二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

≫ EDIT

理髪館の消えたY字路・楢山桝取町

楢山桝取町床屋跡
2014.11

楢山のレトロ建築(旧・理髪館)が取り壊し中とのコメントがあり現場へ向かう。

大正から昭和初期にかけての建築と思われる、理髪館の特徴的なファサードはすでになく、解体は後方に連結する日本家屋部分におよんでいた。

もうひとつの変化は、ビニールシート方式のゴミ置き場が、画像のようにゴミ箱に変わったこと。そのため、以前は板と網ナイロンフェンスで隠れていた魔除けの石敢當(いしがんとう)が良く見えるようになった。

石敢當
石敢當 2014.11

楢山桝取町床屋
2004.05

廃業後、正面入口が閉鎖された理髪館。Y字路の分岐点から左手に進む道の、建物に沿って、側溝に縁取られて描かれた曲線が味わい深い。

子どもの頃から見慣れた、なつかしい景観がまたひとつ消えた。

理髪館のあるY字路

 

 

 


Y字路に謎の石柱・石敢當

 

 

 

NHK BSプレミアム「金照寺山からの風景」再放送

| 散歩写真・路上観察 | 08:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

Y字路に謎の石柱・石敢當

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その一

●ゴミ置き場の陰で・・・・・・


理髪館のあるY字路 2004.05

以前記事にした、旧楢山桝取町の「理髪館のあるY字路」の、三叉路が分岐する地点に設けられたゴミ置き場を裏から覗くと、廃材や石にまぎれて、高さ40cmほどの石柱が鎮座している。


2007.12

それは自動車の衝突を防ぐため、Y字路や小路の角などに置かれた「車除け石」にも似ている。しかし、これが建てられた幕末から明治期にかけて、自動車などあるわけもなく、それならば何を目的としたものかというと、「車除けの石」ならぬ「魔除け」のために建立された「石敢當」(いしがんとう・せきがんとう)と呼ばれる石柱なのだ。


所在地・南通宮田(旧楢山桝取町)
表記・敢當石  高さ・約44cm
撮影・2003.11

正面から見ると「敢當石」の文字を確認できるのだが、現在は上の画像のように金網とネットでさえぎられてしまい、まともに見ることができない。

「石敢當」または「敢當石」などの文字が刻まれた石柱が建立された場所は、丁字路、Y字路、曲がり角などの突き当たり。災厄、病魔などの魔物は道路を人が歩むように進み、突き当たりに出会っても曲がらずに直進をつづけ、人家があれば侵入すると信じられていたらしく、そのような場所に災厄を防ぐことを目的として建立され、秋田では「ウケイシ」(受け石)とも呼ばれていた。

もともとは中国を起源とする道教がもたらした風水の風習で、江戸中期のころ日本に入り、“石に神霊が宿る”とする日本古来の信仰とあいまって定着。

中国、台湾、シンガポール、日本などに分布し、国内では沖縄がもっとも多く、今も増殖しつづけているので把握はできないが、その数一万基以上といわれている。石材店や表札屋が「石敢當」を制作し、新築時に施工業者がサービスとして設置する場合もあり、素材は石に限らず、プラスチック製パネルやシールなども用いられるほど、魔除けの獅子・シーサーとともに、沖縄では「石敢當」の風習がいまだに色濃く息づいているのだ。

沖縄、鹿児島、宮崎が県別現存数のトップ3。それに次ぐ第四位が秋田の約三十基。そのほとんどが秋田市内にあり、なかでも旭川から東側に位置する内町(うちまち)の、中級・下級武士が住んだ楢山、南通築地地区に集中している。同じく武家屋敷の保戸野地区にも多かったが、屋内に保管されているものを除き、今は野外に現存しない。

秋田に限っていえば、建立年代は幕末から明治期までだが、なかには近年沖縄から導入された新しいものも数件ある。

大正期の調査で、市内に四十七基を記録した「石敢當」は、住宅の新築、板塀からブロック塀への転換、道路整備などで一時は二十基ほどに激減。しかしその後、道路工事で地中から発見された物件・屋内に保管されていたものを再建した物件・近年になって新たに建立された物件なども含めて、現在は約三十基が確認され、その他に中通と築地にかつて存在した二基が秋田県立博物館に保管されている。


●なぜ秋田市に多いのか

中国と直接交流があった沖縄や九州地区に「石敢當」が集中しているのは納得できる。しかし、なぜ遠く離れた北国の秋田市にこんなにも多いのか、はたしてどんな想いをこめて「石敢當」を建立したのかと、辻々に建つそれらを観察する者は、さまざまに思いを巡らせてきた。その疑問に対して、元国立公文書館長で石敢當研究者の小玉正任(秋田出身)がひとつの仮説を発表した。
 市内の旧武家屋敷に石敢當が多く造立されていることについて、筆者は次のような仮説をたててみた。
 藩が藩校の教授として招いた儒学者の中に、石敢當についてとくに造詣の深い学者がいて、折にふれ石敢當の話をしたので、受講した藩内の若い武士の頭にそのことがうえつけられ、これらの人々、あるいはその話を伝え聞いた子弟・邸に出入りしたものが後年、多発した洪水や伝染病に困って石敢當を立てたのではないかと考えたのである。そしてこの秋田藩に出仕した学者は大窪詩仏ではなかろうか、と。‥‥中略‥‥ではどうして秋田の武家屋敷にかくも多くの石敢當が立てられたのか、それは、先述の詩仏による教授の結果、藩士の頭の中に石敢當というものが知識とてうえつけられた。だが、これだけでは大量に立てることには結びつかない。そのための別の要因が発生したと考えられる。それは天保四年に大飢饉があり、明治には大洪水(十一年、二十五年)、俵屋火事(十九年)、コレラ・チフス・天然痘(十八、十九、二十、二十一年)と災害、疫病が多発し甚大な被害をうけた。このことがきっかけとなり、強力な災厄防護・厄除けを求めて、知識として眠っていた石敢當造立を武家屋敷の当主たちが思いつき、造立ブームがおきたのではなかろうか。‥‥後略‥‥
小玉正任『民俗信仰 日本の石敢當』慶友社 2004年 より
秋田市に於ける「石敢當」の謎を解く説得力のある仮説である。謎解きのキーマンとなった人物は、江戸時代後期の儒学者で漢詩人・大窪詩仏(1767~1837)。久保田藩校・明徳館で教授を務めたこともある詩仏は「石敢當」についての造詣が深かったらしく、長野県南佐久郡佐久穂町に詩仏の書を刻んだ、高さ150cmの「石敢當」が残っている。(下記関連リンクに写真あり)

秋田市内に残る「石敢當」は丁字路に多く、三叉路に現存するのはこの物件のみ。近年沖縄からもたらされたものを除く「石敢當」は、後世まで保存されるべき文化財的価値の高いものだが、このようにないがしろにされている物件も少なくはない。

しかしこれも考えようで、人目に付く場所で邪魔者扱いを受け、他物件のように撤去の憂き目をみるよりも、物陰で人知れず存在できるこの場所は、保存を考慮すればさして悪い環境ではなく、少なくともこの場所がゴミ捨て場の役割を終えるまで、Y字路に建つ「石敢當」は安泰なわけである。

理髪館の消えたY字路・楢山桝取町
2014.12 理髪館解体と石敢當の露出



大きな地図で見る

_________

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 理髪館のあるY字路

二〇世紀ひみつ基地 人徳の商家・那波家
俵屋火事について

二〇世紀ひみつ基地 那波祐生と感恩講
天保の大飢饉について

関連リンク

石敢當 - Wikipedia

NPO信州ふるさとづくり応援団 東信支部 | 信州の石敢當
大家詩仏の書を刻んだ石敢當

大窪詩仏 - Wikipedia

大森林造 大窪詩仏の詩と書をあじわう - hc_storia

相和石材・沖縄二大魔除け、シーサーと石敢當を製作、販売。通販。

渡名喜島の石敢當

沖縄の石敢當

中国の石敢當

_________


日本の石敢當―民俗信仰日本の石敢當―民俗信仰
(2005/03)
小玉 正任

商品詳細を見る


| 散歩写真・路上観察 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

三角屋のあるY字路・新屋


2006.06

秋田市新屋の日吉神社前から北へ向かい、汗かき地蔵で有名な愛宕町地蔵堂の前を過ぎてほどなく、目の前におもむきのある Y字路が現れる。

分岐点から右手に伸びる街道、左手にゆるやかに蛇行する裏道。これらの古道を北上すると雄物川放水路にぶつかる。

街道に面した Y字路の分岐点に建つのが、地元で「三角屋」と呼ばれている、木造二階建てレトロ建築。


2006.06

裏道の曲線に沿ってゆるやかにカーブを描く壁面と、そこにパッチワークのように貼られた、新旧の波トタンの表情が面白い。

明治の初めまで空き地であった三角地帯に下駄屋が開業、その後、下駄のほかに文具・小間物・荒物をあつかう「三浦雑貨店」を経て、近年はクリーニング店、運動具店などが入居する貸店舗となっていた。


大正期の地図より


戦前の三角屋前

しばらくのあいだ空き家になっていた三角屋が、新屋地区活性化の拠点として改装され、展示ギャラリー・カフェ・アトリエ兼フリースペースを備えた「新屋参画屋」として、10月30日にオーブンした。

二階の窓を覆っていた大きな看板は取り外され、錆びた波トタンも張り替えられて、ずいぶん小綺麗になったが、建物が放つ寂れた存在感が以前と比べると薄れてしまったように感じる。

歴史的街並が続く、いにしえの道にはさまれた分岐点に、この町のひとつのシンボルである三角屋が存在するY字路は、秋田市内では、同様にレトロ建築が建つ、楢山の「理髪館のあるY字路」と並んで、Y字路マニアの心を惹きつけてやまない、たぐいまれな物件である。


三角屋のあるY字路 No.02/2004


大きな地図で見る

_________

関連リンク

まちづくり拠点施設オープン 秋田市新屋、空き店舗を改装|さきがけonTheWeb

秋田のまちづくり活動拠点「新屋参画屋」開所-築70年の下駄屋改装 - 秋田経済新聞

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 愛宕町の汗かき地蔵・新屋

二〇世紀ひみつ基地 理髪館のあるY字路

| 散歩写真・路上観察 | 21:30 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

理髪館のあるY字路

デザイナーから画家に転身した横尾忠則による「暗夜光路」( 2000年発表)にはじまり、やがてライフワークとなる、Y字路をテーマにした絵画シリーズは不可思議で魅惑的な作品群である。(下記関連リンク参照のこと)

はじめてその絵画を眼にしてからというもの、Y字路を見つけては記録してきたが、心動かされる求心力がある魅力的なY字路にはなかなか出逢うことができない。横尾氏の描くY字路にしても、現実そのままの風景ではなく、撮影した素材を合成したものが多いという。

今までに記録した秋田市内のY字路のなかで、いちばんのお気に入りはコレ。



この道は中学校への通学路のひとつだった、なじみ深いY字路。場所は大堰端から太平川方面に抜ける旧楢山桝取町。藩政期は武士の給料であった扶持米を計る役職の「お桝取職」が住んだという町。

今は暗渠になっているが、Y字路の前を以前は堰が流れており、そこに小さな橋が架かっていて、左の小路を少し歩くと、うずまきかりんとうを造る家。右の道を進んでほどなくの桶屋では、職人が杉の木と格闘しながら大きな桶を造っていた姿を思いだす。さらに進んで右折すると、蛇行して太平川に注ぐ堰に架かる小橋、そして寺小路、百石橋、金照寺山登山口・・・。

まだ大堰端が暗渠となる前、このあたりは鬱蒼とした樹木も多く、夜ともなれば妖怪どもが徘徊していそうな、独特の雰囲気がただよう場所であった。

その分岐点にあって、このY字路を特別な存在にしているのが、戦前からの理髪店。薄くなった看板に右横書き表記で「館髪理木々佐」と記され、装飾のある人造石塗りのザラザラした壁面も印象的な、おもむきのあるレトロ建築となっている。

もうずいぶん前に廃業した理髪店前の、所有者のいない三角形の閑地に、電信柱と標識とゴミ置き場。





横尾忠則の描くY字路シリーズは夜景ではじまり、後には真昼のY字路も描かれて、それはそれで良いのだが、やはりY字路には夜景がよく似合う。

引き返すことのできない人生の岐路、または異界への分岐点のようにある、なにか言い様のない奇妙さをともなうY字路に立つときの感覚を、坂道研究家として著書もありY字路マニアでもあるタモリは、横尾忠則との対談のなかで、Y字路には「妙な居心地の悪い気持ちよさ」があると表現している。


理髪館のあるY字路 No.01/蒼月夜


大きな地図で見る

理髪館の消えたY字路・楢山桝取町
2014.12 理髪館解体


_________

関連リンク

「Y字路」横尾忠則
ほぼ日刊イトイ新聞 - Y字路談義。より、横尾忠則の描く「Y字路」画像

ほぼ日刊イトイ新聞 - Y字路談義。
横尾忠則・タモリ・糸井重里による対談、全18回

横尾忠則オフィシャルサイト


| 散歩写真・路上観察 | 21:00 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |