二〇世紀ひみつ基地

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昭和レトロに逢いに行く・エリアなかいち界隈散歩

雲ひとつなく晴れあがった土曜日、「エリアなかいち」でのイベントをのぞきながら、千秋公園界隈に遅い朝の散歩。

バックトゥザセンター「ファイナルイベント」~昔懐かしい!がなかいちに集結!~
2012年09月08日(土)
場所・エリアなかいち にぎわい広場・にぎわい交流館・千秋公園穴門堀
主催・秋田商工会議所 ABS秋田放送 秋田まちづくり株式会社

イベント内容チラシ(PDF書類直リン)↓
H24.9.8 「バック トゥ ザ センター!」 ~昔懐かしい!がなかいちに集結!~





貸しボー屋を兼ねていた、秋田水族館(押切商店)のボート乗り場跡に近い、穴門堀ポケットパーク(木内向かいに2012年春オープン)を乗り場に、一日限りの貸ボート復活。一人100円。

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ポニー馬車・横手市大森町「ポニーランド仁真園」より参加

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ポニーランド仁真園






ダイハツ・ミゼットDK型「西仙オールドカークラブ」出品





昭和32年(1957)発売の商用三輪自動車「ミゼット」シリーズ初期型。

乗車定員1名、250ccエンジン、バーハンドル、ドア無し。運転席と荷台には下記画像のように幌が張られていた。キャッチフレーズは「街のヘリコプター」。後継機は丸ハンドル、二人乗りとなり、ドアと屋根が完備する。




ダイハツ「ミゼット」生コマーシャル

ダイハツ工業が一社提供していた、ABC放送のコメディドラマ「やりくりアパート」内での生コマーシャル。商品名を連呼するのは、ドラマ主役の大村崑と佐々十郎。


駄菓子屋コーナー・展示品はNPO法人「油谷これくしょん」提供(以下同様)

アイスクリーム用魔法瓶とパチンコ式ゲーム機。

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パチンコ式ゲーム機(京極製)







ごく最近の製品の中に戦前のパッケージがまざるなど統一感に欠けた展示。








貼りまぜ屏風・NPO法人「油谷これくしょん」提供

秋田市内の商店の包装紙・チラシ・ラベルなどの複製を貼りまぜた屏風から、百貨店(デパート)時代の「木内」包装紙をピックアップ。



クリスマスシーズンに使われた包装紙。こんな包装紙に包まれたクリスマスプレゼントを、当時の子どもたちは、胸をときめかせながら開封したのだろう。木内で買ったクリスマスプレゼントを貰える子どもなんて、そんなに多くはなかった。



左手になじみ深い現役の包装紙。その右手も木内のクリスマスバージョンで、雪を白抜きにしたデザインがオシャレ。クリスマスシーズンは毎年違うデザインで造っていたのだと思う。



そうそう、木内にはこんな包装紙もあった。現役のペイズリーっぽい包装紙からリニューアルしたものの、不評で元に戻したものか、用途によって使い分けたものか不明だが、いずれの包装紙も昭和の百貨店的デザインが秀逸。

11月のバーゲンセール「誓文払い」のチラシは、建物のイラストと「駅前店」の記述からみて、昭和20年代後期の物件だろう。
せいもん ばらい【誓文払い】
近世、陰暦10月20日に京都で商人・遊女などが四条京極の官者殿(冠者殿)に参詣し、日ごろ商売上の駆引きに嘘をついた罪を祓い、神罰の放免を請う行事。今でもこの日の前後、京阪の商店は特に安値の売出しをする。
広辞苑 第六版 (C)2008  株式会社岩波書店

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「油谷これくしょん」について

「油谷これくしょん」とは、湯沢市秋ノ宮の油谷満夫氏が10代後半から約50年間にわたって収集した、本人でさえ全体を把握できないほど膨大な、日本屈指の個人コレクション。

収集範囲は古文書、民具、家電、生活雑貨、紙モノ(印刷物)、看板、玩具、駄菓子屋商品など、希少価値の高いモノからガラクタまで、きわめて広範囲にわたる。

観賞のための美術品というよりは、庶民の生活と共にあって、その多くが廃棄されたモノたち。明治・大正・昭和とつづく近代秋田の庶民生活史を語る上での貴重な資料となり得るモノが多くを占める。

コレクションの一部、約50万点を同氏が経営する「秋乃宮博物館」で展示していたが、諸事情により2010年11月閉館。

2012年、秋田市に関連するコレクションを中心に、約20万点を秋田市に寄贈することを申し入れ受諾される。

NPO法人「油谷これくしょん」を立ち上げ、市内の廃校になった学校にコレクションを搬入、整理分類にあたるというが、なにしろ膨大な点数だけに、作業が終了するまでには相当な期間が必要と思われ、分類後の展示場所など、具体的な活用方法もまだ決まっていない。


