津活版印刷所があったが平成四年に廃業。

商店の道をはさんだ北角にあった、明治四二年創業の那波陶器店が廃業したのは同じころだったろうか。那波陶器店二代目の那波浩太郎は、秋田県書道展審査員をつとめた書道家。那波雲城の雅号で県内書道界の重鎮であった。那波伊四郎商店の木彫りの屋根看板は雲城が揮毫したもの。

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那波伊四郎家の直系には、奥羽の四天王ともいわれ、その名は天下に知られた、俳人・吉川五明がいる。五明(幼名・伊五郎)は、京都から久保田に入った那波三郎衛門祐祥の五男として享保十六年に生まれ、十八歳のときに茶町菊之丁の吉川惣右衛門家の養子となる。その五代ほど後の伊四郎が那波総本家に婿養子として入り分家、それが現在の那波伊四郎家の初代ということらしい。


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那波伊四郎商店倉庫

店から少しはなれた所にある倉庫。
大正から昭和初期の建築だろうか。古い土蔵を改築した可能性もある。上部に刻まれた家印は本家・那波三郎右衛門家と同じ「一に三角」だが、「□」で囲まれている。




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ラジコン型ロボット?・広告

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1966年 少年サンデー広告

これも前回の「ラジオが当る!!」と同様に、いったい何がメインの商品なのか、一見して分からない広告。

前金500円で「切手」を注文するか、前金600円で万年筆を注文すると、「ラジコン型ロボット」がもらえるという、そのロボットの説明は次の通り。

ラジコン型なのでコード類は不要で操縦器1つで陸上、水上でも前進後退左右回転、坂も上りスピードがかえられマグネット誘導方式なのでどのようにも動き2ケあるとロボット戦争ができすぐ動かせる操縦器付き金属部品使用。定価は送料付属品全部のねだんです。
〆切なし。 実用新案出願済 三九-六九二八六

昭和四一年、レーシングカーブームが落着いたころ、今井科学、日模などからラジコンカーが発売されブームとなる。しかしそれは、とても高価(5.000円~15.000円)なもので、フツーの家庭の子供には、とても手が届くものではなく、お金持ちのおぼっちゃまだけが所有することのゆるされる、憧れのおもちゃなのであった。

物心付いたときから親しんでいた「鉄人28号」のなかで、金田正太郎少年はレバー式のコントローラーで鉄人を操っていた。当時の少年たちは「鉄人28号」を通じて、無線でコントロールするということへの憧れを育んだに違いない。みんな正太郎になりたかったんだ。

万年筆か切手を買うだけで、憧れのラジコンが手に入るのだから、こんなにお得なことはない。しかも「前金800円で万年筆を注文するとロボット2台」もらえるとある。「ラジコンで動くロボットが400円でもらえて、ロボット戦争ができるんだから」と、友だちを誘い、二人でこづかいを出しあって購入するケースもあったと想像できる。

1966年といえば、ラーメン一杯70円ほどの時代、ほとんどの子供にとって、決して安い買物ではない。
広告を何度もながめては、また読み返し、悩んだ末に意を決めて送金したのだろう。
正太郎少年のように、ロボットを無線操縦する姿を夢見ながら……。

さて、その「ラジコン型ロボット」の実態は……。
鉄のオモリ、針金、ネジでできた小さなデク人形で、これを下敷きの上にのせ、その下から磁石をあてて操縦するというもので、その磁石こそが「操縦器」だったという。

広告文には嘘はない。
たしかにラジオコントロール(無線操縦)だし、水中でも磁力に影響はない。
スピードだってかえられちゃう。
姿もイラストの通り。
頭部に延びるアンテナは……。
ああ、哀れ…、少年の落胆が目に浮かぶ。

