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百七年目の「自転車百哩大競走」復刻版


新聞広告 明治三十五年

明治35年9月21日、秋田市下肴町のハイカラ商店・大島商会の主催により開催された、県内初の本格的ロードレースと思われる「自転車百哩(マイル)大競走」から100余年の歳月が流れた、平成21年9月21日の早朝、今も同地に残る旧大島商会の前に一台の自転車の姿があった。

車上の人は当ブログの「自転車百哩大競走・大島商会主催」を読んで感銘をうけ、数ヶ月前にそのレースの再現を決意し、この日のために準備を進めてきたチャリンジャーさん。

平成21年9月21日「自転車百哩大競走」

100余年前は舗装も整備もされていない悪路がつづくコースにくわえ、あいにくの雨天、自転車の性能も今とは格段に違う。好天に恵まれたコースを完走したチャリンジャーさんは、過酷なレースにチャレンジした当時の参加者の“凄さ”を常に感じながらの走行だったとブログで語っている。

明治の世に百哩大競走を企画した大島商会店主・大嶋勘六氏をはじめ、9人のレース参加者たちも彼の世から、秋風をうけて往時と同じコースを颯爽と走るその姿を、目を細めて見守っていたのではなかろうか。



この(2009)6月6日にはおなじく大島商会主催の「自転車遠乗会」、そして今回の「百哩大競走」と、今年は当ブログのエントリーに誘発された、21世紀版復刻企画がつづいた。

それらのエントリーが心を動かし、復刻企画を実行するきっかけになったのであれば、こんなブログでも存在する価値が幾分はあったということで、書き手としては正直うれしい。

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関連リンク

そよ風と一緒に♪ : 平成の「自転車百哩大競走」 2009年9月21日
そよ風と一緒に♪ : 秋田で最初の自転車レース!?
そよ風と一緒に♪ : 平成の『自転車百哩大競走』

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百年目の自転車遠乗会そして百哩大競走



今日の秋田魁新報にこんな記事が載っていた、とのメールに添付されて、六月十一日の朝、この画像が送られてきた。

下肴町の大島商会が明治四十二年六月六日の日曜日に開催した、自転車遠乗会のことを「秋田の今昔を紹介するウェブサイト」で知り、この六月六日に、百年前と同じコースで遠乗り(サイクリング)を再現したという。

明治の世に遠乗会を企画した大島商会店主・大嶋勘六氏も彼の世から、その姿を目を細めて見守っていたのではなかろうか。


大島商店前に揃った自転車遠乗会会員たち
明治四十二年・書籍広告より

さて、大島商会はこの自転車遠乗会をさかのぼる、明治三十五年の秋、「自転車百哩大競走」なる、秋田市を早朝に出発し、海岸沿いを本荘まで南下、山越えの道を内陸に進み、浅舞、横手、六郷、大曲を経て秋田市に帰着する、100マイル自転車レースを開催。道路が整備された現代でも相当過酷な、各地から集まった猛者が参加した耐久レースだった。

この秋の同日、それと同じコース約200km を自転車で走り抜ける“復刻版百哩大競走”、いや、タイムを競うわけではないので、“復刻版百哩チャレンジ”を企画している方がいるので、いずれまた紹介するつもり。


旧大島商会店舗

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戦争と石油危機と厚生車

戦争が生んだ厚生車の時代

昭和四十年代初頭まで、人力車に似た車体に自転車を結合させた「厚生車」、いわゆる「輪タク」(自転車タクシー)が街を走り、秋田駅前で客待ちをする光景がみられた。


秋田駅前 昭和30年頃

「厚生車」のような人力三輪自転車が実用化され、全国的に普及しはじめるのは昭和十五年頃からである。

昭和十二年の日中戦争勃発後、自動車に対するガソリン消費規制は徐々に厳しさを増し、交通事業者は木炭など代用燃料への切換え、企業の整理統合を余儀なくされた。現在の「秋田合同タクシー」は、もともとは市内のタクシー業各社が、昭和十五年に整理統合された会社である。

昭和十六年に入ると米国の対日石油輸出禁止により,バス・ハイヤー・タクシーへのガソリンの割当てが全面停止された。

そんな世相のなか、大正中期から自動車の増加によって減少しつづけていた人力車の台数が増加、それの改良車である「厚生車」とともに、ふたたび脚光を浴びることになる。

「厚生車」の運転手は人力車夫からの転向や、失業したタクシー運転手が主であった。当時の「キングタクシー」の社長はタクシー会社を企業統合で手放し「厚生車」へ転向、「キング厚生車」の名で自ら運転したのが成功し、手放した営業権を買い戻して、再び会社を起ちあげたという。


●新聞広告に見る厚生車


昭和15.11 新聞広告

土崎港加賀町の「旭更生舎」は、車の販売と運転業務を兼業していたのだろうか。「人力タクシー車出現!!」というコピーからして、ここが秋田初の「厚生車」取扱店だった可能性もある。

