二〇世紀ひみつ基地

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雪のドレスに雪帽子・太郎さんの冬コレ

東海林太郎・銅像
秋田県民会館下・東海林太郎胸像 2013.02

大雪の日に出現した自然の造形。

直立不動が歌唱スタイルだった東海林太郎が纏う、雪のドレスに雪帽子。肩パッドが大きくふくらんだ純白のドレスにヘンテコな帽子。こんなファッションをパリコレで見たことがある。

東海林太郎・銅像
2007.10

東海林太郎顕彰碑建設委員会によって、かつてはJOUK秋田放送のラジオ塔が存在した県民会館の裏に建てられ、昭和50(1975)年6月の除幕式でお披露目された胸像は、昭和61(1986)年、千秋公園入口に近い県民会館下に新設されたポケットパークに移設。像の前に立つとセンサーが感知し、自動的にスピーカーから歌唱が流れるようになった。

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CGで蘇る秋田近代建築・壮麗なる文化の殿堂

秋田市内で建築パース製作会社を経営している岡本有司さんが、失われた秋田の近代建築をCGで再現、このほど開設したHP「秋田の近代建築を描く」で作品を公開している。

建築パース製作のツカサスタジオ秋田
秋田の近代建築を描く

現在公開中のCG作品は、千秋公園の入口に位置する下中城の高台に存在した「秋田県記念館」および「秋田県公会堂」。

なかでも「県記念館」と「県公会堂」が並び建つ壮麗なる景観を描いた作品が素晴らしい。是非HPで大きめの画像をご覧頂きたい。



右手奥に明治37年竣工の「県公会堂」、手前に「県公会堂」の補助施設として計画され、大正7年に竣工した「県記念館」。

「県記念館」建設中の大正7年4月29日朝、ペンキ塗り替え作業中の「県公会堂」から突然火の手が上がり、またたく間に灰燼に帰す。当初の計画はあえなく崩壊した。

「県公会堂」焼失により両会館が並び建つことが叶わなかっただけに、CGで再現された夢幻景観は実に感慨深く、中土橋に現代の風物であるババヘラアイスと人物を配置することで、過去と現在をクロスオーバーさせる演出も心憎い。

二棟の近代建築が今に残っていたら、千秋公園入口一帯は、緑と水に囲まれた、全国的にも稀少な近代文化遺産保存ゾーンとして異彩を放ち、観光の目玉となっていたことだろう。




▼下中城の高台の歴史をふり返る

藩政時代、下中城の高台は久保田藩家老・渋江内膳の大きな屋敷であった。明治維新後、その建物に藩政庁(県庁)が短期間開設される。以後、西洋医療施設の官立病院、小学校教員を養成した伝習学校(秋田大学・教育文化学部の前身)などを経て、北側に「県公会堂」、次いで南側に「県記念館」が竣工する。

大正7年、「県公会堂」焼失。その跡地に花園(庭園)を開設。
昭和7年、花園内に日本放送協会(NHK)がラジオ塔を設置。
昭和25年、花園跡地に初代「県児童会館」オープン。同時に「県記念館」南側に児童遊園地を開設。
昭和35年、老朽化を理由に「県記念館」解体。
昭和36年、「県児童会館」が中通地区に移転した跡地に「秋田県民会館」竣工。同時に「県記念館」跡地西側に「秋田県立図書館」(現・生涯学習センター分館「ジョイナス」)がオープン。

以下に過去記事から「県公会堂」および「県記念館」の画像を再掲する。


秋田県公会堂


秋田県公会堂


秋田県記念館


秋田県記念館

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象さんがやってきた!・秋田県児童文化博覧会


秋田にゾウが来た日/日印友好伝える写真 - asahi.com マイタウン秋田」より

朝日新聞秋田支局に持ち込まれたという、秋田市に初めて象がやってきた昭和25年の夏、千秋公園で撮影された写真が「asahi.com:マイタウン秋田」に掲載されている。

この年の8月、今の県民会館の地に、秋田県児童会館がオープン、記念行事として「秋田県児童文化博覧会」が開催された。その博覧会の目玉だったインド象の「インディラ」が日本に上陸したのは前年の昭和24年9月のこと。

大東亜戦争の末期、全国の動物園で食糧の確保に窮し、かさねて、空襲によって動物が逃げ出す危険性があるとの陸軍の判断に基づく命令によって、猛獣を中心に多くの動物が殺処分された。

戦前は東京・大阪・名古屋にいた象も、名古屋の東山動物園に2頭が残るのみ。象が見たいと願う東京の子どもたちのために、東京・名古屋間に15両編成の団体専用列車エレファント号が、日本交通公社と東京日日新聞の共催で運行されたこともある。

「動物園に象を」の声が高まる昭和24年、「象がほしい」という思いを子どもたちがつづった手紙を、インドのネルー首相宛てに送るキャンペーンを朝日新聞社が展開、集まった800通を上まわる手紙がネルー首相のもとに届けられた。その熱意が首相を動かし、インドからの親善大使として、首相のまな娘インディラ・ガンディーにちなんで命名された象「インディラ」が日本に贈られることに。

昭和24年9月、カルカッタから船にゆられてやってきた「インディラ」が上野動物園に到着。10月1日には両国の来賓をはじめ、約4万人の来園者が参加する中、盛大に贈呈式が挙行され、吉田茂首相が孫の麻生太郎をともない出席。



歓迎の曲を依頼された団伊玖磨が、まどみちおの詩に曲をつけた、今では誰もが知る「ぞ~うさん、ぞ~うさん、お~はながながいのね」ではじまる童謡「ぞうさん」が披露され、ネルー首相のメッセージが読みあげられた。
日本の子どもたちへ贈る言葉

皆さん。私は皆さんのお望みによって、インドの象を1頭皆さんにお送りすることを大変嬉しく思います。この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして聞くところによりますと、体に縁起の良いしるしをすっかり備えているとの事です。

皆さん、この象は私からのではなく、インドの子どもたちから日本の子どもたちへの贈り物であるとご承知ください。世界の子どもたちは多くの点で似通っています。ところが大人になると変わりだして、そして不幸なことには時々喧嘩をしたりします。私たちはこのような大人たちの喧嘩をやめさせなければなりません。そして私の願いは、インドの子どもたちや日本の子どもたちが成長したときには、おのおの自分たちの立派な祖国の為ばかりではなく、アジアと世界全体の平和と協力の為にも尽くしてほしいということです。
‥‥中略‥‥
象というのは立派な動物で、インドでは大変可愛がられ、しかも賢くて辛抱強く、しかも優しいのです。私たちも皆象の持つこれらの良い性質を身につけるようにしてゆきたいものです。終わりに皆さんに私の愛情と好意を送ります。
1949年9月1日 ジャワハルラル・ネルー

『インディラがやってきた』戦後の日本、三五〇〇キロの旅
著者・志村武夫 出版社・佼成出版社 発行年・1979

「インディラ」の到着をさかのぼる一か月ほど前、読売新聞社と講談社のキャンペーンにより、タイ王国から象の「はな子」が贈られていたため、上野動物園の象は二頭となり、ようやく明るい活気がもどった園内は、象見物の子どもらの長い行列ができ、連日のにぎわいをみせる。

そんな上野動物園の園長のもとに、全国の子どもから「象が見たい」との手紙が寄せられるようになる。園長は「日本の子どもたちへの贈り物だから」と、地方への巡回を決意、朝日新聞社を後援とする移動動物園が企画される。

「インディラ」をはじめ、マントヒヒ、サバンナモンキー、台湾猿、お猿の電車、小熊、孔雀など、13種による移動動物園は、昭和25年4月から9月まで約半年間にわたり東日本各地を有蓋貨物列車で巡回、行く先々で熱狂的に迎えられた。

秋田市に「インディラ」が滞在したのは、昭和25年8月6日から12日まで。折しも秋田市では千秋公園を会場に「秋田県児童文化博覧会」が開催中、「インディラ」一行の移動動物園は、博覧会の目玉となり、国鉄では羽越奥羽両線に臨時列車「象さん見物インディラ号」を運行し見物の便を図った。

8月6日午後4時過ぎ、秋田駅前広場に「インディラ」が姿をみせると、はじめて見る本物の象に、あたりから大きな歓声があがる。小学生の代表が歓迎の言葉をのべ、子どもたちによる「象さん歓迎の歌」、冠の贈呈などのあと、会場へと歩みをすすめる、秋田駅前から広小路を通って千秋公園まで至る沿道は、黒山の人垣で埋めつくされた。このとき、秋田駅から会場まで「インディラ」が歩いた時間を当てる懸賞も募集されている。


千秋公園・中土橋にて



「秋田県児童文化博覧会」は、秋田県児童会館の創立記念行事として、児童会館の創立に尽力した、県民生部長・小畑勇二郎(のちの秋田県知事)が企画立案し、千秋公園を会場に、秋田県・秋田教育委員会・秋田魁新報社が共催し、戦後の混乱と退廃ががつづき、非行児童の増加が問題となったこの時代に「子どもたちに夢と希望を抱かせよう」との趣旨で、昭和25年8月1日から20日まで開催された、秋田では戦後初の博覧会。その日程は「インディラ」一行の「移動動物園」の来市に合わせて組んだものと思われる。


