二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

千秋公園でスケート競技大会・昭和初期映像発掘

▼秋田の競技スケート発祥地・千秋公園スケートリンク

明治42(1909)年2月、長野県上諏訪町の南信日日新聞社が主催して開催された「諏訪湖一周氷滑大会」が、日本におけるスケート競技大会の起源とされる。

この大会で使われた用具は、地元の鍛冶職人が製造した、歯の無い下駄の底に鉄製ブレードを付けた和洋折衷ハイブリッドな下駄スケート

足袋に下駄スケートをはき、木綿で平らに編んだ真田紐(さなだひも)で、足と下駄を固く結んで滑った。地域と時代によりさまざまな形態が見られるが、本格的なスケート用具よりもはるかに安価なため広く普及。戦後まで作られ、昭和30年代の頃まで使われていた。

「諏訪湖一周氷滑大会」が開催された明治42(1909)年。秋田県教育会が諏訪湖上のスケートを視察・研究するため、秋田県女子師範学校長・樋泉慶次郎を派遣。

スケート先進県・長野に刺激された県教育会は、翌明治43(1910)年1月、家に閉じこもりがちになる冬期間の戸外運動を奨励するため氷滑練習所を開設。1月30日、教職員と児童生徒らが参加して、第1回氷滑練習会を城址・千秋園(現・千秋公園)岡本堀で開催。

同明治43(1910)年2月5日の第2回、翌6日の第3回氷滑練習会は、広小路に面した穴門堀に会場を移し、500人~600人が参加。その翌週、同地で初めての氷滑競技大会が開かれた。

第2回氷滑練習会では、中土橋で見物していた二人の子どもが穴門堀に落ちるハプニングも。当時はまだ、お堀の周囲に柵は無かった。

▲この壮挙を観んと集まる者 場を挟んで両岸に人の山を築きたり▲疾走ようやく劇(はげ)しくなる頃 場の東岸より氷上めがけて飛び降りし女児の姿あり 間もなく一の男児あり 共に氷を破りて水中深く陥りしも たちまち氷上に浮出(うきいで)しが 腰より下は当然濡れ鼠の如くなりて 悄然と帰路に就きしが 見るからに憫然なりし▲これを見るや教育会にても万一を慮(おもんばか)り 直ちに危険の個所に縄張りをなしたり

明治43(1910)年2月7日付『秋田魁新報』より

翌明治44(1911)年1月、南秋田郡面潟村夜叉袋近くの八郎湖にて、県教育会主催のスケート大会、第1回「八郎湖氷上大運動会」開催。16両編成の臨時列車で八郎湖に向かった、秋田市周辺の教職員・児童生徒ら約800人に加え、八郎湖周辺から約800人が参加する大運動会。

回を重ね、観客を含めて1万人を集める大イベントに発展した「八郎湖氷上大運動会」であったが、氷の状態が不安定なことなど諸事情により、第3回大会を最後に中止に。

※岡本堀とは

大手門通りに面した「秋田県立脳血管研究センター」斜め向かい、今は大部分が埋め立てられ、その一部が児童公園になっている場所が、第1回氷滑練習会が行われた岡本堀の跡。

藩政時代、今は脳研が建つ上中城の高台に、家老クラスの屋敷が軒を並べ、岡本堀の向いに岡本又太郎(元朝)家の広大な屋敷があった。

千秋公園・岡本堀跡
▲千秋公園・岡本堀跡 2014.01


▼千秋公園穴門堀のスケートリンク

千秋公園・スケートリンク
▲『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

全国のスキー・スケート場を紹介するガイドブック『スキーとスケート』の図版。「秋田県記念館」脇の土手から、穴門堀のスケートリンクと広小路方向を望む。後方に「秋田県女子師範学校」の寄宿舎と「県立秋田図書館」が見える。

昭和初期、スケートの強豪「慶應義塾大学」スケート部が秋田市で合宿、このスケートリンクを練習場とした。

千秋公園スケートリンク
駅から三丁。古城の外濠を利用したもの。結氷の厚さは中央部で一尺五寸、岸の方で五寸。リンクの面積は横五十間、縦三十間。スケート季節は翌二月下旬まで。
『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2015.07

穴門堀のスケートリンクの呼称はさまざまで、戦前は「記念館下濠リンク」「千秋公園外濠リンク」「千秋公園スケートリンク」など、戦後になると「市営リンク」とも呼ばれる。

