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「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで

「二〇世紀ひみつ基地」通算エントリー1,000回突破記念
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▼「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで

▼古地図に見る藩政期の「大堰端」

久保田城下絵図
「久保田城下絵図」寛保2(1742)年頃

秋田市中心部にあたる「久保田」の東端を南北に流れる「大堰」に沿った片側町を、俗に「大堰端」(おおぜきばた)という。

現在の明田地下道付近から南通築地→楢山を経て太平川に到る「大堰」の竣工は江戸中期。手形方面からの排水路と農業用水路を兼ねた。

羽州久保田大絵図
「羽州久保田大絵図」文政11(1828)年頃

古地図を見てのとおり、当時の秋田駅前・駅裏の周辺は一面の沼地で、水路で北側は手形地区→旭川へつながり、南側は「大堰」を経て太平川にそそぐ。

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「長野沼」「黒沼」などと称された沼地は開田により徐々に面積を減らし、幕末の頃には完全に水を落として田地となる。「大堰」の東側も田んぼが広がっていた。

秋田市全図
「秋田市全図」明治37(1904)年発行

この地図が発行されたときはまだ、秋田駅周辺と「大堰」の東側は、南秋田郡広山田村。明治38(1905)年8月、秋田駅周辺・宮田・愛宕下など広山田村の一部が秋田市に編入される。


 ▼「石川達三」少年「大堰」で溺れる・明治末期の「大堰端」

 三歳から七歳までの幼少期を「大堰端」に近い楢山裏町で過ごした、芥川賞作家・石川達三(1905~1985)の回想録には「大堰」にまつわる記述が多く、往時の様子を知る貴重な資料となっている。

 洪水をおこした川までは、私の家から僅か六七十メートルの距離だった。両岸を雑草に掩(おお)われた流れの速い小川で、川の名は誰も知らなかった。川沿いに一筋の道があって、川をも含めてこのあたり一帯を、私たちは(大堰ばた)と呼んでいた。秋田の市街地はこの川で終っていて、向う岸はもうひろびろとした田圃だった。田圃は冬になると氷結して、凧あげのために一番都合のいいグラウンドになった。

‥‥中略‥‥

 上の兄は魚釣りを覚えて、夢中になっていた。一度、雪どけの水の増した大堰ばたで、七寸ばかりもある綺麗な魚を釣りあげて、得意になって帰って来た。見たことの無い魚だった。兄はその名をミゴイと言っていたが、今から思えばウグイであったらしい。それを兄は父の酒の肴にあげると言った。母がわたを抜いて串に刺し、塩をふって炉ばたの灰の中に刺したが、魚はまだ死ななかった。火熱を感ずると忽ちはげしくはねて、串は灰の中に倒れ、母は洗ってまた火にかざした。私はこの魚の美しさと、強烈な生命力とに、一種のおそれと同時にあわれさを感じながら、焼かれて行く魚の苦しげな喘ぎを見つめていた。一つの生命が死んで行く過程を、これほどまざまざと見たことは始めてだった。

‥‥中略‥‥

 同じ夏の、ひどく蒸し暑い日のことだった。上の兄は学校へ行き、私と下の兄とだけが残されて、退屈していた。下の兄が数え年の七歳、私が五歳である。二人はただ目的もなく大堰ばたの方へ歩いて行った。友達は誰も居らず、鳥海山の山伏も通らず、お伽噺のなかの狐や狸も出て来なくて、何もすることが無かった。子供の頃には一日のうちにこういう時間がたくさん有った。大堰ばたの水は流れが止ったように淀んでいて、岸には雑草が茂り、日ざしはじりじりと照りつけていた。そのとき兄は水面に近く、鮒を見つけたのだった。

