
舛屋薬局
秋田市土崎港中央三丁目(旧加賀町)
木造二階建・塗屋造
明治二年(1869)の建築と伝えられる、外壁を漆喰塗にした塗屋造、二階には虫籠(むしこ)窓を設ける。屋根は当初は瓦葺きだったが今はトタン葺。くすんだ色彩の、切妻・妻入の町家が建ち並ぶ通りにあって、漆喰の白壁がまぶしい平入りの店舗は、さぞかし湊っ子の眼を惹いたものだろう。
店内に入ると、黒地に白の「大波小波」を描いた鏝(こて)絵の見事さに圧倒される。いかにも湊町らしい意匠だが、「波」は「水」のシンボルであり、火伏せの願いが込められたものだ。鏝絵の脇には「MASUYA」のローマ字があり、土崎で一番最初に洋服を着たという、初代店主のハイカラぶりがうかがえる。上がり框(かまち)の向こう側は畳敷きで、創業当時と変わらない座売りを続けている。

初代の升屋助吉は、廻船問屋として有名な豪商・間杉五郎八家から、久保田城下の老舗・那波三郎右衛門祐生の娘に婿入りし、文久二年、土崎に分家、薬店を開業。那波家の屋号「升屋」を、屋号兼名字としたが、二代目からは加藤を名乗り、当主は代々助吉を襲名する。

白壁に映える家印
那波三郎右衛門家(升屋)の家印「一に三角」に「○」が付加されたのが升屋薬店(現・舛屋薬局)の家印。

「升屋薬店」錦絵広告(明治中期)
お客さんに配った錦絵は、現代の広告チラシかポスターのようなもの
上部に自家製薬品の名称がならび、末尾には「秋田県南秋田郡土崎湊加賀町 調合所 升屋助吉」と、この当時は「舛屋」ではなく「升屋」の屋号を使い、秋田市楢山牛島橋通りに支店を構えている。「秋田市」とあるから、市制施行され秋田町が秋田市となった明治二二年以降に発行されたもの。二階に設けられたベランダや、洋装の人物など、文明開化の香り漂う美しい錦絵だ。

錦絵部分拡大
上がり框(かまち)に腰を下ろし、なにやら話し込んでいる風な客、一人は旅人風、菅笠と赤い風呂敷を持ち紺色の脚半をつけている。棚にならんだ薬瓶。赤い洋服に山高帽の男はこうもり傘をステッキにして店内を眺め、その左には升屋の屋号を付けた荷箱を乗せた荷車。うつむく馬の前脚がしばられているのが面白い。馬繋ぎのない場所ではこのようにして動けないようにしたものだろうか。

錦絵部分拡大
赤い椅子に腰掛けるシルクハットに洋装の客。右の薬箪笥の手前には薬袋が置かれ、薬を切る道具らしきものも見える。店頭の小屋根の付いた看板には、黒地に赤く達磨の絵と「風のくすり」の文字が読みとれるが、これと同じ薬品名の看板が県立博物館に保存されている。

官許 日本無類
ふりいだし「風のくすり」
本家調合所 秋田湊加賀町 升屋助吉謹製
ふりいだし(ふり出し)とは、沸かしたお湯に袋入の生薬を入れて振ると、成分がすぐに煮出される、ティーパックの元祖のようなもの。
錦絵では赤く塗られた達磨が、永いあいだ紫外線にさらされ、すっかり退色しているのが時代を感じさせる。
自家製品名と政府からの「官許」を金文字で彫り込んだ看板は店の権威と自信を示し、「金看板」「表看板」とも呼ばれるようになり、「看板に傷がつく」ことを嫌い大切にあつかわれた。外に出している掛看板は閉店時にはしまわれる。そこから、店じまいすることを「本日はこれで看板」という言い回しが生まれた。書き込みも長くなったので「今日はこれにて看板」。
大きな地図で見る2012年5月「桝屋薬局」解体、新店舗となる。詳細は下記リンク先に
二〇世紀ひみつ基地 土崎「桝屋薬局」解体・錦絵に描かれた町家
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