二〇世紀ひみつ基地

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金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山


2010.06

金照寺山にニセアカシアの甘い香りが漂う初夏の頃、山道に点在する観音さんの石像が、ある日を境に真っ白なお札におおわれるのが、子ども心にとても不可思議だった。今でこそ巡礼者も少なく、お札の数は少ないが、当時は石像とセットで建てられた御詠歌の碑もろとも、白い衣装を着たかのように、観音さんは沢山のお札に埋めつくされていた。


2010.06

七つ森の登り口近くに建つ「四恩之碑」。隷書体の題字は土手長町で医院を開業していた書家・赤星藍城(あかぼしらんじょう)の揮毫。

「四恩」とは、衆生・三宝・父母・天皇(原典では国王)に対する“四つの恩”。人間はこの「四恩」を受けると説く“仏の教えを広めよう”との眼科医・堀氏の遺志を継ぎ、その婦人が昭和九年に建立した。

「四恩之碑」建立をきっかけとしてその後、妙覚寺住職を中心に、秋田市内で一月に行われる「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)の三十三観音が安置されている寺院住職らの発起により、金照寺山を三十三観音霊場とする計画が進められるが、不景気な時代だけに建立資金を集めるのに苦労したという。


2007.04




2007.04

三十三観音像のうち約半数が建立された昭和十一年六月、観音さんの縁日にあたる十八日に第一回の巡礼が行われた。
郊外金照寺山の観音初順礼
     善男善女に賑はふ

金照寺山の観音初順礼は十八日うす曇りの空の下に約五千人の善男善女をあつめ盛大に行われた。朝から梅雨をふくんだ曇天であったが市内、近郷町村から参詣にあつまった善女人の数夥しく金照寺山はどこもかしこも大賑ひ、午前十時より市内寺院住職により厳かに読経あり、完成仏体の開眼式をあげ、補陀寺住職導師のもとに三十数名の衆僧により読経、山の周囲から御詠歌の声が流れ、いたるところ香煙たちのぼっている。参道から七つ森下には腰掛け茶屋が立ちならび、又、高井農園のいちご畑には数百人を入れて非常なる賑やかさ、かくして、金照寺山は新霊場地としての名実全くととのへ、午後からも続々と参詣人があった。
昭和十一年六月十九日『秋田魁新報』より
三十三体が揃った翌昭和十二年六月十八日、曹洞宗大本山総持寺貫首・伊藤道海禅師を招請し、四恩碑前にて完成供養の大法要を営む。
‥‥前略‥‥この日午前十時より三十三観音各札番より選ばれた稚児の巡礼により数千人の善男善女がその後につゞき御詠歌を誦し同山一体はさながら人波を描き出し道路も車馬通行止めの雑踏ぶり、‥‥後略‥‥
昭和十二年六月十九日『秋田魁新報』より



2010.06

厳冬の一月十六日未明から翌朝にかけて秋田市内の寺院を巡る「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)は、平安時代後期に成立し、江戸時代に庶民のあいだで爆発的に流行した「西国三十三番札所巡礼」を縮小コピーしたバーチャル巡礼であったが、「金照寺山三十三観音巡礼」は、それをさらに縮小化したミニ巡礼。当時の一月十六日の札打ちと同じく、金照寺山でも参拝者を目当てにした、腰掛け茶屋など飲食の屋台も並んで客をもてなした。

ときには吹雪舞う厳冬の暗夜、20キロ以上の道のりをひたすら歩きつづける(今は歩く人はいないが)札打ち(久保田三十三番札所巡礼)にくらべ、足腰の弱った老人や婦人にも気軽に巡礼ができることもあって、当時の新聞記事が語るように、金照寺山の三十三観音は多くの参拝者をあつめる人気の巡礼スポットであった。

秋田市における現在の「札打ち」は、主に死者の冥福を祈る追善行事であり、打つ(貼る)札(ふだ)に近親者の戒名を書くのが通例になっているが、本来の札所巡礼は巡礼者が観音菩薩との結縁(けちえん)を願い、木製の奉納札を堂宇に打ち付けたことに由来する。


天保十一年『西国順礼道中細見大全』より

上図のような奉納札に、参拝年月日、同行者の人数、国名(住所)、氏名、祈願などを記した木札を堂宇に打ち付ける。その風習は貴重な建造物を傷めるため、のちには紙札に取って代わり、現在は箱に納めるようになった。

「西国三十三番札所巡礼」をモデルにした「久保田三十三番札所巡礼」、さらにそれをミニチュア化して、一日に数千人を集めた「金照寺山三十三観音巡礼」の初期においても同様な意味合いの巡礼が行われたものだろう。それがいつの間にか「死者の追善供養」に限定されるようになるのだが、それは意外に最近のことなのかもしれない。

「観世音菩薩」の「観世音」とは「世の音(衆生の声・願い)をよく観る」ということ。慈しみに満ちあふれる寛大な心で、苦しむ者が祈りを捧げれば、時に応じて三十三の姿に変身して救いの手を差し伸べ、苦難除去・病気平癒・子授け・願望成就・開運授福などの現世利益をもたらし、霊魂の成仏・罪障消滅・極楽往生を約束するという、なんでも揃う仏像界のデパートのようなありがたい存在。

そんな観音さまは当然に庶民の人気(信仰)をあつめ、三十三体の観音像を巡る「三十三番札所巡礼」に参拝すると、現世で犯した罪業がことごとく消滅し、極楽往生をとげることができるとされ、江戸時代に大ブームとなる。それは信仰心と遊び(行楽)が織りなす「神仏の光を仰ぎ観る」=「観光」という物見遊山の旅でもあった。

巡礼のための大量のガイドブックや御詠歌集が出版され、やがてそのブームは全国に広がり、各地に「三十三番札所」が誕生。秋田では「久保田三十三番札所巡礼」のほかに、県内全域に広がる「秋田六郡三十三観音巡礼」があるが、こちらの成立年代は長久年間(1040-1044)と古く、その後七百年余のあいだ途絶え、巡礼がブームとなった江戸中期に復活したもの。


『西国三十三所御詠歌』より




2007.04



保戸野鉄砲町の石工・三浦善一氏が「四恩之碑」の聖観音を手始めに、金照寺山三十三観音像のうち十五体を彫刻。昭和五十三年に秋田市の「技能功労者」に選ばれた名工だけに、見る者の心がほころぶ、作者の人柄がうかがえる、やさしいお顔の観音さんが多い、

建立者は資産家の婦人などの個人、各寺院の檀家有志、観音講などのグループ。著名な建立者を少し挙げると、本間金之助(本金)夫人、河村周吉(河周)婦人、笊町の花巻家、大堰端の湊家など。女性名が多いのは、金照寺山三十三観音の信仰が婦人を主体として行われたことのあかしだ。

建立から七十年以上の時を経て石像の風化が進み、宅地の造成などにより何体かは移動。誰かが持ち去ったのか、行方不明となっている石像も数体ある。


八番欠番・土台石だけが転がっている 2010.09


番外「善光寺」2010.09

三十三番目の観音像の近く、七つ森へ向かう自動車道に沿った民家の庭に、番外の「善光寺」阿弥陀如来の石像がある。阿弥陀さんを中心にして両脇に観音菩薩と勢至菩薩を配した立像は昭和十二年の建立で、裏に那波家をはじめとして十数名の建立者名が刻まれて、その隣には観音像と同じく御詠歌の碑が建つ。

三十三番の近くにあるということは、「三十三観音巡礼」を終えたあと、参詣者たちはこの阿弥陀如来像に立ち寄り、バーチャル「善光寺詣り」で巡礼を締めくくり、清々しい心持ちで家路についたものだろう。

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みちのくプチ巡礼情報:: 久保田 金照寺山 卅三番札所巡礼

永泉寺公式ホームページ 『秋田三十三観音』

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石川書店のレトロ看板・大町二丁目


石川書店・大正期

秋田市大町二丁目に明治三十七年に開店した「石川書店」。元々は「石五」(石川五右衛門)の名で代々呉服店を営んでいたという。

「石川書店」の斜め向い、日銀支店の隣には、大正五年開業の「三光堂書店」があった。

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書籍広告・大正期

昭和四十五年(1970)、今の山王大通り(竿燈大通り)の道路が拡幅され、取り壊された「三光堂書店」は中央通りに移転したが、その後廃業。

「石川書店」のあった場所は、山王大通りに面したスカイビル(スカイホテル)となり、一階で営業を続ける書店の店頭には、旧店舗に掲げられていた看板が飾られ、老舗書店の歴史を今に伝えている。

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旧店舗看板

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大理石に刻まれた風雅なおもむきの書は、秋田を代表する書家であった赤星藍城(らんじょう)の揮毫。

赤星藍城(安政四年~昭和十二年)
宮城県生まれ。明治二十年。友人の横手市の伊藤直純(政治家で文人)の招きで、大曲市に医院を開き、森吉町米内沢病院を経て、三十七年、秋田市土手長町末町(旧秋田ニューグランドホテルの地)に病院を開業。
昭和九年に来秋した、近代書道の父・比田井天来に、藍城は岐阜の百練、高知の横雲と並ぶ、地方三筆と称賛された。

かつて赤星医院と書斎「十声楼」があった、ホテル「グランティア」の前庭には、昭和四十九年に建立された藍城の書碑がある。

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スカイビル(スカイホテル)
今は幻の「殻堀橋」
赤星藍城の書斎「十声楼」について

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今は幻の「殻堀橋」

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「長町通り」大正始めころ

「長町通り」とは、川反五丁目橋から通町橋まで、旭川の東を通る土手長町通りのこと。左手には外町と内町を隔てる土手が旭川沿いに連なり、木橋の欄干には「からほり橋」「明治四二年八月・・」の文字が記されている。

撮影地点は、有楽町から五丁目橋を左手に見て、土手長町通りを北に少し進んだ「旧あきたくらぶ」のあたり。ここに橋があったなんて、今となっては信じられない。

藩政期、後の「あきたくらぶ」の地には藩営の米蔵があり、蔵の北側をとりまく堀は旭川に通じていた。この堀を「殻堀(からほり)」という。米は仙北方面から雄物川を舟で運ばれ、旭川に入り、殻堀の米蔵に荷を下ろした。その当時、土手長町は殻堀と土手で切断され、直進することができなかった。

明治四十二年(1879)、堀の両側から土をもって橋を掛けたのが「殻堀橋」。堀の水はしだいに枯れ、大正のころは小さなドブ川になっていたという。昭和七年(1932)、コンクリート橋に掛け替えられるが、戦中には堀を埋立て「殻堀橋」は撤去される。

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「からほり橋」周辺
左図・明治元年(黒い太線は土手) 右図・大正期

五丁目橋(横町橋)と四丁目橋に挟まれた赤くマーキングした地点が「殻堀橋」、黄色が「藩の米蔵」があった場所。明治元年の殻堀には小さな橋が架かっている。藩の米蔵を囲んでいた殻堀は、「あきたくらぶ」の日本庭園の池として生き残ったが、戦後、ニューグランドホテルを建てるために大幅に縮小されてしまう。

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部分拡大

左手の土手は初代藩主佐竹義宣が、久保田城下町づくりの時、築いたもので、松と桜が植えられ、北は中島から南は亀ノ丁西土手町(有楽町)まで延々と続いていたが、戦中戦後に削られ、現在のように旭川べりまで道が広げられた。

右手のきれいに刈り込まれたイチョウの木は、ニューグランドホテルの場所にあった、医師で書家の赤星藍城(らんじょう・安政四~昭和十二年)家のもので、藍城は、その書斎を「十声楼」と名付けている。その由来は、「殻堀橋」をカラコロと渡る下駄の音、「あきたくらぶ」の弦歌、旭川に櫓を漕ぐ音、つるべ井戸の音など、十種類の音がこの家に聞こえたためという。なんとも風情のある命名で、ほとんど騒音しか聞こえない現代とは隔世の感がある。

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現在の同地点

「あきたくらぶ」と「ニューグランドホテル」は倒産し、跡地にはルートインジャパン経営のホテルと、温浴施設「華の湯」が本年五月オープン。かつての堀川の名残であった池を配して、名園と謳われた「くらぶ」の庭園や、長い土塀は取り壊され、すっかり景色が変わってしまった。


大きな地図で見る
殻堀橋跡

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