‥‥中略‥‥

 私は一度、大堰ばたで死にそうになった。助かったのがむしろ不思議なくらいだった。
 秋の雨のあとであったろうか。大堰ばたは水がふえて、とうとうと流れていた。私はもっと年上の子供たちや兄たちと、その川を越えて向うの田圃の方へ遊びに行くところだった。一枚の板を固定した橋がかかっていた。幅一尺にも足りない板であった。水はこの板の上を乗り越えて勢いよく流れていた。みんな下駄をぬいで両手に持ち、ひとりずつそろそろと板の上を渡って行った。そして私の番が来た。
 足をひたすと水は氷のように冷たかった。水の勢いが強くて、足もとが掬われそうだった。私は用心しながら五尺ばかり進んだ。そのとき足がすべった。板には水あかがついてぬるぬるしていた。私はたちまち流れに落ちた。水游ぎはまるで知らない。しかも着物を着たままであった。この小川は下流でもう一つの川と落ちあい、そこは深くて、いつも渦を巻いていた。そこに落ちたら絶対に助からないと、いつも話に聞いていた。
 流れが早かったために、私は沈むひまもなく押し流された。うつ伏せになって、手足をばたばたさせながら流れて行った。そのとき何かが手に触れた。溺れる者はわらをもつかむと言うが、私は本能的に左手にふれた物を掴んだ。それは岸に生えた長い雑草であった。水かさが増していたために、岸の草の葉が水びたしになっていた。それがたまたま手に触れたのだった。その草は幸いにもひどく丈夫で、根が強かった。私は両手で草の葉にむしゃぶりつき、物凄い勢いで岸に這いあがった。どうやって上ったか、何も覚えていない。上ると同時に立ちあがって、わっと泣いた。左手にふれた数本の雑草が、私の命を助けてくれた。天命と言うか何と言うか。奇蹟的な幸運だった。
 しかし私が這いあがったのは、向う岸だった。私は性懲りもなく、つい今しがた足をすべらしたばかりの細い板を、今度は逆にわたって、無事にこちらの岸についた。それは私の愚かさであろうか、向う見ずであろうか。それとも積極性であろうか。私はもう泣いてはいなかった。そして、誰にも助けられないで川から這い上ったことに、多少の誇りを感じていた。‥‥‥あのときが、一つの運命の岐れ目だった。お伽噺にある(水の神様)が、すでに死ぬべかりし私の命を助けてくれたようだった。

石川達三『私ひとりの私』昭和40年(文藝春秋社)より

「大堰」まで「私の家から僅か六七十メートルの距離だった」とあるが、実測では約100メートル。「大堰」の川魚は上流の旭川から来たものだろう。

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石川達三 - Wikipedia

▼ドブ川となった「大堰」を暗渠化

秋田市街図
「秋田市街図」昭和41(1966)年発行

魚が泳ぎ水量の豊富な「大堰」の清流も、戦後の経済成長期に入る頃から、宮田地区の宅地化にともなう生活用水の流入で水質がいちじるしく悪化。夏は悪臭を放ち、蚊やハエの発生源となるドブ川と化し、下水道工事の進展により水位が低下した。

昭和40年代、市は環境衛生の向上と、土地の高度利用を目的に「大堰」を暗渠化。その跡に歩行者・自転車道を整備する。
 

▼「大堰端暗渠」を歩く

大堰端
大堰端暗渠ライン

「大堰端暗渠」をたどる散策のスタート地点は「明田地下道」の南側。地下道が開通するまでは「開かずの踏切」と呼ばれた「明田踏切」付近。

かつては沼地の南端であった「明田地下道」は、地盤が軟弱な上に地下水が湧き出る難工事となり、着工から5年以上の歳月を経てようやく完工、昭和55(1980)年4月に開通した。

さて、これから「大堰端暗渠」を上流(北)から下流(南)へと歩く。

大堰端・暗渠
2012.05

大堰端・暗渠

大堰端・暗渠

人家のあいだを進む。

大堰端・暗渠
南(下流)から北(上流)を望む

人家を抜けた地点を逆方向から撮影。後方に建物が建ち、今は不要となった「車止め」がある。

ふり返ると、そこにも「車止め」。自動車等の乗り入れを制限する「車止め」は地盤が弱い暗渠に特徴的な物件だ。

大堰端・暗渠

秋田市街図
「秋田市街図」昭和41(1966)年発行

この区域に相当する地図上に「大堰」が描かれていないのは、堰幅が細かったためと思われるが「大堰」上に不自然に引かれた区界線が水路の存在を示している。

地図を見ての通り、以前は「大堰」を境にして東西の地名が異なっていたが、新町名では「大堰端」から「南大通り」に抜ける西側道路(明治以降の新道)を境界にした東側地区がすべて「南通宮田」、西側地区が「南通築地」となった。


