二〇世紀ひみつ基地

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築百年記念・赤れんが郷土館・七夕の夕べ

◆赤れんが郷土館(旧・秋田銀行本店)百歳記念号

明治45年(1912)秋田市大町三丁目「第一国立銀行秋田支店」跡地に「秋田銀行」新館落成。同年7月7日、落成式が挙行される。当時の工費5万円弱は、今の約50億円に相当するという。


「秋田銀行」新築落成記念・絵葉書



銀行前の路上に「秋田県里程元標」が建つ。詳細は下記リンク先に。

二〇世紀ひみつ基地 里程元標のある風景・大町三丁目通り


記念スタンプ

昭和44年(1969)まで銀行として、その後は倉庫として余生を送り、一時は解体も検討されたが、昭和56年(1981)秋田市に寄贈。修復・復元工事をへて、昭和60年「赤れんが郷土館」として開放される。





明治45年(1912)7月7日の「秋田銀行」新築落成式から、ちょうど100年目にあたる七夕の日、夕刻から記念イベントが開催された。

赤れんが館 築100年記念「キャンドルナイトと雅楽の調べ」
平成24年(2012)7月7日































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笹の葉さぁらさら・赤煉瓦と七夕飾り


2012.07.06 赤れんが郷土館駐車場


「キャンドルナイトと雅楽の調べ」のお知らせ

明治45年(1912)7月7日に竣工した赤れんが館の100歳の誕生日に、ライトアップに代えてロウソクの灯りで演出するキャンドルナイトを開催します。あわせて、雅楽演奏と神楽舞を行います。

ロウソクの灯りで幻想的に浮かび上がる洋風建築と、古来から伝わる雅楽の優雅な演奏のコラボレーションで、七夕の一夜をお楽しみ下さい。

日時 平成24年7月7日(土) 午後7時~8時
会場 秋田市立赤れんが郷土館 駐車場


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大町通りを俯瞰する(其二)・戦前風景


大町三丁目から南を望む

カメラは大町三丁目通りの中央・東側に存在した火の見櫓の上から、前回の記事「大町通りを俯瞰する(其一)」とは反対の南側に延びる大町・本町通りを俯瞰している。時代は大正後期。

右手に、明治四十五年竣工の「秋田銀行本店」(現・赤れんが郷土館)、煉瓦塀で仕切られた、現在は赤れんが郷土館の駐車場兼小公園になっている場所に、手前から「鈴木文具店」、三丁目小路(現・すずらん通り)角地に「平野商店」。

創業明治二十二年という「平野商店」は、洋品・雑貨・煙草などを扱う店で、後に向い側のすずらん通り角地に移転し「ヒラノヤ洋品店」。現在は飲食店の入る貸しビルになっているが、その一角で今も煙草を扱っている。

「平野商店」の奥、三丁目小路をはさんだ角地に建つ、藩政時代からの髪結い処「勇床」は、「松村理容店」として現在までつづく床屋さん。その一軒おいて隣に「国産金銀細工 竹谷・・・」の看板が掲げられた店は、大町二丁目「竹谷」の分店か。


手前から、秋田銀行本店煉瓦塀・鈴木文具店・平野商店・勇床

本町四丁目(現・大町四丁目)に目を移すと、左手に「秋田郵便局」、その向かいに旅館「沖ノ口屋」、その南隣が今も同じ場所で診療をする「中村歯科医院」、さらに奥の二階建て洋館が「安田銀行秋田支店」と思われる。


本町四丁目

大正十五年発行の案内図によれば、「安田銀行秋田支店」の南隣に「二星太物店」「加賀正呉服店」(現在は仲小路に移転)「佐藤太物呉服店」と並ぶ。もともとは大町と同様に本町四丁目も藩政期からの呉服店街であったが、大町三町よりランクが下がり、昔は「絹布・木綿切れ・古着」の三種に限って販売が許されていた。

「秋田銀行本店」のドーム上に取り付けられた避雷針の向こうに見える大きな木造建築は、その位置と特徴からして、豊島町(現・大町五丁目)のNTT秋田大町局の場所に昭和十二年まで存在した「旭北小学校」ではないだろうか。


秋田銀行本店の避雷針越しに


大正十一年・広告


中村歯科医院(明治四十年・広告)勇床(明治三十五年・広告)

米国はキヤリホルニヤの歯科大学で習得した欧米最新式治療を謳うドクター中村。
白髪染粉の取次所で、店でも髪を染めてあげる、衛生理髪大勉強の「勇床」。


大正二年・広告

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共用栓のある風景・大町三丁目通り


秋田市大町三丁目通り・大正初期の絵葉書より

「里程元標のある風景・大町三丁目通り」で紹介したこの写真には、里程元標のほかに、近代庶民史を語るうえできわめて重要な物件が写し込まれている。

それは右手の商店(履物商・河村商店と思われる)前にある消火栓のような物体。

20060729104659.jpg
部分拡大

これは共用栓と呼ばれる共同水道の施設で、その吐水口は商店の方に向けられ、水を受ける流しは、配水が側溝に流れ落ちるように、少し傾斜がつけられている。その形状からして、どうやら英国製の獅子頭共用栓のようだ。

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獅子頭共用栓

設置された時期は、秋田市の上水道が給水を開始した明治四十年前後で、市の中心部であるだけに最も早く設置されたと思われる。

20060729104629.gif
明治四十五年「秋田市水道市街配水管線路之図」より

○(白丸)が共用栓、写真の共用栓を赤でマーキングした。
各丁の角地にほぼ一つの共用栓があり、大町三丁目通りでは両端に設置されている。

近代水道の技術は、明治期にお雇い外国人によって持ち込まれ、初期の水道管、バルブ、共用栓などの多くは英国製品が使われていた。

共用栓のデザインがライオン(獅子)なのは、それがヨーロッパでの「水の守護神」であるため。徐々に共用栓の国産化が進む過程で、ヨーロッパのライオンに代わって、アジアの水神であるところの「竜」のデザインが取り入れられた「竜口」も多くなり、家庭の小さな専用栓の方は、いつしか「蛇口」と呼ばれるようになったというのが、「蛇口」語源説のひとつ。

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「ライオン歯磨」広告 明治四十三年(1910)
バケツからこぼれた水で「ライオンはみがき」の文字を描く

今ではどこの家にも水道が引かれ、蛇口をひねれば自由に水が使えるのがあたりまえだが、水道が敷設された当初の水道料金は高く、工事費用もかさんだため、一般家庭では各町内に設置された共用栓(共用水道)を使っていた。

バケツで共同水道から水を汲み、運んで家の甕にためておく。水場から家までの往復は難儀な仕事だったろうが、それまでこの付近の生活用水は井戸の水質が悪く、旭川の流水に頼っていたことを考えると楽な作業であり、ハンドルを回せば水が無尽蔵にあふれ出る共用栓は、当時の人々には「水がわき出る魔法の筒」であった。

水道以前、旭川から水を汲んでいた時代、外町(とまち)の商家・商店では「水汲みオド」と呼ばれる水汲みのプロを雇い、男手のない家庭でもオドたちに依頼していた。しかし、水道の普及によって彼らは失業の憂き目にあう。水汲みを生業にしていたオドのなかには、「水道憎し」の思いを共用栓にぶつける者もいたようで、明治四十年の魁新聞には次のような記事がみえる。

共同栓破壊
一昨日午後市内馬口労町理髪業者○○忠吉(二一)九郎兵衛殿町指物師○○某安田銀行水汲業○○亀吉の三名は不心得にも八日町に設置ある水道用共同栓を破壊せるを発見され其筋に召喚されたるよし(筆者注・姓は伏字とした)

安田銀行に「水汲みオド」として雇われていた亀吉さんは、水道の完成により解雇され、友人らと計らって、憎らしい共用栓を壊すという暴挙にでたようだ。やけ酒をあおったあげくの行為かも知れないが、亀吉さんのその心境はわからないでもない。

「オド」=「父さん・親父」

時代は下り、ほとんどの家庭に水道が引かれた戦後も共用栓は残った。自分が物心ついた昭和三十年代、明治からの獅子頭共用栓も少しは残っていたが、その形状は、味も素っ気もない鉄製円筒柱型が主流になっていた。

20060729104543.gif


木製の鑑札が付けられた共用栓の鍵は、ラチェットレンチのような形状で、これで共用栓の出っ張ったコックを回して水を出す。あふれ出す水は、バケツを破らんばかりの勢いだった。共同水道料金は町内会費に含まれていたように思う。

昭和三十四年の秋田市における共用栓の数は、約三百五十カ所、利用戸数は二千五百戸に及んでいるが、市ではそれを減らし、消火栓を増設する方針で、年間十五~二十カ所平均を廃止する計画を発表。昭和五十五年四月時点での市内の共用栓数は八カ所を残すのみとなる。

共用栓の周りにはおのずから人が集まり、井戸端会議の場、コミュニケーションスペースとなり、夏には西瓜を冷やし、子どもたちはタライで行水したり水鉄砲で遊び、にぎやかな歓声が響いていた。そんな共同水道という時代の証言者も、やがて無用の長物と化し、昭和の路地から消えてしまうのであった。

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