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二〇世紀ひみつ基地

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来客に「茶町遠くて」不調法

茶町の茶舗「繁田園」


秋田市茶町通り「繁田園」 04.07

武州狭山、現在の埼玉県に文化十二年(1815)創業の老舗・繁田製茶が、東北地区への狭山茶販路拡大の一環として大正五年、秋田市茶町扇ノ丁に支店を開設したのが今の繁田園。この秋田店からさらに、仙台繁田園、札幌繁田園、盛岡繁田園、東京繁田園がのれん分けされた。

繁田製茶が昭和初期にはじめた茶会から、のちに煎茶道流派「狭山流」(きょうざんりゅう)が誕生する。


新聞広告 大正十年

茶袋や店舗の看板にこの「丸に玉」の商標が使われていた記憶がある。商標が現在の「丸に州浜」に変わったのは、そんなに古いことではない。


繁田園側面 04.07

時代ごとに三層構造をみせる繁田園の建物はパッチワークのようで面白い。いちばん新しいタイル張りの店舗部分。焙煎機があるモルタル造りの後方(左)部分、その真ん中の二階部分だけが創業時のものと推定される三角屋根の木造建築。

はじめに初代木造店舗の後方をモルタルで改装、次に正面の木造店舗をコンクリート建築に新改築(昭和三十六年)、という順に改築を重ねた結果、現在のようなつぎはぎ建築物になったと想像される。できるならば、山形繁田園のように初代店舗を残してほしかったが・・・。

繁田園が進出地として選んだ茶町で、藩政期に独占販売を許された商品は、茶、紙、綿のほか、砂糖、畳表、傘、位牌、扇子などの雑貨品、これらは「茶町物」と呼ばれた。かつて茶も扱っていた梅ノ丁の那波伊四郎商店(現・那波紙店)は紙専門店となり、この町の歴史からすれば新参者にすぎない繁田園が唯一の茶舗として、ときおり漂う茶葉を炒る香ばしい香りとともに、今ではすっかり茶町のシンボル的存在となっている。

●「茶町遠くて」も今は遠くて

突然の来客に対して秋田市で使われてきた「茶町とぎくて」=「茶町遠くて」という、今では聞くこともなくなったことばがある。

茶町は砂糖の専売が許された唯一の町、つまり「茶町とぎくて・・・」とは、茶請けの菓子など「甘いものが用意できなくて不調法します」といったニュアンスの言い訳のあいさつで、物資不足で砂糖が貴重品となり、めったに手に入らなかった戦時中も、さかんに使われたという、なんとも奥ゆかしきことばである。

茶町三丁(縦文字が旧町名)

北から菊ノ丁(ニューシティービル裏、現・大町二丁目)、扇ノ丁(繁田園のある、現・大町三丁目)、梅ノ丁(那波紙店のある、現・大町四丁目)の茶町三丁は、旧町名のなかでも美しい町名。

昭和四十年代に茶町の町名は消えてしまったが、平成十六年、道路の愛称として「茶町通り」の名が復活している。


茶町通り 05.03

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関連リンク

茶の繁田・株式会社ハンダ

城下町やまがた探険地図: 繁田園茶舗
大正二年開設 山形繁田園

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那波紙店・町家
日米看板対決「ローソンvs繁田園」


| 秋田市今昔 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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日米看板対決「ローソンvs繁田園」

サァーサァーお立会い、これより秋田は山王大通りに於きまして、史上まれにみる飲物容器看板対決、「ローソンのミルク缶」vs「繁田園の茶壺」の巻のはじまり、はじまり。御用とお急ぎで無い方はゆっくりと聞いておいで見ておいで。



まずはご覧あれ、手前に突き出す看板は、青地に白のミルク缶でおなじみの、もとをたどれば1939年、米国はオハイオ州のJ.J.ローソンさんが始めました、牛乳屋さんに端を発するローソンの商標。

おいしく新鮮なローソンさんの牛乳は、近在の家庭で評判を呼び大繁盛、やがてローソンミルク社という日用雑貨もあつかう会社に発展、さらには米国北部を中心にチェーン展開するまでに成長。これがコンビニエンスストア・ローソンの原点でございます。しかれども現在米国にローソンの名を冠するストアはございません。



サテその奥にひかえます、秋田市民にお馴染み、「丸に洲浜」の家印および店名を、茶壺がとり囲む繁田園の看板。武州のお茶どころ狭山、現在の埼玉県に文化十二年(1815)創業という歴史あるお茶の老舗でございます。

時空を超えた二十一世紀の秋田で相まみえました、米国代表「ミルク缶」と日本代表「茶壺」の対決、サテその対戦結果はいかがなりますことやら、それはまた次回のお楽しみということで、本日はこれにてお開きとさせていただきます。

| 散歩写真・路上観察 | 21:30 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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那波紙店・町家

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那波伊四郎商店 秋田市大町四丁目(旧・茶町梅之丁)
木造一部二階建、切妻造

茶町の通称「那波紙店」は、初代伊四郎が、那波三郎右衛門家から分家して、現在地に明治十一年(1878)創業。現在は紙・事務用機器を扱うが、創業当初は「升伊」を屋号とし、茶、砂糖などを販売していたという。当主は代々那波伊四郎を襲名。

創業時の建物は、明治十九年の俵屋火事で焼失したが、すぐに土崎湊の船宿を買い取り現在地に移築したもので、立ち上がりが高く、急勾配の屋根を構える明治期の町家と比べ、立ち上がりが低く、屋根勾配も緩いのが江戸時代の特徴という。

昭和四十年代まで、店に入ると土間があり、格子囲いの帳場で昔ながらの座売りを続けていたが、現在は改造され、近代的な店内になっている。初代から続いていたお茶の販売は、平成に入って先代が亡くなってからやめてしまった。

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道路に面した南側面

奥行きが深い角地の町家で、道を隔てた南側にも古い土蔵が現役として活躍している。

那波伊四郎商店の向かい角地(現駐車場)には、明治四十二年創業の、県内初の電動活版印刷機(県立博物館収蔵)を備えた印刷会社・秋津活版印刷所があったが平成四年に廃業。

商店の道をはさんだ北角にあった、明治四二年創業の那波陶器店が廃業したのは同じころだったろうか。那波陶器店二代目の那波浩太郎は、秋田県書道展審査員をつとめた書道家。那波雲城の雅号で県内書道界の重鎮であった。那波伊四郎商店の木彫りの屋根看板は雲城が揮毫したもの。

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那波伊四郎家の直系には、奥羽の四天王ともいわれ、その名は天下に知られた、俳人・吉川五明がいる。五明(幼名・伊五郎)は、京都から久保田に入った那波三郎衛門祐祥の五男として享保十六年に生まれ、十八歳のときに茶町菊之丁の吉川惣右衛門家の養子となる。その五代ほど後の伊四郎が那波総本家に婿養子として入り分家、それが現在の那波伊四郎家の初代ということらしい。


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那波伊四郎商店倉庫

店から少しはなれた所にある倉庫。
大正から昭和初期の建築だろうか。古い土蔵を改築した可能性もある。上部に刻まれた家印は本家・那波三郎右衛門家と同じ「一に三角」だが、「□」で囲まれている。




| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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