大きな地図で見る

大堰端・暗渠

旧町名では、暗渠(大堰)の右側(西側)と左側(東側)は別の町名だったが、今はどちらも「南通宮田」。

大堰端・暗渠

「車止め」を越えると、いよいよ「大堰端」。

暗渠化前、木橋が架かり、大木が茂っていた地点。今は切り株だけが残る。

大堰端・暗渠

「大堰端」に入ってすぐ、西側に見えるのが「秋田県豆腐会館」。

秋田県豆腐会館
秋田県豆腐会館 2013.05

「秋田県豆腐油揚商工組合」が、昭和38(1963)年に設立。豆腐をかたどった格子状ファサードが特徴的な昭和レトロ建築。

大堰端・暗渠

「宮田・みやた」という地名が語るように、暗渠(大堰)から東側(右側)は、かつて一面の田んぼだった。

大堰端・暗渠

大堰端・暗渠
秋田南中学校

昭和53(1978)年「北光ランプ」跡地に、秋田市南中町から「秋田南中学校」を新築移転。

大堰端・暗渠
北光ランプ

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南中グランド・旧「宮田グランド」
南中グランド(旧・宮田グランド)

南中の南隣に位置する同校のグランドは昔「宮田グランド」と呼ばれていたが、その時代から南中のグランドで、同校の野球部の練習などにも使われていた。

かつては「大堰」側(上掲画像)に木橋の入口があり、学童野球大会や市主催の盆踊り大会が開かれるなど、市民に親しまれ、行事がないときは、近所の子どもらの遊び場となった。

「宮田グランド」の南側一帯は「瀬川木材」の大きな製材工場、グランド東側には国鉄アパートが連なっていた。そのアパートの数棟は改築され「JR東日本社宅」として今も残る。

湊家
湊家・薬医門 2013.04

南中の向いにある、明治初期に造られた湊家の薬医門は「大堰端」に残る最古の建造物。

戦前は本金・辻兵・平野政吉らと並ぶ大地主。昭和初期、邸内に開設されたテニスコートは「湊コート」と呼ばれ、当初は数少ない常設コートであったため、テニス大会の会場にもなった。

戦後は知的障害者の福祉向上に尽力。同家が所有する横森(金照寺山)の別荘および土地、約3000坪が寄付され、昭和37(1962)年「若竹学園」が開設される。

湊家

大堰端・暗渠

 大堰端・暗渠
「桝取橋」跡

枡取橋
「桝取橋」昭和30年代・秋田駅方向を望む

「大堰」に架かる「桝取橋」を東に渡ると、右手に旧・楢山桝取町。武士の給料であった扶持米を計量する役職の「お桝取職」が住んだことに由来する町。その右手に「理髪館と石敢當のあるY字路」。

枡取橋跡
理髪館と石敢當のあるY字路

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「桝取橋」跡をY字路方向へ渡らず「大堰端」を南に少し直進すると、暗渠は90度の角度で左折、「大堰端」に別れを告げ、桜並木の遊歩道に入る。「大堰端暗渠」をたどる散歩も、もうすぐゴールだ。

大堰端・暗渠

大堰端・暗渠
「一本橋」跡

「大堰」が暗渠化されるまで、この地点に「一本橋」という名の小さな木橋が架かっていた。

「一本橋」跡を北へ左折すると、さきほどの「理髪館と石敢當のあるY字路」に通じ、南に右折すると楢山寺小路を経て百石橋に到る。

大堰端・暗渠
2012.04

「一本橋」跡から、春爛漫の遊歩道を望む。桜並木は「大堰」の暗渠化にともない植樹されたもの。

「自転車及び歩行者専用」標識後方の青い機械は水門バルブの開閉台。大雨で太平川が増水したとき、暗渠への逆流を阻止するためにバルブが閉められる。

大堰端・暗渠

突き当たりが「大堰端暗渠」のゴール地点。

大堰端・暗渠

太平川にそそぐ「大堰端暗渠」。その向こうに羽越本線鉄橋。

久保田城下絵図
「久保田城下絵図」寛保2(1742)年頃

右上に「桝取橋」その下に「一本橋」そして太平川に架かる「百石橋」。

太平川
2004.04 対岸から「大堰端暗渠」を望む

前出の回想録で石川達三が「この小川は下流でもう一つの川と落ちあい、そこは深くて、いつも渦を巻いていた。そこに落ちたら絶対に助からないと、いつも話に聞いていた」と記した地点である。