ババヘラのいる風景・秋田県民会館前






弥高神社・リムジン送迎車






中土橋よりエリアなかいち

「エリアなかいち」中央通り側の住宅棟も竣工間近。





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| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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フック船長の紙芝居屋さん

牛島商店街の貸本屋「牛島文庫」は、紙芝居屋を兼ねていたのか、それとも紙芝居を貸し出していたのか、店のわきに紙芝居を乗せた自転車を停め、腰をおろしてタバコで一服するおじさんの姿をよく見かけた。

楢山・牛島界隈を縄張りとするその紙芝居屋は、胸の前にぶらさげた大太鼓を打って、歩きながら子どもを呼び込み、紙芝居中に肝心な場面で入れる合いの手も「ドン!ドン!」と太鼓を鳴らす。



おじさんの片手は戦争で失ったのだろうか(復員兵の紙芝居屋が多かったという)、ピーターパンに登場する海賊のフック船長のような、クルンと丸い金属製鉤手(フック)の義手で、その銀色ににぶく光る片手を器用にあつかうおじさんの存在自体が、紙芝居の登場人物の一人であるかのような不思議な光景が、強く心の片隅にしみついている。

牛島文庫にはもう一人、赤ら顔でアル中気味の紙芝居屋がいたと思う。それがこのフック船長と同一人物であったのかもしれないが、そのへんの記憶が定かではない。

彼らは5円か10円ほどのセンベイや飴を売って紙芝居を見せる。お菓子を買った子どもらは最前列で堂々と見ているが、買えない子どもは後方で遠慮がちに“タダ見”する。人気のあったカタヌキ(下記関連リンク参照のこと)は、今もお祭りの露店で見かける精糖粉を原料にしたものではなく、べっこう飴を板状にしたヌキ飴で、絵柄を壊さずにヌクのは難しかった。


『黄金バット』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より


『ライオンマン』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より


『チョンチャン』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より

街頭紙芝居で演じられたジャンルは、活劇もの、漫画、冒険もの、時代もの、母子もの・・・・・・と幅広く、なかには不気味で猟奇的な内容の物語もあった。

昭和初期の紙芝居黎明期に誕生し、のちにテレビアニメにもなった『黄金バット』にしても、“赤マントをまとった骸骨”という奇っ怪な姿であったし、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』のルーツである、戦前の紙芝居作品『ハカバキタロー』(伊藤正美原作)は、姑にいびり殺され、胎児を孕んだまま土葬された嫁の墓の下で、主人公に成長することになる赤ん坊(キタロー)が、母の死体を食べて育ち、地上に這い出し、やがて姑に復習するという、なんともおぞましき物語。


『母の唄』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より
貰われた家で養父母に虐待される姉弟

紙芝居の起源は、明治時代に見世物小屋で演じられた「立絵芝居」という、紙人形を使った見世物に由来するという。見世物小屋の闇を源流とし、やがて街頭にとびだした紙芝居は、おのずと見世物的かつ大道芸的な泥臭さをともなう、特有な匂いをただよわせていた。

時代が下るにつれその傾向は薄められるものの、幼稚園や小学校で見せられた教育紙芝居とは対照的な内容の街頭紙芝居は、低俗な内容ゆえに当局による取り締まりの対象となることもあったという。


『妖怪大あばれ』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より

大道を舞台に、正義の味方が活躍する冒険活劇を演じ、ときには混沌と不条理うずまく、この世とあの世の闇をもかいまみせ、異界から訪れたマレビトの如きフック船長の紙芝居屋は『この続きはまた明日・・・』としめくくり、片手のフックをにぶく光らせながら、暮れゆく街並の彼方へと消えてゆくのであった。

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カタヌキ菓子のサイト

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米国からやってきた凄い玉・スーパーボール

昭和41年、少年たちのあいだに“凄いボール”の噂が駆けめぐった。

地面に叩きつけた小さなボールが、大きくバウンドして三階建てのビルを軽く超えたとか、とにかく噂の方が先行していて、その現物を手にしたのは、それからしばらくしてからのことだったと思う。

カリフォルニアの科学者 ノーマン・スティングレーが発明したゴム製ボールを、玩具メーカー Wham-O社が改良を加え、スーパーボールの名で発売したのが1965年(昭和40年)。



少年少女たちのあいだで熱狂的に受け入れられたスーパーボールはやがて大人をもとりこにし、その年のクリスマスまでに約700万個が販売される大ヒット商品に。のちにその玩具の名から、アメリカンフットボールの対抗戦である“スーパーボウル”のネーミングも生まれる。


