二〇世紀ひみつ基地

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千秋公園でスケート競技大会・昭和初期映像発掘

▼秋田の競技スケート発祥地・千秋公園スケートリンク

明治42(1909)年2月、長野県上諏訪町の南信日日新聞社が主催して開催された「諏訪湖一周氷滑大会」が、日本におけるスケート競技大会の起源とされる。

この大会で使われた用具は、地元の鍛冶職人が製造した、歯の無い下駄の底に鉄製ブレードを付けた和洋折衷ハイブリッドな下駄スケート

足袋に下駄スケートをはき、木綿で平らに編んだ真田紐(さなだひも)で、足と下駄を固く結んで滑った。地域と時代によりさまざまな形態が見られるが、本格的なスケート用具よりもはるかに安価なため広く普及。戦後まで作られ、昭和30年代の頃まで使われていた。

「諏訪湖一周氷滑大会」が開催された明治42(1909)年。秋田県教育会が諏訪湖上のスケートを視察・研究するため、秋田県女子師範学校長・樋泉慶次郎を派遣。

スケート先進県・長野に刺激された県教育会は、翌明治43(1910)年1月、家に閉じこもりがちになる冬期間の戸外運動を奨励するため氷滑練習所を開設。1月30日、教職員と児童生徒らが参加して、第1回氷滑練習会を城址・千秋園(現・千秋公園)岡本堀で開催。

同明治43(1910)年2月5日の第2回、翌6日の第3回氷滑練習会は、広小路に面した穴門堀に会場を移し、500人~600人が参加。その翌週、同地で初めての氷滑競技大会が開かれた。

第2回氷滑練習会では、中土橋で見物していた二人の子どもが穴門堀に落ちるハプニングも。当時はまだ、お堀の周囲に柵は無かった。

▲この壮挙を観んと集まる者 場を挟んで両岸に人の山を築きたり▲疾走ようやく劇(はげ)しくなる頃 場の東岸より氷上めがけて飛び降りし女児の姿あり 間もなく一の男児あり 共に氷を破りて水中深く陥りしも たちまち氷上に浮出(うきいで)しが 腰より下は当然濡れ鼠の如くなりて 悄然と帰路に就きしが 見るからに憫然なりし▲これを見るや教育会にても万一を慮(おもんばか)り 直ちに危険の個所に縄張りをなしたり

明治43(1910)年2月7日付『秋田魁新報』より

翌明治44(1911)年1月、南秋田郡面潟村夜叉袋近くの八郎湖にて、県教育会主催のスケート大会、第1回「八郎湖氷上大運動会」開催。16両編成の臨時列車で八郎湖に向かった、秋田市周辺の教職員・児童生徒ら約800人に加え、八郎湖周辺から約800人が参加する大運動会。

回を重ね、観客を含めて1万人を集める大イベントに発展した「八郎湖氷上大運動会」であったが、氷の状態が不安定なことなど諸事情により、第3回大会を最後に中止に。

※岡本堀とは

大手門通りに面した「秋田県立脳血管研究センター」斜め向かい、今は大部分が埋め立てられ、その一部が児童公園になっている場所が、第1回氷滑練習会が行われた岡本堀の跡。

藩政時代、今は脳研が建つ上中城の高台に、家老クラスの屋敷が軒を並べ、岡本堀の向いに岡本又太郎(元朝)家の広大な屋敷があった。

千秋公園・岡本堀跡
▲千秋公園・岡本堀跡 2014.01


▼千秋公園穴門堀のスケートリンク

千秋公園・スケートリンク
▲『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

全国のスキー・スケート場を紹介するガイドブック『スキーとスケート』の図版。「秋田県記念館」脇の土手から、穴門堀のスケートリンクと広小路方向を望む。後方に「秋田県女子師範学校」の寄宿舎と「県立秋田図書館」が見える。

昭和初期、スケートの強豪「慶應義塾大学」スケート部が秋田市で合宿、このスケートリンクを練習場とした。

千秋公園スケートリンク
駅から三丁。古城の外濠を利用したもの。結氷の厚さは中央部で一尺五寸、岸の方で五寸。リンクの面積は横五十間、縦三十間。スケート季節は翌二月下旬まで。
『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2015.07

穴門堀のスケートリンクの呼称はさまざまで、戦前は「記念館下濠リンク」「千秋公園外濠リンク」「千秋公園スケートリンク」など、戦後になると「市営リンク」とも呼ばれる。

当初は秋田県、戦後になって秋田市が管理したリンクも、昭和30年代に入ると、氷の厚さが不足するようになり廃止される。

昭和40(1965)年頃、秋田市山王大通りに県内初の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」オープン。夏場は室内プールに模様替えした。

昭和46(1971)年11月、向浜に「秋田県立スケート場」オープン。開設当時、柱を使わないアーチ式スケート場としては、東洋一を誇る規模であった。


▼千秋公園スケートリンクで北日本氷上競技大会

前置きが長くなったが、ここからが本題。

昭和3(1928)年から昭和5(1930)年にかけて、千秋公園スケートリンクを会場に、秋田県体育協会主催「北日本氷上競技大会」を開催。

以下がその競技大会を撮影した貴重な映像。

当時の新聞記事および掲載写真を参照するに、昭和4(1929)年、第2回「北日本氷上競技大会」の映像と推定。

眼科医で写真愛好家の堀江富太郎氏(1896-1989)が、フランス製家庭用小型撮影機パテ・ベビーにて撮影。9.5mmフィルムを使用するパテ・ベビーの撮影機および映写機は、8ミリカメラが登場するまで小型映画の主流であった。

千秋公園スケート競技大会

映像の冒頭、広小路側に設けられた「スケート場」ゲートの右側に「主催 秋田県体育協会」左側の文字は解像度が低くて解読しがたいが「後援 東京日日新聞社」「協賛 秋田魁新報社」と推測。『東京日日新聞社』は『毎日新聞』東日本地区版のタイトル。当時、地域により新聞名を変えて発刊していた。

千秋公園・アイスホッケー

「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)と「県立秋田中学校」(現・県立秋田高等学校)の対戦と思われるアイスホッケーの試合。

千秋公園スケートリンク・アイスホッケー
▲昭和4年1月27日付『秋田魁新報』より
キャプション「札幌師範対秋中のアイスホッケー」

ゴールキーパーはレガース(すね当て)を着用しているものの、ほかの選手はなにも防具を着けず、シャツにタイツと半ズボンの軽装。学生帽を被っている選手もいる。

アイスホッケーの長い歴史からみれば、防具が現在のような重装備になったのは比較的に最近のこと。

昭和4(1929)年の大会で秋田中学アイスホッケー部は、格上の札幌師範との対戦で11対0と惨敗。

アイスホッケーのインターバルに披露された「慶應義塾大学」の金子、西川両選手による男性ペアスケーティングと思われる。当時の新聞記事によれば「その妙技に満場の人々を酔わせた」とのこと。

コサック帽をかぶり、胸にエンブレムのあるジャケットにネクタイ、下はタイツというスタイル。

ジャンプもなく、スピンではコケて手をついているが、まだ競技人口もきわめて少なく、年間を通して練習できる施設のなかった、フィギュアスケート黎明期の日本では、これでも最高レベルの演技で、二人は国内の大会で受賞経験がある高名な選手であった。

第1回全日本スケート選手競技大会 昭和4年1月 信州諏訪湖
フィギュア競技
2位 金子 3位 西川
ペアスケーティング
1位 西川金子組

第4回インターカレッジ・スケート選手権大会 昭和4年1月 信州松原湖
フィギュア競技
団体の部
1位 慶應大学(金子・西川・和田)
個人の部
1位 金子 3位 西川

