二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

≫ EDIT

花笑ふ千秋公園夜桜 2016

秋田市千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

千秋公園観桜会

| 散歩写真・路上観察 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物

千秋公園のお花見の露店だったろうか、子どもの頃、小鳥使いのおじさんがあやつる「小鳥のおみくじ芸」を見た。

舞台はミニチュアの神社。硬貨をくちばしで受けとった小鳥が参道を進み、さい銭箱にお金を落とし、お宮の鈴を鳴らして扉を開けて中に入り、おみくじをくわえて出てくる。足でつかんだおみくじをくちばしで開封して一仕事終えた小鳥は、おじさんの手から、ご褒美の餌をもらって鳥カゴにもどる。そのかわいらしい一連の仕草に目が釘付けになった。


『ヤマガラの芸』(小山幸子著 法政大学出版局 1999)より

学習能力が高いヤマガラを飼い慣らし、芸を仕込み見世物とする「ヤマガラの芸」は江戸時代にはじまったという。芸の種類は「鐘つき」「つるべ上げ」「那須の与一」「かるたとり」「つな渡り」などさまざま、最後まで残っていた「おみくじ引き」は、昭和に入ってから流行したものらしい。

 明治10年代に来日、大森貝塚を発掘したことで高名な、アメリカの動物学者エドワード・S・モースは、浅草でヤマガラの見世物を見物、そのスケッチを著書に残している。そのなかから三点を引用。


『日本その日その日 3』 (エドワード・S・モース著 石川欣一訳 平凡社東洋文庫)より(以下同)

鈴を鳴らし、さい銭箱にお金を入れる「お宮参り」。



太鼓や三味線をつつき、鈴を振り廻す「楽器演奏」。



弓を射て扇の的を落とす「那須の与一」。
金沢なる浅野川の磧(かわら)は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯(つら)ねて、猿芝居(さるしばい)、娘軽業(かるわざ)、山雀(やまがら)の芸当、剣の刃渡り、活(い)き人形、名所の覗(のぞ)き機関(からくり)、電気手品、盲人相撲(めくらずもう)、評判の大蛇(だいじゃ)、天狗(てんぐ)の骸骨(がいこつ)、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑(いとま)あらず。
泉鏡花『義血侠血』(明治27初出)より
※「野師」=「香具師(やし)」=「テキ屋」


『浅草公園 花やしき』(大正期)

牡丹と菊細工を主とした花園(植物園)として嘉永6年(1853)に誕生した、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」。明治初年から遊戯施設が置かれ、珍獣・猛獣が飼育された「花やしき」でも「ヤマガラの芸」が評判を呼ぶ。


『浅草公園 花やしき引札』より「山がら奇芸」

「鐘つき」「那須の与市扇の的」「宮参り」「競馬の場」などの演目のなかに、「占考場」と名付けられた、紙のおみくじではなく、筮竹(ぜいちく)を使った「うらない」芸が描かれている。


昭和30年撮影・ヤマガラのおみくじ

二番目の動画でヤマガラは、参道の前で幟旗(のぼりばた)を掲揚してからお宮に向かっている。


ヤマガラの芸ーその4 おみくじ芸

こちらはヤマガラの「おみくじ芸」の再現。

動画主のコメントに
芸を仕込むのに1年かかりました。ヤマガラに芸を教える事は、現在は法律に触れるかも知れません。しかしこの芸を教える過程を通じ、私はヤマガラが持つ特異的な動作や本能を学びました。芸を完成させるのに約一年かかりましたが、その分、愛情も深まりました。そして今頃は、私の田舎で元気に飛び回っていることでしょう。
とあるように、現在は鳥獣保護法により和鳥類の捕獲・飼育が禁止されたこともあって、 日本独自の文化であるヤマガラの芸はすたれ、その姿を記憶する者も少なくなってしまった。

_________

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 木内デパート展望塔・巫女人形おみくじ自販機

関連リンク

浅草花やしき




ヤマガラの芸 文化史と行動学の視点からヤマガラの芸 文化史と行動学の視点から
(1999/09)
小山 幸子

商品詳細を見る




| 興行・見世物・映画 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

消えた昭和の灯・横町“すきま店”の終焉


2010.11

最近は夕刻から店を開く横町の木村商店のシャッターが降ろされたまま、閉店時も外に出ていた年季の入った陳列台も撤去されていた。気になって近所の人に尋ねたら、木村のおばあちゃんは至って元気だが、販売不振を理由に先ごろ店を畳んでしまったという。


2003.07

裸電球のもと、果物・菓子・おにぎり・パン・弁当などが所狭しと並ぶ小さな店。横町の名物店であった、24時間営業の木村商店のことを、僕らは「すき間みせ」と呼んでいた。

病弱な夫に代わって家族を支えるため、理容店と蔵のあいだのすき間(画像右手部分)を借りて、小さな露店を開いたのは戦後まもなくの頃。当初は深夜まで営業したわけではなく、売れないために店を開けていたら、次第に閉める時間が遅くなったというが、それが功を奏した。

ほとんどの商店が夕方には店を閉め、深夜営業のコンビニなどあるはずもない時代。夜遅くまで営業する小さな露店は、徐々に川反で働く人たちに知れ渡り、深夜になると仕事帰りのホステスや従業員、タクシーの運転手らがひっきりなしに訪れるように。ホステスへの差し入れに使うのか、高級メロンの箱がいつも棚の上に鎮座していた。


2005.10 バナナとスルメがいつもあった店頭


2005.11

やがて、夜から早朝までおばさんが店に立ち、昼は息子さんたちと交代する24時間営業体制に。70年代の最盛期には一日の売上げが30万円になったこともあり、中央の雑誌やテレビの情報番組で「日本でいちばん坪単価の売上げが高い店」として取り上げられたこともあったが、その後のコンビニの普及が影響して客足が遠のき始める。


2008.05


2009.04

今(2010)から二十年ほど前、隣接した旧理容店の一階を借り、壁を取り払って店舗を拡張するが、夕方から一人で店を切り盛りしていた最近は売上げも激減。昨年の暮れ、借りていた隣地を明け渡し、戦後間もない当初の小さな“すきま店”に回帰してから約一年後の静かな終焉であった。

数年前の新聞記事で、この店を「死ぬまでつづけたい」と語っていた、もうすぐ卒寿(90歳)を迎えるおばあちゃんにとって、人生を共に歩んだこの店を閉じることは、とてもつらい決断であったに違いない。永いあいだお疲れさまでした。

店の灯は消えても、裸電球の灯る横町の小さな店の想い出は、幾星霜、川反界隈を往き交った多くの人々の心に、いつまでも灯りつづけて消えはしない。


2009.08


2009.08


2009.12 最後は“すきま店”に回帰


大きな地図で見る
_________

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 横町のモダン理髪店跡・レトロ看板建築



| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

千秋公園「鯉茶屋」界隈今昔



時代は大正の始め頃、カメラは本丸から、桜花咲く二の丸の鯉茶屋付近を見下ろしている。





こちらは大正末頃の同地点。開放された二階のある鯉茶屋は、数年前に建て替えられるまで、ほぼこのままの姿で残っていた。

明治三十八年頃の創業で、初代経営者が店の前に広がる胡月池に群れる鯉にあやかり、鯉茶屋の名を付けたという。



看板の文字は「即席 御料理 寿し」。その下に籐細工の乳母車二台。



鯉茶屋の向かい、桜のもとでは食べ物屋らしき露店。


新聞広告 大正十年


桜の鯉茶屋 09.04


桜の鯉茶屋 09.04


ツツジと鯉茶屋 08.05

| 秋田市今昔 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT