二〇世紀ひみつ基地

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2005年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年03月

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松倉家住宅・馬口労町

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秋田市旭南二丁目
一部二階建・和小屋構造・妻入造
市指定文化財

松倉家は江戸時代からの商家で、明治初期より大地主としても栄えた。馬口労町(ばくろうまち)の角地に位置する住宅は、明治三十六年の建築だが、江戸後期以来の秋田地方の町家形式をよく伝えた完成度の高い大型町家であり、内外ともに改造も少なく保存状態も良好な現役の住宅である。

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太い梁首を突きだした破風、屋根の笠木も張り出し、右には秋田では珍しい卯建(うだつ)が上がっている。木端(こば)葺き屋根が建設当時のまま残っているのも珍しい。

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秋田の町家には雪がよく似合う。


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きいちのぬりえ

二月二十四日、「きいちのぬりえ」の作者・蔦谷喜一が亡くなった。齢九十一歳の大往生。

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版元・石川松声堂 昭和三十年代

大正三年、東京京橋の紙問屋「蔦谷商店」に生まれ、昭和七年、川端画学校日本画科入学。昭和十四年ころからぬりえを描き始め、昭和二十二年からは「きいち」の名で一世を風靡する。昭和三十年代の最盛期には、八枚セットの袋入りぬりえが、ひと月に百万部も売れるという、爆発的な人気を集めた。

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左、版元・川村山海堂 昭和三十年代

きいちの描く少女は、顔が大きく、足が太く短いのが特徴。「きせかえ」は、ぬりえのふろく。

男子用のぬりえはクレヨンで塗りつぶしたが、「きいちのぬりえ」に代表される女子用のぬりえは、色鉛筆で丁寧に仕上げられていた。それは少女たちにとっては、お化粧のような感覚だったのだろう。

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版元・石川松声堂 昭和三十年代

駄菓子屋の店頭に並べられて独特のオーラを放つ「きいちのぬりえ」は、少女向けのおもちゃにもかかわらず、少年たちにとっても、なにか気になる存在であったのは、少女愛の萌芽だったのかもしれない。

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昭和四十年代

粗末なわら半紙のような紙に印刷されたぬりえが数枚、色刷りの袋に入ったスタイルも、四十年代に入ると冊子に変わり、印刷技術は向上し、絵自体も洗練されるが、駄玩具的なキッチュな魅力は失われてしまう。

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旧ステーションデパート包装紙

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昭和四十三年(1968)、秋田ステーションデパートでは包装紙のデザインを公募し、十一月九日には、図案入賞者の賞金授与式が行われているので、使用されたのは翌年からと思われる。
駅が改築されてトピコの愛称になるまで使われていた、なつかしの包装紙。

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南木佳士『医学生』・秋大医学部

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秋田大学医学部校舎・昭和四十七年(1972 )

田んぼの中にポツンと完成して間もない五階建ての校舎。まだ付属病院の建物もない。医師で作家の南木佳士が学んでいたころだ。

南木は、国立高校を卒業し医学部を目指すが、現役での受験は失敗し浪人。1971年、絶対確実といわれた、一期校の千葉大学医学部を受験するが不合格となり、不本意ながらも、やむをえず二期校の秋田大学医学部に入学する。挫折感と劣等感を抱きながらの都落ちのため、秋田での生活は、見るもの聞くものが田舎臭くて嫌いだった、と南木はいう。

『医学生』 は秋田大学医学部第二期生の四人の主人公たちが、それぞれ悩みや事情を抱え、葛藤しながらも医師を目指し卒業するまでの青春群像であり、南木の自伝的な小説。
南木自身と思われる車谷和丸は、秋田市広面大字昼寝に建つ「昼寝アパート」に住む。彼が入学したとき医学部は姿も形もなく、鉱山学部と教育学部の校舎を間借りして講義を行っていたため、秋田大学と医学部建設予定地の中間点にあるこのアパートに決めたという。

和丸が入学した頃にはブルドーザーしか見えなかった田んぼの中に、今、五階建ての基礎医学棟と三階建ての講義・実習棟がТ字型にポツンと建っていた。細い県道から北に直角に曲って広い道路が延び、トラックの往来が激しくなっていたが、背景に雪をかぶる低い山脈を置いた工事現場の雰囲気は寒々としていた。ここに四年も通うのかと思うと、それこそ見ただけで勉学の意欲が萎れてしまうような荒涼とした風景だった。

八階建の大学付属病院が竣工するのは1976年。それまでは、今の脳研の場所にあった県立病院が利用された。

医学生の一人、桑田京子が下宿する家では、冬になると毎晩、ハタハタが食卓にあがる。京子はこの魚は苦手だったが、おばさんの哀しい顔は見たくないので、何も言えない。
昼寝アパートの「横の農道をハタハタ売りのトラックが演歌を流しながら過ぎていった。」という一節があるように、ハタハタの大漁が続き、毎日のように浜直販のトラックが何台も来て、「箱代」といわれるほどの捨て値でさばかれていた時代だった。

長野の旅館の息子で遊び人の小宮雄二は、川反の女を妊娠させ学生結婚をする。

在学中には大雪も体験している。

七時にはトーストを食べ終え、ダッフルコートのフードをかぶり外に出た。吹雪であった。
 まだ薄暗い県道脇の雪道を前屈みになって歩いていると、右足が金属のようなものにつまづき、危うく転倒しそうになった。よく見ると、それはバス停の丸い看板だった。
 和丸はなんとなく哀しくなった。なんで登校するのにバス停なんかに足を取られるのか。そもそもどうしてこんなところに登校しなければならないハメになってしまったのか。
 県道から左に折れると、医学部に通じる広い道はまったく除雪されていなかった。横殴りの吹雪きのために医学部の校舎はほとんど見えなかった。
……中略……
 和丸は除雪されていない道路のラッセルを開始した。新雪は腰の近くまであった。ブーツの中はすぐに雪で一杯になった。腰をひねり、膝を突きだし、立ち止まって呼吸を整え、再び前進。
……中略……
およそ五十メートルばかりラッセルを続けたところで和丸はあっさり登校を諦めた。膝が上がらなくなったのである。

午後になって雪も小降りになり、学校に向かうと道はきれいに除雪されていた。あとから聞いた話では、この日は教官たちも雪のため登校できなかったため、午前中の講義はすべて休講だった。この日の実習の合間、五十人ほどの学生が集まり、日頃のうっぷんを晴らすかのように雪合戦に興じる。

これは1974年の大雪とおもわれる。一月二十六日午後九時、秋田市の最高積雪は103cmとなり、秋田地方気象台の観測開始以来の大豪雪を記録し、交通がマヒし、家屋の倒壊、バスの運休、学校の休校など被害は大きかった。

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三十余年の歳月を経た、現在の医学部周辺
建物の向こうに白い校舎の上階部分だけがが見える。

南木佳士(なぎ けいし)
1951年群馬県生まれ。秋田大学医学部卒業。長野県の佐久総合病院に勤務。難民医療日本チームに加わり、タイ・カンボジア国境に赴き、同地にて『破水』の第53回文學界新人賞受賞を知る。88年『ダイヤモンドダスト』で第百回芥川賞受賞。著著に『医者という仕事』などがある。2002年『阿弥陀堂だより』が映画される。


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南木 佳士

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伝説のからあげ弁当

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このボリュームで420円也

久しぶりに、たいあん弁当のからあげを食べる。
最期に食べたのが大町店が店を閉じる前だから、もう10年以上になるが、昔と変わらず、申しぶんのない味だった。

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卵焼き、いんげん、かまぼこ、フライドポテトの付け合わせ。
山菜をプラスしたデラックス版「からあげ山菜弁当」もあり。

秋大近くの手形店は学生客が多い。他県から秋大に来た学生たちにとっては、わすれがたき青春の味で、彼らが地元に帰って「秋田にたいあん弁当あり」の噂を広め、今では全国区という話も、まんざら嘘ではないだろう。

たいあん弁当のからあげ弁当は、もはや伝説のB級グルメ、新しい秋田名物なのだ。

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メニューの筆頭は人気の印



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久保田城下の「かまくら」行事

藩政期の秋田市での小正月(旧暦の一月十五日、あるいは十四日から十六日まで)の様子は、『秋田風俗問状答』などの文書で知ることができる。『風俗問状答』とは、江戸の考証学者・屋代弘賢らが幕府の後ろ盾をもらって諸国風俗問状を全国に配布、それに応じて各藩が答えたもので、「諸国風俗問状答秋田」が文化十一年に提出された。秋田六郡の風俗・年中行事の詳細に絵図が付されている貴重な資料で、現在は国立公文書館が所蔵、異本が秋田県立図書館にある。

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『風俗問状答』より 

一月十四日、二~三日前より家々の門外に雪を積み重ね、水をかけ固めて方形の雪壁をつくり、当日にはその中に萱(カヤ)を積み、松の内に家を飾った門松、しめ縄なども入れられ、周りには鎌倉大明神、左義長、爆竹などと書いた紙の旗や様々な四手(シデ)、ホタキ棒、まゆだま、米俵、などが飾られ、小机には餅や神酒を供える。

子供らはホタキ棒を持ち、道行く若い女性の尻を打つなど戯れをする。これは元気な子供に恵まれるようにとのマジナイが起源だが、若い女達はこの日ばかりは恐れをなして外出を控えたほどだったという。

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『風俗問状答』より 

夕刻になると木のホラを吹き鳴らし、それを合図に火打ち石で火をおこし「かまくら」の中に火を放つ。勢いよく燃えあがる火を米俵に移して振り回すと、見物人の若い衆もこれに加わる。馬を所有する者は、馬にも見せようとして引いてくる。米俵は二百~三百個も用意された。

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『秋田風俗絵巻』部分

米俵に火を付けるとき、「ヂャアホイ、ヂャアホイ」の掛け声で囃し、子供らは「鎌倉の鳥追いは、頭切りて塩付けて、塩俵へうちこんで、佐渡が嶋へ追うてやれ。佐渡が嶋近くは、鬼が島へ追うてやれ。」と、鳥追い歌を唄う。「鳥追い」は田畑の害鳥駆除と豊作を願うもの。

家を継ぐ男の子がいる家では、その子が十五歳になるまで参加した。その夜は親族が集まり酒盛りが始まり、唄い舞う賑やかさは、外を通る見知らぬ人も招き入れ、宴は夜が明けるまで続く。この日は城下のあちこちで燃えあがる火で空が明るくなるほどだったという。

以上は内町(侍町)の行事で、外町(商人・職人町)では、「外町にもあるが、家が密集していて火の粉が飛び散り火災の心配があるので、今はたまに行う。」と『秋田風俗問状答』にあるが、これは、お上に提出する文書という性格上、体裁の悪いことは書かなかったのではないかと思う。実際はどうだったのか、『肴町丁代文書』には、「延享四年(1747)、上肴町では通行人にカマクラの火をふりかけるなど無礼な行為があったため今後上肴町ではカマクラ鳥追い行事は固く停止するように通達が出された。」にもかかわらず「四年後の寛延四年には、仁井田村の者に火の粉がふりかかり、口論となり大勢が入り乱れての殴打事件をひき起した」と再三のトラブルが記されていることから、外町での行事の衰退は建て込んだ住宅事情よりも、祭りにつき物の喧嘩沙汰が原因と推察できる。やはり外町の住民は内町の武家と違って気性が荒かったようだ。

「左義長・さぎちょう」とは、もともと宮中清涼殿で小正月に行われる行事。青竹を束ね扇子・短冊・天皇の書を添え、陰陽師などが焼いた悪魔払いの儀式が、形を変えて民間にも広まっていった。松が明けて、門松・しめ縄・書き初めなどを焼き、その火で餅を焼いて食べ無病息災を祈る「どんど焼き」も「左義長」が起源。

