二〇世紀ひみつ基地

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秋田県民会館跡・発掘現場に明治の遺構現る

秋田県民会館解体
▲秋田県民会館解体工事 2018.06

秋田県と秋田市が提携して整備する新文化施設建設のため、2018(平成30)年5月に閉館した「秋田県民会館」の解体工事が進んでいる。

秋田県民会館・東海林太郎胸像
▲県民会館下ポケットパーク 2018.06

県民会館の下、東海林太郎の胸像があるポケットパークも建設工事にともない撤去され、胸像はアトリオン一階に一時移転。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査
▲県民会館下ポケットパーク跡 2018.07

当地は佐竹氏の重臣・渋江内膳の屋敷跡のため、県民会館周辺において、埋蔵文化財発掘調査を開始。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査
▲県民会館下ポケットパーク跡 2018.08

柵の外から発掘現場に目を凝らすと、ポケットパーク跡の地層が現れた断面の上に、なにやら煉瓦の残骸が・・・・・・。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査
▲2018.08

アスファルトに覆われていた土中から出現した煉瓦積みは、明治・大正期の文化施設「秋田県公会堂」正門の門柱を支えた土台に違いない。

過去記事で言及したように、ポケットパークの一部にかつて「秋田県公会堂」正門に通じる階段が存在した。

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂・明治40年代の絵葉書

秋田県民会館
▲県民会館下ポケットパーク 2006.05

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂・明治40年代の絵葉書より(部分拡大)

門柱の上に球形ガラスで覆われたガス灯が乗っている。

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂・明治40年頃の絵葉書より(部分拡大)

大小4本の門柱と金属製らしき門扉と両翼の柵。門柱の下部に煉瓦らしき土台。その上部のアクセントも同じ煉瓦のようだ。

ポケットパーク跡の発掘現場では、遠目に大小3本の煉瓦積み土台の痕跡を確認。それを見つけたとき、思いも寄らぬ近代建築遺構の出現に胸がときめいた。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査

中土橋通り▲秋田県公会堂と中土橋通り・明治40年代の絵葉書

上掲画像は「秋田県公会堂」裏門と中土橋通り。左手が現在の県民会館入口付近。中土橋通りに大きく突出する第二土塁(土手)に、手前の第一土塁上の樹木が影を落としている。

第二土塁の裏に、秋田の武道館「大日本武徳殿」その奥に「明徳小学校」が並ぶ。

「大日本武徳殿」は戦後、警察の武道場となり、その跡地に「旧・平野美術館」(旧・県立美術館)落成。「明徳小学校」が移転した跡地には「市立図書館・明徳館」が開館する。

以前にも書いたように、中土橋通りに突出した土塁は久保田場内に敵が侵入するのを防いだ要害のなごり。

穴門堀に面した県民会館南側の第一土塁も同様に中土橋通りに突き出し、左右から互い違いにS字型の「互い土手」を形成していた。

上掲の明治写真を撮影したカメラマンは、県民会館南側の第一土塁(S字の下部)上に三脚を据え、見下ろすようにシャッターを切った。

秋田県民会館・中土橋通り
▲県民会館入口と中土橋通り 2008.11

上掲画像右端「旧・平野美術館」(旧・県立美術館)前に第二土塁の残骸が残る。

※中土橋通りに存在した要害と、旧鷹匠町に一部が現存する「互い土手」については巻末の関連記事を参照のこと。

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂裏門付近・明治40年代の絵葉書より(部分拡大)

千秋公園へ向かう日傘の女性と紳士、その奥に着物を着た男児。第二土塁の突端で人夫らしき男が腰を下ろして一服している。

横道にそれた話を元に戻すと、上掲画像左手、坂道上の「秋田県公会堂」裏門は正門と柵でつながっていた。

東宮(皇太子時代の大正天皇)御成婚記念事業として、1904(明治37)年に落成した「秋田県公会堂」は、1918(大正7)年4月、惜しくも焼失。

「秋田県公会堂」の正門と内堀側および中土橋通り側に延びる柵は、1918(大正7)年の消火活動で破壊されることなく残る。

秋田県記念館
▲秋田県記念館入り口付近・大正期の絵葉書

「秋田県民会館」入口付近を「秋田県公会堂」焼失後に撮影した写真。右手に「秋田県記念館」(秋田県民会館の前身)。

千秋公園・中土橋通り
▲県民会館入口付近 2007.10

秋田県記念館
▲秋田県記念館入り口付近・大正期の絵葉書より(部分拡大)