東京下町の零細な町工場が、あまった材料を使い、副業で造ったようなロボットの姿。
ひょっとしたらそんな会社が広告主で、これでボロ儲けしたのかもしれない。

「ロボットが動かなかったりした時はとりかえます」って、動かないばずないぢゃないの。

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那波祐生と感恩講

NPO実証研究の第一人者、ジョンズ・ホプキンス大教授、レスター・サラモン博士は、米国の権威ある外交評論誌「フォーリン・アフェーズ」に掲載された論文、「福祉国家の衰退と非営利団体の台頭」のなかで、秋田感恩講のことをとりあげている。

……日本においても慈善活動は仏教の時代までさかのぼることができるし、「報恩社」(正しい訳は感恩講)という近代的慈善組織がすでに1829年に設立されている。これは米国で慈善活動が始まるほぼ一世紀前の話である。
邦訳は「中央公論」平成六年十月号に掲載

歴史の浅い米国と比較されても困るのだが、一九世紀、日本の地方都市に生まれた、NPO(民間非営利組織)の存在はサラモンにとっては驚きであったようだ。

日本初の民営による窮民・孤児救済機関「感恩講」を起した那波祐生は、安永元年(1772)六月三日、御用商人・那波家の長子として生れ、文化三年(1806)、父の後を継ぎ、第九代那波三郎右衛門の名を継ぐ。

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明治三十八年『感恩講図巻 ALBUM DE L'ASSOCIATI0N "KAN-ON-KO"』より

京都の大火災により財産を失い、宝永五年(1708)やむなく秋田に入り、藩の御用商人として再興を果たした那波家だったが、茶町居住のころに昼火事にあい、またしても邸宅その他一切を失ってしまったため、祐生は貧困のなかで成長した。

ある日、外町の鎮守・八橋の山王社(現日吉八幡神社)に参詣した祐生は、家業を再興させ、凶作で苦しむ人々の助けになりたいと祈願し、「食事やそのほかの欲望は我慢しますので、私の願いを、どうかかなえて下さい」と誓願する。

文政二年(1819)、祐生は藩の殖産政策の一環として設立されていた「絹方」の支配人に登用され、その後、那波家でも絹織業を興し、家業の立て直しに成功、それを契機として、城下における屈指の豪商に成長していく。しかし祐生は、豊かになっても倹約に励み、質素な生活を続けた。

文政十年(1827)、奉行所に年末の挨拶に出かけた祐生は、町奉行・橋本五郎左衛門から、たび重なる凶作と飢餓により、久保田でも生活に困窮する町民が増加していたため、「藩主が貧民救済の御意向があるが、運用資金調達方法を検討して欲しい」と相談される。それは若いときに貧苦を経験した祐生にとっても、かねてからの念願であった。

考え抜いた末に祐生の立てた計画は、献金を募りその金銀で知行地(農地)を買い入れ、そこから上がる年貢収入で、平年は貧民を救済し、凶作の年には飢餓に苦しむ人たちを助け、毎年の収入の半分は救済に使い、残りの半分は貯蓄するというもの。この方法をとれば、出金者個々の経済力に影響されることなく、恒久的に安定した活動を維持することができる。

祐生はまず、自ら金四百両の献金を願い出、翌十一年から東奔西走し外町の有力町人に働きかけ、同十二年二月に至って同志七十二人の賛同を得る。祐生の熱意と善意に動かされ、一般町民の中からも加入者が増え、構成員は百九十一名となり、献金は金二千両、銀十貫匁となる。その金銀で知行地を購入し、ようやく財政基盤が出来上がる。

文政十二年(1829)、藩では、この事業団体に「感恩講」という名称を与え、献金者に対して、毎年重ね餅を配ることにした。餅配りは恒例となり、その後も長く続けられたという。祐生を中心とした町民の善意と、さらに藩の支援を受け「感恩講」という、民間主導の画期的な救済事業が誕生した。

天保元年(1830)から翌年にかけて、本町六丁目・東側の火除地に備蓄米を保存する蔵二棟を建設。町民有志の献金や、木材、石材の寄付、労力奉仕があり、藩からも瓦・門・柵などの寄贈があったため、予算の半分の額で完成する。