千秋公園・中土橋



千秋公園の中土橋、記念館の入口に竜宮城をかたどった歓迎門が設けられ、新築の児童会館(現・県民会館の地)を使った郷土館を中心に、科学館(県記念館、現・ジョイナス)、児童作品館(和洋高校)、健康館(明徳小学校、現・明徳館)、交通館(警察学校、現・県立美術館)、芸能館(児童会館内劇場)など各パビリオンを配置。

そのほか、千秋公園本丸に「子ども鉄道館」、二の丸に「青空劇場」と博覧会の目玉「インディラ」一行の「移動動物園」など多彩なイベントがくり広げられた。

本丸の「子ども鉄道館」は、土崎工機部特製の10トン豆機関車に客車三両を連結して走らせ、各駅に子ども駅長を配置、車掌も中学生がつとめて、連日の超満員、切符を購入するための長蛇の列が二の丸の階段下までつづく人気だったという。



児童会館と同時に開設されたのが、県記念館の南広場の児童遊園地と、弥高神社前の梅林を撤去してつくられた「秋田県児童会館付属児童動物園」(のちの秋田市立児童動物園)。

会期中は連日の好天と「インディラ」の人気がかさなり、延べ20万人を上まわる来場者を記録して閉幕。盛況だったにもかかわらず、収支決算では約200万円(小学校教師初任給4,000円ほどの時代)の赤字だったというが、戦後の混乱がまだ残る時代に開催された児童博覧会は、未来を担う子どもたちに夢と希望というかけがえのない財産を与え、やがて訪れる高度経済成長期へのステップとなった、記念すべきイベントであった。


児童会館と千秋公園

昭和32年、ネルー・インド首相が娘のインディラ・ガンディーと共に来日、上野動物園を訪れ「インディラ」との再開を果たす。

昭和39年5月27日、ネルー首相死去。

昭和58年8月11日未明「インディラ」は49歳の天寿をまっとうして息を引き取り、その骨格標本が国立科学博物館に展示される。

昭和59年、「インディラ」の死亡を伝え聞いたインディラ・ガンディー首相から上野動物園に二頭の象が贈られる。同年10月31日、日本の子どもたちに「象のおばさん」と親しみをこめて呼ばれたインディラ・ガンディー首相がシーク教徒の警護兵により官邸で射殺される。その後任として長男のラジブ・ガンディーが就任するも、母と同じく平成3年に暗殺、インドでは「ガンディー家の悲劇」といわれている。

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絵葉書で見る・秋田県記念館


秋田県記念館・戦前

2008.11.30日現在、ブログタイトルに使用している「県記念館」の画像は、「廣小路より記念館を望む」とタイトルがついた、戦前(昭和初期)の絵葉書を素材に加工したもの。

その絵葉書のキャプションに、「こゝ蓮花香る清らかな壕のほとり、廣小路より中土橋を渡った處に市民公会の殿堂たる記念館が建ってゐる。この邊りより緑樹滴る千秋公園の風趣が展けてゆく。」とある。


現在の同地点 06.11

建物の他に大きく変わったのは、現・平野美術館前の土手にそびえ、戦後になって秋田市の保存樹に指定されたクロマツの姿。




湾曲して水面まで垂れ下がる見事な枝振りをみせていた太い枝、ならびに、東側に分かれて高くそびえていた枝も、しばらく前に枯れ落ちて、今は見る影もない。

隣接するクロマツも昨年(2007)の暮れに腐食のため倒壊。この土手に並ぶクロマツは、推定樹齢350年というから、そろそろ寿命を迎えているのだろう。



こちらは昭和20年代後半に秋田市観光協会が発行した絵葉書。キャプションに「秋田記念館 千秋公園入口にあって諸集会に利用される記念館は木陰と壕に白い建物が良く調和されている。となりには児童会館児童遊園地がある。」と、水に囲まれた大正ロマンの洋館を紹介。

記念館の隣、現・県民会館の地に昭和25年、初代の児童会館オープン、ならびに、記念館の広小路側に児童遊園地を開設。同年に千秋公園二の丸に「秋田県児童会館付属児童動物園」(のちの秋田市立児童動物園)を開設。児童会館はその後、婦人会館に隣接した中通一丁目を経て、山王の現在地に移転。

この時代のカラー絵葉書は、モノクロ写真を元にレタッチマン(製版職人)がカラー化した人着(人工着色)印刷。絵葉書に限らず、人着印刷の風景の背景には晴天の青空が広がるのが常だが、曇天のモノクロ写真であっても、レタッチマンはそれを青空に変え、白雲を浮かべてみせた。

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