こうしてみると、「かまくら」という行事が、災害を払う左義長の火祭りと、豊作を祈る鳥追いが融合した行事だったことがわかる。観光かまくらで有名になった横手でも、かつては同様な光景が見られたらしい。かまくら自体も現在のような形に統一されたのは戦後からのことで、それ以前は、かまど型の雪室をつくり、天上は板をならべ、ムシロなどをのせ、その上を雪で覆ったものだった。

関連リンク
角館・火振りかまくら
六郷かまくら
保新潟県魚沼・鳥追い洞

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楢山かまくら

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楢山かまくら・秋田市楢山太田町(旧・太田沢)

金照寺山の麓、太田沢に古くから伝わる「楢山かまくら」は、明治四十四年、祭りの最中に火災が発生し、警察から行事の中止を命じられ、以後六十年以上も中断されていたが、昭和五十年、地元の有志により復活した、かまくらの原形を今にとどめる小正月の行事。

板を枠にして方形に雪を積みあげ、踏み固め水をかけて凍らせ、丸太で屋根の骨組みを造り、藁で葺いて完成となる。入口はムシロを下ろし、古くは婦女子は入れず男性だけが入ることが許された。内部の奥の正面には、水天宮と、後三年の役で武勇をはせた鎌倉権五郎を祭る祭壇が設けられる。

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かつては、祭りの期間中、子供らは、かまくらを根城に集まり、木製のホラを吹き鳴らすものをしたがえ、部洛内を練り歩いた。柳の木を削った80センチほどのホタキ棒をそれぞれが持ち、若い女性が通りかかると、その棒で尻を叩いたり、腰の辺りをつつきながら「男ボッコもぢゃがれ」(元気な男の子が授かるように)と唱え言をする。あまりのしつこさに、女たちは小銭を施し子供をなだめたという。村内の初嫁の家などにも同じように押しかけ、ホタキ棒で祝福する。

七日間の行事の最終日には、屋根に使用した藁をたばねて火をつけ振り回す「火振り」も行われたが、現在はかまくらの中で使用した藁を焼くだけで、火振りは行われない。

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タウトの宿・旧金谷旅館

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旧金谷旅館
秋田市保戸野通町「高砂堂」裏、旭川沿い。
開業は明治期。旅館は廃業し所有者も変わった。

日本を愛し日本美を世界に紹介したドイツ人建築家・ブルーノ・タウト。
昭和十年五月、秋田駅に降り立ったタウトと日本人助手は、駅長の薦めで当時市内では一番有名だった「石橋旅館」に宿泊するが、豪華絢爛な日光東照宮を嫌い、簡素な桂離宮を好んだタウトは、この旅館を「大名風ではあるが、やはり垢抜けのしないイカモノだ」と、あまりお気に召さない。

廊下に飾られていた勝平得之の小さな版画を見て、助手の上野君は勝平氏に秋田の案内を頼んでみようと提案、市内の町家、郊外の農家などを案内され、「秋田にはまだ非常に美しい型の家が保存されている」「秋田はまことに北日本の京都だ」と絶賛している。

「石橋旅館」には大臣一行が宿泊し満室になるとのことで、タウトらは勝平氏が紹介してくれた「金谷旅館」に移った。タウトが泊まった部屋は、裏手にみえる三階の一間。

この宿は前の旅館にくらべるとずっと質素であるが、非常に親切な、居心地のよいサービスをしてくれるし、また値段も恰好である。
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清楚な感じの若い女中さんは、夏よりも冬のほうがずっとよろしゅうございます、といった。だから冬になったにもう一度秋田を訪れようと思っている。
『日本美の再発見』より

タウトは翌年の二月にもここに宿泊している。旅館もさることながら、オトキさんという若い女中さんが大層気に入ったようだ。しかし、階下から漂ってくる厠の香りには閉口している。旅館の一階には、タウトも入浴した、銭湯「杉の湯」が最近まで営業していた。

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関連リンク

建築家ブルーノ・タウト - ドイツニュースダイジェスト

ブルーノ・タウト - Wikipedia



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相互銀行のターちゃん

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旧秋田相互銀行マスコットキャラクター「ターちゃん・チーちゃん」

名前はタイガーの「ターちゃん」と、チータの「チーちゃん」だろうか?
「ターちゃん」が先行し、その少し後にガールフレンドとして「チーちゃん」が登場している。

秋田銀行の「おばこ」や、羽後銀行の「秋田犬」のような秋田らしさが全く無いキャラクターは、人気も今ひとつで、他行のものよりも短命だったようだ。

「ターちゃん」の初期と思われる貯金箱をみたことがあるが、学帽と制服が、まるで古い国鉄の制服のようで、オヤジだか子供だかわからない、ヘンテコなものだった。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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雪べら

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冬になれば雑貨屋や金物屋の店先に何本も立て掛けられていた、こんな木製の雪べらもすっかり見ることがなくなった。作るのも簡単で自家製も多く、柔らかく積もった雪ならばこれで充分。軽くて使いやすかったが、固まると歯が立たないので、金属製のスコップにまかされる。

木製の雪ベラは壊れても修理は簡単だが、木製の柄に合成樹脂のスコップがついた現代の雪べらは修理ができず使い捨てになってしまうことが多い。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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居酒屋「瀧の頭」

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秋田駅前、ラーメンが有名な居酒屋「瀧の頭」。
居酒屋だから夕方から深夜4時までの営業で、以前はラーメンのみの客は断っていた。

店名は男鹿の名勝地、湧水の「滝ノ頭」から。
男鹿の潮風の香りがするような和風スープのラーメンのほかに、しょっつるラーメンもある。名物の地獄ラーメンは看板にあるように「4分以内に完食すればバリ島ペア旅行と賞金100万」。近寄って看板をよく見れば「賞金100万」の下にちっちゃく「ルピア」の文字が……。

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いまだに成功者のでない地獄ラーメンは超激辛で、完食するのも手に余るほどの一杯。

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ギターが欲しかった

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1969・少年マガジン広告

兄がクラシックギターを持っていたが、いつでも使える自分専用のギターが欲しかった。
しかし、中学生のこづかいではとても手が届かない。

ある日、雑誌で「ギター組立キット」の広告を発見、「これなら買える!」と、ワクワクしながらハガキをしたため投函した。数日後、待ちに待った「キット」が到着。ボンドの乾燥を待ちながらすこしづつ組み立て、ついに弦を張る時がやってきた。張り終えてチューニングを試みるが、どうもうまくいかない。最初は調音されていても弾いているうちに徐々に狂ってくる。「まあこんなものか、練習できればいい」と自らを納得させ、その日は眠りにつく。数日後、学校から帰宅した私を待ち受けていたものは、ネックがグニャリと曲って壊れた、無残な姿のギターだった。原因は弦の張力に耐えきれずネックを支える部分が破壊されたため。

そのキットは確かにこのメーカーのものだったと思う。
キットとはいえ、ギターがこの値段で買えること自体がおかしいのだが、当時の自分にとって、わずかなこづかいを貯めて購入したものが、数日でゴミと化すという体験はショックだった。家族からは笑われ、これじゃあ最初から完成品の「カワイコちゃんもよろこぶ!ミニ・ギター」を買ったほうがよかったと悔やんでも後の祭り、「安物買いの銭失い」ということわざを、身にしみて実感するのだった。

当時の少年雑誌の広告には、あやしげなものや、今では許されないであろう、あきらかな誇大広告が多い。誇大表現も許される、おおらかな時代だったともいえるが、それは、祭りの露店に並べられたありふれた商品が、テキヤのオヤジの口上ひとつで、光り輝く宝物にみえるのと似ている。テキヤの口上のような通販広告のコピーは、少年たちの想像力とシンクロして夢を増幅しつづけた。大半が対象物を手に入れた段階で落胆して終わる、つかの間のはかない夢である。夢の覚めるまでのつかの間の狂おしき想いは、プラトニックラブのように少年の記憶に刻まれる。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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