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籾貯蔵倉庫・天保年間建築

天保四年(1833)、東北地方はかつてない大飢餓に見舞われ、翌五年にかけて餓死や疫病死があいつぐ。

通町橋から六丁目橋の下まで、橋の下は浮浪者でいっぱいとなった。死人をむしろに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどりついた親などさまざまであった。通町橋など午前十時ごろになると二百人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった。
『秋田飢饉誌』より

発足して間もない感恩講では資金がまだ不十分ではあったが、このような非常時にこそ救援活動を行うべきであると、藩からの支援も受け、祐生たちは不眠不休で救済活動を続けた。飢餓を訴え救助を求めてきた家は、約一千戸、父母を亡くした孤児の数は百二十人以上。これらの人々に施米の世話をし、病人への薬代や医療費、埋葬料を与え、孤児たちには保育の世話をした。その費用の大半は、祐生が私財を投じてまかなったという。感恩講では天保四年八月から翌年九月までの間、延べ四十三万人に対して施米している。

天保六年(1835)になり、ようやく世間も落ち着きをとりもどす。藩では天保四年の大凶荒に際して、救済活動に力を尽くした功績をたたえるとともに、「感恩講の知行高千石に限って歩合無しとするので、これを元手として備蓄に励み、今後大凶荒があっても救済活動に支障のないようにして欲しい」というお達しがあった。祐生はかねてからの念願であった貧民救済事業が軌道にのり、ほぼ当初の目的が達成されたとして、報謝のため、山王社に青銅の鳥居を奉納する。

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青銅鳥居には建立の由来と、たずさわった工人たちの名が刻まれている

天保八年(1837)、祐生は藩に対して、久保田町だけにとどまらず、さらに郡部にも事業を広げ、凶作時に備えて飯米や金銭を蓄えておくべきと進言するが、それから間もなく祐生は亡くなり、子どもの祐章に家業と感恩講が引継がれる。享年六十六歳、死の間際まで私利私欲を離れて、貧民救済に心血を注ぎつづけた晩年であった。

「講」は上のものにも非ず、下のものにも非ず
藩主のものではなく、那波のものでなく、出資者のだれのものでもない
『感恩講誌』より

天保元年には土崎感恩講が発足し、明治期までに秋田県内の感恩講(秋田感恩講とは別組織)の数は十八カ所。そのなかで、祐生が創設した秋田感恩講が救済した人員は、明治四十二年の時点で、延べ四百三万四千余名に及ぶ。

祐生の精神は、藩政期をへて明治・大正・昭和・平成と、組織の変動、存続の危機を乗り越え、脈々と受けつがれ、現在は寺内に感恩講児童保育院として残り、代々那波三郎右衛門が理事長を務めている。

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遠藤幸雄選手

東京オリンピックの金メダリスト・遠藤幸雄(現日大文理学部教授)は、感恩講児童保育院の出身。
体操競技で、日本人初の個人総合優勝をなしとげ、ローマからの団体三連覇にも貢献した遠藤は、昭和十二年秋田市に生まれ、小学校の時に母親が病死、父親は事業で失敗、中学から高校まで、当時は亀の町にあった児童保育園で過ごした。その恩を忘れず、毎年の盆暮れには、遠藤から那波家に宛てて、お菓子代として金一封が送られてくるという。

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感恩講・明治期 秋田市大町(旧本町)六丁目
昭和五十一年まで建物と蔵が残っていた

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感恩講跡地
現在は児童公園になり、「感恩講発祥地」の碑が建っている

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人徳の商家・那波家

秋田市大町三丁目の那波商店は、清酒(銀鱗)、味噌(山蕗)、醤油の製造販売、呉服衣料品(升屋)の販売を手がける、秋田を代表する老舗のひとつ。当主は代々那波三郎右衛門を襲名する。