昭和初期にJOUK秋田放送局の「ラジオ塔」が設置され、最近まで「秋田県民会館」駐車場と機材搬入口があった付近を拡大すると、すでに裏門は無いが、その奥に「秋田県公会堂」正門が確認できる。

昭和6年頃に中土橋通り側を撮影した写真で、柵が消えていることを考えると、大正末から昭和初期にかけて「秋田県公会堂」正門が撤去されたのではないだろうか。

その後も正門が残ったと仮定すると、大東亜戦争中の金属不足のとき、金属製の門扉と周囲の金属柵が供出され、残って不要となった門柱が撤去された可能性も否定できない。

秋田県公会堂

上掲画像を「人工知能による自動色付け」を施したあと、手動で補正・加筆。まだカラー写真が普及していない時代のため、建物の色彩は想像に過ぎない。

2018年9月20日「秋田魁新報電子版」が「秋田県公会堂」門柱土台の発掘に関する記事を掲載。下記リンク先を参照のこと。

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千秋公園でスケート競技大会・昭和初期映像発掘

▼秋田の競技スケート発祥地・千秋公園スケートリンク

明治42(1909)年2月、長野県上諏訪町の南信日日新聞社が主催して開催された「諏訪湖一周氷滑大会」が、日本におけるスケート競技大会の起源とされる。

この大会で使われた用具は、地元の鍛冶職人が製造した、歯の無い下駄の底に鉄製ブレードを付けた和洋折衷ハイブリッドな下駄スケート

足袋に下駄スケートをはき、木綿で平らに編んだ真田紐(さなだひも)で、足と下駄を固く結んで滑った。地域と時代によりさまざまな形態が見られるが、本格的なスケート用具よりもはるかに安価なため広く普及。戦後まで作られ、昭和30年代の頃まで使われていた。

「諏訪湖一周氷滑大会」が開催された明治42(1909)年。秋田県教育会が諏訪湖上のスケートを視察・研究するため、秋田県女子師範学校長・樋泉慶次郎を派遣。

スケート先進県・長野に刺激された県教育会は、翌明治43(1910)年1月、家に閉じこもりがちになる冬期間の戸外運動を奨励するため氷滑練習所を開設。1月30日、教職員と児童生徒らが参加して、第1回氷滑練習会を城址・千秋園(現・千秋公園)岡本堀で開催。

同明治43(1910)年2月5日の第2回、翌6日の第3回氷滑練習会は、広小路に面した穴門堀に会場を移し、500人~600人が参加。その翌週、同地で初めての氷滑競技大会が開かれた。

第2回氷滑練習会では、中土橋で見物していた二人の子どもが穴門堀に落ちるハプニングも。当時はまだ、お堀の周囲に柵は無かった。

▲この壮挙を観んと集まる者 場を挟んで両岸に人の山を築きたり▲疾走ようやく劇(はげ)しくなる頃 場の東岸より氷上めがけて飛び降りし女児の姿あり 間もなく一の男児あり 共に氷を破りて水中深く陥りしも たちまち氷上に浮出(うきいで)しが 腰より下は当然濡れ鼠の如くなりて 悄然と帰路に就きしが 見るからに憫然なりし▲これを見るや教育会にても万一を慮(おもんばか)り 直ちに危険の個所に縄張りをなしたり

明治43(1910)年2月7日付『秋田魁新報』より

翌明治44(1911)年1月、南秋田郡面潟村夜叉袋近くの八郎湖にて、県教育会主催のスケート大会、第1回「八郎湖氷上大運動会」開催。16両編成の臨時列車で八郎湖に向かった、秋田市周辺の教職員・児童生徒ら約800人に加え、八郎湖周辺から約800人が参加する大運動会。