当初は秋田県、戦後になって秋田市が管理したリンクも、昭和30年代に入ると、氷の厚さが不足するようになり廃止される。

昭和40(1965)年頃、秋田市山王大通りに県内初の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」オープン。夏場は室内プールに模様替えした。

昭和46(1971)年11月、向浜に「秋田県立スケート場」オープン。開設当時、柱を使わないアーチ式スケート場としては、東洋一を誇る規模であった。


▼千秋公園スケートリンクで北日本氷上競技大会

前置きが長くなったが、ここからが本題。

昭和3(1928)年から昭和5(1930)年にかけて、千秋公園スケートリンクを会場に、秋田県体育協会主催「北日本氷上競技大会」を開催。

以下がその競技大会を撮影した貴重な映像。

当時の新聞記事および掲載写真を参照するに、昭和4(1929)年、第2回「北日本氷上競技大会」の映像と推定。

眼科医で写真愛好家の堀江富太郎氏(1896-1989)が、フランス製家庭用小型撮影機パテ・ベビーにて撮影。9.5mmフィルムを使用するパテ・ベビーの撮影機および映写機は、8ミリカメラが登場するまで小型映画の主流であった。

千秋公園スケート競技大会

映像の冒頭、広小路側に設けられた「スケート場」ゲートの右側に「主催 秋田県体育協会」左側の文字は解像度が低くて解読しがたいが「後援 東京日日新聞社」「協賛 秋田魁新報社」と推測。『東京日日新聞社』は『毎日新聞』東日本地区版のタイトル。当時、地域により新聞名を変えて発刊していた。

千秋公園・アイスホッケー

「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)と「県立秋田中学校」(現・県立秋田高等学校)の対戦と思われるアイスホッケーの試合。

千秋公園スケートリンク・アイスホッケー
▲昭和4年1月27日付『秋田魁新報』より
キャプション「札幌師範対秋中のアイスホッケー」

ゴールキーパーはレガース(すね当て)を着用しているものの、ほかの選手はなにも防具を着けず、シャツにタイツと半ズボンの軽装。学生帽を被っている選手もいる。

アイスホッケーの長い歴史からみれば、防具が現在のような重装備になったのは比較的に最近のこと。

昭和4(1929)年の大会で秋田中学アイスホッケー部は、格上の札幌師範との対戦で11対0と惨敗。

アイスホッケーのインターバルに披露された「慶應義塾大学」の金子、西川両選手による男性ペアスケーティングと思われる。当時の新聞記事によれば「その妙技に満場の人々を酔わせた」とのこと。

コサック帽をかぶり、胸にエンブレムのあるジャケットにネクタイ、下はタイツというスタイル。

ジャンプもなく、スピンではコケて手をついているが、まだ競技人口もきわめて少なく、年間を通して練習できる施設のなかった、フィギュアスケート黎明期の日本では、これでも最高レベルの演技で、二人は国内の大会で受賞経験がある高名な選手であった。

第1回全日本スケート選手競技大会 昭和4年1月 信州諏訪湖
フィギュア競技
2位 金子 3位 西川
ペアスケーティング
1位 西川金子組

第4回インターカレッジ・スケート選手権大会 昭和4年1月 信州松原湖
フィギュア競技
団体の部
1位 慶應大学(金子・西川・和田)
個人の部
1位 金子 3位 西川

『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

フィギュアスケートの日本語訳は描形氷滑。ブレードで氷上に形状を描くことから命名され、大正11(1922)年、長野において第1回「描形氷滑競技会」を開催。

描形氷滑という文字通り、氷上にブレードで課題の図形を描き、その正確さを競うのがフィギュアスケートの原型で、規定競技(コンパルソリー)としてオリンピックでも演技されてきたが、1990(平成2)年3月の世界選手権を最後に、国際スケート連盟の競技会では廃止された。

千秋公園スケート競技大

土手の上から撮影された、小学生と思われる短距離競走。スケートというよりも、わちゃわちゃとした氷上の駆けっこ。

昭和4(1929)年1月開催、第2回「北日本氷上選手権」の参加者は、札幌師範、秋田中学校、保戸野小学校、旭南小学校、旭北女子附属小学校、渟城小学校(能代)のほか、全県小中学校講習員と一般人、総数約100人。

秋田県記念館」脇の土手に二重三重に連なる見物の人垣。

中土橋側、広小路側にも人垣ができ、昭和3(1928)年開催、第1回「北日本氷上選手権」の模様を伝える新聞記事は「広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様」と、当日のにぎわいを記録している。

