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二〇世紀ひみつ基地

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共用栓のある風景・大町三丁目通り


秋田市大町三丁目通り・大正初期の絵葉書より

「里程元標のある風景・大町三丁目通り」で紹介したこの写真には、里程元標のほかに、近代庶民史を語るうえできわめて重要な物件が写し込まれている。

それは右手の商店(履物商・河村商店と思われる)前にある消火栓のような物体。

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部分拡大

これは共用栓と呼ばれる共同水道の施設で、その吐水口は商店の方に向けられ、水を受ける流しは、配水が側溝に流れ落ちるように、少し傾斜がつけられている。その形状からして、どうやら英国製の獅子頭共用栓のようだ。

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獅子頭共用栓

設置された時期は、秋田市の上水道が給水を開始した明治四十年前後で、市の中心部であるだけに最も早く設置されたと思われる。

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明治四十五年「秋田市水道市街配水管線路之図」より

○(白丸)が共用栓、写真の共用栓を赤でマーキングした。
各丁の角地にほぼ一つの共用栓があり、大町三丁目通りでは両端に設置されている。

近代水道の技術は、明治期にお雇い外国人によって持ち込まれ、初期の水道管、バルブ、共用栓などの多くは英国製品が使われていた。

共用栓のデザインがライオン(獅子)なのは、それがヨーロッパでの「水の守護神」であるため。徐々に共用栓の国産化が進む過程で、ヨーロッパのライオンに代わって、アジアの水神であるところの「竜」のデザインが取り入れられた「竜口」も多くなり、家庭の小さな専用栓の方は、いつしか「蛇口」と呼ばれるようになったというのが、「蛇口」語源説のひとつ。

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「ライオン歯磨」広告 明治四十三年(1910)
バケツからこぼれた水で「ライオンはみがき」の文字を描く

今ではどこの家にも水道が引かれ、蛇口をひねれば自由に水が使えるのがあたりまえだが、水道が敷設された当初の水道料金は高く、工事費用もかさんだため、一般家庭では各町内に設置された共用栓(共用水道)を使っていた。

バケツで共同水道から水を汲み、運んで家の甕にためておく。水場から家までの往復は難儀な仕事だったろうが、それまでこの付近の生活用水は井戸の水質が悪く、旭川の流水に頼っていたことを考えると楽な作業であり、ハンドルを回せば水が無尽蔵にあふれ出る共用栓は、当時の人々には「水がわき出る魔法の筒」であった。

水道以前、旭川から水を汲んでいた時代、外町(とまち)の商家・商店では「水汲みオド」と呼ばれる水汲みのプロを雇い、男手のない家庭でもオドたちに依頼していた。しかし、水道の普及によって彼らは失業の憂き目にあう。水汲みを生業にしていたオドのなかには、「水道憎し」の思いを共用栓にぶつける者もいたようで、明治四十年の魁新聞には次のような記事がみえる。

共同栓破壊
一昨日午後市内馬口労町理髪業者○○忠吉(二一)九郎兵衛殿町指物師○○某安田銀行水汲業○○亀吉の三名は不心得にも八日町に設置ある水道用共同栓を破壊せるを発見され其筋に召喚されたるよし(筆者注・姓は伏字とした)

安田銀行に「水汲みオド」として雇われていた亀吉さんは、水道の完成により解雇され、友人らと計らって、憎らしい共用栓を壊すという暴挙にでたようだ。やけ酒をあおったあげくの行為かも知れないが、亀吉さんのその心境はわからないでもない。

「オド」=「父さん・親父」

時代は下り、ほとんどの家庭に水道が引かれた戦後も共用栓は残った。自分が物心ついた昭和三十年代、明治からの獅子頭共用栓も少しは残っていたが、その形状は、味も素っ気もない鉄製円筒柱型が主流になっていた。

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木製の鑑札が付けられた共用栓の鍵は、ラチェットレンチのような形状で、これで共用栓の出っ張ったコックを回して水を出す。あふれ出す水は、バケツを破らんばかりの勢いだった。共同水道料金は町内会費に含まれていたように思う。