回を重ね、観客を含めて1万人を集める大イベントに発展した「八郎湖氷上大運動会」であったが、氷の状態が不安定なことなど諸事情により、第3回大会を最後に中止に。

※岡本堀とは

大手門通りに面した「秋田県立脳血管研究センター」斜め向かい、今は大部分が埋め立てられ、その一部が児童公園になっている場所が、第1回氷滑練習会が行われた岡本堀の跡。

藩政時代、今は脳研が建つ上中城の高台に、家老クラスの屋敷が軒を並べ、岡本堀の向いに岡本又太郎(元朝)家の広大な屋敷があった。

千秋公園・岡本堀跡
▲千秋公園・岡本堀跡 2014.01


▼千秋公園穴門堀のスケートリンク

千秋公園・スケートリンク
▲『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

全国のスキー・スケート場を紹介するガイドブック『スキーとスケート』の図版。「秋田県記念館」脇の土手から、穴門堀のスケートリンクと広小路方向を望む。後方に「秋田県女子師範学校」の寄宿舎と「県立秋田図書館」が見える。

昭和初期、スケートの強豪「慶應義塾大学」スケート部が秋田市で合宿、このスケートリンクを練習場とした。

千秋公園スケートリンク
駅から三丁。古城の外濠を利用したもの。結氷の厚さは中央部で一尺五寸、岸の方で五寸。リンクの面積は横五十間、縦三十間。スケート季節は翌二月下旬まで。
『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2015.07

穴門堀のスケートリンクの呼称はさまざまで、戦前は「記念館下濠リンク」「千秋公園外濠リンク」「千秋公園スケートリンク」など、戦後になると「市営リンク」とも呼ばれる。

当初は秋田県、戦後になって秋田市が管理したリンクも、昭和30年代に入ると、氷の厚さが不足するようになり廃止される。

昭和40(1965)年頃、秋田市山王大通りに県内初の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」オープン。夏場は室内プールに模様替えした。

昭和46(1971)年11月、向浜に「秋田県立スケート場」オープン。開設当時、柱を使わないアーチ式スケート場としては、東洋一を誇る規模であった。


▼千秋公園スケートリンクで北日本氷上競技大会

前置きが長くなったが、ここからが本題。

昭和3(1928)年から昭和5(1930)年にかけて、千秋公園スケートリンクを会場に、秋田県体育協会主催「北日本氷上競技大会」を開催。

以下がその競技大会を撮影した貴重な映像。

当時の新聞記事および掲載写真を参照するに、昭和4(1929)年、第2回「北日本氷上競技大会」の映像と推定。

眼科医で写真愛好家の堀江富太郎氏(1896-1989)が、フランス製家庭用小型撮影機パテ・ベビーにて撮影。9.5mmフィルムを使用するパテ・ベビーの撮影機および映写機は、8ミリカメラが登場するまで小型映画の主流であった。

千秋公園スケート競技大会

映像の冒頭、広小路側に設けられた「スケート場」ゲートの右側に「主催 秋田県体育協会」左側の文字は解像度が低くて解読しがたいが「後援 東京日日新聞社」「協賛 秋田魁新報社」と推測。『東京日日新聞社』は『毎日新聞』東日本地区版のタイトル。当時、地域により新聞名を変えて発刊していた。

千秋公園・アイスホッケー


▲GIFアニメ(動かない場合は画像をクリック)

「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)と「県立秋田中学校」(現・県立秋田高等学校)の対戦と思われるアイスホッケーの試合。

千秋公園スケートリンク・アイスホッケー
▲昭和4年1月27日付『秋田魁新報』より
キャプション「札幌師範対秋中のアイスホッケー」

ゴールキーパーはレガース(すね当て)を着用しているものの、ほかの選手はなにも防具を着けず、シャツにタイツと半ズボンの軽装。学生帽を被っている選手もいる。

アイスホッケーの長い歴史からみれば、防具が現在のような重装備になったのは比較的に最近のこと。

昭和4(1929)年の大会で秋田中学アイスホッケー部は、格上の札幌師範との対戦で11対0と惨敗。


▲GIFアニメ(動かない場合は画像をクリック)

アイスホッケーのインターバルに披露された「慶應義塾大学」の金子、西川両選手による男性ペアスケーティングと思われる。当時の新聞記事によれば「その妙技に満場の人々を酔わせた」とのこと。