秋田和洋女子高校
▲秋田愛国女学館

昭和3(1928)年「愛国婦人会 秋田県支部」が社会救済事業の一環として開校した「秋田愛国女学館」(現・秋田和洋女子高校)と、戦後に秋田市指定保存樹となるイチョウの大樹。

秋田和洋女子高校
▲和洋女子高校 2004.04

屋上に阿部米蔵の手に成る新築記念のモニュメント「三愛のモニュマン」が輝く「和洋女子高校」の校舎も「県民会館」跡地に計画されている新文化施設の駐車場用地として、まもなく解体される。

「和洋女子高校」の移転先は現在地から北へ3分ほど歩いた同校のグランド。藩政時代は兵具庫(兵器庫)が並び、大正初期、初代「秋田赤十字病院」が開院した場所。

秋田県記念館
▲秋田県記念館(県民会館の前身)

秋田県記念館
▲秋田県記念館側面 ジオラマ

秋田県民会館
▲県民会館 2004.03

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2014.01


▼新聞記事と年鑑に見る北日本氷上競技大会

◎第1回「北日本氷上競技大会」

昭和3(1928)年1月22日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、当時、秋田市で合宿、千秋公園スケートリンクを練習場にしていた「慶應義塾大学」そして「盛岡中学校」(現・岩手県立盛岡第一高等学校)。

結成したばかりの秋田中学校アイスホッケー部は盛岡中学校との対戦で延長戦の末、接戦で勝利。

千秋公園スケート競技大会

中等校アイスホッケー
 秋中優勝す
  きのう氷上競技大会

第一回北日本氷上競技大会は既報の如く大日本氷上競技連盟 秋田県体育協会主催のもとに二十二日 記念館下濠リンクにおいて開催 午前十時まづ約百名の選手の入場式あり
‥‥中略‥‥
観衆は濠内外一ぱいにうめ 広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様であったが 中にも盛岡中学対秋田中学のアイスホッケーは技量伯仲延長戦となり観衆を熱狂せしめたが一般の戦跡は

◆中等学校フィギュアスケーティング
一等 中田(秋中)
二等 平野(盛岡)
‥‥中略‥‥

◆一般スピードレース
千五百メートル
一着 平野(慶大)三分五十九秒六
‥‥中略‥‥
五百メートル
一着 藤野(慶大)一分十二秒
‥‥中略‥‥

◆中等学校二千メートルリレー
一着 秋中チーム
‥‥中略‥‥

◆一般五千メートルスピード
一着 平野(慶大)十四分十五秒八
‥‥中略‥‥

◆一般アイスホッケー
秋田 一対二 土崎

◆一般一万メートルスピード
一着 平川(慶大)二八分十秒六
‥‥中略‥‥

◆中等学校アイスホッケー
秋中 三対二 盛中
‥‥後略‥‥

昭和3(1928)年1月23日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和3年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和3年)より

スケート用具とウエアの進化、リンク環境の変化など現在とあまりにも大きな違いがあり、単純に比較することは無意味だが、参考として、2018年3月現在の「男子スピードスケート競技日本記録一覧」を掲載しておく。

500メートル 加藤条治 34秒21 2013年1月26日 ソルトレイクシティ
1500メートル 中村奨太 1分44秒99 2014年3月16日 カルガリー
5000メートル 平子裕基 6分21秒98 2007年11月17日 カルガリー
10000メートル 土屋良輔 13分10秒31 2018年2月15日 カンヌン

スピードスケート競技の日本記録一覧 - Wikiwand

 

◎第2回「北日本氷上競技大会」

上掲映像の撮影時と思われる、昭和4(1929)年1月26日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は「慶應義塾大学」と「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会
▲リンクを圍る観衆(昨日千秋公園外濠にて)

北日本氷上
 選手権大会
  札師対秋中アイスホッケー
     ◇・・・・秋中惨敗す

県体育協会主催 北日本氷上選手権大会 並びに全県中小学校講習員氷上大会は二十六日午後一時より記念館下濠リンクに開催 遠く来征の札幌師範選手を初め秋田中学校、一般スケーター、保戸野、旭南、旭北女子附属、渟城の各小学校生徒等約百名参集 周囲は黒山の如く観客を以て埋められる 定刻 安倍体育協会長の挨拶あり 昨年の優勝校 秋田中学校より優勝旗返還し 佐野審判長の注意 安倍秋中選手の宣誓ありて一時十五分競技に入る