『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

フィギュアスケートの日本語訳は描形氷滑。ブレードで氷上に形状を描くことから命名され、大正11(1922)年、長野において第1回「描形氷滑競技会」を開催。

描形氷滑という文字通り、氷上にブレードで課題の図形を描き、その正確さを競うのがフィギュアスケートの原型で、規定競技(コンパルソリー)としてオリンピックでも演技されてきたが、1990(平成2)年3月の世界選手権を最後に、国際スケート連盟の競技会では廃止された。

千秋公園スケート競技大

土手の上から撮影された、小学生と思われる短距離競走。スケートというよりも、わちゃわちゃとした氷上の駆けっこ。

昭和4(1929)年1月開催、第2回「北日本氷上選手権」の参加者は、札幌師範、秋田中学校、保戸野小学校、旭南小学校、旭北女子附属小学校、渟城小学校(能代)のほか、全県小中学校講習員と一般人、総数約100人。

秋田県記念館」脇の土手に二重三重に連なる見物の人垣。

中土橋側、広小路側にも人垣ができ、昭和3(1928)年開催、第1回「北日本氷上選手権」の模様を伝える新聞記事は「広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様」と、当日のにぎわいを記録している。

秋田和洋女子高校
▲秋田愛国女学館

昭和3(1928)年「愛国婦人会 秋田県支部」が社会救済事業の一環として開校した「秋田愛国女学館」(現・秋田和洋女子高校)と、戦後に秋田市指定保存樹となるイチョウの大樹。

秋田和洋女子高校
▲和洋女子高校 2004.04

屋上に阿部米蔵の手に成る新築記念のモニュメント「三愛のモニュマン」が輝く「和洋女子高校」の校舎も「県民会館」跡地に計画されている新文化施設の駐車場用地として、まもなく解体される。

「和洋女子高校」の移転先は現在地から北へ3分ほど歩いた同校のグランド。藩政時代は兵具庫(兵器庫)が並び、大正初期、初代「秋田赤十字病院」が開院した場所。

秋田県記念館
▲秋田県記念館(県民会館の前身)

秋田県記念館
▲秋田県記念館側面 ジオラマ

秋田県民会館
▲県民会館 2004.03

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2014.01


▼新聞記事と年鑑に見る北日本氷上競技大会

◎第1回「北日本氷上競技大会」

昭和3(1928)年1月22日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、当時、秋田市で合宿、千秋公園スケートリンクを練習場にしていた「慶應義塾大学」そして「盛岡中学校」(現・岩手県立盛岡第一高等学校)。

結成したばかりの秋田中学校アイスホッケー部は盛岡中学校との対戦で延長戦の末、接戦で勝利。

千秋公園スケート競技大会

中等校アイスホッケー
 秋中優勝す
  きのう氷上競技大会

第一回北日本氷上競技大会は既報の如く大日本氷上競技連盟 秋田県体育協会主催のもとに二十二日 記念館下濠リンクにおいて開催 午前十時まづ約百名の選手の入場式あり
‥‥中略‥‥
観衆は濠内外一ぱいにうめ 広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様であったが 中にも盛岡中学対秋田中学のアイスホッケーは技量伯仲延長戦となり観衆を熱狂せしめたが一般の戦跡は

◆中等学校フィギュアスケーティング
一等 中田(秋中)
二等 平野(盛岡)
‥‥中略‥‥

◆一般スピードレース
千五百メートル
一着 平野(慶大)三分五十九秒六
‥‥中略‥‥
五百メートル
一着 藤野(慶大)一分十二秒
‥‥中略‥‥

◆中等学校二千メートルリレー
一着 秋中チーム
‥‥中略‥‥

◆一般五千メートルスピード
一着 平野(慶大)十四分十五秒八
‥‥中略‥‥

◆一般アイスホッケー
秋田 一対二 土崎

◆一般一万メートルスピード
一着 平川(慶大)二八分十秒六
‥‥中略‥‥

◆中等学校アイスホッケー
秋中 三対二 盛中
‥‥後略‥‥

昭和3(1928)年1月23日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和3年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和3年)より

スケート用具とウエアの進化、リンク環境の変化など現在とあまりにも大きな違いがあり、単純に比較することは無意味だが、参考として、2018年3月現在の「男子スピードスケート競技日本記録一覧」を掲載しておく。

500メートル 加藤条治 34秒21 2013年1月26日 ソルトレイクシティ
1500メートル 中村奨太 1分44秒99 2014年3月16日 カルガリー
5000メートル 平子裕基 6分21秒98 2007年11月17日 カルガリー
10000メートル 土屋良輔 13分10秒31 2018年2月15日 カンヌン

スピードスケート競技の日本記録一覧 - Wikiwand

 

◎第2回「北日本氷上競技大会」

上掲映像の撮影時と思われる、昭和4(1929)年1月26日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は「慶應義塾大学」と「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会
▲リンクを圍る観衆(昨日千秋公園外濠にて)

北日本氷上
 選手権大会
  札師対秋中アイスホッケー
     ◇・・・・秋中惨敗す

県体育協会主催 北日本氷上選手権大会 並びに全県中小学校講習員氷上大会は二十六日午後一時より記念館下濠リンクに開催 遠く来征の札幌師範選手を初め秋田中学校、一般スケーター、保戸野、旭南、旭北女子附属、渟城の各小学校生徒等約百名参集 周囲は黒山の如く観客を以て埋められる 定刻 安倍体育協会長の挨拶あり 昨年の優勝校 秋田中学校より優勝旗返還し 佐野審判長の注意 安倍秋中選手の宣誓ありて一時十五分競技に入る

‥‥中略‥‥

◆北日本アイスホッケー選手権競技(中等学校)
今日の呼び物である秋田中学校と札幌師範との対抗にて
前半札幌徹頭徹尾秋中を圧迫し
‥‥中略‥‥
札幌 十一対〇 秋中
‥‥中略‥‥

スケートの妙技

札師、秋中のアイスホッケーの休息中 慶大 金子選手のフリー、金子、西川両選手のペアースケーティングその妙技に満場の人々を酔わせた

◆全県小学校優勝旗千メートルリレー
1、保戸野チーム 二分二十一秒
‥‥中略‥‥
◆講習員二百五十メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権千五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆講習員五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五千メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権二千メートルリレー

◆一般アイスホッケー
秋田チーム 三対一 土崎チーム

かくして午後六時競技終了 栄ある優勝旗は札幌師範の手に帰した

昭和4(1929)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

◎第3回「北日本氷上競技大会」

昭和5(1930)年1月26日開催、第3回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、常連の「慶應義塾大学」のほか「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)「函館商業学校」(現・北海道函館商業高等学校)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会

氷上に躍る花形
 東北スケートの争覇戦
  外濠リンクできのう

県体協主催、第三回北日本氷上選手権は慶應大学、札幌師範、函館商業を迎え、よく晴れあがって風もおだやかな日の二十六日午前八時から千秋公園外濠リンクに開催されたが記念館脇の土手から広小路にかけては中・小学生徒その他観衆三千を越ゆるの盛況、‥‥中略‥‥八時半競技に移る

◆中等学校 アイスホッケー
函商 〇対四 秋中

‥‥中略‥‥

◆一般 アイスホッケー
秋田 〇対一 土崎

‥‥中略‥‥

札幌師範再び
凱旋あぐ

◇慶大アイスホッケー模範試合
慶大 六対六 札師

‥‥中略‥‥

競技終わって慶大帯谷、金子両君の鮮やかなフリースケーティングあり次ぎに佐野副会長は札幌師範に優勝旗を授与し安倍スケート部長の発声により万歳を三唱して四時四十分散会した
(写真はアイスホッケー・外濠リンクにて)

昭和5(1930)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
『昭和5年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和5年)より

昭和6(1931)年、第4回「北日本氷上競技大会」は、千秋公園スケートリンクの結氷状態が悪かったためか、能代市の出戸沼リンクに場所を移して開催。その後、出戸沼は埋め立てられ、跡地は昭南町という名の住宅街にになっている。