コサック帽をかぶり、胸にエンブレムのあるジャケットにネクタイ、下はタイツというスタイル。

ジャンプもなく、スピンではコケて手をついているが、まだ競技人口もきわめて少なく、年間を通して練習できる施設のなかった、フィギュアスケート黎明期の日本では、これでも最高レベルの演技で、二人は国内の大会で受賞経験がある高名な選手であった。

第1回全日本スケート選手競技大会 昭和4年1月 信州諏訪湖
フィギュア競技
2位 金子 3位 西川
ペアスケーティング
1位 西川金子組

第4回インターカレッジ・スケート選手権大会 昭和4年1月 信州松原湖
フィギュア競技
団体の部
1位 慶應大学(金子・西川・和田)
個人の部
1位 金子 3位 西川

『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

フィギュアスケートの日本語訳は描形氷滑。ブレードで氷上に形状を描くことから命名され、大正11(1922)年、長野において第1回「描形氷滑競技会」を開催。

描形氷滑という文字通り、氷上にブレードで課題の図形を描き、その正確さを競うのがフィギュアスケートの原型で、規定競技(コンパルソリー)としてオリンピックでも演技されてきたが、1990(平成2)年3月の世界選手権を最後に、国際スケート連盟の競技会では廃止された。

千秋公園スケート競技大

土手の上から撮影された、小学生と思われる短距離競走。スケートというよりも、わちゃわちゃとした氷上の駆けっこ。

昭和4(1929)年1月開催、第2回「北日本氷上選手権」の参加者は、札幌師範、秋田中学校、保戸野小学校、旭南小学校、旭北女子附属小学校、渟城小学校(能代)のほか、全県小中学校講習員と一般人、総数約100人。


▲GIFアニメ(動かない場合は画像をクリック)

秋田県記念館」脇の土手に二重三重に連なる見物の人垣。

中土橋側、広小路側にも人垣ができ、昭和3(1928)年開催、第1回「北日本氷上選手権」の模様を伝える新聞記事は「広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様」と、当日のにぎわいを記録している。

秋田和洋女子高校
▲秋田愛国女学館

昭和3(1928)年「愛国婦人会 秋田県支部」が社会救済事業の一環として開校した「秋田愛国女学館」(現・秋田和洋女子高校)と、戦後に秋田市指定保存樹となるイチョウの大樹。

秋田和洋女子高校
▲和洋女子高校 2004.04

屋上に阿部米蔵の手に成る新築記念のモニュメント「三愛のモニュマン」が輝く「和洋女子高校」の校舎も「県民会館」跡地に計画されている新文化施設の駐車場用地として、まもなく解体される。

「和洋女子高校」の移転先は現在地から北へ3分ほど歩いた同校のグランド。藩政時代は兵具庫(兵器庫)が並び、大正初期、初代「秋田赤十字病院」が開院した場所。

秋田県記念館
▲秋田県記念館(県民会館の前身)

秋田県記念館
▲秋田県記念館側面 ジオラマ

秋田県民会館
▲県民会館 2004.03

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2014.01


▼新聞記事と年鑑に見る北日本氷上競技大会

◎第1回「北日本氷上競技大会」

昭和3(1928)年1月22日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、当時、秋田市で合宿、千秋公園スケートリンクを練習場にしていた「慶應義塾大学」そして「盛岡中学校」(現・岩手県立盛岡第一高等学校)。

結成したばかりの秋田中学校アイスホッケー部は盛岡中学校との対戦で延長戦の末、接戦で勝利。

千秋公園スケート競技大会

中等校アイスホッケー
 秋中優勝す
  きのう氷上競技大会

第一回北日本氷上競技大会は既報の如く大日本氷上競技連盟 秋田県体育協会主催のもとに二十二日 記念館下濠リンクにおいて開催 午前十時まづ約百名の選手の入場式あり
‥‥中略‥‥
観衆は濠内外一ぱいにうめ 広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様であったが 中にも盛岡中学対秋田中学のアイスホッケーは技量伯仲延長戦となり観衆を熱狂せしめたが一般の戦跡は

◆中等学校フィギュアスケーティング
一等 中田(秋中)
二等 平野(盛岡)
‥‥中略‥‥

◆一般スピードレース
千五百メートル
一着 平野(慶大)三分五十九秒六
‥‥中略‥‥
五百メートル
一着 藤野(慶大)一分十二秒
‥‥中略‥‥

◆中等学校二千メートルリレー
一着 秋中チーム
‥‥中略‥‥

◆一般五千メートルスピード
一着 平野(慶大)十四分十五秒八
‥‥中略‥‥

◆一般アイスホッケー
秋田 一対二 土崎

◆一般一万メートルスピード
一着 平川(慶大)二八分十秒六
‥‥中略‥‥

◆中等学校アイスホッケー
秋中 三対二 盛中
‥‥後略‥‥

昭和3(1928)年1月23日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和3年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和3年)より

スケート用具とウエアの進化、リンク環境の変化など現在とあまりにも大きな違いがあり、単純に比較することは無意味だが、参考として、2018年3月現在の「男子スピードスケート競技日本記録一覧」を掲載しておく。

500メートル 加藤条治 34秒21 2013年1月26日 ソルトレイクシティ
1500メートル 中村奨太 1分44秒99 2014年3月16日 カルガリー
5000メートル 平子裕基 6分21秒98 2007年11月17日 カルガリー
10000メートル 土屋良輔 13分10秒31 2018年2月15日 カンヌン

スピードスケート競技の日本記録一覧 - Wikiwand

 

◎第2回「北日本氷上競技大会」

上掲映像の撮影時と思われる、昭和4(1929)年1月26日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は「慶應義塾大学」と「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会
▲リンクを圍る観衆(昨日千秋公園外濠にて)

北日本氷上
 選手権大会
  札師対秋中アイスホッケー
     ◇・・・・秋中惨敗す

県体育協会主催 北日本氷上選手権大会 並びに全県中小学校講習員氷上大会は二十六日午後一時より記念館下濠リンクに開催 遠く来征の札幌師範選手を初め秋田中学校、一般スケーター、保戸野、旭南、旭北女子附属、渟城の各小学校生徒等約百名参集 周囲は黒山の如く観客を以て埋められる 定刻 安倍体育協会長の挨拶あり 昨年の優勝校 秋田中学校より優勝旗返還し 佐野審判長の注意 安倍秋中選手の宣誓ありて一時十五分競技に入る

‥‥中略‥‥

◆北日本アイスホッケー選手権競技(中等学校)
今日の呼び物である秋田中学校と札幌師範との対抗にて
前半札幌徹頭徹尾秋中を圧迫し
‥‥中略‥‥
札幌 十一対〇 秋中
‥‥中略‥‥

スケートの妙技

札師、秋中のアイスホッケーの休息中 慶大 金子選手のフリー、金子、西川両選手のペアースケーティングその妙技に満場の人々を酔わせた

◆全県小学校優勝旗千メートルリレー
1、保戸野チーム 二分二十一秒
‥‥中略‥‥
◆講習員二百五十メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権千五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆講習員五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五千メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権二千メートルリレー

◆一般アイスホッケー
秋田チーム 三対一 土崎チーム

かくして午後六時競技終了 栄ある優勝旗は札幌師範の手に帰した

昭和4(1929)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

◎第3回「北日本氷上競技大会」

昭和5(1930)年1月26日開催、第3回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、常連の「慶應義塾大学」のほか「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)「函館商業学校」(現・北海道函館商業高等学校)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会

氷上に躍る花形
 東北スケートの争覇戦
  外濠リンクできのう

県体協主催、第三回北日本氷上選手権は慶應大学、札幌師範、函館商業を迎え、よく晴れあがって風もおだやかな日の二十六日午前八時から千秋公園外濠リンクに開催されたが記念館脇の土手から広小路にかけては中・小学生徒その他観衆三千を越ゆるの盛況、‥‥中略‥‥八時半競技に移る

◆中等学校 アイスホッケー
函商 〇対四 秋中

‥‥中略‥‥

◆一般 アイスホッケー
秋田 〇対一 土崎

‥‥中略‥‥

札幌師範再び
凱旋あぐ

◇慶大アイスホッケー模範試合
慶大 六対六 札師

‥‥中略‥‥

競技終わって慶大帯谷、金子両君の鮮やかなフリースケーティングあり次ぎに佐野副会長は札幌師範に優勝旗を授与し安倍スケート部長の発声により万歳を三唱して四時四十分散会した
(写真はアイスホッケー・外濠リンクにて)

