二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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まぼろしの金照寺山公園化計画

金照寺山

秋田市楢山から牛島にかけて広がる丘陵地・金照寺山は、旧藩時代から城下の人々に郊外の景勝地として親しまれていたが、明治の末、この山を公園化する計画があった。

※金照寺山の詳細については巻末の過去記事リンクを参照のこと。

まず初めは、私立「秋田病院」院長・穂積孝春が金照寺山を買い取り、桜を植樹した上、秋田市に寄贈する計画を立てるが、地権者である秋田市大町の商家・那波家は「同地は先祖の縁故もあり手放すことはできない。しかし、いずれ自分が桜を植えて市民の用にも供するつもり」と断られて断念。

次ぎに立ちあがったのは秋田県知事・森正隆。茨城県知事を経て、明治41(1908)年に秋田県知事に就任した森知事は「楢山は全国無比の勝概」(「楢山」は金照寺山の古名、「勝概(しょうがい)」 は「すぐれた景色」) と惚れ込み、当時は県営の公園であった千秋公園に次ぐ、県の第二公園とすべく、県会で予算を決定して公園化を推進するも、志なかばの明治45(1912)年、森知事の転出にともない計画は立ち消えとなる。

今回取りあげるネタは、造園家で日本人初の公園デザイナー、秋田では千秋公園を初めとして、横手公園、真人公園、池田氏庭園などの設計者として知られる長岡安平が、森知事在任中に県の依頼を受けて作成、明治44(1911)年に提出した「金照寺公園設計図」(秋田県公文書館所蔵・秋田県庁旧蔵古文書) 。

金照寺山公園
↑ 金照寺公園設計図に加筆

西側に配置された運動場(陸上競技場)と、その東側の人工湖が、ひときわ眼をひく。

古代ギリシアのスタジアムのように、直線が長いトラックの中央に芝生のインフィールドが広がる。

トラックの幅員は八間(14.55 m)延長三百八十間(690.9 m)。ちなみに、秋田市八橋運動公園にある陸上競技場のトラックの延長は400m

長岡安平による初期「千秋公園設計図」にも、規模は小さいものの、同様な運動場が描かれている。

金照寺山公園

かつては水田と、その奥に沼が存在し、熊沢と呼ばれた谷間に計画された人工湖。

1962金照寺山
↑ 熊沢周辺 昭和37(1962)年撮影

金照寺山
↑ 金照寺山より熊沢の沼跡を見下ろす 2007.07

水田と沼があった熊沢も1970年代中頃から次第に宅地化が始まり、今では谷間の新興住宅街。広い庭にオブジェが置かれた、某工芸家のアトリエもある。

農業資材・種苗販売の高井南茄園(たかいなんかえん)が、昭和の初め、熊沢の斜面を中心に農園を開く。その段々畑では、春にはいちご狩り、夏は西瓜狩りも楽しめたが、その話はまたの機会に。

迷路

金照寺山の山頂・七つ森の下に見える迷園とは、背の高い生垣で造る迷路園のこと。その中央に描かれた東屋のようなものは、迷路を見下ろすことができる展望台だろう。

Longleat Hedge Maze
↑ イングランド「ロングリート」生垣の迷路・画像はWikipediaより引用

ヨーロッパでは古くから修道院の庭園などに造られた迷路園は、明治の初めに日本に導入されて、ちょとしたブームとなり、大正の初め、秋田市八橋公園内にもオープンする。

金照寺山公園

迷園の西側、今は民家が建ちならぶあたりの中央に音楽堂がある。

ちなみに当時の野外音楽堂はこんな感じ。

日比谷音楽堂
↑ 東京日比谷公園・音楽堂 明治38(1905)年竣工、日本初の野外音楽堂

周囲に観客を配置する、多角形の野外音楽堂のルーツをたどると、1861(万延2)年に英国は南ケンジントン王立園芸協会庭園に建設された Bandstand(バンドスタンド)まで溯るという。産業革命により環境が悪化した都市の、市民がリラックスするために造成された緑化公園内に建設され、公園に不可欠のものとして急速に普及した。

金照寺山公園

七つ森の北側に平田神社。

幕末の国学者・平田篤胤(あつたね)を祀る平田神社は、明治14(1881)年、八橋日吉(ひえ)八幡神社境内に創建されたものを、明治42(1909)年、広小路に面した東根小屋町にあった八幡神社の旧社殿に遷し、経済学者で農学者の佐藤信淵(のぶひろ)を合祀して弥高神社を創設。