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雪のドレスに雪帽子・太郎さんの冬コレ

東海林太郎・銅像
秋田県民会館下・東海林太郎胸像 2013.02

大雪の日に出現した自然の造形。

直立不動が歌唱スタイルだった東海林太郎が纏う、雪のドレスに雪帽子。肩パッドが大きくふくらんだ純白のドレスにヘンテコな帽子。こんなファッションをパリコレで見たことがある。

東海林太郎・銅像
2007.10

東海林太郎顕彰碑建設委員会によって、かつてはJOUK秋田放送のラジオ塔が存在した県民会館の裏に建てられ、昭和50(1975)年6月の除幕式でお披露目された胸像は、昭和61(1986)年、千秋公園入口に近い県民会館下に新設されたポケットパークに移設。像の前に立つとセンサーが感知し、自動的にスピーカーから歌唱が流れるようになった。

ひみつ基地内で「雪」を検索

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CGで蘇る秋田近代建築・壮麗なる文化の殿堂

秋田市内で建築パース製作会社を経営している岡本有司さんが、失われた秋田の近代建築をCGで再現、このほど開設したHP「秋田の近代建築を描く」で作品を公開している。

建築パース製作のツカサスタジオ秋田
秋田の近代建築を描く

現在公開中のCG作品は、千秋公園の入口に位置する下中城の高台に存在した「秋田県記念館」および「秋田県公会堂」。

なかでも「県記念館」と「県公会堂」が並び建つ壮麗なる景観を描いた作品が素晴らしい。是非HPで大きめの画像をご覧頂きたい。



右手奥に明治37年竣工の「県公会堂」、手前に「県公会堂」の補助施設として計画され、大正7年に竣工した「県記念館」。

「県記念館」建設中の大正7年4月29日朝、ペンキ塗り替え作業中の「県公会堂」から突然火の手が上がり、またたく間に灰燼に帰す。当初の計画はあえなく崩壊した。

「県公会堂」焼失により両会館が並び建つことが叶わなかっただけに、CGで再現された夢幻景観は実に感慨深く、中土橋に現代の風物であるババヘラアイスと人物を配置することで、過去と現在をクロスオーバーさせる演出も心憎い。

二棟の近代建築が今に残っていたら、千秋公園入口一帯は、緑と水に囲まれた、全国的にも稀少な近代文化遺産保存ゾーンとして異彩を放ち、観光の目玉となっていたことだろう。




▼下中城の高台の歴史をふり返る

藩政時代、下中城の高台は久保田藩家老・渋江内膳の大きな屋敷であった。明治維新後、その建物に藩政庁(県庁)が短期間開設される。以後、西洋医療施設の官立病院、小学校教員を養成した伝習学校(秋田大学・教育文化学部の前身)などを経て、北側に「県公会堂」、次いで南側に「県記念館」が竣工する。

大正7年、「県公会堂」焼失。その跡地に花園(庭園)を開設。
昭和7年、花園内に日本放送協会(NHK)がラジオ塔を設置。
昭和25年、花園跡地に初代「県児童会館」オープン。同時に「県記念館」南側に児童遊園地を開設。
昭和35年、老朽化を理由に「県記念館」解体。
昭和36年、「県児童会館」が中通地区に移転した跡地に「秋田県民会館」竣工。同時に「県記念館」跡地西側に「秋田県立図書館」(現・生涯学習センター分館「ジョイナス」)がオープン。

以下に過去記事から「県公会堂」および「県記念館」の画像を再掲する。


秋田県公会堂


秋田県公会堂


秋田県記念館


秋田県記念館

_________

関連リンク

建築パース製作のツカサスタジオ秋田
秋田の近代建築を描く

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象さんがやってきた!・秋田県児童文化博覧会


秋田にゾウが来た日/日印友好伝える写真 - asahi.com マイタウン秋田」より

朝日新聞秋田支局に持ち込まれたという、秋田市に初めて象がやってきた昭和25年の夏、千秋公園で撮影された写真が「asahi.com:マイタウン秋田」に掲載されている。