「厚生車」という言葉について前々から疑問に思っていたが、「更生車」がその語源だろう。はじめに「更生車」のネーミングで車を販売、もしくは営業していた業者を手本に、後発の「厚生車」が誕生したと想像できる。

旧時代の人力車を「再びよみがえさせる」=「更生」させたのが「更生車」であり、戦時中は「厚生車」「国民車」「国策車」などと名付けられた、さまざまなタイプの車両が製造された。ちなみに、戦後になって戦時中に改造された「木炭車」を、再びガソリン車に再生させたバスも「更生車」と呼ばれた。


昭和16.04 新聞広告

こちらは「優先車」とネーミングされた客席が後部に付くタイプで、茶町の「遠藤自転車店」が代理店になっている。


昭和17.01 新聞広告

流線型の堅牢なカバーで客席が覆われた、サイドカータイプのちよっとカッコイイ「国民車」。


昭和17.04 新聞広告

価格は百五十円から三百五十円まで。「医師用」とあるが、戦後も診療鞄を抱えた医者が「厚生車」に乗って往診に出かける姿がみられた。社名が「旭更生舎」から「旭更生車」と変わっているのは誤植かも知れない。


●厚生車の戦後

終戦後の物資不足の時代も人力車と「厚生車」が活躍し、昭和二十三年の時点で全国で約一万三千台が営業しているものの、復興が進む昭和二十五年頃からは徐々に「三輪自動車タクシー」が「厚生車」に取って代わりはじめる。

昭和三十九年、秋田市内における「厚生車」の台数は六台。六十歳過ぎの高齢運転手ばかりで、料金は旧市内で七十円から百円。テレビを「厚生車」の客席に乗せて運んでいるのを見た記憶があるが、この時代、荷物の運搬が約八割を占め、あとの二割が主に高齢の常連客。運賃が安いことから、若い客が「自分の父親に難儀をさせているようで心苦しい」と、チップをはずむ場合も多かったという。

それから数年後、街から「厚生車」の姿が消えた。

アジア圏では今でも広く「厚生車」に似た自転車タクシーが利用されており、日本が明治初期に輸出した「人力車」を語源に、インド圏では「リクシャー」とも呼ばれている。また、先進国においても近年、エコロジーを考慮した新時代の交通手段として、自転車タクシーが見直されはじめている。


平成19.09 広小路にて

「秋田わか杉国体」期間中に市内を運行した、ドイツ製電動アシスト付き自転車タクシー「ベロタクシー」。主にボディのラッピング広告の収益によって運営されるため、運賃が比較的に低く抑えられている。

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松の木に刻まれた戦争

関連リンク

自転車タクシー フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

世界の自転車タクシー(PDFファイル) 製作:東京工業大学 屋井研究室

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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自転車百哩大競走・大島商会主催

秋田市下肴町に大島商会が創業して間もない明治三十五年(1902)の秋、大嶋勘六氏の企画により、自転車の普及宣伝を兼ねた「自転車百哩大競走」なるイベントが開催された。


新聞広告 明治三十五年

秋田市を早朝に出発、本荘、浅舞、横手、六郷、大曲を経て秋田市に帰着する、延長百二十哩(マイル)約193.1 kmの走行コース。

賞品として、一着・金側懐中時計、二着・銀側懐中時計、三着・秋田八丈一反、四着から十着・木綿反物一反が用意され、参加できる自転車として、英米製の舶来自転車主要メーカーの名前が並ぶ。まだ国産自転車は性能が低く、輸入車が主流だった。

当時、自転車を所有することができるのは、資産家か地元の名士など一部の富裕層のみ。自転車がステータスシンボルであり、また贅沢な娯楽・スポーツであった時代である。

九月二十一日の大会当日、あいにくの雨模様の中、集まった参加者は九名、午前五時三十五分スタートの号砲が鳴る。

結果およびタイムは以下の通り。

一着・三森定治氏、午後三時四分着
二着・鈴木忠治氏、午後四時二十五分着
三着・小野周八氏、午後四時二十七分着
四着・伊藤徳松氏、午後五時三十五分着

その他の出場者は午後六時までの制限時間をオーバーするため、大曲で中止したという。当時の自転車の性能と乗り心地、未舗装の道路などの条件を考えると、出場したアマチュア選手にとって、相当過酷なレースだったことが想像できる。

日本で最初の自転車競走が開催されたのが明治三十年前後、これは短距離レースだったようだが、それから五年後に大島商会が開催した百哩競走は、秋田県に於けるロードレースの嚆矢であり、全国的にみても早い時期に開催された長距離レースだったのではないだろうか。

明治期に県内初の煉瓦商店を建て、列車を利用したサイクリング大会、ロードレース、さらにはミステリートレインなどの、当時としては画期的かつ独創的なイベントを企画開催した、大島商会店主、大嶋勘六氏の先進性と行動力には目を見はるものがある。

※明治大正期の広告等の店名は「大嶋」と「大島」が混在し「大嶋」のほうが多いが、登録有形文化財の登録名は「旧大島商会店舗」であり、文献も「大島」としているものがほとんどなので、表記は「大島商会」に統一した。

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