昭和5(1930)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
『昭和5年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和5年)より

昭和6(1931)年、第4回「北日本氷上競技大会」は、千秋公園スケートリンクの結氷状態が悪かったためか、能代市の出戸沼リンクに場所を移して開催。その後、出戸沼は埋め立てられ、跡地は昭南町という名の住宅街にになっている。

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雪のドレスに雪帽子・太郎さんの冬コレ

東海林太郎・銅像
秋田県民会館下・東海林太郎胸像 2013.02

大雪の日に出現した自然の造形。

直立不動が歌唱スタイルだった東海林太郎が纏う、雪のドレスに雪帽子。肩パッドが大きくふくらんだ純白のドレスにヘンテコな帽子。こんなファッションをパリコレで見たことがある。

東海林太郎・銅像
2007.10

東海林太郎顕彰碑建設委員会によって、かつてはJOUK秋田放送のラジオ塔が存在した県民会館の裏に建てられ、昭和50(1975)年6月の除幕式でお披露目された胸像は、昭和61(1986)年、千秋公園入口に近い県民会館下に新設されたポケットパークに移設。像の前に立つとセンサーが感知し、自動的にスピーカーから歌唱が流れるようになった。

ひみつ基地内で「雪」を検索

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CGで蘇る秋田近代建築・壮麗なる文化の殿堂

秋田市内で建築パース製作会社を経営している岡本有司さんが、失われた秋田の近代建築をCGで再現、このほど開設したHP「秋田の近代建築を描く」で作品を公開している。

建築パース製作のツカサスタジオ秋田
秋田の近代建築を描く

現在公開中のCG作品は、千秋公園の入口に位置する下中城の高台に存在した「秋田県記念館」および「秋田県公会堂」。

なかでも「県記念館」と「県公会堂」が並び建つ壮麗なる景観を描いた作品が素晴らしい。是非HPで大きめの画像をご覧頂きたい。



右手奥に明治37年竣工の「県公会堂」、手前に「県公会堂」の補助施設として計画され、大正7年に竣工した「県記念館」。

「県記念館」建設中の大正7年4月29日朝、ペンキ塗り替え作業中の「県公会堂」から突然火の手が上がり、またたく間に灰燼に帰す。当初の計画はあえなく崩壊した。

「県公会堂」焼失により両会館が並び建つことが叶わなかっただけに、CGで再現された夢幻景観は実に感慨深く、中土橋に現代の風物であるババヘラアイスと人物を配置することで、過去と現在をクロスオーバーさせる演出も心憎い。

二棟の近代建築が今に残っていたら、千秋公園入口一帯は、緑と水に囲まれた、全国的にも稀少な近代文化遺産保存ゾーンとして異彩を放ち、観光の目玉となっていたことだろう。




▼下中城の高台の歴史をふり返る

藩政時代、下中城の高台は久保田藩家老・渋江内膳の大きな屋敷であった。明治維新後、その建物に藩政庁(県庁)が短期間開設される。以後、西洋医療施設の官立病院、小学校教員を養成した伝習学校(秋田大学・教育文化学部の前身)などを経て、北側に「県公会堂」、次いで南側に「県記念館」が竣工する。

大正7年、「県公会堂」焼失。その跡地に花園(庭園)を開設。
昭和7年、花園内に日本放送協会(NHK)がラジオ塔を設置。
昭和25年、花園跡地に初代「県児童会館」オープン。同時に「県記念館」南側に児童遊園地を開設。
昭和35年、老朽化を理由に「県記念館」解体。
昭和36年、「県児童会館」が中通地区に移転した跡地に「秋田県民会館」竣工。同時に「県記念館」跡地西側に「秋田県立図書館」(現・生涯学習センター分館「ジョイナス」)がオープン。

以下に過去記事から「県公会堂」および「県記念館」の画像を再掲する。


秋田県公会堂


秋田県公会堂


秋田県記念館


秋田県記念館

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関連リンク

建築パース製作のツカサスタジオ秋田
秋田の近代建築を描く

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