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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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消える銭湯「手形の湯」秋大近く


asahi.com:「老舗銭湯」灯が消える-マイタウン秋田 より

この3月末(2009)の「辻の湯」閉湯につづき、秋田大学近くの「手形の湯」も今月で廃業との記事。

かつて秋大生が間借りした周辺のアパートのうち、風呂が付いた物件は稀で、自宅から通う学生以外、ほとんどがこの銭湯に通っていた。在学中に利用した OB には、青春時代の一コマが刻まれた、思い出深き場所のひとつだったことだろう。

これで秋田市内に残る銭湯は、南通みその町の「星の湯」一軒のみ。


手形の湯 2004.03


手形の湯 2004.03


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| 昭和・平成ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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消えた老舗銭湯「辻の湯」新大工町

●  “六道の辻”の湯屋「辻の湯」


06.05

この3月末(2009)に閉湯した、秋田市大町一丁目の銭湯「辻の湯」が、5月の末に解体・整地され、跡地は駐車場へと姿を変えた。

保戸野鉄砲町から通町へと向かう突き当たり、旧新大工町の界隈が藩政時代から“六道の辻”と呼ばれていたことから命名された、江戸末期の開湯という、永い歴史をもつ老舗銭湯であった。“六道の辻”については、改めて記事にする予定。

「辻の湯」の裏通りが下米町一丁目、その南の下米町二丁目は藩政時代から明治初めにかけて料亭と遊郭が建ち並んだ花街だったから、そこの姐さん方も、きっとこの湯屋に通い、昼間からおおいに賑わったことだろう。遊郭がすぐ近くの南鉄砲町に移ったあとも。

「辻の湯」の名称について、平成元年の秋田魁新報の取材記事に、「昭和22年までは「鶴の湯」。この年、火事で焼けてしまい。先代の利三郎さんがゲン直しに看板を変えたようだ。」とある。

しかし、明治41年に刊行された『秋田県案内記』の、旧秋田市内における「洗湯(せんとう)屋」の項目には、「六道辻 辻の湯」の記載があるものの「鶴の湯」の名はない。


明治41年『秋田県案内記』より

そして、先日まで掲げられていた看板は、戦前の書式である“右横書き”、つまり「湯乃辻」であった。



以上のことから、創業時からの名称「辻の湯」が戦前から戦後にかけての一時期「鶴の湯」と改名され、戦後再び復旧したもので、「湯乃辻」の看板は、焼失をまぬがれた戦前からのものか、もしくはそれを復元したものと推測される。

先日まで存在した「辻の湯」の建物は、火災にあった昭和22年以降の建築で、その後に改装しているものの、約60年の歳月を刻んで、年期を感じさせる風情が随所に残されていた。


解体直前 09.05(以下4枚も同じ)










04.09
銭湯ののれんを出れば良夜(りょうや)かな 吉屋信子
10年ほど前まで、通町に面した「辻の湯」の隣りに、湯上がりの常連も晩酌を傾ける「だるま食堂」という雰囲気のよい大衆食堂があって、ボリューム満点の肉鍋、とくに味噌味の肉鍋が旨かった。


●旧秋田市内の老舗銭湯


明治41年『秋田県案内記』より

明治41年に旧秋田市内で営業していた、蒸し風呂を含めた湯屋のなかで、比較的最近まで営業していたのは、「辻の湯」をはじめ、亀ノ丁西土手町「梅の湯」、豊島町「亀の湯」、保戸野川反「杉の湯」の三軒か。

西土手町(有楽町通り)の「梅の湯」は、五丁目橋から有楽町へ曲がった場所にあった、川反の芸者さんたちも常連の銭湯で、廃業後は焼鳥屋などが入居するビルに改築されたが、数年前に解体、跡地に「居酒屋・三昧」がオープン。

豊島町(大町五丁目)の「亀の湯」は、アルカリ性鉄泉の地下水をくみ上げた鉱泉で、タオルが赤褐色に染まったという名湯。ここが廃業するまで、市内には豊島町と南通に、二軒の「亀の湯」が存在したことになる。

保戸野川反の「杉の湯」は金谷旅館の浴場、昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家・ブルーノ・タウトが宿泊した折りに入浴したことで知られている風呂。詳細は以下関連リンクに。


●時代の波に消えてゆく銭湯


銭湯すたれば 人情もすたる
銭湯を知らない子供たちに
集団生活のルールとマナーを教えよ
自宅にふろありといえども
そのポリぶろは親子のしゃべり合う場にあらず、
ただ体を洗うだけ。
タオルのしぼり方、体を洗う順序など、
 基本的ルールは誰が教えるのか。
われは、わがルーツをもとめて銭湯へ。
詩人 田村隆一
(毎日新聞より)
「辻の湯」の脱衣所にあった、銭湯へのオマージュが綴られたこのポスター、銭湯にエアコンを納入する業者が配布したのがはじまりらしく、今も全国の銭湯に、場合によっては額装されて掲示されている。

高度経済成長期が進行するなか、内風呂の普及率上昇による客の激減にはじまり、設備の充実したいわゆるスーパー銭湯の出現、さらには燃料費の高騰などで苦しい経営がつづき、経営者の高齢化もかさなり銭湯は次々に廃業し姿を消してゆく。