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那波呉服店・大正期 現在の交通公社付近

秋田に来る前は京都室町の両替屋で、諸国の大名に資金を用立てるほどの財力だった。初代は佐竹氏の常陸藩時代から、京都の佐竹屋敷に御用商人として出入りする。五代目の時に火災に遭い、那波家ではほとんどの財産を失う。佐竹家に再建の資金として借金返済を願い出るも、久保田藩の経済事情も悪く「秋田に来れば良きにはからう」と言われ、止むを得ず久保田に入ったのが宝永五年(1708)。藩では、那波家を御用商人として取りたて、さまざまな便宜を図り、これまでの義理に酬いる。

電気の時代になっても、維持費の安いランプを使い続けた那波家の家風は「ケチ」といわれる。しかし、質素な生活で倹約した分は寄付金に当て、火災、飢饉となると被災者に援助の手をさし伸べる、人々に尊敬される家だった。

明治十九年四月三十日、秋田町を大火(通称・俵屋火事)が襲う。午後十一時過ぎ川反四丁目から上がった火の手は、おりからの三十メートル近い南東の風にあおられ、外町、保戸野の半分、さらに八橋から寺内までも飛び火し、三千四百五十四戸を焼失、死者十七人、行方不明二人、負傷者百八十六人。当時人口三万そこそこの秋田町の、半分近くが焦土と化した歴史的大火である。

当時キリスト教布教のために秋田町に滞在していた、米国人宣教師チャールズ・ガルストの婦人、ローラ・ガルスト女史は、次のように記している。

(出火当時)恐ろしいほどの風が吹いており、数時間のうちに、街は荒廃した。火が街を荒らすのを止めるために、消防士が火の行く手にある一番みすぼらしい掘立小屋を壊すことさえもままならなかった。秋田弁で「いたわし」(もったいない)と人びとは叫んだ。それに「仕方がない」(困った、気の毒、申し訳ない)がこの呪われた街を救うためのあらゆる努力をマヒさせた。(中略)
焦土の街に朝が訪れた。いくつかの耐火倉庫(土蔵?)が空を背景にわびしく立っていた。町の商業地区のすべてが焼失した。(中略)
抄訳『ローラ・ガルスト回想録』より

この大火の中心にあって、那波家は奇跡的に延焼を免れている。

火の手が大町の那波邸に迫りつつあるころ、「那波家を焼ぐな!」と叫びながら、日頃から那波家に世話になっている何百人もの町人が駆けつけた。大屋根に上り、水に浸けたモクむしろ(男鹿の海藻で編んだムシロ)を屋根いっぱいに広げ、邸宅をすっぽり覆い、飛んできた火の粉は、屋根に据えつけた水がめにホウキを浸し、片っ端からたたき消す。さらに那波家周辺の屋根へ消防団や男たちが上がり火の粉を払った。家財道具を旭川対岸まで運びだす者もいる。

当時、那波家の道をはさんだ向かい(当時の山王大通りは、数メートルの狭い小路だった)にあった、お菓子の「榮太楼」と周囲の数軒の家も、町人の活躍と、榮太楼の裏に那波家の土蔵があって、土蔵と榮太楼の間に十坪ほどの用水池があったことから、九死に一生を得、それ以来、榮太楼では那波家の恩を忘るべからずと、子々孫々に言い伝えているとか。

ようやく火がおさまった翌朝、荒涼とした風景のなか、ポツンと那波家と周辺の家だけが焼け残っていた。那波家の人徳、伝統的な福祉の心は庶民によって報われることとなった。

この俵屋火事で那波家では、消防に尽力した各消防組に対して金五十円ずつを贈り、ほかに白米一千俵を出して被災者に配分し、文政十二年、那波祐生が創設した救済組織・感恩講の赤倉(緊急用)からも一千俵を救済に充て復興に寄与し、多くの被災者に感謝された。

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焼け残った那波家の一部
左に曲ると川反
昭和四十三年頃に解体、跡地に呉服と衣料品の「升屋」がオープン

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右手に升屋(那波商店呉服衣料品部)

火災から那波家を守った町民の心情を突き動かす要因となった、感恩講と那波祐生のことは続編で……。

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看板のない店・町家

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川反に近い大町にある、古い町家を利用した、看板のない飲食店。

