二〇世紀ひみつ基地

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スクリーンによみがえる昭和39年の秋田市

11月9日(水曜日)秋田市文化会館大ホールにて、高度経済成長期の活気あふれる秋田市を舞台とした青春映画『十七才は一度だけ』(昭和39年・大映)が無料上映される。

秋田工業高校OBの秋田市職員で結成された「市役所金砂会」50周年記念事業の一環として開催するもので、すでに往復葉書による申し込みは終了しているが、余裕ある会場なので当日でも入場可能かもしれない。開場は午後6時、上映は6時半から。

十七才は一度だけ

解説
石坂洋次郎原作“青い芽”より「続・高校三年生」の池田一朗が脚色「青い性(1964)」の井上芳夫が監督した青春もの。撮影はコンビの中川芳久。

ストーリー
秋田芙蓉高校では、近づいた修学旅行の話題でもちきりだった。田中加奈子も修学旅行を楽しみにしている一人だった。高校二年生の十七歳。街でも老舗の醤油醸造元田中屋の娘として、何の不自由もなく、いきいきとした青春時代だ。やがて修学旅行出発の日、加奈子は親友の路子が、父の失業がもとで、旅行を最後に東京で働こうと思っていること、そして、出来れば旅行先で就職口を見つけたいと相談され、加奈子は路子に協力を約束した。旅行も終りに近づき東京での自由行動の日、加奈子は路子との約束の場所、オリンピック公園に向ったが、途中電車をまちがえた加奈子は、赤い鳥かごを持った青年に親切に案内された。中井照吉と名乗るその青年の都会的センスのあふれる話しぶりに、加奈子の心は高鳴った。就職口決定の朗報を持ってやって来た路子と交代に、青年は電話をかけ終ると蒼白な顔でタクシーに乗って、二人から離れた。呆気にとられる加奈子の手にカナリヤの入った鳥かごを預けたまま。困惑した加奈子は、青年が近く秋田市役所完成記念に秋田を訪れると聞き、鳥かごを持ち帰った。‥‥後略‥‥


十七才は一度だけ・高田美和(作詞・川井ちどり、作曲・遠藤実)

主演の高田美和が唄う主題歌にして青春歌謡の名曲。


『十七才は一度だけ』高田美和・青山良彦

高田美和が演じる高校二年生のヒロイン・田中加奈子が通う「秋田芙蓉高校」のロケ地は「秋田工業高校」木造校舎。これを機縁に秋田工高OB会が、懐かしい校舎が映る『十七才は一度だけ』を上映するわけだが、学生服は「秋田経済大学付属高校」(現・明桜高校)の制服が使われた。濃紺の生地、女子はブレザー、男子は海軍服(ボタンの無い詰襟)という、一目で「付高」とわかる、特徴ある制服であった。

東京オリンピックが閉幕して間もない、昭和39年(1964)10月26日、土手長町から山王へ移転した市役所新庁舎の落成式が開催された。その落成記念竿燈を録画するために秋田入りしたロケ隊は前日の25日から撮影開始。

旧家の娘・田中加奈子の家は、大町三丁目に実在した「醤油醸造元・田中屋」。父親・田中修吉を船越英二(船越英一郎の父親)が演じ、クラスメイト・島田春子役で、秋田育ちの渚まゆみ(明徳小学校卒)が共演している。

その他のロケ地は、定番デート・スポットであった千秋公園。土手長町通り、広小路、前年落成の協働社ビル、秋田駅周辺。家族旅行に出かける男鹿温泉郷など。


秋田大映・新聞広告(S39.12)

同時上映は坂本九のヒット曲をテーマにした『幸せなら手をたたこう』。

秋田市の映画館街・有楽町通り「秋田大映」において、東京封切りから数日遅れた昭和39年12月25日に封切り、翌1月8日までの新年映画として上映された後、昭和40年2月に同館でアンコール上映(三本立て)のほか、県内大映系列館をはじめ、格安料金の二番館であった秋田駅前「秋田テアトル」および、十人衆町(現・大町六丁目)「銀映座」でも再上映され市民の話題をあつめた。

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小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物

千秋公園のお花見の露店だったろうか、子どもの頃、小鳥使いのおじさんがあやつる「小鳥のおみくじ芸」を見た。

舞台はミニチュアの神社。硬貨をくちばしで受けとった小鳥が参道を進み、さい銭箱にお金を落とし、お宮の鈴を鳴らして扉を開けて中に入り、おみくじをくわえて出てくる。足でつかんだおみくじをくちばしで開封して一仕事終えた小鳥は、おじさんの手から、ご褒美の餌をもらって鳥カゴにもどる。そのかわいらしい一連の仕草に目が釘付けになった。


『ヤマガラの芸』(小山幸子著 法政大学出版局 1999)より

学習能力が高いヤマガラを飼い慣らし、芸を仕込み見世物とする「ヤマガラの芸」は江戸時代にはじまったという。芸の種類は「鐘つき」「つるべ上げ」「那須の与一」「かるたとり」「つな渡り」などさまざま、最後まで残っていた「おみくじ引き」は、昭和に入ってから流行したものらしい。

 明治10年代に来日、大森貝塚を発掘したことで高名な、アメリカの動物学者エドワード・S・モースは、浅草でヤマガラの見世物を見物、そのスケッチを著書に残している。そのなかから三点を引用。


『日本その日その日 3』 (エドワード・S・モース著 石川欣一訳 平凡社東洋文庫)より(以下同)

鈴を鳴らし、さい銭箱にお金を入れる「お宮参り」。



太鼓や三味線をつつき、鈴を振り廻す「楽器演奏」。



弓を射て扇の的を落とす「那須の与一」。
金沢なる浅野川の磧(かわら)は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯(つら)ねて、猿芝居(さるしばい)、娘軽業(かるわざ)、山雀(やまがら)の芸当、剣の刃渡り、活(い)き人形、名所の覗(のぞ)き機関(からくり)、電気手品、盲人相撲(めくらずもう)、評判の大蛇(だいじゃ)、天狗(てんぐ)の骸骨(がいこつ)、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑(いとま)あらず。
泉鏡花『義血侠血』(明治27初出)より
※「野師」=「香具師(やし)」=「テキ屋」


『浅草公園 花やしき』(大正期)

牡丹と菊細工を主とした花園(植物園)として嘉永6年(1853)に誕生した、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」。明治初年から遊戯施設が置かれ、珍獣・猛獣が飼育された「花やしき」でも「ヤマガラの芸」が評判を呼ぶ。


『浅草公園 花やしき引札』より「山がら奇芸」

「鐘つき」「那須の与市扇の的」「宮参り」「競馬の場」などの演目のなかに、「占考場」と名付けられた、紙のおみくじではなく、筮竹(ぜいちく)を使った「うらない」芸が描かれている。


昭和30年撮影・ヤマガラのおみくじ

二番目の動画でヤマガラは、参道の前で幟旗(のぼりばた)を掲揚してからお宮に向かっている。


ヤマガラの芸ーその4 おみくじ芸

こちらはヤマガラの「おみくじ芸」の再現。

動画主のコメントに
芸を仕込むのに1年かかりました。ヤマガラに芸を教える事は、現在は法律に触れるかも知れません。しかしこの芸を教える過程を通じ、私はヤマガラが持つ特異的な動作や本能を学びました。芸を完成させるのに約一年かかりましたが、その分、愛情も深まりました。そして今頃は、私の田舎で元気に飛び回っていることでしょう。
とあるように、現在は鳥獣保護法により和鳥類の捕獲・飼育が禁止されたこともあって、 日本独自の文化であるヤマガラの芸はすたれ、その姿を記憶する者も少なくなってしまった。

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浅草花やしき




ヤマガラの芸 文化史と行動学の視点からヤマガラの芸 文化史と行動学の視点から
(1999/09)
小山 幸子

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川反に怪しき“人造人間”現る!


昭和六年 新聞広告(部分)

戦前まで川反五丁目にあった映画館「演芸座」の新聞広告。
ロボット来る!
大実演
当年一歳 身長八尺 重量五十二貫
尖端をゆく グロレビュー 人造人間
関東大震災、そして世界恐慌を経た昭和初期、深刻化する社会不安を背景に、退廃的な「エロ・グロ・ナンセンス」の風潮が広がり、カフェーやダンスホールなどが流行する街角にはモガ・モボ(モダーンガール・モダンボーイ)が闊歩し、新聞の見出しにも「エロ・・・」「グロ事件」などという表現がさかんに使われるようになる。

そんな昭和初期、映画館では映画の合間にレビュー(歌・踊り・寸劇など)を上演するのが慣例となっていて、この「人造人間」の実演も、美人ダンサーとセットでパラマウント社により派遣された出し物であった。

一方、銀幕では、米国の冒険家リチャード・バードの南極探検を、パラマウント社のカメラマンが独占撮影したドキュメント「バード少将南極探検」を上映、大町二丁目「本金」のショーウインドウに、バード少将が探検に使用した装備品の実物と記念品を展示して宣伝に力を入れた。


昭和六年 新聞広告(部分)




同時上映は「怪騎手」「里見八犬伝」「トーキー漫画」(アニメ)など、子どもらが喜びそうなプログラムが組まれているが、「演芸座」でそれを実際に見た、楢山生まれの新聞記者・洞城庄太郎氏が、幼い日の記憶をもとに随筆をしたためている。
‥‥前略‥‥
正月特別番組の時は演芸座から横町、五丁目橋まで長い行列になって入場を待つ観客が立ち並び、この中にはきれいに着飾った若い娘さんたちもおり、桃割れを結ったお嬢さんも多く並んでいたものだ。

私が始めて活動写真を見たのは昭和二、三年のころで学校から優待券をもらってバード少佐であったか、アムンゼンかの「南極探検」を入場料三銭で見た。幕間に舞台の上下から二基のロボットが出てきて「だってあわずにゃいられない(中略)オッケー、オッケー、ザッツオッケー」と人造人間特有の声で歌ったので、驚いて帰ったのを覚えている。
‥‥後略‥‥
洞城庄太郎『秋田の昔有情』秋田文化出版・昭和59年刊
「演芸座」と「南極探検」「ロボット」「ザッツ・オーケー」の組み合わせからしてこれは、昭和六年の記憶に間違いないだろう。映画館の闇の中から突如として現れたロボットの姿は当時の子どもの眼に、新聞広告の宣伝文のように、ずいぶんとグロテスクなものに映ったようだ。

ロボット特有の機械的な声で歌ったという曲が、昭和五年発売の流行歌「ザッツ・オーケー」。先端をゆくロボットと芸者歌謡風の曲という、なんともナンセンスかつミスマッチな組み合わせが、いかにも昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」な時代の退廃的なムードを醸し出していて面白い。
だって逢わずにゃ いられない
思いいでくる 二人なら
明日という日も 待ちかねる
そんな心で 別れましょう
いいのね いいのね 誓ってね
オッケー オッケー ザッツ・オーケー


ザッツ・オー・ケー(THAT'S O,K,) 河原喜久恵

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関連リンク

リチャード・バード - Wikipedia

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秋田劇場に「飛び出す活動写真」現る


大正十三年 新聞広告
世界の大驚異
不思議な眼鏡を通して画面実物が客席に飛出す一大大発明!

映画界の大革命

飛び出す活動

御客様方にもれなくこの不思議な眼鏡を差上升
ジェームズ・キャメロン監督の最新作『アバター』で話題になっている3D映画の原点といえるアナグリフ式立体映画が、大正十三年(1924)八月、秋田市柳町の秋田劇場にて公開された。

観客は受付で片目に青セロファン、片目に赤セロファンが貼られた紙製の眼鏡を受け取り、暗闇の客席で楽団の奏でる音楽と、活動弁士の解説とともに初めての立体映画を体験した。

五本立ての同時上映作品は牧野省三監督の明治維新劇『燃ゆる渦巻』(マキノ映画製作所)、細山喜代松監督の『浜田刑事』(日活京都撮影所)、米国映画『男装令嬢』、SF チックなタイトルの『第三恐怖の未来』も洋画だろう。

米国におけるアナグリフ式立体映画の商業的初公開は1915年(大正四年)だが、大正十二年(1922)、本格的な立体劇映画作品『The Power of Love』が、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルの劇場で初公開された。秋田劇場で上映された『飛び出す活動』はこの作品だったのかもしれない。いずれにしろ日本で始めて公開された立体映画だった可能性が高い。


秋田市柳町「秋田劇場」

アナグリフ式立体映画の詳細と、昭和十一年に秋田市十人衆町の映画館「旭館」で上映された立体映画については下記関連記事に。

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