昭和39年には44軒を数えた秋田市内の銭湯も、残るのは「星の湯」(南通みその町)と「手形の湯」(手形山崎町)の二軒のみ。

世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。

その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない。


04.03
銭湯の廃業届け菜種梅雨 高杉杜詩花
惜しまれて消ゆる銭湯一葉忌 吉田京子
銭湯の跡地射干(しゃが)咲いてをり 高澤良一


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「辻の湯」跡

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二〇世紀ひみつ基地 「中将湯」という銭湯と「バスクリン」

| 秋田市今昔 | 21:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「中将湯」という銭湯と「バスクリン」

「ツムラ」といえばまず「バスクリン」を連想するが、明治二十六年創業の老舗・津村順天堂(現・ツムラ)の礎をつくったのが、奈良時代の悲劇の皇女「中将姫」が考案し、創業者の母の家に伝えられていた家伝薬を改良したという婦人薬「中将湯」(ちゅうじょうとう)である。この和漢薬からのちに「バスクリン」が誕生することになる。


明治三十一年 雑誌広告

広告にはまだ津村のシンボルマーク「中将姫」が使われていない。

ある日、社員の一人が「中将湯」の原料である生薬を刻んで余った、普段は捨てられる残滓を持ち帰り、自宅の風呂に入れてみたところ、温泉のように体が温まり、子どものあせもが消えるという思わぬ効果があった。

その噂はやがて世間に広がり、「分けてほしい」と銭湯の経営者が押しよせるようになったため、津村では商品化を決め、「浴剤中将湯」の名でを発売をはじめる。

「浴剤中将湯」を購入し特約浴場となった銭湯には、「中将湯温泉」と書かれた看板やのれんが配布された。




「浴剤中将湯」を導入した銭湯のなかには、従来の名を捨て「中将湯」と改名する湯も現れるほどの人気で、新規開業する際に「中将湯」と命名する銭湯も少なくはなかった。こうして「浴剤中将湯」の人気は全国に広がっていく。

秋田でもつい最近まで、楢山南中町に「楢山中将湯」、菊谷小路に「中将湯」が存在したが、どちらも廃業して今はない。


大正十三年 新聞広告





秋田県における「中将湯温浴特約浴場」はこの時点で、秋田市「中将湯」、平鹿「松の湯」、横手「鶴の湯」の三軒。秋田市長野下新町(南通の明田地下道寄り、マンション・アークシティのあたり)にあったこの「中将湯」が、秋田で初めて「中将湯」を名乗った銭湯であろう。


昭和二年 新聞広告
通町の佐野薬舗(現・佐野薬局)で販売した家庭用中将湯

浴剤としての「中将湯」の温浴効果は抜群であったが、夏場には温まりすぎるという欠点があった。そのため津村は年間を通して使えるように、生薬から温泉由来成分への転換を図った、日本初の粉末状の芳香浴剤「バスクリン」を昭和五年発売、内風呂のある家庭が少なかったため、これも「中将湯」のように銭湯を中心に販売された。

平成十五年、ツムラの創業百十周年を記念して、「中将姫の湯」が限定販売された。処方は異なるものの、「浴剤中将湯」と同様に、刻んだ100%生薬を不織布に入れた製品で、パッケージには中将姫のマークが印刷された。

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関連リンク

自然と健康を科学する 株式会社ツムラ
ツムラ ライフサイエンス株式会社

中将姫伝説



| 秋田市今昔 | 21:00 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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消えた「亀の湯」と雷風義塾の碑



秋田市亀ノ丁に戦後間もなく開湯した銭湯「亀の湯」が、南通りの道路拡幅を期に、従来の銭湯からの脱皮を図って「コミュニティ銭湯・亀の湯」ビルを建てたのは、今から約二十五年前。

番台に代わってフロントを置き、水温の違う三つの浴槽、サウナ、コインランドリー、二階には入浴客が気軽に食事のできる割烹を開き、隣には広い駐車場も作った。

まだ「健康ランド」的温泉施設の無かった時代、このような形式の銭湯は珍しく、オープンからしばらくの間は、斬新な銭湯として賑わったものだが、最近は客数も激減、原油価格の高騰も手伝って、赤字経営が続いていたという。

どこの銭湯でも同じ問題を抱えながら、かろうじて営業を続けている現状のなか、従来の銭湯よりも設備が充実していた「亀の湯」の場合、維持費も馬鹿にならなかったことだろう。

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一階に入居していた「ホビーショップK2」は、道路をはさんだ真向かいのビルに移転。

「コミュニティ銭湯・亀の湯」ビルは消失し更地になったが、それとともにもうひとつ消えたものがある。それは、ビルの左下に写る「雷風義塾址」の石碑。

20070224135217.jpg

「雷風義塾」とは、秋田が生んだ国学者・平田篤胤(あつたね)の門人・小野崎通亮、井口糺らが始めた、平田学を中心にした学塾で、秋田勤皇派の本拠地でもあった。

「雷風義塾址」は、篤胤の終焉の地と同じ南通りにあることから、全国から訪れる篤胤ファンが立ち寄る遺蹟のひとつであったが、銭湯の経営者が個人で建立したものであったため、残念なことに銭湯とともに姿を消してしまったのである。


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亀の湯跡

「亀の湯」が存在した町を旧町名で亀ノ丁新町という。この通りは明治三十年代に開通した新道で、その際に「雷風義塾」のあった屋敷は分断されたため、実際の塾跡地は道路をはさんだ南側ということらしい。

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