‥‥中略‥‥

◆北日本アイスホッケー選手権競技(中等学校)
今日の呼び物である秋田中学校と札幌師範との対抗にて
前半札幌徹頭徹尾秋中を圧迫し
‥‥中略‥‥
札幌 十一対〇 秋中
‥‥中略‥‥

スケートの妙技

札師、秋中のアイスホッケーの休息中 慶大 金子選手のフリー、金子、西川両選手のペアースケーティングその妙技に満場の人々を酔わせた

◆全県小学校優勝旗千メートルリレー
1、保戸野チーム 二分二十一秒
‥‥中略‥‥
◆講習員二百五十メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権千五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆講習員五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五千メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権二千メートルリレー

◆一般アイスホッケー
秋田チーム 三対一 土崎チーム

かくして午後六時競技終了 栄ある優勝旗は札幌師範の手に帰した

昭和4(1929)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

◎第3回「北日本氷上競技大会」

昭和5(1930)年1月26日開催、第3回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、常連の「慶應義塾大学」のほか「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)「函館商業学校」(現・北海道函館商業高等学校)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会

氷上に躍る花形
 東北スケートの争覇戦
  外濠リンクできのう

県体協主催、第三回北日本氷上選手権は慶應大学、札幌師範、函館商業を迎え、よく晴れあがって風もおだやかな日の二十六日午前八時から千秋公園外濠リンクに開催されたが記念館脇の土手から広小路にかけては中・小学生徒その他観衆三千を越ゆるの盛況、‥‥中略‥‥八時半競技に移る

◆中等学校 アイスホッケー
函商 〇対四 秋中

‥‥中略‥‥

◆一般 アイスホッケー
秋田 〇対一 土崎

‥‥中略‥‥

札幌師範再び
凱旋あぐ

◇慶大アイスホッケー模範試合
慶大 六対六 札師

‥‥中略‥‥

競技終わって慶大帯谷、金子両君の鮮やかなフリースケーティングあり次ぎに佐野副会長は札幌師範に優勝旗を授与し安倍スケート部長の発声により万歳を三唱して四時四十分散会した
(写真はアイスホッケー・外濠リンクにて)

昭和5(1930)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
『昭和5年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和5年)より

昭和6(1931)年、第4回「北日本氷上競技大会」は、千秋公園スケートリンクの結氷状態が悪かったためか、能代市の出戸沼リンクに場所を移して開催。その後、出戸沼は埋め立てられ、跡地は昭南町という名の住宅街にになっている。

| 秋田市今昔 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

まぼろしの金照寺山公園化計画

金照寺山

秋田市楢山から牛島にかけて広がる丘陵地・金照寺山は、旧藩時代から城下の人々に郊外の景勝地として親しまれていたが、明治の末、この山を公園化する計画があった。

※金照寺山の詳細については巻末の過去記事リンクを参照のこと。

まず初めは、私立「秋田病院」院長・穂積孝春が金照寺山を買い取り、桜を植樹した上、秋田市に寄贈する計画を立てるが、地権者である秋田市大町の商家・那波家は「同地は先祖の縁故もあり手放すことはできない。しかし、いずれ自分が桜を植えて市民の用にも供するつもり」と断られて断念。

次ぎに立ちあがったのは秋田県知事・森正隆。茨城県知事を経て、明治41(1908)年に秋田県知事に就任した森知事は「楢山は全国無比の勝概」(「楢山」は金照寺山の古名、「勝概(しょうがい)」 は「すぐれた景色」) と惚れ込み、当時は県営の公園であった千秋公園に次ぐ、県の第二公園とすべく、県会で予算を決定して公園化を推進するも、志なかばの明治45(1912)年、森知事の転出にともない計画は立ち消えとなる。

今回取りあげるネタは、造園家で日本人初の公園デザイナー、秋田では千秋公園を初めとして、横手公園、真人公園、池田氏庭園などの設計者として知られる長岡安平が、森知事在任中に県の依頼を受けて作成、明治44(1911)年に提出した「金照寺公園設計図」(秋田県公文書館所蔵・秋田県庁旧蔵古文書) 。