Wham-O社・創業者リチャード・ナー氏

Wham-O社はスーパーボールのほかに、フラフープとフリスビーディスクを製造したことで有名な、米国を代表する玩具メーカー 。

発売当初の TVCM

スーパーボールの素材は、タイヤなどに使用されるポリブタジエンラバーという合成ゴム。反発弾性にすぐれた特性を活かし、ゴルフボールの核としても使われている。

米国の大ヒットから間もなく、Wham-O社のスーパーボールは、日本にも輸入され、本国と同様に人気玩具に。

ラーメン一杯が80円(東京都内)の時代、正規輸入品の価格は一個100円から180円ほどと、子どもにとっては比較的高価な玩具だったスーパーボール。その特性がわざわいし、ようやく手に入れたのもつかのま、すぐに紛失して泣きをみることも。

その頃にはすでに、国産の安価な類似品が流通していたが、本家と比較すると反発力の劣るものが少なくはなかった。


新聞広告 昭和41年

キャラメルに封入されたカードを集めて応募するグリコの景品。

地味な単色がカラフルになり、バリエーションが増えてから、ガチャガチャ(カプセル・トイ)の商品としても使われ、やがてテキ屋(露天商)の定番商品に。

昭和40年代初頭のつかのま、世代を熱狂させた往年のハイテク玩具も、今ではありふれて安価な駄玩具。当時の子どもらが、お祭りの露店にあふれるスーパーボールを目撃したならば、目を丸くして驚くことだろう。


スーパーボールすくい

昭和30年代からゴム風船などを製造する、エスエージーバルーンズ株式会社(旧・伸栄ゴム)は、早くからスーパーボールを手がけたメーカー。現在もスーパーボールのほかに、バルーンペット(お散歩バルーン)など、テキ屋向けのネタを多く取り扱っている。

スーパーボールで思いだされるのが、数年前にネット上で話題になった、ソニーのハイビジョン液晶テレビ BRAVIA の TVCM(国内未放送)。

サンフランシスコの一地区を閉鎖し、空気銃から一気に打ち出された、色とりどりのスーパーボールがストリートを乱舞する光景をとらえた幻想的な映像は一見の価値あり。

Sony Bravia

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二〇世紀ひみつ基地 フラフープでふぅらふら

なつかしの遊び(ひみつ基地内タグ検索)

関連リンク

Wham-O, Inc.

The Original Wham-O (R) Super Ball (R) - - The "Most Amazing Ball Ever Created By Science."

The World's Largest Bouncy Ball Archive.
スーパーボール・コレクション

S.A.G. BALLOONS
エスエージーバルーンズ株式会社(旧・伸栄ゴム)

★event-goods.jp★スーパーボール関連グッズ
イベント用スーパーボール販売

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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アイスクリーム魔法瓶のある風景


昭和34年 新聞広告

昭和20年代から30年代にかけて活躍した「冷菓用魔法瓶」の広告である。広告主は秋田市南通で、大判焼き器、かき氷器、冷菓製造器、製造原料などを扱っていた本山商店。

電気冷蔵庫が普及する以前、アイスクリームなどの冷菓はこの魔法瓶にストックされて販売されていた。内部がガラス製、またはステンレス製の魔法瓶と同様の構造の容器に氷菓を入れ、周囲からドライアイスで冷やす方式で、その構造上から容量は少なく、それをおぎなう二連式ストッカーもあった。

当時はこれがなければ商売にならなかったわけで、「時代の寵児、業界の先端」という広告のキャッチフレーズも決して大げさな表現ではない。


背が低くててフタまで手が届かない子どもは、店の人か同行者に出してもらうか、抱えられてアイスに手を伸ばす。炎天下、丸いフタを開け、ヒンヤリと冷気が漂う魔法瓶に頭をつっこむようにして物色したそれは、アイスがぎっしりと詰まった魔法の箱。




森永キャンプストア(鎌倉)昭和37年

「キャンプストア」というのは海の家などの出店のこと。


紙包装のバーアイス・昭和30年代

昭和37年頃から徐々に電気冷蔵庫への切り替えが進んでゆくが、40年代に入っても、地方都市の小さな店ではまだ現役で活躍する姿が見られた。

この時代、冷菓は夏季限定商品だったため、涼しくなるとアイスクリーム魔法瓶は無用の長物となる。そこで冬場も活用できるこんなアイデア商品も誕生した。


昭和35年 新聞広告

マルシメ鎌田が代理店となって販売した、魔法瓶型保温器の中に「酒まんじゅう」「大判焼」の文字がみえる。はたしてどれほど売れたものか。

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懐かしき昭和のアイスクリームたち

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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