昭和三十四年の秋田市における共用栓の数は、約三百五十カ所、利用戸数は二千五百戸に及んでいるが、市ではそれを減らし、消火栓を増設する方針で、年間十五~二十カ所平均を廃止する計画を発表。昭和五十五年四月時点での市内の共用栓数は八カ所を残すのみとなる。

共用栓の周りにはおのずから人が集まり、井戸端会議の場、コミュニケーションスペースとなり、夏には西瓜を冷やし、子どもたちはタライで行水したり水鉄砲で遊び、にぎやかな歓声が響いていた。そんな共同水道という時代の証言者も、やがて無用の長物と化し、昭和の路地から消えてしまうのであった。

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関連リンク

獅子頭共用栓(ヨコハマはじめてStory)

英国グレンフィールド社製・獅子頭共用栓(横浜市)

和田式耐寒共用栓(室蘭市)

竜頭共用柱(前橋市水道局)

| 秋田市今昔 | 22:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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里程元標のある風景・大町三丁目通り


秋田市大町三丁目・大正初期の絵葉書より

「赤れんが郷土館」(旧秋田銀行本店)が建つ、大町三丁目通りの大正始期の街並である。

旧町名での「大町」というのは、大町一丁目から大町三丁目までの、この通り沿いに付けられた地名で、三丁目以南は本町四・五・六丁目となる。

右手に鐘楼(火の見櫓)がある。高層建築物のない時代、これほどの高さがあれば、外町のほとんどが見渡せたことだろう。この鐘楼からは多くの写真が撮影され絵葉書としても出版されている。

子どもが遊ぶ道路の突当(通町)に、平成十年(1998)の道路拡幅工事により消えてしまった、「糸屋商店」の特徴的なファサードを、かすかに確認できる。

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秋田銀行本店前の電柱が際立って大きいのは、銀行周辺の電力消費量の多さを物語っているのだろうか。

その電柱の手前、道端にあるオベリスクの如き白い標柱は「秋田県里程元標」というもの。近くに人物が立っているため、その高さが推定できるが、優に3メートルはある。

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左・拡大図 右・別の絵葉書から拡大

明治六年(1873)、江戸時代の街道を元に、東京・日本橋と京都・三条大橋に「里程元標」を設置し、日本の道路の基点とし、さらに各県庁所在地に、管内諸道の起点として「県里程元標」を設置。その地点から各市町村に置かれた「里程標」までの距離を計測し記載した。

藩政期から商業の中心地であり、羽州街道沿いのメインストリートだった大町に、秋田の道路の起点が定められたのだ。

「太政官第四百十三号」の「元標及び里程標柱書式」によれば、標柱の材質は、檜(ひのき)か椴松(とどまつ)を用い、各県本庁所在地および管轄境界には、一尺(約30cm)角、高さ一丈二尺(約363cm)、各村には八寸(約24cm)角、高さ一丈(約303cm)の寸法の角材を用いる、とある。

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明治八年「太政官第百九十九号」布告による書式

書式によれば、表面には「○○県里程元標 ○○県」、裏には年月、両側には次の里程標までの距離を記すように指定されているが、写真ではその文字の確認はできない。

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仙台・芭蕉の辻 大正初期の絵葉書から

仙台空襲によって消滅した蔵造りの建物(横浜生命保険株式会社)の前に、「宮城県里程元標」が建っている。

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部分拡大

側面には距離が記されているのが確認できる。
左手に秋田と同じような鎖付きのブロックがあるのが面白い。

芭蕉の辻は、奥州街道沿いに発展した、江戸時代からの仙台の中心商業地であり、明治以降は金融機関が集中する町となったのは、秋田市大町と同様。

大正八年(1919)、道路法が公布されたことにより、主要道路の距離計算の標として利用された「県里程元標」「里程標」は廃止となり、それに代わって石柱の「道路元標」が各市町村に設置された。

かつての県里程元標の間近、「赤れんが郷土館」の前には、「秋田県里程元標跡」の碑が建っている。

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現在の大町三丁目通り

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関連リンク

道路元標写真館
道路元標が行く。

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大町二丁目通り変遷

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