
秋田大学医学部校舎・昭和四十七年(1972 )
田んぼの中にポツンと完成して間もない五階建ての校舎。まだ付属病院の建物もない。医師で作家の南木佳士が学んでいたころだ。
南木は、国立高校を卒業し医学部を目指すが、現役での受験は失敗し浪人。1971年、絶対確実といわれた、一期校の千葉大学医学部を受験するが不合格となり、不本意ながらも、やむをえず二期校の秋田大学医学部に入学する。挫折感と劣等感を抱きながらの都落ちのため、秋田での生活は、見るもの聞くものが田舎臭くて嫌いだった、と南木はいう。
『医学生』 は秋田大学医学部第二期生の四人の主人公たちが、それぞれ悩みや事情を抱え、葛藤しながらも医師を目指し卒業するまでの青春群像であり、南木の自伝的な小説。
南木自身と思われる車谷和丸は、秋田市広面大字昼寝に建つ「昼寝アパート」に住む。彼が入学したとき医学部は姿も形もなく、鉱山学部と教育学部の校舎を間借りして講義を行っていたため、秋田大学と医学部建設予定地の中間点にあるこのアパートに決めたという。
和丸が入学した頃にはブルドーザーしか見えなかった田んぼの中に、今、五階建ての基礎医学棟と三階建ての講義・実習棟がТ字型にポツンと建っていた。細い県道から北に直角に曲って広い道路が延び、トラックの往来が激しくなっていたが、背景に雪をかぶる低い山脈を置いた工事現場の雰囲気は寒々としていた。ここに四年も通うのかと思うと、それこそ見ただけで勉学の意欲が萎れてしまうような荒涼とした風景だった。
八階建の大学付属病院が竣工するのは1976年。それまでは、今の脳研の場所にあった県立病院が利用された。
医学生の一人、桑田京子が下宿する家では、冬になると毎晩、ハタハタが食卓にあがる。京子はこの魚は苦手だったが、おばさんの哀しい顔は見たくないので、何も言えない。
昼寝アパートの「横の農道をハタハタ売りのトラックが演歌を流しながら過ぎていった。」という一節があるように、ハタハタの大漁が続き、毎日のように浜直販のトラックが何台も来て、「箱代」といわれるほどの捨て値でさばかれていた時代だった。
長野の旅館の息子で遊び人の小宮雄二は、川反の女を妊娠させ学生結婚をする。
在学中には大雪も体験している。
七時にはトーストを食べ終え、ダッフルコートのフードをかぶり外に出た。吹雪であった。
まだ薄暗い県道脇の雪道を前屈みになって歩いていると、右足が金属のようなものにつまづき、危うく転倒しそうになった。よく見ると、それはバス停の丸い看板だった。
和丸はなんとなく哀しくなった。なんで登校するのにバス停なんかに足を取られるのか。そもそもどうしてこんなところに登校しなければならないハメになってしまったのか。
県道から左に折れると、医学部に通じる広い道はまったく除雪されていなかった。横殴りの吹雪きのために医学部の校舎はほとんど見えなかった。
……中略……
和丸は除雪されていない道路のラッセルを開始した。新雪は腰の近くまであった。ブーツの中はすぐに雪で一杯になった。腰をひねり、膝を突きだし、立ち止まって呼吸を整え、再び前進。
……中略……
およそ五十メートルばかりラッセルを続けたところで和丸はあっさり登校を諦めた。膝が上がらなくなったのである。
午後になって雪も小降りになり、学校に向かうと道はきれいに除雪されていた。あとから聞いた話では、この日は教官たちも雪のため登校できなかったため、午前中の講義はすべて休講だった。この日の実習の合間、五十人ほどの学生が集まり、日頃のうっぷんを晴らすかのように雪合戦に興じる。
これは1974年の大雪とおもわれる。一月二十六日午後九時、秋田市の最高積雪は103cmとなり、秋田地方気象台の観測開始以来の大豪雪を記録し、交通がマヒし、家屋の倒壊、バスの運休、学校の休校など被害は大きかった。

三十余年の歳月を経た、現在の医学部周辺
建物の向こうに白い校舎の上階部分だけがが見える。
南木佳士(なぎ けいし)
1951年群馬県生まれ。秋田大学医学部卒業。長野県の佐久総合病院に勤務。難民医療日本チームに加わり、タイ・カンボジア国境に赴き、同地にて『破水』の第53回文學界新人賞受賞を知る。88年『ダイヤモンドダスト』で第百回芥川賞受賞。著著に『医者という仕事』などがある。2002年『阿弥陀堂だより』が映画される。
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