この年の8月、今の県民会館の地に、秋田県児童会館がオープン、記念行事として「秋田県児童文化博覧会」が開催された。その博覧会の目玉だったインド象の「インディラ」が日本に上陸したのは前年の昭和24年9月のこと。

大東亜戦争の末期、全国の動物園で食糧の確保に窮し、かさねて、空襲によって動物が逃げ出す危険性があるとの陸軍の判断に基づく命令によって、猛獣を中心に多くの動物が殺処分された。

戦前は東京・大阪・名古屋にいた象も、名古屋の東山動物園に2頭が残るのみ。象が見たいと願う東京の子どもたちのために、東京・名古屋間に15両編成の団体専用列車エレファント号が、日本交通公社と東京日日新聞の共催で運行されたこともある。

「動物園に象を」の声が高まる昭和24年、「象がほしい」という思いを子どもたちがつづった手紙を、インドのネルー首相宛てに送るキャンペーンを朝日新聞社が展開、集まった800通を上まわる手紙がネルー首相のもとに届けられた。その熱意が首相を動かし、インドからの親善大使として、首相のまな娘インディラ・ガンディーにちなんで命名された象「インディラ」が日本に贈られることに。

昭和24年9月、カルカッタから船にゆられてやってきた「インディラ」が上野動物園に到着。10月1日には両国の来賓をはじめ、約4万人の来園者が参加する中、盛大に贈呈式が挙行され、吉田茂首相が孫の麻生太郎をともない出席。



歓迎の曲を依頼された団伊玖磨が、まどみちおの詩に曲をつけた、今では誰もが知る「ぞ~うさん、ぞ~うさん、お~はながながいのね」ではじまる童謡「ぞうさん」が披露され、ネルー首相のメッセージが読みあげられた。
日本の子どもたちへ贈る言葉

皆さん。私は皆さんのお望みによって、インドの象を1頭皆さんにお送りすることを大変嬉しく思います。この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして聞くところによりますと、体に縁起の良いしるしをすっかり備えているとの事です。

皆さん、この象は私からのではなく、インドの子どもたちから日本の子どもたちへの贈り物であるとご承知ください。世界の子どもたちは多くの点で似通っています。ところが大人になると変わりだして、そして不幸なことには時々喧嘩をしたりします。私たちはこのような大人たちの喧嘩をやめさせなければなりません。そして私の願いは、インドの子どもたちや日本の子どもたちが成長したときには、おのおの自分たちの立派な祖国の為ばかりではなく、アジアと世界全体の平和と協力の為にも尽くしてほしいということです。
‥‥中略‥‥
象というのは立派な動物で、インドでは大変可愛がられ、しかも賢くて辛抱強く、しかも優しいのです。私たちも皆象の持つこれらの良い性質を身につけるようにしてゆきたいものです。終わりに皆さんに私の愛情と好意を送ります。
1949年9月1日 ジャワハルラル・ネルー

『インディラがやってきた』戦後の日本、三五〇〇キロの旅
著者・志村武夫 出版社・佼成出版社 発行年・1979

「インディラ」の到着をさかのぼる一か月ほど前、読売新聞社と講談社のキャンペーンにより、タイ王国から象の「はな子」が贈られていたため、上野動物園の象は二頭となり、ようやく明るい活気がもどった園内は、象見物の子どもらの長い行列ができ、連日のにぎわいをみせる。

そんな上野動物園の園長のもとに、全国の子どもから「象が見たい」との手紙が寄せられるようになる。園長は「日本の子どもたちへの贈り物だから」と、地方への巡回を決意、朝日新聞社を後援とする移動動物園が企画される。

「インディラ」をはじめ、マントヒヒ、サバンナモンキー、台湾猿、お猿の電車、小熊、孔雀など、13種による移動動物園は、昭和25年4月から9月まで約半年間にわたり東日本各地を有蓋貨物列車で巡回、行く先々で熱狂的に迎えられた。