看板のない店というのは気になる存在だ。
大人の隠れ家的な魅力もある。しかし入るのには覚悟がいる。
一度入ればなんてことはないのだろうが、もしかして一見さんはお断りだったりしたら…、などと躊躇してしまう。

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日が暮れて、玄関の赤いのれん越しに店内の明かりがほのかに灯り、黒く塗装された壁面とのコントラストを際立たせる。そのシンプルな演出が心憎い。看板、照明などの自己主張するものが一切ないことが効果を生み、逆説的にいえば、それが最大の自己主張になっている。

建物は、切妻、妻入、破風中央部には太い梁首を突き出すという、秋田の典型的町家の形式。ただし、町家にしては奥行きが浅すぎるので、奥の部分を取壊して改造したものと思われる。

店の名は「ととや」。場所は、かつては家具・建具の町として有名だった大町六丁目。古い町名は本町六丁目という、指物師の町であった。この建物も指物職人の家だったのかもしれない。

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関連リンク

ととや【グルメぴあ】



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東電前融雪道路・広小路

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昭和四十一年(1966)、東北電力の広告より「秋田県最初の電機融雪道路」

このころの広小路の歩道は、歩行者数が多かったため、積雪期には踏み固められた雪が、テカテカのアイスバーン状態になることが多く、そのなかにあって東北電力前にできた融雪道路は、当時は画期的なもので、そこだけ春が来たかのような空間が物珍しく、立ち止まり一服する人も多かった。

同じころ車道には、地下水を汲みあげて噴水状に散布する融雪装置が一時期あったと思うが、この方式は、地盤沈下の恐れがあると中止された。なお、現在お堀側の歩道には、地下水循環式の融雪装置が敷設されている。

東北電力の隣、ヤマザキ靴店のあとには、秋田初のケンタッキーフライドチキンが進出したが数年で移転し、その後ろに「スキースケート用品」の看板があがる、ヤナギヤスポーツもしばらく前に閉店してしまった。

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哀しきひなまつり

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『うれしいひなまつり』
作詞:サトウハチロー  作曲:河村光陽

この歌はメロディがマイナー調であることもあって、「うれしい・たのしい」という言葉とは裏腹に、えも言われぬ哀感の漂う童謡だ。

サトウハチローがこの詩を書いたのは、昭和十年。そのころハチローは、最初の妻と離婚して、三人の子ども引き取っていた。まだ母親が恋しい年頃の子供たちのために、豪華な雛人形を買い与えると、娘たちはうれしそうに、一日中お雛さまのそばで過ごしていたという。そんな子供たちの姿をみて、この歌の構想が浮かぶ。

河村光陽がメロディをつけ、光陽の長女の純子がレコードで歌うと、瞬く間に世間に広がり、ひな祭り童謡の定番となった。

ところが、ハチロー自身はこの歌を嫌っていた。
戦後、ラジオやテレビからこの曲が流れると「おい、切れよ」と不機嫌になり、晩年まで「だれか、これにとって代わるひな祭りの歌を書いてくれないかなあ」とぼやいていたという。

ハチローの二男、佐藤四郎は、その原因のひとつについて、「歌を作ったころ、既にみな他界していた同じ母を持つ姉妹への思いではないか」と言う。

子供のころ、腰の大やけどのため満足に歩けず、家の中で遊ぶことが多かったハチローは、四歳年上の姉喜美子からピアノの手ほどきを受け、詩的視点などで大きな影響を受けた。嫁ぎ先も決まっていた貴美子だったが、肺結核に冒されて、婚約も一方的に破棄され、お嫁に行かずに十八歳で亡くなってしまう。色白のお姉さんだった。

お嫁にいらした 姉様に
よく似た官女の 白い顔

ハチローは、「お嫁にいらした姉様に」と、せめて歌詞の中ではお姉さんを嫁がせることで、この歌を鎮魂歌としたのだろうか。だとしたら、その歌を聞くたびに大好きだった姉のことが思いだされて、つらくて仕方なかった、だからこの歌を嫌ったのではないだろうか。