同地に県立図書館を建設するため、大正5(1916)年、弥高神社を千秋公園二の丸の現在地に再び遷して今に至るが、このとき、金照寺山も移設候補地に挙げられていた。

金照寺山公園

一本松のある通称・一つ森に「ホテル建設場」と記されている。

往年は太平川を眼下に市街地を一望することができたこの地はホテル用地にふさわしい。

以前に書いたように、昭和50(1975)年、国鉄の通信部門(現・ソフトバンクテレコム)が一帯を買収し、マイクロ回線用電波塔と無線中継所を建設、出入口はフェンスで封鎖され、進入禁止地帯になってしまった。

一つ森といえば、奥羽本線で分断された金照寺山の裏山・一つ森を造成し、昭和61(1986)年に開園した一つ森公園を先ず思い浮かべるだろうが、こちらの一つ森は、古墳を思わせる“一つの盛り土”があったことからきた俗称。山伏の墳墓と伝えられる“七つの盛り土”がある山頂・七つ森は、古くは山伏塚とも呼ばれていた。

金照寺山と太平川
↑ 太平川から金照寺無線中継所・電波塔を望む 2009.04

1962金照寺山
↑ 昭和37(1962)年撮影

Google Earth 金照寺山
Google Earth より

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通町名物「青井陶器店」福禄寿

青井陶器店・ポケモンGO
2016.08.12 「青井陶器店」前

秋田市通町商店街の草市にて、ポケモンGOのルアーモジュールで客寄せする「青井陶器店」の名物「福禄寿」。

青井陶器店
2003.11

福耳の部分がセメントで補修され、屋根の塗り替えのとき付けられたのか、コールタールと思われる塗料が付着。左手に持つ杖の上部は下の写真のように取り外しができ、終業時には外されているようだ。

青井陶器店
2008.07

現在は通町商店街に位置する「青井陶器店」だが、通町の拡幅工事前は大町通りに面して、入口は東を向いていた。

青井陶器店
「青井陶器店」旧店舗

大正4(1915)年創業の「青井陶器店」前に信楽焼の「福禄寿」を設置したのが、昭和13(1938)年頃というから、齢80年を重ねた文字通りの御老体。

今は路上に固定された擬岩の上にコンクリートでしっかり止められているが、移転前は石座の上にそのまま置かれ、何度かの大地震のときには、顔の向きを変えることはあっても、倒壊すること無く立ち続けてきた。

青井陶器店

大正5(1916)年 書籍広告

大町商屋館
2016.08

平成10(1998)年4月、通町の拡幅工事が完成。

「青井陶器店」は二階建て住宅兼共同店舗の角地に移転して新装オープン。その後、店内に「炭火焙煎 珈琲工房 南蛮屋 秋田大町店」を併設。

「大町商屋館」と名付けられた町家風の共同店舗には「青井陶器店」と同じく大正年間創業の電気店「トガシ電器」のほか、レストラン、ギャラリーなどが入居している。

一帯の地主が「旧金子家住宅」で知られる金子家で、新装なった通町商店街のなかで、ここだけが共同店舗になったらしい。

旧金子家住宅
2016.08

手前に「旧金子家住宅」(旧金子商店)と、「秋田市民俗芸能伝承館」をはさんで「大町商屋館」。

「旧金子家住宅」の屋根に見えるのは、防火用の雨水を貯めた「天水甕」(てんすいがめ)。それを象徴するかのように、「大町商屋館」の壁面には、備前焼らしき甕が埋め込まれている。

秋田市通町
2016.08

 

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旧秋田貯蓄銀行本店解体・昭和レトロ建築

秋田銀行秋田支店
「秋田銀行秋田支店」秋田市大町五丁目(旧・本町五丁目) 2005.11

昨年(2015)末から始まった「秋田銀行秋田支店」の解体が大詰めを迎えている。

築80年、昭和初期に建てられた、近世復興式(ルネサンス様式)の銀行は、旧本町通りを象徴する近代建築であった。

秋田銀行秋田支店
2007.03

秋田市本町五丁目に、大正10(1921)年11月開業した「秋田貯蓄銀行」が、耐震耐火構造の新本店を建てたのは、昭和9(1934)年12月。

昭和18(1943)年「秋田貯蓄銀行」解散。その後、建物は「秋田銀行本町支店」となるが、終戦後わけあって「秋田銀行秋田支店」と名を変える。そのいきさつは以下関連記事に。