金照寺山公園
↑ 金照寺公園設計図に加筆

西側に配置された運動場(陸上競技場)と、その東側の人工湖が、ひときわ眼をひく。

古代ギリシアのスタジアムのように、直線が長いトラックの中央に芝生のインフィールドが広がる。

トラックの幅員は八間(14.55 m)延長三百八十間(690.9 m)。ちなみに、秋田市八橋運動公園にある陸上競技場のトラックの延長は400m

長岡安平による初期「千秋公園設計図」にも、規模は小さいものの、同様な運動場が描かれている。

金照寺山公園

かつては水田と、その奥に沼が存在し、熊沢と呼ばれた谷間に計画された人工湖。

1962金照寺山
↑ 熊沢周辺 昭和37(1962)年撮影

金照寺山
↑ 金照寺山より熊沢の沼跡を見下ろす 2007.07

水田と沼があった熊沢も1970年代中頃から次第に宅地化が始まり、今では谷間の新興住宅街。広い庭にオブジェが置かれた、某工芸家のアトリエもある。

農業資材・種苗販売の高井南茄園(たかいなんかえん)が、昭和の初め、熊沢の斜面を中心に農園を開く。その段々畑では、春にはいちご狩り、夏は西瓜狩りも楽しめたが、その話はまたの機会に。

迷路

金照寺山の山頂・七つ森の下に見える迷園とは、背の高い生垣で造る迷路園のこと。その中央に描かれた東屋のようなものは、迷路を見下ろすことができる展望台だろう。

Longleat Hedge Maze
↑ イングランド「ロングリート」生垣の迷路・画像はWikipediaより引用

ヨーロッパでは古くから修道院の庭園などに造られた迷路園は、明治の初めに日本に導入されて、ちょとしたブームとなり、大正の初め、秋田市八橋公園内にもオープンする。

金照寺山公園

迷園の西側、今は民家が建ちならぶあたりの中央に音楽堂がある。

ちなみに当時の野外音楽堂はこんな感じ。

日比谷音楽堂
↑ 東京日比谷公園・音楽堂 明治38(1905)年竣工、日本初の野外音楽堂

周囲に観客を配置する、多角形の野外音楽堂のルーツをたどると、1861(万延2)年に英国は南ケンジントン王立園芸協会庭園に建設された Bandstand(バンドスタンド)まで溯るという。産業革命により環境が悪化した都市の、市民がリラックスするために造成された緑化公園内に建設され、公園に不可欠のものとして急速に普及した。

金照寺山公園

七つ森の北側に平田神社。

幕末の国学者・平田篤胤(あつたね)を祀る平田神社は、明治14(1881)年、八橋日吉(ひえ)八幡神社境内に創建されたものを、明治42(1909)年、広小路に面した東根小屋町にあった八幡神社の旧社殿に遷し、経済学者で農学者の佐藤信淵(のぶひろ)を合祀して弥高神社を創設。

同地に県立図書館を建設するため、大正5(1916)年、弥高神社を千秋公園二の丸の現在地に再び遷して今に至るが、このとき、金照寺山も移設候補地に挙げられていた。

金照寺山公園

一本松のある通称・一つ森に「ホテル建設場」と記されている。

往年は太平川を眼下に市街地を一望することができたこの地はホテル用地にふさわしい。

以前に書いたように、昭和50(1975)年、国鉄の通信部門(現・ソフトバンクテレコム)が一帯を買収し、マイクロ回線用電波塔と無線中継所を建設、出入口はフェンスで封鎖され、進入禁止地帯になってしまった。

一つ森といえば、奥羽本線で分断された金照寺山の裏山・一つ森を造成し、昭和61(1986)年に開園した一つ森公園を先ず思い浮かべるだろうが、こちらの一つ森は、古墳を思わせる“一つの盛り土”があったことからきた俗称。山伏の墳墓と伝えられる“七つの盛り土”がある山頂・七つ森は、古くは山伏塚とも呼ばれていた。

金照寺山と太平川
↑ 太平川から金照寺無線中継所・電波塔を望む 2009.04

1962金照寺山
↑ 昭和37(1962)年撮影

Google Earth 金照寺山
Google Earth より

| 秋田市今昔 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

通町名物「青井陶器店」福禄寿

青井陶器店・ポケモンGO
2016.08.12 「青井陶器店」前

秋田市通町商店街の草市にて、ポケモンGOのルアーモジュールで客寄せする「青井陶器店」の名物「福禄寿」。

青井陶器店
2003.11

福耳の部分がセメントで補修され、屋根の塗り替えのとき付けられたのか、コールタールと思われる塗料が付着。左手に持つ杖の上部は下の写真のように取り外しができ、終業時には外されているようだ。

青井陶器店
2008.07

現在は通町商店街に位置する「青井陶器店」だが、通町の拡幅工事前は大町通りに面して、入口は東を向いていた。

青井陶器店
「青井陶器店」旧店舗

大正4(1915)年創業の「青井陶器店」前に信楽焼の「福禄寿」を設置したのが、昭和13(1938)年頃というから、齢80年を重ねた文字通りの御老体。

今は路上に固定された擬岩の上にコンクリートでしっかり止められているが、移転前は石座の上にそのまま置かれ、何度かの大地震のときには、顔の向きを変えることはあっても、倒壊すること無く立ち続けてきた。

青井陶器店

大正5(1916)年 書籍広告

大町商屋館
2016.08

平成10(1998)年4月、通町の拡幅工事が完成。

「青井陶器店」は二階建て住宅兼共同店舗の角地に移転して新装オープン。その後、店内に「炭火焙煎 珈琲工房 南蛮屋 秋田大町店」を併設。

「大町商屋館」と名付けられた町家風の共同店舗には「青井陶器店」と同じく大正年間創業の電気店「トガシ電器」のほか、レストラン、ギャラリーなどが入居している。

一帯の地主が「旧金子家住宅」で知られる金子家で、新装なった通町商店街のなかで、ここだけが共同店舗になったらしい。

旧金子家住宅
2016.08

手前に「旧金子家住宅」(旧金子商店)と、「秋田市民俗芸能伝承館」をはさんで「大町商屋館」。

「旧金子家住宅」の屋根に見えるのは、防火用の雨水を貯めた「天水甕」(てんすいがめ)。それを象徴するかのように、「大町商屋館」の壁面には、備前焼らしき甕が埋め込まれている。

秋田市通町
2016.08

 

| 秋田市今昔 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

旧秋田貯蓄銀行本店解体・昭和レトロ建築

秋田銀行秋田支店
「秋田銀行秋田支店」秋田市大町五丁目(旧・本町五丁目) 2005.11

昨年(2015)末から始まった「秋田銀行秋田支店」の解体が大詰めを迎えている。

築80年、昭和初期に建てられた、近世復興式(ルネサンス様式)の銀行は、旧本町通りを象徴する近代建築であった。

秋田銀行秋田支店
2007.03

秋田市本町五丁目に、大正10(1921)年11月開業した「秋田貯蓄銀行」が、耐震耐火構造の新本店を建てたのは、昭和9(1934)年12月。

昭和18(1943)年「秋田貯蓄銀行」解散。その後、建物は「秋田銀行本町支店」となるが、終戦後わけあって「秋田銀行秋田支店」と名を変える。そのいきさつは以下関連記事に。

秋田銀行秋田支店
2007.03

秋田銀行秋田支店
小庭園 2007.03

秋田銀行秋田支店
2015.03

秋田銀行秋田支店
2015.03

秋田銀行秋田支店
2012.09

秋田銀行秋田支店
2015.01

建物の老朽化を理由に、平成26(2014)年7月18日をもって「秋田銀行秋田支店」は営業を終了、「秋田銀行大町支店」に統合された。

秋田銀行秋田支店
花崗石を貼付加工した腰廻の残骸 2016.01

羽州街道に沿う、大町通り・本町通りは藩政時代から商業の中心地だったが、明治末以降、銀行・証券会社・保険会社が集中する金融街の様相が強くなる。

1980年代初頭の住宅地図から、大町通り・旧本町通りで営業する関連会社をあげると

▼大町二丁目
「日本銀行秋田支店」「千代田生命」

▼大町三丁目
「青森みちのく銀行秋田支店」「秋田信用金庫本店」「野村證券」「安田火災海上」

▼大町四丁目(旧・本町四丁目)
「秋田郵便局」「山形相互銀行秋田支店」「荘内銀行秋田支店」「大和証券」「日興証券」「大和生命」

▼大町五丁目 (旧・本町五丁目)
「羽後銀行秋田支店」(のちに北都銀行秋田支店)「秋田銀行秋田支店」「朝日生命」「日動火災海上」「日新火災海上」

これ以前、「秋田銀行本店(現・赤れんが館)」「三和銀行秋田支店」(大町三丁目)「日本勧業銀行秋田支店」(大町二丁目)などもあった。

昨年(2015)には「秋田銀行秋田支店」のほかに、協働ビル一階「みちのく銀行秋田支店」が1月に廃止。

平成28(2016)年1月現在、同地に残ったのは「日本銀行秋田支店」「秋田信用金庫本店」「荘内銀行秋田支店」の三行のみ。 


秋田銀行秋田支店跡

 

| 秋田市今昔 | 08:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT