二〇世紀ひみつ基地

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黄昏の街懐かしき鐘の音


勝平得之 秋田十二景「鐘樓餘景」昭和四年

鷹匠町の「鷹の松」越しに、外堀と千秋公園を望む。

公園の高台に夕陽を浴びて建つ鐘楼と家並み。鐘楼の高台と対峙するように、手前に配置した「鷹の松」が作品に奥行きを添える。

実際の鐘楼は「鷹の松」の延長線上よりも南に位置するため、この位置から「鷹の松」越しに鐘楼は見えず、その下につらなる家並みも実際の風景ではないが、そのまま写生したのでは“絵にならない”ため、勝平はそれぞれのイメージをコラージュして版画にした。

そのジオラマの如き黄昏時の光景は、どこか懐かしく、メルヘンチック。


秋田市街図・明治三十七年 ピンク部分が現存のお堀

勝平がこの版画を発表した昭和の始め頃、「鷹の松」からもう少し南寄りの場所から撮影したのが下の画像。



木造の鐘楼の下、着物姿の子どもらが貸ボートを浮かべて遊ぶ外堀は、県民会館の裏、鉄筋となった鐘楼の下に今も残る内堀へと続く。


鷹の松 08.05

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城下の名残「鑑の松」貞節の鑑

●土手の上の老松


 08.10

秋田市矢留町、保戸野新橋のたもと、土塁の上で貫禄のある優美な姿をみせる老松「鑑(かがみ)の松」。

佐竹義宣公が、今の千秋公園に築城、町割りの一環として旭川を大改修し、掘替えの際に出た土で旭川の東岸に、高さ八尺(約2.5メートル)の土手を築いた際に植えられたもので、間近にある「鷹の松」と同様に樹齢三百八十年ほどの老松である。

防御壁として旭川の東岸、内町(うちまち)側に築かれ、松が植えられた土手は、北は千秋中島町の踏切付近から、南は有楽町通り付近まで延々と連なり、土手に沿った町には、土手長町・中島土手町・亀ノ丁土手町などの地名が付けられた。

旭川に接した土手は明治維新以降、徐々に取り払われ、昭和二十年頃までに消滅するが、唯一残ったのがこの「鑑の松」のある土塁。


右・明治元年『秋田城郭市内全図』より
左・正保元年『出羽国秋田郡久保田城画図』より

緑色マーキングのあたりが「鑑の松」の位置。

正保元年(1644)の絵図の保戸野新橋を渡った突き当たり、今の「チサンマンション北高前」の場所に、敵の侵攻を防御する土塁(一文字虎口)がみえる。このような形式の土塁は、外町からそれぞれの橋を渡った突き当たりに築かれていた。

「鑑の松」の東側に藩の「材木場」がある。仁別で伐採され筏に組まれた杉丸太が、旭川を下って陸揚げされた貯木場で、この杉丸太は八幡坂を引き上げ、北の丸にあった大木屋(おごや)で製材され、城内で利用された。


八幡坂・千秋公園


●貞節の鑑(かがみ)として

緑濃き老松が枝を交わし、城下町の風情をただよわせていた旭川東岸の土手のうち、鷹匠町から中島付近までが取り払われたのは、昭和二年の市営住宅建設のためという。

その際に一カ所だけ残された老松は、秋田高等女学校(現・北高)の入口に位置することから「女学校の松」とも呼ばれていたようだが、秋田高女が創立三十周年を迎えた昭和六年に「鑑の松」と命名し、その根本に高橋謙堂揮毫による碑を建立して三十周年記念事業とした。


秋田高女創立三十周年記念 唱歌「鑑の松」

樹齢が永く、常に鮮やかな緑を保つ松の樹は、長寿や女性の貞節・節操の象徴として古くから賛美されてきた。時を超えて緑を絶やさず、この地にそびえ立ち続ける姿に沈黙の教訓を見いだし、“老松を鑑(かがみ)とする”という意味を込めて「鑑の松」と命名され、登下校時などにその前を通るときには、会釈するのが習わしだったという。


秋田高等女学校 明治期

明治三十四年竣工の擬洋風建築。昭和五年十月、校舎の大半を焼失する。初期は旭川側に校門があったため、市街から登校する生徒は、必ず「鷹の松」前を通って通学した。


05.04

よく手入れされた生垣に囲まれた土塁の上の「鑑の松」。あちこちに修復の跡が目立ち、とくに根本から広がる大きな傷跡が痛々しい。

平成二十年四月、秋田北高(旧・高女)で男女共学が始まる。女学生の鑑と讃えられた「鑑の松」も、よもや高女に男子が通学するようになろうとは、夢にも思わなかっただろう。


保戸野新橋から鷹匠橋と鷹匠町のマンション街を望む  08.10


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お堀に囲まれた洋館・秋田赤十字病院


日本赤十字社秋田支部病院

旧藩時代は兵具庫(武器庫)が並んでいた、周囲をお堀で囲まれる風致に恵まれた旧城地に、大正三年七月一日「日本赤十字社秋田支部病院」が開院する。これが初代の秋田赤十字病院であり、東北北海道地区で最初の赤十字病院だった。

日本赤十字社が佐竹家所有の土地を市から無料で借り受け、明治大正に活躍し、東京駅や日本銀行の設計者として高名な辰野金吾に設計を依頼。辰野は県民会館の前身にあたる「秋田県記念館」の設計顧問として参加しているが、正式な設計者として名を残しているのは県内でこの物件のみと思われる。

敷地面積約七二〇四坪、建物総坪数一八二〇余坪、建設費十一万九千六百円(教員の初任給十円ほどの時代)。建築請負人は「秋田県記念館」と同じく市内の堀井永助。

中央と左右に円型ドームを配したベランダ付き木造二階建、辰野金吾が同時期に設計した東京駅を彷彿させるルネッサンス洋式建築。旧鷹匠町側の外堀に土橋を築き、病院への出入り口とした。



辰野金吾設計・東京駅・大正三年竣工



当初は病床数七五、内科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科を設け、看護婦養成所、看護婦寄宿舎を併設。

初代院長として京都大学出身の山内半作(当時三十五歳)を招聘、医局は京大学閥を中心に構成された。秋田の外科を築いたといわれる山内半作は、京大時代の明治四十三年に、日本で初めての臓器移植(自家腎移植)の動物実験を行った人物としても知られ、秋田時代は川反芸者に良くもてたという。


千秋公園より赤十字病院および鷹匠町方面を望む

設備の整った病院が少なかった時代に誕生した赤十字病院には県民の期待が寄せられ、診療を開始すると、午前七時の受付開始というのに六時頃から、市内はいうにおよばず郡部からも、外来患者が続々とつめかけて終日混雑したという。

ちなみに、当初の入院費(食事代を除く)は、特等室(一人部屋・副室付、夜具・黄八丈)二円五十銭。一等室(一人部屋、夜具・黄八丈)一円五十銭。二等室(二人部屋、夜具・銘仙)一円。三等室(五~八人部屋、夜具・木綿)六十銭。

まだ社会保険制度がなく、教員の初任給が十円ほどの時代の入院費である。夜具(布団)の生地が黄八丈・銘仙・木綿とランク付けされているのが面白い。


病室 昭和九年頃


レントゲン室 昭和九年頃


「鷹の松」と赤十字病院(人着印刷)


現在の同地点 08.12



現在の同地点 08.11


昭和三年・秋田市街図


藩政期の兵具庫付近・ジオラマ


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初代「秋田赤十字病院」跡

かつての外堀の記憶が地形に刻まれている、初代「秋田赤十字病院」跡地。明治三十年代、秋田高等女学校(現・北高)の建設候補地になったが、当時は外堀から腐臭が漂っていたため敬遠され、最終的に中島の現在地に校舎が建てられることに。


●その後の秋田赤十字病院

昭和十四年、秋田支部病院を秋田市東根小屋町、県立秋田中学跡地に新築移転。


第二代「赤十字病院」東根小屋町(中通小学校向かい)

昭和十八年、秋田支部病院を「秋田赤十字病院」と改称。
昭和四十三年、中通地区に新築移転。


第三代「赤十字病院」中通一丁目

昭和四十九年、仲小路をはさんだ北側、秋田保健所跡に「秋田県交通災害センター」開院。秋田県が整備した施設を赤十字病院が運営、両施設の三階を渡り廊下で結んだ。


「秋田県交通災害センター」中通一丁目

平成十年、秋田市上北手に新病院開院。

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城下の要害「鷹の松」今昔

●要害としての「鷹の松」

土手長町通りを千秋トンネル方向に北進し、通町橋前を過ぎて間もなく、高層集合住宅の建ち並ぶ旧鷹匠町(現・秋田市千秋矢留町)のマンション街を背景に、行く手をさえぎるかのように「鷹の松」がその姿を現す。


鷹の松 08.11

水戸から国替された佐竹義宣公が、久保田の神明山、今の千秋公園に築城、町割りの一環として旭川を大改修し、掘替えの際に出た土で旭川の東岸に土手を築いた際に植えられた、樹齢三百八十年ほどの黒松で、木の根元には第六代秋田市長・井上廣居が私費で建立した石碑が建てられている。

この地が藩の御鷹師衆、いわゆる鷹匠たちが住む鷹匠町であったことにちなんで、今は「鷹の松」と命名されているが、もともとこの黒松に固有の名はなく、近くに市役所が建った明治末期から「市役所の松」などと呼ばれていた。

「鷹の松」の周辺が藩政期にどのような風景だったのか、明治元年の「秋田城郭市内全図」で見てみよう。この図は明治三十一年に出版された『秋田沿革史大成・下巻』の付録で、明治元年の地図を基に、それ以降にできた公共機関を点線で囲んで加筆している。


秋田城郭市内全図より

左手に掘替え工事で造成した人工の運河・旭川。右手に古い旭川の流れ(仁別川)を利用して造成したという外堀が、藩の兵具蔵(武器庫)を囲む。太い黒線が土手。

現在道路となっている部分(ピンクライン)まで外堀が迫り、その水面に接して赤丸で示した「鷹の松」の土塁が西に張り出し、その手前、旭川の土手から東に突き出した土塁(青丸)とセットで、「食い違い虎口(こぐち)」を形成している。「食い違い虎口」とは、曲がって出入りするように造成することで、敵の視界をさえぎり直進を防ぐ要害のこと。


出羽国秋田郡久保田城画図・正保元年(1644)

「鷹の松」の西、旭川に架かる保戸野川反橋は幕末以降の架橋。藩政期にこんな所に橋があったら防衛上の弱点となり、「食い違い虎口」が意味を成さない。「鷹の松」の南、土手長町上丁に藩政期、今の総合庁舎にあたる御会処が存在し、明治に入って監獄(刑務所)となり、監獄が川尻に移った跡に秋田市役所が落成する。



現代の風景に藩政期のお堀の水を注いでみた。左手前に「鷹の松」と同じ高さの土塁が存在し、通行人はその土塁と「鷹の松」にはさまれた狭い道をぐるりと曲がって鷹匠町方向に進んだ。


●街並は変われども

明治三十七年一月発行の「秋田市全図」では、青丸で示した土塁は交通の障害になったとみえて消滅しているが、まだ「鷹の松」は外堀に接したまま。それ以降に「鷹の松」東側の外堀の一部を埋め立てて道路が完成、しかし現在よりは道幅が狭い。


明治末頃



「鷹の松」を支える土盛りの周囲に、写真に写る石垣が築かれたのは、手前に市役所庁舎が落成した明治四十二年。右手に古い旭川の流れ(仁別川)を利用して造成したという外堀。その外堀の曲線に沿った堀端に鷹匠町の家並みが続く。


大正三年以降



大正三年七月、藩政時代は兵具蔵があった外堀で囲まれた場所に、大日本赤十字社秋田支部病院(初代の秋田赤十字病院)オープン。建設の際に外堀の一部が埋め立てられた。

拡大してみると外堀に新たに掛けられた病院へと続く土橋と石門が見える。手前には秋田高等女学校(現・北高)の生徒と思われる、風呂敷包みを抱え日傘をさした袴姿の女性二人。

この周辺の外堀が埋め立てられ宅地と変容したのは昭和初期、かつての外堀の堀端に連なる鷹匠町はそのころから、素封家の別邸や旅館が連なる一等地となる。


●伐採の危機を乗り越えて

戦後になると、土塁を囲む石垣は崩れ、よじ登って遊ぶ子どもも多く、次第に荒れ放題になっていた「鷹の松」を、市では昭和四十六年の春、根回りを固め石垣を積み直す保護工事を行う。60センチほどであった石垣を約1メートルに積み上げ、根本には芝生を植え、周囲に垣根をめぐらして現在の姿に。

「鷹の松」はもともと敵の侵入に備えた要害の一部だったのだから当然のことだが、交通量が急増した昭和四十年代には、見通しが悪く通行の障害との理由から、撤去の声が度々上がるようになる。しかし、昭和四十九年、市の保存樹に指定され伐採の危機をまぬがれた。

平成十七年七月、枝の付け根部分から大きく折れ曲がり、枝先が地面にまで垂れ下がり、保戸野川反橋に抜ける市道の片側が通行止めに。


応急処置後 05.07


大きく湾曲し応急処置を施した枝の付け根 05.07

湾曲の原因は古木に特有の内部の空洞化。空洞化により付け根部分に大きな亀裂が入り、枝の重量を支えきれずで垂れ下がってしまったわけ。空洞部分に活力剤を注入し、曲がった枝をクレーンで吊り上げ、支柱で支える修復作業の後、重くなった枝の剪定も行われ現在の姿に。


06.10

数カ所に立てられた支柱で支えられたうえ、ワイヤーで吊られた枝、コモの包帯でぐるぐる巻きにされた太い幹。負担を軽減するために全体的に剪定され、鷹が舞い降りたようにしな垂れていた、かつての枝振りの見事さと重厚感に比べれば若干見劣りする。

どの建物よりも高く、遠くからもよく見えて、ランドマーク的存在であっただろう「鷹の松」の周辺は近年、高層集合住宅の建ち並ぶマンション街に変容、仰ぎ見る対象としてあった「鷹の松」も、住民の多くにとって、高層から見下ろす存在となった。


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