秋田市に「インディラ」が滞在したのは、昭和25年8月6日から12日まで。折しも秋田市では千秋公園を会場に「秋田県児童文化博覧会」が開催中、「インディラ」一行の移動動物園は、博覧会の目玉となり、国鉄では羽越奥羽両線に臨時列車「象さん見物インディラ号」を運行し見物の便を図った。

8月6日午後4時過ぎ、秋田駅前広場に「インディラ」が姿をみせると、はじめて見る本物の象に、あたりから大きな歓声があがる。小学生の代表が歓迎の言葉をのべ、子どもたちによる「象さん歓迎の歌」、冠の贈呈などのあと、会場へと歩みをすすめる、秋田駅前から広小路を通って千秋公園まで至る沿道は、黒山の人垣で埋めつくされた。このとき、秋田駅から会場まで「インディラ」が歩いた時間を当てる懸賞も募集されている。


千秋公園・中土橋にて



「秋田県児童文化博覧会」は、秋田県児童会館の創立記念行事として、児童会館の創立に尽力した、県民生部長・小畑勇二郎(のちの秋田県知事)が企画立案し、千秋公園を会場に、秋田県・秋田教育委員会・秋田魁新報社が共催し、戦後の混乱と退廃ががつづき、非行児童の増加が問題となったこの時代に「子どもたちに夢と希望を抱かせよう」との趣旨で、昭和25年8月1日から20日まで開催された、秋田では戦後初の博覧会。その日程は「インディラ」一行の「移動動物園」の来市に合わせて組んだものと思われる。


千秋公園・中土橋



千秋公園の中土橋、記念館の入口に竜宮城をかたどった歓迎門が設けられ、新築の児童会館(現・県民会館の地)を使った郷土館を中心に、科学館(県記念館、現・ジョイナス)、児童作品館(和洋高校)、健康館(明徳小学校、現・明徳館)、交通館(警察学校、現・県立美術館)、芸能館(児童会館内劇場)など各パビリオンを配置。

そのほか、千秋公園本丸に「子ども鉄道館」、二の丸に「青空劇場」と博覧会の目玉「インディラ」一行の「移動動物園」など多彩なイベントがくり広げられた。

本丸の「子ども鉄道館」は、土崎工機部特製の10トン豆機関車に客車三両を連結して走らせ、各駅に子ども駅長を配置、車掌も中学生がつとめて、連日の超満員、切符を購入するための長蛇の列が二の丸の階段下までつづく人気だったという。



児童会館と同時に開設されたのが、県記念館の南広場の児童遊園地と、弥高神社前の梅林を撤去してつくられた「秋田県児童会館付属児童動物園」(のちの秋田市立児童動物園)。

会期中は連日の好天と「インディラ」の人気がかさなり、延べ20万人を上まわる来場者を記録して閉幕。盛況だったにもかかわらず、収支決算では約200万円(小学校教師初任給4,000円ほどの時代)の赤字だったというが、戦後の混乱がまだ残る時代に開催された児童博覧会は、未来を担う子どもたちに夢と希望というかけがえのない財産を与え、やがて訪れる高度経済成長期へのステップとなった、記念すべきイベントであった。


児童会館と千秋公園

昭和32年、ネルー・インド首相が娘のインディラ・ガンディーと共に来日、上野動物園を訪れ「インディラ」との再開を果たす。

昭和39年5月27日、ネルー首相死去。

昭和58年8月11日未明「インディラ」は49歳の天寿をまっとうして息を引き取り、その骨格標本が国立科学博物館に展示される。

昭和59年、「インディラ」の死亡を伝え聞いたインディラ・ガンディー首相から上野動物園に二頭の象が贈られる。同年10月31日、日本の子どもたちに「象のおばさん」と親しみをこめて呼ばれたインディラ・ガンディー首相がシーク教徒の警護兵により官邸で射殺される。その後任として長男のラジブ・ガンディーが就任するも、母と同じく平成3年に暗殺、インドでは「ガンディー家の悲劇」といわれている。

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