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NHK BSプレミアム「金照寺山からの風景」再放送

NHK BSプレミアムで 2014年7月初旬に放送された 日本縦断「こころ旅」秋田編の、346日目秋田県秋田市「金照寺山からの風景」の放送後、当ブログの関連記事へのアクセス数が3,000件以上を記録、全国放送の影響力を思い知らされた。

その回を含む秋田編が 2014年9月3日(水)9月5日(金)に再放送される。

NHK 「にっぽん縦断 こころ旅」

 

 


 

NHK BSプレミアム 午後0:00~0:58
秋田の旅
1日目&2日目 9月3日(水)
3日目&4日目 9月5日(金)

「金照寺山からの風景」は2日目 9月3日の放送と思われる。詳しい日程は公式サイトで確認の程を。 

日本縦断「こころ旅」は、視聴者から寄せられた「こころに残る風景」を、火野正平が自転車で訪ねる旅番組。

今から40年前、東京から秋田市立南中学校へ転校、数年間を秋田で過ごした手紙の主の「こころの風景」は、金照寺山頂上(七ツ森)からの眺め。

日本縦断「こころ旅」金照寺山

NHK「にっぽん縦断 こころ旅」金照寺山からの風景

 

 



いつも子どもの遊ぶ声が聞こえ、デートスポットとしても知られた七ツ森。しかし、現在は周囲の樹木が大きく成長して視界をさえぎり、遠い記憶の片隅に残る、市街地や山並みの眺望は失われ、遊ぶ子どもの姿も無い。

往年の七ツ森を知るものにとっては、時の流れの無常を実感させ、視聴後にやるせなさが残る放送であったが、投稿者も同じ思いで画面を見つめたのではないだろうか。

日本縦断「こころ旅」金照寺山

日本縦断「こころ旅」金照寺山
川反四丁目橋を東へ
 

四丁目橋に夜のとばりが落ちる頃

日本縦断「こころ旅」金照寺山

日本縦断「こころ旅」金照寺山
明田地下道付近 右折すると大堰端

南中の女子二人に金照寺山の場所を尋ねるが、知らないという返事。今では裏山を開発した「一つ森公園」が有名で、近くに住んでいても、七ツ森(金照寺山)を知らない人が多い。

日本縦断「こころ旅」金照寺山
大堰端を南進
 

「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで

日本縦断「こころ旅」金照寺山
理髪館と石敢當のあるY字路

理髪館のあるY字路

 

 

 


Y字路に謎の石柱・石敢當

 

 

 

Y字路の左側に進んで道を迷いながら、ようやく登り口に到達。

日本縦断「こころ旅」金照寺山

左折すると登山道 右手に「真如苑秋田支部」(金照閣跡)
 

千秋学園・・・金照閣そして・・・金照寺山麓今昔

 

 



日本縦断「こころ旅」金照寺山
温泉坂

日本縦断「こころ旅」金照寺山
七ツ森登り口

日本縦断「こころ旅」金照寺山
七ツ森より東を望む

日本縦断「こころ旅」金照寺山
七ツ森より南を望む

日本縦断「こころ旅」金照寺山

金照寺山・七ツ森
七つ森 昭和40年代中期 二〇世紀版「金照寺山」案内記より

老人が腰を下ろす東屋の場所は今と変わらない。

金照寺山・七ツ森
七つ森 昭和40年代中期 二〇世紀版「金照寺山」案内記より

 

二〇世紀版「金照寺山」案内記

 

 

 

 

ドトリバ踏切のひみつ・金照寺山麓

 

 

 

 

金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山

 

 

 

 

僕らの奇妙な宇宙船・金照寺山に謎の塔

 

 

 

 

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「袋小路のイチョウ」と「濯纓楼」跡・金照寺山麓

▼保存樹「袋小路のイチョウ」

秋田市楢山大元町の奥羽本線(秋田新幹線)鉄橋方向から、金照寺山北麓を流れる太平川沿いの土手を川下(西)に向かって進むと、やがて右手にイチョウの大木が姿を現す。

太平川
2013.11

旧町名・楢山字楢山、俗称を「袋小路」というこの地は、土手の突き当たりが羽越本線鉄橋で行き止まりのため、散歩する人もめったに入らず閑散としている。

袋小路のいちょう
2013.11

「袋小路のイチョウ」秋田市楢山大元町・鈴木家地内
昭和49(1974)年10月11日 秋田市保存樹指定19号
推定樹齢450年

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

大樹の下に、子育てに御利益があるという「姥権現」(うばごんげん)の祠(ほこら)が鎮座し、幹から「ちち」と呼ばれる気根が下垂。

袋小路のいちょう
2013.11 気根・乳状下垂

お婆さんの乳房のように垂れ下がった「ちち」をなでれば、母乳の出が良くなると信じられ、近在の妊婦、子育て中の母親が参詣したものという。

イチョウの気根にまつわる、同様な「授乳祈願信仰」は各地に分布し、「姥銀杏」「銀杏姥神」「乳母神」などと称されている。「姥・うば」と「乳母・うば」はダブル・ミーニング(両義語句)。

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

いちょう
2013.11

いちょう
2013.11

いちょう

太平川
2009.04

太平川の「袋小路のイチョウ」付近は、川底が岩盤の浅瀬で、夏になると絶好の遊び場になった。

古老の話によれば、このあたりを「サナ」と呼び、ヤツメウナギが良く採れたという。「サナ」は産鉄・砂鉄に関わる地名。太平川の「サナ」は、地形的に砂鉄が溜まりやすい砂鉄採取地だったのかもしれない。
 

▼文人サロン「濯纓楼」跡

江戸時代中期「袋小路のイチョウ」の西側に、三代目・伊勢三安(儒学者で久保田藩の医師)が「濯纓楼」(たくえいろう)と薬草園を造営。城下の文人墨客が交遊するサロンとなった。

景勝の地・金照寺山と太平川を臨む、二階の三方向に露台(和式バルコニー)を設けた「濯纓楼」はその後、勘定奉行・吉川楽斎の別邸に。天保2年(1831)、江戸で人気の漢詩人・大窪詩仏(1767-1837)が、来藩のおりに訪れ詩歌を詠む。

大窪詩仏
大窪詩仏『詩聖堂詩集』第三編(天保九年刻成)より「吉川氏濯纓楼」

金照寺山
2004.02

濯櫻楼址
2013.11 「濯纓楼」跡と羽越本線鉄橋

詩仏来し濯櫻楼趾茄子木枯れ 境田素洞(楢山愛宕下の俳人)

かつて「濯櫻楼」が存在した畑に残る茄子の枯れ木。その畑地の一部は、平成初めの護岸拡張工事を経て土手に変容、樹木も伐採され、往年の野趣を失ったが、太平川と金照寺山を望む光景は、江戸時代の文人が遊んだ昔日のおもむきを今に残して、静かに時が流れている。

太平川
2009.04 下流から金照寺山を望む

太平川
2013.11 下流から「濯纓楼」跡を望む


大きな地図で見る
袋小路のイチョウ

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僕らの奇妙な宇宙船・金照寺山に謎の塔


2007.04

数年前の春先、金照寺山の「三十三観音」が並ぶ山道を歩いていたとき、民家裏手の笹藪のなかに建つ、奇妙なカタチをした物体に目が釘付けになった。その瞬間、この場所で遊んだ遠い日の記憶が少しずつ蘇りはじめた。

今は薄汚れて頭頂の金属部分は朽ち果て、内部のコンクリート骨格があらわになっているが、かつては白いドームと金色に輝くアンテナを備えて、山間の空き地に場違いのように存在した奇妙な物体を僕らは「宇宙船」と呼び、「四時までに宇宙船前に集合」などと、この地のランドマークにしていた。それが建立されたのは昭和29年(1954)のこと。


金照寺山に仏舎利塔
平和の願いをこめて
仏教代表迎え奉安地鎮祭行わる


仏教を通じて世界平和を!とインド、セイロンの仏教代表団は秋田市に贈る仏舎利(おしゃか様のお骨)を捧持して五月十五日来秋、十六日市役所訪問ののち午後一時から金照寺山で奉納式典が厳かに行われた。
仏舎利奉安地鎮祭は宝塔前に祭だんがもうけられ、各地から参加した二百余名の信者の声高らかに読経の中にデパプリヤ氏(インド代表)から藤井日達氏(日本代表)を通じて藤田渓山氏(土崎)に仏舎利が渡され安置された。
続いてインド・セイロン代表の読経、日本側の奉請の後知事代理、市長の平和を願う祝詞がのべられて三時半地鎮祭を終了した。
なおこれを機会に仏舎利塔を金照寺山に建て仏教信徒のメッカとして平和への願望を永久に伝えることになり、塔の高さは八十尺、直径二十間で工費は約一千万円とみられ、秋田仏舎利世話人会が具体案をねることになっている(写真は金照寺山の仮宝塔と祝辞のべる武塙市長)
『広報あきた』昭和29年6月『広報あきた』第60号より
記事にあるように、この仏舎利塔(宝塔)は仮設のものであり、いずれは高さ25メートルほどの本格的な大宝塔を山地内に建立する計画であった。昭和28年の『広報あきた』によれば、七つ森を大宝塔の建立地とする申請があり、秋田市公園審議会が現地調査した結果、市街の展望が妨げられることと頂上が狭いため、隣接した富士見台の市有地を候補地に選定したとある。

記事中に「各地から参加した二百余名の信者」とあるのは、大正時代に藤井日達(1885-1985)によって開かれた日蓮宗系の新興教団「日本山妙法寺」の出家修行者であり、「秋田仏舎利世話人会」は、金照寺山の八幡坂を登った場所に堂宇がある「日本山妙法寺秋田道場」を本拠としていた。


日本山妙法寺秋田道場

妻帯せず、檀家も持たない日本山妙法寺の出家修行者たちは、平和行脚(あんぎゃ)と称するデモンストレーションを中心に活動、黄色の袈裟姿で団扇太鼓を叩きながら題目を唱えて歩き、そのスタイルで各地のデモ行進や座り込みにも参加する。左翼団体と行動を共にすることも多く、仏教左翼などともいわれている。

平和祈願のため日本国内外に「世界平和塔」と称する仏舎利塔を建立。成田空港建設反対運動に加わっていた昭和42年(1967)、新東京国際空港の滑走路建設予定地に「三里塚平和塔」を建てるが、後に「空港の軍事利用を行わない」との取極め書を交わし撤去。

近年の平和行脚活動を少し挙げると、沖縄の米空軍基地前で基地撤去を求めて座り込み、警察車両の通行を妨げたとして公務執行妨害の容疑で逮捕。自衛隊駐屯地や基地にスピーカーを向け、隊員に「別の職業に就きなさい」と連呼する。中国への謝罪行脚の際、抗日戦争記念館にて日本兵の侵略行為に対する謝罪の叩頭(ひざまずき頭で地面をたたく礼拝)を繰り返す。など、平和活動は結構だが、なんとも理解しがたい行動も少なくはない。

昭和40年代初頭、秋田市が泉字五庵山(通称・天徳寺山)の丘陵地に公営墓地「平和公園」を開設し、その中央広場に、世界の恒久平和を祈念した平和塔(大宝塔)を建設。それに先立つ地鎮祭には、日本山妙法寺の開祖・藤井日達も参加し、建設費として金10万円を寄贈。昭和42年9月、県民からの寄付金をもとに総工費 3.500万円、高さ25.2メートルの平和塔が完成する。


平和公園・平和塔 09.11

もともとは日本山妙法寺が単独、もしくは中心となって建立する計画であった世界平和塔(大宝塔)が、県民の寄付金をもとにした公共の平和塔に変更された要因に、過激化する日本山妙法寺の活動があり、それを懸念する意見や教団による建設に反対する声が挙がったのかもしれない。

見方を変えれば、新興教団のシンボルである平和塔を建設するための土地および資金を、秋田市がご丁寧にも調達して差し上げた結果ともいえる。いうまでもなく、平和塔建立のために浄罪を寄せた人々の大半は、その実態を知らなかったのだから、「平和」という甘い言葉で金を集めた詐欺行為といえなくもない。

日本山妙法寺の「各地の仏舎利塔」を紹介するサイトには、まるで自らの手で建立したかのように秋田の平和塔も掲載されている。

秋田 - 日本山妙法寺と藤井日達聖人:各地の佛舎利塔

平和を名目にして大金をつぎこんだ、このような大仰な宗教的建造物が、はたしてどれほどの意味を持ち、世の平和にむすびつくものだろうか。信者にとっては価値があるものなのだろうが、部外者から見れば、ナンセンス極まりない大いなる虚像である。

いずれにしろ、その建立に至る経緯を知ってしまうと、平和塔を目にするたびにどうしても日本山妙法寺の影がちらつき、不愉快な気持ちになってしまう。

今は金照寺山の笹藪に埋もれて朽ち果て、人々から忘れ去られた、僕らが「宇宙船」と呼でいた奇妙な物体こそ、秋田市街を見下ろす平和公園のシンボルとなっている、あの奇妙キテレツな平和塔の雛形であったのだ。

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日本山妙法寺大僧伽 - Wikipedia

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二〇世紀ひみつ基地 金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山


2010.06

金照寺山にニセアカシアの甘い香りが漂う初夏の頃、山道に点在する観音さんの石像が、ある日を境に真っ白なお札におおわれるのが、子ども心にとても不可思議だった。今でこそ巡礼者も少なく、お札の数は少ないが、当時は石像とセットで建てられた御詠歌の碑もろとも、白い衣装を着たかのように、観音さんは沢山のお札に埋めつくされていた。


2010.06

七つ森の登り口近くに建つ「四恩之碑」。隷書体の題字は土手長町で医院を開業していた書家・赤星藍城(あかぼしらんじょう)の揮毫。

「四恩」とは、衆生・三宝・父母・天皇(原典では国王)に対する“四つの恩”。人間はこの「四恩」を受けると説く“仏の教えを広めよう”との眼科医・堀氏の遺志を継ぎ、その婦人が昭和九年に建立した。

「四恩之碑」建立をきっかけとしてその後、妙覚寺住職を中心に、秋田市内で一月に行われる「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)の三十三観音が安置されている寺院住職らの発起により、金照寺山を三十三観音霊場とする計画が進められるが、不景気な時代だけに建立資金を集めるのに苦労したという。


2007.04




2007.04

三十三観音像のうち約半数が建立された昭和十一年六月、観音さんの縁日にあたる十八日に第一回の巡礼が行われた。
郊外金照寺山の観音初順礼
     善男善女に賑はふ

金照寺山の観音初順礼は十八日うす曇りの空の下に約五千人の善男善女をあつめ盛大に行われた。朝から梅雨をふくんだ曇天であったが市内、近郷町村から参詣にあつまった善女人の数夥しく金照寺山はどこもかしこも大賑ひ、午前十時より市内寺院住職により厳かに読経あり、完成仏体の開眼式をあげ、補陀寺住職導師のもとに三十数名の衆僧により読経、山の周囲から御詠歌の声が流れ、いたるところ香煙たちのぼっている。参道から七つ森下には腰掛け茶屋が立ちならび、又、高井農園のいちご畑には数百人を入れて非常なる賑やかさ、かくして、金照寺山は新霊場地としての名実全くととのへ、午後からも続々と参詣人があった。
昭和十一年六月十九日『秋田魁新報』より
三十三体が揃った翌昭和十二年六月十八日、曹洞宗大本山総持寺貫首・伊藤道海禅師を招請し、四恩碑前にて完成供養の大法要を営む。
‥‥前略‥‥この日午前十時より三十三観音各札番より選ばれた稚児の巡礼により数千人の善男善女がその後につゞき御詠歌を誦し同山一体はさながら人波を描き出し道路も車馬通行止めの雑踏ぶり、‥‥後略‥‥
昭和十二年六月十九日『秋田魁新報』より



2010.06

厳冬の一月十六日未明から翌朝にかけて秋田市内の寺院を巡る「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)は、平安時代後期に成立し、江戸時代に庶民のあいだで爆発的に流行した「西国三十三番札所巡礼」を縮小コピーしたバーチャル巡礼であったが、「金照寺山三十三観音巡礼」は、それをさらに縮小化したミニ巡礼。当時の一月十六日の札打ちと同じく、金照寺山でも参拝者を目当てにした、腰掛け茶屋など飲食の屋台も並んで客をもてなした。

ときには吹雪舞う厳冬の暗夜、20キロ以上の道のりをひたすら歩きつづける(今は歩く人はいないが)札打ち(久保田三十三番札所巡礼)にくらべ、足腰の弱った老人や婦人にも気軽に巡礼ができることもあって、当時の新聞記事が語るように、金照寺山の三十三観音は多くの参拝者をあつめる人気の巡礼スポットであった。

秋田市における現在の「札打ち」は、主に死者の冥福を祈る追善行事であり、打つ(貼る)札(ふだ)に近親者の戒名を書くのが通例になっているが、本来の札所巡礼は巡礼者が観音菩薩との結縁(けちえん)を願い、木製の奉納札を堂宇に打ち付けたことに由来する。


天保十一年『西国順礼道中細見大全』より

上図のような奉納札に、参拝年月日、同行者の人数、国名(住所)、氏名、祈願などを記した木札を堂宇に打ち付ける。その風習は貴重な建造物を傷めるため、のちには紙札に取って代わり、現在は箱に納めるようになった。

「西国三十三番札所巡礼」をモデルにした「久保田三十三番札所巡礼」、さらにそれをミニチュア化して、一日に数千人を集めた「金照寺山三十三観音巡礼」の初期においても同様な意味合いの巡礼が行われたものだろう。それがいつの間にか「死者の追善供養」に限定されるようになるのだが、それは意外に最近のことなのかもしれない。

「観世音菩薩」の「観世音」とは「世の音(衆生の声・願い)をよく観る」ということ。慈しみに満ちあふれる寛大な心で、苦しむ者が祈りを捧げれば、時に応じて三十三の姿に変身して救いの手を差し伸べ、苦難除去・病気平癒・子授け・願望成就・開運授福などの現世利益をもたらし、霊魂の成仏・罪障消滅・極楽往生を約束するという、なんでも揃う仏像界のデパートのようなありがたい存在。

そんな観音さまは当然に庶民の人気(信仰)をあつめ、三十三体の観音像を巡る「三十三番札所巡礼」に参拝すると、現世で犯した罪業がことごとく消滅し、極楽往生をとげることができるとされ、江戸時代に大ブームとなる。それは信仰心と遊び(行楽)が織りなす「神仏の光を仰ぎ観る」=「観光」という物見遊山の旅でもあった。

巡礼のための大量のガイドブックや御詠歌集が出版され、やがてそのブームは全国に広がり、各地に「三十三番札所」が誕生。秋田では「久保田三十三番札所巡礼」のほかに、県内全域に広がる「秋田六郡三十三観音巡礼」があるが、こちらの成立年代は長久年間(1040-1044)と古く、その後七百年余のあいだ途絶え、巡礼がブームとなった江戸中期に復活したもの。


『西国三十三所御詠歌』より




2007.04



保戸野鉄砲町の石工・三浦善一氏が「四恩之碑」の聖観音を手始めに、金照寺山三十三観音像のうち十五体を彫刻。昭和五十三年に秋田市の「技能功労者」に選ばれた名工だけに、見る者の心がほころぶ、作者の人柄がうかがえる、やさしいお顔の観音さんが多い、

建立者は資産家の婦人などの個人、各寺院の檀家有志、観音講などのグループ。著名な建立者を少し挙げると、本間金之助(本金)夫人、河村周吉(河周)婦人、笊町の花巻家、大堰端の湊家など。女性名が多いのは、金照寺山三十三観音の信仰が婦人を主体として行われたことのあかしだ。

建立から七十年以上の時を経て石像の風化が進み、宅地の造成などにより何体かは移動。誰かが持ち去ったのか、行方不明となっている石像も数体ある。


八番欠番・土台石だけが転がっている 2010.09


番外「善光寺」2010.09

三十三番目の観音像の近く、七つ森へ向かう自動車道に沿った民家の庭に、番外の「善光寺」阿弥陀如来の石像がある。阿弥陀さんを中心にして両脇に観音菩薩と勢至菩薩を配した立像は昭和十二年の建立で、裏に那波家をはじめとして十数名の建立者名が刻まれて、その隣には観音像と同じく御詠歌の碑が建つ。

三十三番の近くにあるということは、「三十三観音巡礼」を終えたあと、参詣者たちはこの阿弥陀如来像に立ち寄り、バーチャル「善光寺詣り」で巡礼を締めくくり、清々しい心持ちで家路についたものだろう。

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みちのくプチ巡礼情報:: 久保田 金照寺山 卅三番札所巡礼

永泉寺公式ホームページ 『秋田三十三観音』

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