二〇世紀ひみつ基地

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秋田銀行発祥の地・茶町菊ノ丁



二丁目小路(現・山王大通り)方向から北に位置する、茶町菊ノ丁・上肴町・通町を望んでいる、大正期の撮影と思われる写真。

菊ノ丁は現在の大町二丁目、ニューシティビル裏通りの、かつては名だたる豪商が建ち並んだ通り。明治十九年の俵屋火事、明治三十八年の大火で被災しているため、それ以降に建てられた店が大半を占める。

西側(左手)の洋風建築が「第四十八銀行」。明治十二年に本県初の銀行「第四十八国立銀行」として、旧士族が株主となり資本金六万円で設立された。発起人は土崎の豪商・菅礼治、初代頭取に士族の代表として横手城代・戸村義得が就任。

明治五年、明治政府はアメリカの銀行制度を手本に『国立銀行条例』を制定。この条例に基づき各地に国立銀行が設立されたが、実際は民間人が経営する私立銀行であった。「第四十八」の番号は、四十八番目に設立された国立銀行を意味する。


第四十八国立銀行五円券

国立銀行紙幣は日本ではじめて造られた洋式銅凸版印刷紙幣、一円紙幣が水兵、五円紙幣が鍛冶屋の図柄で、明治政府のお雇い外国人エドアルド・キヨソネ(イタリア・銅版画家)がデザインを担当。

各国立銀行で同じ図案だが、中央下部に「第四十八国立銀行」、その両サイドに頭取・菅礼治と支配人・山中新十郎の名が配されている。


第四十八銀行(明治三十九年竣工)

明治二十二年、「第四十八国立銀行」は、株式会社「第四十八銀行」に改組。昭和十六年、第四十八銀行、秋田銀行、湯沢銀行が合併して現在の株式会社「秋田銀行」設立。

画像の洋風建築は昭和十一年解体、新築された「第四十八銀行」が、昭和十六年から「秋田銀行」本店(現在の「赤れんが館」は大町支店)、昭和四十六年、山王に新本店が落成、本店が移転した跡をうけて「秋田銀行」大町支店となる。


昭和十二年落成、第四十八銀行(合併後に秋田銀行本店、のちに秋田銀行大町支店)

昭和五十四年、現在の大町支店(秋田第一ビルディング)落成。


秋田銀行大町支店前

その昔「第四十八銀行」の場所に住んでいたのが、荒物茶紙商「吉川惣右衛門」家。吉川家には那波三郎右衛門の五男・祐之が養子に入り繁栄を極め、隠居後は「五明」の俳号で奥羽四天王と称されるほどの俳人となる。

「第四十八銀行」北隣の町家は昭和初期頃の地図によれば「那波喜助商店」。もともとは宝暦七年の銀札事件(秋田騒動)のとき札元になった豪商「見上新右衛門」家のあった所という。安永二年にエレキテルでお馴染みの平賀源内が来藩したときには見上家が宿舎に選ばれている。

「第四十八銀行」南隣に、冠木門を構える「鈴木喜右衛門」家は、久保田藩の御用商人として質屋を営んでおり、その宅地は戦後、山王大通りの拡張で道路となった。

東側(右側)に目を移すと「中村志ちや(質屋)」と判読できる町家。手前の堰には石橋が渡されている。


中村質屋

中村三右衛門・善兵衛を代々名乗った中村家は、水戸時代の佐竹氏に出入りし、秋田に移って藩の御用商人として、土崎港、能代港の開発にあたった。見上家と同じく銀札の札元。経済学博士で東大の教授も務めた中村常次郎(M40-S55)の生家でもある。

中村質屋の数軒向こうの、ひときわ軒の深い天水甕の上がっている町家が前に書いた「三浦傳六商店」。その手前に「岡田時計店」の看板が確認できる。


右に三浦傳六商店


茶町三丁(縦文字が旧町名)


現在の旧茶町菊ノ丁 07.08

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茶町の老舗・三傳


三浦傳六商店・茶町菊ノ丁

明治末から大正期の撮影と思われる、旧茶町菊ノ丁、現在の大町二丁目、ニューシティービル裏の一角に存在した、秋田の典型的な切妻の町家「三傳本店」。

破風下の三段化粧梁、二階左手に施された「うだつ」が、ひときわ眼を惹く立派な造りで、屋根には防火のための天水瓶が上がっている。

弘化四年(1847)、茶町菊ノ丁に茶紙荒物商として創業。現在は新屋に本拠を移し、総合商社として営業をつづけている。

外町を焼き尽くした明治十九年の大火・俵屋火事で類焼、再建した店も、明治三十八年、大町二丁目と茶町菊ノ丁のほとんどを焼く大火で焼失するが、このときは土崎湊上酒田町の支店(明治二十年開業)をそっくり菊ノ丁に移すことで、いち早く店を開くことができた。これが画像の店舗。


書籍広告 左・明治二十年 右・大正十一年

数字の「五」をデザイン化した鼓型の家印は「五体に通じて動かざること山のごとし」という意味があるという。

営業品目をみると、茶・紙・砂糖・畳表・小間物など、この時代になっても、藩政期に茶町で専売を許可された商品がそのまま受け継がれているのが面白い。自動車を取り扱う以前、昭和初期までの主力商品は砂糖であった。


Fig. 331 Front to Fig. 332
Bruno  Taut『Houses and People of Japan』(1937・初版) より

上の画像は、建築家・ブルーノ・タウトが昭和十年五月に秋田市を訪れ、版画家・勝平得之の案内で市内の建築物を見て回った際、タウトの助手兼通訳を務めていた上野伊三郎が撮影したもの。

この時点で「三傳本店」は東隣の上肴町、「仏壇の升谷」の向かいに移転し、画像の物件は同族会社である「三浦屋」が利用していた。


Fig. 293 Front to Fig. 294
Bruno  Taut『Houses and People of Japan』(1958・再版) より

こちらは戦後に勝平得之が撮影した「三浦屋」(旧三傳本店)。このときすでに「三浦屋」は廃業し同社経営の「秋田合同倉庫」となっている。

現在の「三傳商事」の営業品目は、紙・包装資材・生活雑貨・食品・建材・石油など。そのほか「秋田日産自動車」をはじめとする関連グループ企業も数多い。

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関連リンク

三傳商事株式会社

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タウトの観た秋田市・茶町菊ノ町・上肴町

建築家・ブルーノ・タウトが昭和十年五月に秋田市を訪れ、版画家・勝平得之の案内で市内の建築物を見て回った際、タウトの助手を務めていた上野伊三郎が撮影した写真の一部が、タウトの著書『Houses and People of Japan』(日本の家屋と生活)に記録されている。


Fig. 149 A Merchant House at Akita
『Houses and People of Japan』(1937・初版) より

ニューシティビルの裏にあたる茶町菊ノ丁から上肴町を望んでいる。

手前の「片屋商店」は、軒の出が深い妻入造りで、切妻屋根の笠木が大きく張り出した、秋田の典型的町家。一丁目小路をはさんだ民家風の平屋が「加賀屋質店(加賀富)」。その奥の二階建てが「竹小旅館」と思われる。



手前に今も残る「旧片屋商店」。「加賀屋質店」の場所は戦後になって「合同タクシー」営業所、現在は真光系新興宗教団体の秋田支部。

藩政期に茶、紙などの独占販売を許された「茶町」の最北端に位置する「片屋商店」が扱っていた商品は、和洋紙と印刷用品など。タウトの写真にもわずかにみえている二階建て(現在は理髪店)では「明治活版所」という印刷所も経営しており、「魁新報」の前身「遐邇新聞」も一時期この場所にあったようだ。


大正二年 書籍広告


04.12 旧片谷商店

貸店舗に改装され看板に覆われたものの、外観は往年のたたずまいを残している。裏側に建っていた二棟の土蔵は解体されて、現在は店舗と駐車場になっている。


Fig. 130 Houses with Deep Eaves at Akita
『Houses and People of Japan』(1958・再版) より

左に「茶町菊ノ丁の表示板がみえる「片屋商店」。右が一丁目小路の「加賀屋質店」の土蔵。こちらの写真は、『Houses and People of Japan』初版で使用した写真類を戦災で失ったため、戦後に勝平得之が撮影したものを掲載したという。


05.07

質店の土蔵は現在、薬品店の店舗として利用されている。

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ブルーノ・タウト(ひみつ基地内タグ検索)

関連リンク

建築家ブルーノ・タウト - ドイツニュースダイジェスト

ブルーノ・タウト - Wikipedia


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来客に「茶町遠くて」不調法

茶町の茶舗「繁田園」


秋田市茶町通り「繁田園」 04.07

武州狭山、現在の埼玉県に文化十二年(1815)創業の老舗・繁田製茶が、東北地区への狭山茶販路拡大の一環として大正五年、秋田市茶町扇ノ丁に支店を開設したのが今の繁田園。この秋田店からさらに、仙台繁田園、札幌繁田園、盛岡繁田園、東京繁田園がのれん分けされた。

繁田製茶が昭和初期にはじめた茶会から、のちに煎茶道流派「狭山流」(きょうざんりゅう)が誕生する。


新聞広告 大正十年

茶袋や店舗の看板にこの「丸に玉」の商標が使われていた記憶がある。商標が現在の「丸に州浜」に変わったのは、そんなに古いことではない。


繁田園側面 04.07

時代ごとに三層構造をみせる繁田園の建物はパッチワークのようで面白い。いちばん新しいタイル張りの店舗部分。焙煎機があるモルタル造りの後方(左)部分、その真ん中の二階部分だけが創業時のものと推定される三角屋根の木造建築。

はじめに初代木造店舗の後方をモルタルで改装、次に正面の木造店舗をコンクリート建築に新改築(昭和三十六年)、という順に改築を重ねた結果、現在のようなつぎはぎ建築物になったと想像される。できるならば、山形繁田園のように初代店舗を残してほしかったが・・・。

繁田園が進出地として選んだ茶町で、藩政期に独占販売を許された商品は、茶、紙、綿のほか、砂糖、畳表、傘、位牌、扇子などの雑貨品、これらは「茶町物」と呼ばれた。かつて茶も扱っていた梅ノ丁の那波伊四郎商店(現・那波紙店)は紙専門店となり、この町の歴史からすれば新参者にすぎない繁田園が唯一の茶舗として、ときおり漂う茶葉を炒る香ばしい香りとともに、今ではすっかり茶町のシンボル的存在となっている。

●「茶町遠くて」も今は遠くて

突然の来客に対して秋田市で使われてきた「茶町とぎくて」=「茶町遠くて」という、今では聞くこともなくなったことばがある。

茶町は砂糖の専売が許された唯一の町、つまり「茶町とぎくて・・・」とは、茶請けの菓子など「甘いものが用意できなくて不調法します」といったニュアンスの言い訳のあいさつで、物資不足で砂糖が貴重品となり、めったに手に入らなかった戦時中も、さかんに使われたという、なんとも奥ゆかしきことばである。

茶町三丁(縦文字が旧町名)

北から菊ノ丁(ニューシティービル裏、現・大町二丁目)、扇ノ丁(繁田園のある、現・大町三丁目)、梅ノ丁(那波紙店のある、現・大町四丁目)の茶町三丁は、旧町名のなかでも美しい町名。

昭和四十年代に茶町の町名は消えてしまったが、平成十六年、道路の愛称として「茶町通り」の名が復活している。


茶町通り 05.03

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関連リンク

茶の繁田・株式会社ハンダ

城下町やまがた探険地図: 繁田園茶舗
大正二年開設 山形繁田園

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日米看板対決「ローソンvs繁田園」


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