秋田銀行秋田支店
2007.03

秋田銀行秋田支店
小庭園 2007.03

秋田銀行秋田支店
2015.03

秋田銀行秋田支店
2015.03

秋田銀行秋田支店
2012.09

秋田銀行秋田支店
2015.01

建物の老朽化を理由に、平成26(2014)年7月18日をもって「秋田銀行秋田支店」は営業を終了、「秋田銀行大町支店」に統合された。

秋田銀行秋田支店
花崗石を貼付加工した腰廻の残骸 2016.01

羽州街道に沿う、大町通り・本町通りは藩政時代から商業の中心地だったが、明治末以降、銀行・証券会社・保険会社が集中する金融街の様相が強くなる。

1980年代初頭の住宅地図から、大町通り・旧本町通りで営業する関連会社をあげると

▼大町二丁目
「日本銀行秋田支店」「千代田生命」

▼大町三丁目
「青森みちのく銀行秋田支店」「秋田信用金庫本店」「野村證券」「安田火災海上」

▼大町四丁目(旧・本町四丁目)
「秋田郵便局」「山形相互銀行秋田支店」「荘内銀行秋田支店」「大和証券」「日興証券」「大和生命」

▼大町五丁目 (旧・本町五丁目)
「羽後銀行秋田支店」(のちに北都銀行秋田支店)「秋田銀行秋田支店」「朝日生命」「日動火災海上」「日新火災海上」

これ以前、「秋田銀行本店(現・赤れんが館)」「三和銀行秋田支店」(大町三丁目)「日本勧業銀行秋田支店」(大町二丁目)などもあった。

昨年(2015)には「秋田銀行秋田支店」のほかに、協働ビル一階「みちのく銀行秋田支店」が1月に廃止。

平成28(2016)年1月現在、同地に残ったのは「日本銀行秋田支店」「秋田信用金庫本店」「荘内銀行秋田支店」の三行のみ。 


秋田銀行秋田支店跡

 

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秋田航空事始め・大正三年の飛行機大会

▼秋田の空を始めて飛行機が飛んだ日
 

奈良原式鳳号
▲『秋田魁新報』広告

今から約100年前の大正3(1914)年6月、秋田市の空に初めてのエンジン飛行機が飛んだ。

飛行機大会の会場は秋田市亀ノ丁新町(現・南通みその町・南通築地)に広がる「楢山中学校運動場」通称「楢山グラウンド」。明治30年代に県立秋田中学校(現・秋田高校)運動場として整地されたこの地は、野球大会を初めとした各種スポーツのメッカであった。詳しくは次回に。

「秋田県震災救助慈善 飛行機大会」とある震災は、同年3月、秋田県仙北郡大沢郷村を震源として、死者94名、建物全壊285戸を記録したM7.1 規模の 「秋田仙北地震」(通称・強首大地震)のこと。

秋田魁新報・秋田時事・秋田毎日の地元三紙に加え、国民新聞支局が大会を賛助した。

大島商会
▲「大島商会」新聞広告

飛行機大会に御来秋の方は
必ず弊店に御枉駕(おうが)ありたし 進歩せる珍しき新しき品を店内一面に陳列してあります
大嶋商会

 秋田市下肴町のハイカラ商店「大島商会」の、ハイセンスなデザインが眼を惹く新聞広告。同商店の広告図案を数多く手がけた石嶋古城の作と思われる。

※枉駕(おうが)・来訪をいう尊敬語
 

明治の煉瓦商店・旧大島商会

大島商会開業・明治三十五年

自転車遠乗会・大島商会主催

自転車百哩大競走・大島商会主催

消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退
大島商会の広告あり

▼飛ぶように売れた記念絵葉書
 

奈良原式鳳号

大会当日、会場の露店で三枚一組七銭で発売された絵葉書の一枚(発行・旭秋絵葉書倶楽部)。キャプションに「秋田市楢山中学校運動場に於ける奈良原三次氏と航空大飛行の実況」とあるが、飛行機部分は合成。

記念絵葉書がいちばん売れるのはイベント当日。そこで発行元はあらかじめ撮影した現地の写真と飛行機を合成したものを用意して販売した。

ビデオもテレビも無く、カメラは高級品、新聞の写真も鮮明では無かった時代、写真絵葉書は“今”を記録する数少ない情報メディアであった。

記念に絵葉書を購入した人たちは、家に帰ってそれを見せながら、土産話に花を咲かせたことだろう。

 

▼民間飛行のパイオニア・奈良原三次
 

奈良原式鳳号

明治44(1911)年5月、埼玉県の所沢飛行場にて、海軍の技士から民間飛行家に転身した奈良原三次が製作・搭乗した「奈良原式二号機」が、高度約4m、距離約60mの飛行を記録、これが国産機(エンジンは外国製)による初の飛行とされている。

明治45(1912)年3月末、秋田に来た「奈良原式四号機・鳳号」完成。以降、奈良原飛行団を結成、有料飛行機大会を開き、各地を巡業し興業飛行を行う。「鳳・おおとり」の名は出資者が贔屓にしていた関取の“しこ名”とのこと。

 

▼飛行機大会実況一日目(土曜日)
 

奈良原式鳳号

 

●プロペラの音
▼満城士女の夢を驚かす
▼昨曉予備飛行せる鳳号

鳥のほかに空を飛翔するものを見たことがない村落から來た人々は、本当に飛行機と云うものは飛び上がるものだろうか?と半信半疑の眼を見張つて曇れる天空を仰いで居た

 我が鳳号! は果たして翼動かず杞憂の中(うち)に葬られ、衆人環視のうちに空中のシローレースに終わるや否や?我が鳳号は昨曉(さくぎょう)天いまだ全く明け渡らざるに堵(と)を出で、操縱者白戸栄之助氏によりて楢山運動場に於てそのモーターの試運転と予備飛行を行はれたり

 飛べり飛べり 露湿めれる運動場の眞中に憩いたる鳳号の側に来た白戸氏は飛行服と眼鏡に身を堅め遙かに東方の空を睨んでゐたが、時来るや白戸氏のその右手がプロペラにかかるよと見る間に、獅子吼の音を立てて廻転しはじめ偉大な両翼を緊張して、最初は低空滑走より次第次第に高く飛んで

 空に昇る こと六十餘尺に逹し更に鉄道線を境に郊外を圓圍(えんい)百五十メートルに至つて、先に記者等に約束した地点を違はず着陸した時は、おもわず萬歳を三呼したものである、そして鳳々、彼は荒鷲のそれにも似たるけたたましき羽ばたきの音に満都の士女の眠りを覚まして当市に於ける處女航空を首尾よく飛翔し了した

 晴れよ晴れよ 願わくは天空の本日の日曜をして晴らさしめよ、而(しか)して秋田の天地に於ける航空嚆矢の壮快なるレコオドを作らしめよ

 楢山原頭の賑ひ 予備飛行は別項の如くなるが午前八時に至るや花火数発を揚げ九時より入場を許せるに、縣内の各小学校は云ふに及ばず縣立中学校・農業学校・市立技藝学校等多數の団体あり、ために定席は空地なき程充満し、今や今やと待ち居る中十二時過ぎに至るや一層の人出にて、場外には數十の露店ありキップを贖(あがな)はずして見んとする者群をなし、その賑やかさは一通りに非ず、午前零時に至るや操縱者白戸栄之助氏は鳳号を引き出し学生連に対し一つ一つ説明する所あり、それより第一回飛行に着手せり

 飛行の光景 第一回飛行は十二時三十五分より始めたるが、今か今かと待ち居る事とて満場総立ちとなりて押し合い觀覽し居るうち、助手伊藤乙治郎氏(※)約五十分にわたる説明あり、それより約十五秒間の飛行あり高さは三メートルにて、第二回飛行は同じく白戸氏操縱し十二時四十分に始め約十二秒高さ四メートルを保ち西端より東端に飛行せるが、入場者は約五千余ありて盛況を極めたり、なお高く飛行せざるは場内の狹きため負傷者等出すやうな事あるより中止せるなりと

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

※伊藤乙治郎は伊藤音次郎の間違い

奈良原式鳳号
奈良原式鳳号操縦者・白戸栄之助

 

◎川端新聞
‥‥前略‥‥
▲新しい小時と古い牡丹の二人は飛行機の搭乗を互いに、その先を争うて女宇治川をやってるそうだが落ちて大事大事の腰など痛めねばよいが

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

川反芸者
 左・牡丹  右・小時

秋田市川端(現・川反)花柳界の消息を伝えるコラム「川端新聞」から、亀喜(かめよし)の小時(おとき)と末廣家の牡丹という、当時の人気芸者二人が、どちらが早く飛行機に同乗するかを競っているというお話し。当時の飛行家は芸者に良くモテた。

「新しい小時と古い牡丹」とあるが、末廣家の牡丹のほうがデビューが早かっただけで、二人の誕生日は数ヶ月しか違わない。

 

▼飛行機大会実況二日目(日曜日)
 

◎満足を与えた
▲昨日の大飛行

▲予備飛行 昨朝は別項の如く午前五時十分楢山グランドを発し、高所約四百五十メートルを保ち手形練兵場を訪(おとな)いたるが、その距離は六千五百メートルにて、その時間は四分五秒にて、最初東方に向かい発し次第に東北に湾曲し練兵場に着陸せるが
▲二日目の盛況 は大したものにて、午前中に入場者約一万五千と註され。場内を角に囲みたる定席は人を以って埋められたり、停車場は一列車毎に数百名づつ吐き出され、午前中にて降車人員は約五千名にて、ために一時飛行場に通ずる各道路は通行杜絶する程の有様にて、今かと飛行の遅きを待ち居たる内、各助手等は飛行機を格納庫より引出し学生団に説明する所あり、それより北端の隅の所に運び点火せるや
▲プロペラの音 バッバッと立て、頃は良しと滑走を始めグランドの中央まで進みたると思うや、徐々と東南の空に飛行し、鉄道線路を越えてより湾曲になり停車場の上を通り飛行場の中央に着陸せるが
▲観客は大満足 にて満場総立ちとなり拍手喝采し、かくて午前の第一回飛行は終わりたるが、細身の白戸氏はニコニコとして「場所が狭い為に・・・」と自ら満足の色顔に現れ居たりき
▲飛行時間 は午前十時十分頃より約一分間にて最高百五十メートルにて、その距離約千メートルなりしと、なお午前の飛行は風の具合を見て二時頃飛行の筈にて、観客は引き続き潮の如く寄せ来たり正午頃には既に入場拒絶の有様なりき

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

◎飛行機来る
楢山体操場より
手形練兵場まで

昨日午前五時七分の下り急行が秋田駅を出発して間もなく、何かブルブルと云う音が聞こえた、段々音響は激しくなるのでさては昨日見た飛行機か知らんと外に出て瞬きもせず遙かの空を眺めたら、幅三尺位のカーキー色したものは空中に翔(かけ)り段々と手形を指して飛んで来た、その早さは飛ぶ鳥も追いつくこと出来ない程で、間もなく練兵場の北方にピタリと下りたら、果然鳳号はその勇姿を現し飛行家の白戸氏は静かに機より下りた、草刈りの男女は吃驚して右往左往に逃げる、師範と鉱山の寄宿生は拍手して駆け付くる、奥さん嬢さん達は裳裾をからげて燃ゆるような蹴出しをちらつかせ、爺さん婆さんは杖にすがって駆け集まる、児童は飛行機だ飛行機だと万歳を絶叫する、たちまち人の黒山を築いた、白戸氏は飛行機に対して詳細なる説明を与え学生はしきりに傾聴する、かくて約一時間居りし内二千人ばかり集まったが、その内助手が来たり、機を分解して楢山の体操場に運んで行ったが、これを見て飛行機が破損したと誤解した馬鹿もあったらしい、何しろ興行場での飛行機はピーと飛んで直ぐ下りるのだから甚だ興味の薄き感じを起こすも、今この飛行を目前に見て実に愉快に堪えなかった

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

大会二日目の21日は日曜日とあって更なる大盛況。なかでも、早朝の予備飛行で楢山グランドを離陸して手形練兵場に着陸した鳳号の姿に、驚きながらも熱狂する観衆の反応が実に面白い。

手形練兵場とは現「秋田大学」の西側一帯に広がっていた十七連隊の演習地。当時は今の秋田大学の地に「鉱山専門学校」、その南側に「秋田師範学校」があった。

千秋公園より手形方面を望む
大正期の手形練兵場周辺

奈良原式鳳号

 

▼借金まみれの興行師・奈良原三次
 

●飛行会の盛況
三新聞及び国民支局の賛助の許に、来る二十日二十一日の両日楢山運動公園にて開催の飛行大会は、市内各学校は勿論、郡部も併せて数百校の学生団の申し込みあり、其他各種実業団・青年団等、陸続(りくぞく)申し込みあるが、‥‥中略‥‥又今回の飛行大会は我が国 民間の飛行倶楽部にて経営せるものにて、その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず、なお其の後の申込みは小坂鉱山山谷地新聞店主催の五十名、神宮寺清水新聞店主催の二百名、秋中生団六百名、私立技芸学校生徒全部にて、飛行家一行十余名は本日下り直行にて来秋の筈
大正三年六月十八日付『秋田魁新報』より

「その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず」とあるとおり、飛行機の研究・製作には多大な資金を必要とする。しかし、奈良原が各地で興業飛行大会を開催し、金を集めたのには以下の様な実情があったという。

海軍大技師から民間飛行家となった奈良原三次は、明治四十四年五月に「鳳号」で初飛行に成功した。しかし、その後、男爵の嫡子が飛行機に乗り、墜落でもしたら大変と親類一同から飛行機研究を中止させられる。だが、これは表向きの理由で、奈良原が飛行界を離れざるをえなかったのは、東京下谷の芸者に金を注ぎ込んだためだった。

奈良原にはれっきとした妻があったが、下谷の芸者さんだった福島よね子母子のために多大な借財をし、飛行機研究のスポンサーから財産差し押さえを受け、飛行機に乗ることができなくなってしまったのが真相だ。しかたなく興行師となって弟子ともいえる白戸栄之助の操縦で巡回飛行などをして回り、金集めをしていたものの、ついに借金地獄で身を隠さねばならなくなってしまった。
横田順彌『雲の上から見た明治−ニッポン飛行機秘録』学陽書房 より

 

▼平野政吉の飛行機道楽
 

「楢山中学校運動場」で開催された飛行機大会の人混みのなかに、秋田市大町一丁目の大地主の息子・平野精一(のちの三代目・平野政吉)が居た。

彼はこのとき、始めて本物の飛行機を見て魅了され、空への憧れを募らせた末、東京に出奔する。

 大正三年(一九一四)六月、秋田に初めて飛行機が舞い降りた。日本で最初に飛行機の操縦に成功してから四年後のことである。民間飛行大会と称した一種の興行で、奈良原三次男爵飛行部の白戸栄之助が操縦する複葉機「鳳号」が秋田市楢山のグラウンドに着陸した。会場には中学生の団体など五千人以上が詰めかけ、グラウンドには露店も出た。その騒ぎの中、鳳号は高度三メートルから四メートル、僅か三十秒足らずの飛行であったが、観客を大いに驚かした。これで精一はすっかり飛行機の虜になった。
 「魔物のような、大きな飛行機を仰ぎ、胸を躍らせた。人間の壮大な夢が、巨大な飛翔感となって、天空に実現していた」その日、精一は会場の楢山グラウンドを去り難く、観衆がまばらになった後も、蓆で囲ってある仮の格納庫のまわりをうろついたが、中に入って飛行機に触って見ることは叶わなかった。そこで思案して、精一はまた一計を案じた。「飛行研究会」なるものを俄に作ったのである。
 家に戻って、精一は中学時代の友達や近所の知り合いを集めて打合せ、翌朝、みんなと一緒に会場に出掛け、精一が先頭に立って、白戸栄之助に面会を求めた。
「われわれは、飛行機を研究する者である。白戸先生の飛行機の知識をわれらにお教え願いたい……」
 これが図星であった。一同手伝い人として、一人二十銭の木戸銭を払わずに会場の出入り自由の特権を与えられ、存分に飛行機の感触を堪能することが出来た。しかし、興行は僅か二日間で、この制約が精一の飛行熱をますます募らせた。
 完全に飛行機に魂を奪われた精一は、夢見心地で世界地図を開き、その上空を飛ぶ自分を想像してあかず世界地図を眺めていた。
‥‥中略‥‥
 精一は正式に日本帝国飛行協会に入り、普通五ヵ月で卒業するところを、五年近く在籍して小栗常太郎に学んだ。この間、精一は飛行機に乗って得意満面だった。「一直線に天界に翔び立ち、二枚の翼にり燦欄とした光を跳ね返し、大都会を一望におさめ、富士山と比肩しうる高度を翔けるときもあった」

渡部琴子『平野政吉−世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』新潮社 より

平野政吉
▲所沢飛行場に於ける平野氏

大正13(1924)年、平野精一(平野政吉)自ら操縦する複葉機が東京湾に墜落、九死に一生を得て帰省、それから三年間の療養生活を送ることになる。 
 

昭和30年の秋田市と平野政吉のこと
平野政吉スピード狂時代

 

 


 

「奈良原式鳳号 製作記」
復元機製作の記録

 





▲奈良原式四号飛行機復元機・稲毛民間航空記念館

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