八竜町が生んだ鬼才・友川かずきはこの曲が好きで、ライブではよく唄う。
曲の合間にあおるアルコールが良い塩梅に回った中盤あたりに、ささやくように静かに唄われる「ひなまつり」は、美しくも哀しく身に染み入る。


うれしいひなまつり/友川カズキ


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ひな祭り・八橋人形

「桃の節句」はもともと春先の農作業を始めるころ、旧暦の三月三日の行事。
今の時期、北国では桃はおろか、まだ雪が降り積もり季節がともなわない。
このような行事だけは旧暦で祝いたいものだ。

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勝平得之「秋田風俗十態・雛うり」昭和十二年

ひな祭りが近づくと、八橋人形の雛売りたちが、街角や店の軒下などを借りて店を出した。鮮やかな赤い布の上には、雛人形のほかに桃太郎や鳩笛など、男の子の玩具も並び、梅と桃の造花も添えられて、道行く人の眼を楽しませた。

八橋人形は、安永から天明(1772~1788)のころに、京都伏見の人形師が、川尻鍋子山(市立病院付近)に窯を開いたのが始めという。

明治期にはかなりの数があった人形店も、戦後には三軒となり、古い店だった高松茂子さんが平成元年に亡くなったあとは、道川トモさん一人だけになった。今のところ後継ぎはいないので、道川さんがやめると八橋人形の伝統も途絶えてしまうのは悲しいことだ。

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道川トモさん作

古い八橋人形は、元となった伏見人形とよく似た、ユーモラスなものが多い。

「八橋人形」江戸末期から明治初期・各種
「八橋人形」明治初期・子抱き童子

いずれも今の八橋人形とはまったく違う味わいのもので、よい作品なのだが八橋らしさがまったくみられない。明治、大正、昭和と年を経て、秋田の風土に染まり、独特の泥臭さの八橋人形が完成したのだろうか。

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秋田百円ラーメン伝説

その店にはメニューがなかった。
だから一言挨拶を交わし、少し待てば一杯百円のラーメンが出てくる。
しっかりとダシが効いたスープ、チャーシュー一枚、メンマに海苔がトッピングされ、百円とは信じられぬほどの味とボリューム。これでは売れば売るほど赤字になるのはあきらか。だから所在を聞かれてもなるべく教えたくはなかった。

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80年代の店内

「薮松」が、静かに店を閉じたのは昨年の春ころだろうか。
看板も暖簾もなかったので、そこがラーメン屋だとは気がつかぬ人も多かった。
入口には「営業中」と書かれた(裏が定休日だったか)小さな木札がぶらさがり、たったひとつの目印となっていたが、年が明けてからは木札は裏返され、休業状態が続いていたと思う。そして夏ころには、ついにその木札も取り外され、およそ五十年にわたる歴史に幕を下ろし、伝説の百円ラーメンは、ほんとうの伝説となってしまった。

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秋田市大町五丁目(旧八日町)
店の前は除雪する人もなく

大城栄松さんの「薮松食堂」は昭和三十二年開業。
ある日、三人連れの母子が一杯五十円のラーメンを三つに分けて食べるのを見て、感じるものがあった。それが百円ラーメンの原点らしい。
百円の前は八十円。それが適正価格だった頃は、暖簾も看板もあって、メニューにはカレーライスなどもある普通の食堂だったという。

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引戸の上に残された「秋田県麺類飲食環境衛生同業組合・会員之章」

百円では儲かるはずもなく、儲けるつもりもなかった。製麺所など仕入れ先の人たちも理解を示し支払いを待ってくれた。百円ラーメンを維持するために、新聞配達で生活費を稼ぐオヤジの姿は、「なるほどザ・ワールド」「所さんの笑ってコラえて」など全国ネットでも放映され、観るものに感銘を与えた。

そんな気骨あるオヤジのラーメン、最期にもう一杯食べたかったな。

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