「大堰端暗渠」東側(画像右側)の、昔日の面影を残す緑地は、羽越本線が通るまで、藩政期の文人サロン「濯纓楼」跡がある袋小路とつながっていた。

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大堰端
大堰端暗渠

「大堰端暗渠」のゴール地点から太平川の土手を西に進むと、県内有数の桜の名所「太平川の桜並木」にたどり着く。

太平川桜並木
2012.04 太平川桜並木

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二〇世紀ひみつ基地 花曇る太平川の桜並木 2013

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穴門の堀に龍神を観た・広小路「蛇柳」跡ポケットパーク

広小路「木内」向かいにポケットパーク誕生


2004.04 旧瀧不動産・旧マルキン本店(消失物件)

平成十九年(2007)に更地となったあと、しばらくは不動産屋の看板が立っていた、秋田市広小路「木内」向かい、旧「瀧不動産」および旧「マルキン本店」跡地で、昨年春から始まったポケットパーク造成が、平成二十四年(2012)春に竣工した。


完成予想図

イラストでは人物の比率が小さく描かれているため、実際よりもずいぶん広く見える。北側水上に係留した移動式デッキは、最近まで広小路・キャッスルホテル向いのお堀に係留されていたもの。オープン以降、デッキはイベント時における、カヌーおよびボート乗り場として利用されている。


2011.08

広小路側に千秋公園方向を眺望する芝生の斜面を配置。平成二十三年(2011)九月、植栽した茨城県産の芝生から、県の通常レベルを超える放射線が検出されていたことが公表され、同年十月初旬、汚染芝生を除去。

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2011.10 汚染芝生除去作業


2011.09


2012.05


2012.04


2012.04


2012.05

「芝生の外野席」めいた傾斜を観客席にして、小規模なアコースティック・コンサートをやるのも面白い。ただし、人家に隣接しているため大きな音は出せず、車道に近く日中は騒音が気になる。


▼蛇柳の伝説

以前に書いたように、かつてこの地に、「蛇柳」(じゃやなぎ)と称する柳の名木が存在した。


勝平得之『蛇柳夜景』昭和十年発表

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堀端の「蛇柳」にまつわる伝説はさまざま。
  • 久保田城の築城のみぎり、初代藩主・佐竹義宣公が萬代までの形見(記念)として植樹。
  • 久保田城築城のとき、築城師が差し込んだ杖が柳になった。
  • 築城に際して人柱を立て、その供養のために柳を植樹。
  • 築城に使役した者を城内の秘密が他藩に漏れることを恐れて殺害、この地に死体を埋め柳を植樹。
  • 旧藩時代、柳を切り払った人夫が、柳の霊の祟りで急病にかかった。その柳の霊は大蛇でお堀の主という。
明治期にまとめられた『羽陰温故誌』「蛇柳神社」の項によれば、
・・・広小路の堀端に妖しい小祠(しょうし)があり、祭神は不詳。祈願する者は編笠と七種類の菓子を供えるという。子供の夜泣きにこの笠を借りてきて、頭にかぶせると必ず霊験があり、そのため編笠と穴明き石が多く納められている。・・・
明治末から大正初期、同地はベンチや八重桜を配した小公園となる。
市内広小路の城濠(俗称穴門)の角に蛇柳(ぢゃやなぎ)と称するローマンスに活(い)きたる名木あり幹枝反曲(かんしはんきょく)して濠中に延び根本に濠(ほり)の主と云う大蛇を祀(まつ)れる石の小祠あり其の辺りの小溝を画して児女の戯遊さるべき空地にベンチを設けなどし更に近年は誰が風雅の士の手すさびにや枝も見事なる八重桜を植えつけ一層付近の風致を増し道行く人の足を停(とど)め春の花の晨(あした)秋の月の夕(ゆうべ)今日此頃の納涼などには近くして好適な場所たりし‥‥後略‥‥
大正三年『秋田魁新報』より
『羽陰温故誌』で「祭神不詳」とされ、奉納品を納めるほどのスペースがあった祠(ほこら)は、記事が書かれた大正三年の時点ですでに無く、その代わりに「濠の主と云う大蛇を祀れる石の小祠」が祀(まつ)られている。その石祠のそばに「大柳・熊柳」の文字が刻まれた石碑が存在したとの昭和初期の記録もある。

大正三年、同地に「佐々木靴店」開業、広小路側からは靴屋の建物にさえぎられて「蛇柳」の上部しか見ることができなくなる。


秋田市広小路・大正六年頃の絵葉書(人工着色印刷)

右手に見える白壁の土蔵建築が「木内商店」。



広小路名物「疋田家の三本松」の後ろに「風間洋服店」、そして掘端通りを隔てた堀端に「佐々木靴店」。建物の裏手に見える緑が「蛇柳」か。「佐々木靴店」より東側はまだ埋め立てられていない。

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大正三年の新聞記事にみえる、「蛇柳」の根本に存在した石の祠(ほこら)とおぼしき物は、終戦後、古川堀反(ふるかわほりばた)町の堀端の埋め立て地に創建された「雄柳大龍王尊神社」に蛇柳神社の遺物として遷(うつ)される。

「蛇柳」の御神体はこの時点で大蛇から龍神へと昇格したわけだが、龍神の原型は「水神としての蛇」であるから不自然なことではない。「雄柳大龍王尊」の名は、法華経に登場する「八大龍王」にあやかったものだろう。実際、「雄柳大龍王尊神社」では法華経に基づく神仏習合の祭事が執り行われていた。

関連リンク
八大竜王 - Wikipedia


雄柳大龍王尊神社・蛇柳の石祠

大正三年の新聞記事に記載された「濠の主と云う大蛇を祀れる石の小祠」とおぼしき物件。これは「蛇柳神社」にまつわる遺物に違いないが、上部に「三つ星に一文字」の渡辺紋があることから、元々は旧家の屋敷神を祀(まつ)る祠(ほこら)であったものを、「蛇柳」の地に移して再利用したものと思われる。そのなかに納められた騎龍観音(きりゅうかんのん)の絵は印刷物で古いものではない。


2007.06 広小路より古川堀端町通り「雄柳大龍王尊神社」を望む

古川堀端町通りの「雄柳大龍王尊神社」は諸事情により維持困難となり、平成十九年(2007)六月、千秋公園本丸「八幡秋田神社」に御神体を遷(うつ)し、まもなく社殿は解体。水辺の龍神(水神)はお堀(水)から離れて、本来の存在意義を薄める。


2010.09 「八幡秋田神社」内「雄柳龍神」


2012.05

「蛇柳」跡ポケットパークに植樹された樹木は柳ではなく桜(染井吉野)。

「蛇柳」が存在した往時の小公園が、時を経てポケットパークとして再生されたこの機会に、自分が担当者ならば、伝説を偲ぶよすがとして柳を植え、藩政期からこの地に刻まれた歴史を今にとどめたい。勝平得之の版画『蛇柳夜景』を解説付きパネルにして掲示するのも良いが、そこまでするのは野暮な気もする。


大きな地図で見る
「蛇柳」跡・ポケットパーク


▼蛇柳の起源と柳の霊力

湿潤を好み、深く根を張る性質を生かし、柳木は水害をふさぐ自然護岸として利用されてきた。秋田市の中心地を流れる旭川の運河部分、川反に面した一帯にも護岸を目的とした柳を植樹。旭川の川岸に風情を添えた柳は花柳街・川反のシンボルとなる。


川反柳・川反四丁目橋から三丁目橋を望む 大正後期

「蛇柳」(じゃやなぎ)という名称の起源は和歌山の高野山にある。『紀伊国名所図会』によれば、「その昔、悪さをなす大蛇を弘法大師空海が法術をもって退治。その体から柳の木を生じ、臥した蛇体を連想させる形姿から「蛇柳」と名付けられた」。


『紀伊国名所図会』(天保九年発行)三編 六之巻「高野山之部」より「蛇柳の図」

もうひとつの伝承は、「高野山の寺に一人の僧あり、陰謀をめぐらし寺主の地位を奪い取ろうとしていたことが発覚して捕らえられる。その行為に対する見せしめのため、僧を生き埋めの刑に処しにしたうえに柳の木を植え「蛇柳」と名付けた」というもので、この伝説を元に、歌舞伎『蛇柳」が創作された。

関連リンク
歌舞伎『蛇柳』 - Wikipedia


歌舞伎十八番『蛇柳』 作・香蝶楼豊国 出版・嘉永五年

高野山における「生き埋め処刑」、久保田城の「人柱(生き埋め)と殺害」、ほかに「柳の下に幽霊」の例もあるように、柳には陰気な伝説がつきまとう。しかし、柳自体は「陰木」ではなく、縁起の良い「陽木」とされてきた。
「柳」の字を分解すると「木」と「卯」。方位学(風水)で「卯・う」は「日いづる真東」に位置し「春・物事の始まり」を表す。春一番に勢いよく芽吹く生命力あふれる姿から、柳は長寿・繁栄の象徴。

正月の三が日に使う「祝い箸」は柳の木を削った「柳箸」。白木の「柳箸」は清浄にして、しなり強く、邪気を祓(はら)い長寿をもたらすとされる。

古代中国では、親しい人の旅立ちのおりに、柳を手折ってはなむけとした。

中国北魏(386−534)の農書『齊民要術』にいわく「正月旦、取楊柳枝著戸上、百鬼不入家」(正月の朝、楊柳の枝を戸口に挿しておけば、百鬼が家に入らない)。

陰陽道では柳木を植えて鬼門除けにした。
つまり、邪気・陰気の強い場所に「陽木」である柳を植えることで、邪気を祓(はら)い、陰気を中和して場のバランスを図ろうとしたわけだろう。久保田藩の処刑地、八橋村の「草生津刑場」にも柳の古木があった。


▼佐竹氏の町割・旭川仁別川)堀替え・「穴門堀」変遷

秋田市広小路「蛇柳」跡に造成されたポケットパークは、旭川(仁別川)旧河川ライン上に位置する。詳細は下記リンク先に。

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ピンクラインが旭川の旧河川(想像図)

秋田へ移封された佐竹義宣は城下の町割りのため、旧河川を埋め立て、その西側に運河を堀替えて内町(うちまち・武家屋敷)と外町(とまち・商工業地帯)を区画し、旧河川の一部をお堀として活用。そのうち現存するのが「穴門の堀」の一部であり、旧河川の名残「穴門の堀」沿いに南北に延びる、高禄の家臣が住んだ武家町が「古川堀反(ふるかわほりばた)町」(古い川の堀端の町)、そして「蛇柳」の別名は「穴門の柳」。


千秋公園より「古川堀反町」および「穴門の堀」を望む(明治四十年代)



旧河川を利用して造築された「穴門の堀」を横切る土橋「穴門橋」以北(画像下手)の、鷹匠町へと連なるお堀は、大正から昭和にかけて埋め立てられた。

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2012.05「蛇柳」跡ポケットパークより穴門を望む


蛇柳ヨリ穴門ヲ望ム 画・広瀬柴波
『千秋園風景-秋田県公園-』(明治三十六年刊)より

右上方に千秋公園の木造鐘楼(昭和四十八年、鉄筋コンクリートに改築)。「穴門の堀」の突き当たりは土橋の穴門橋、その北側にもお堀が水をたたえ、水上に鷹匠町方向へ通じる木橋が描かれている。

穴門橋北側の埋め立てられた道路沿いに、大正末の頃から飲食店が建ちはじめ、その後、穴門橋南側も同様に埋め立てられ、昭和三十年前後から徐々に飲食店などが建ちはじめる。


古川堀反町より久保田城を望む・明治初期

穴門堀にかかる木造時代の穴門橋、右上の建物は御出し書院。左端に小さく御隅櫓が見える。


久保田城郭ジオラマ「穴門堀」旧河川部分

手前に今はポケットパークとなった「蛇柳」跡、上手に穴門橋。穴門橋を城内(東)に向かうと、今の和洋女子高前に城門「穴門」があり、見張り番が常駐していた。

明治二十四年、穴門橋(木橋)を撤去、その下を埋め立てて土橋とする。


2012.05 「穴門橋」跡より城門「穴門」跡を望む


城門「穴門」跡より「穴門橋」跡を望む


▼蛇柳の別名「穴門の柳」

江戸時代後期の紀行家・菅江真澄は文化十二年(1815)の紀行文『久保田の落穂』に「蛇柳」のことを「穴門の大柳」と記している。

千秋公園の「内堀」に柳の大木があり、近年その根元に「穴門の柳」と記された解説文の無い標柱が建てられのだが、千秋公園の造園が始まった明治二十九年以降に植樹されたと思われるこの柳は、「蛇柳」(穴門の柳)のような来歴があるものでなく、どのような根拠をもってこれを「穴門の柳」としたのか解せない。


2012.05

文化財愛護シンボルマークが付けられたこの標柱が『久保田の落穂』に記された「穴門の大柳」を指すのであれば、「穴門の柳跡」と書き替えて、本当の「穴門の柳」が存在した「蛇柳」跡ポケットパークに移すべきだ。


2012.05

右手に「穴門の柳」の標柱がある柳。左手に県民会館。


秋田県公会堂

明治四十五年頃の同地点。内堀の堀端に連ねて植えらた柳も、今は一本を残すのみ。県民会館の高台にあった「秋田県公会堂」についての詳細は下記リンク先を参照のこと。

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▼蛇柳龍神の風水学的考察

ユーラシア大陸を流れるアムール川・中国名「黒竜江」。日本の「九頭竜川」「天竜川」「蛇尾川」(さびがわ)「蛇喰川」(じゃばみがわ)など、地表をうねりながら流れる河川には「竜」や「蛇」に例えた河川名が散見する。

日本神話のヤマタノオロチの正体は「斐伊川」(ひいかわ)であり、スサノオによるオロチ退治とは「氾濫を繰り返す斐伊川の治水」を意味するとの解釈もある。

とうとうと流れる河川は大地に恵みをもたらし、ときに激しく氾濫し水害をもたらす。その両面性は「慈愛と破壊」という「龍神」の両義性に相通ずる。

河川の流れを風水では「水龍」と称し、「水龍」=「気の流れ」の変化は、都市の吉凶に少なからぬ影響を及ぼすと信じられていた。

秋田の「蛇柳」にまつわる「お堀の主・大蛇」=「龍神」とは、風水でいうところの「水龍」=「旧河川の水流」のことであり、旧河川・水龍ラインの南端に位置する、埋立地への柳の植樹には、埋立てにより分断され動きを封じられた「龍神の鎮魂」=「変質した気(水龍)の流れを整える」という風水学的な意味合いもあったのではないか・・・、などと妄想を巡らせてみると、上掲図の旧河川ラインが蛇行する蛇体・龍体に見えてきた。

そして、旧河川・水龍ラインの真上にあたる「穴門の堀」の堀端に存在し、数年前に惜しまれて閉店した中華料理店「萬帝楼」の壁面に、奇しくも龍神が居たのだ。


「萬帝楼」2009年解体

中華料理店の装飾に龍は定番。しかし、こんなにも大きく描かれた龍は珍しい。偶然といってしまえばそれまでだが、その壁画は「地霊」がささやく「土地の記憶」を、施主が無意識のうちに感受した結果の産物だったのかもしれない。


2012.08 千秋公園より「蛇柳」跡ポケットパーク


秋田市広小路「木内」付近・大正6年(1917)頃


2012.12 秋田市広小路「木内」付近

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消えた維新の名残・陸軍用地標石

●明治維新を語る道端の標石


2009.03

秋田市千秋久保田町の結婚式場「秋田セントポール教会」附属レストラン「フォンテーヌ」南隣の空き地に、つい最近まで「陸軍用地」の文字とその右上に「三一」と番号が刻まれた、高さ三十センチほどの石柱が道路のある西側を向いて設置されていた。

かつてこの石柱の道路をはさんだ西側に、久保田城の外堀が水をたたえていたことから、外堀の東側の旧町名を手形堀反(ほりばた)町という。詳細は下記関連記事に。




2006

手形堀反町の西側は久保田城郭であったが、明治四年の廃藩置県の後、明治政府は諸大名から土地を取り上げ、久保田城は兵部省所轄の軍用地となり、藩主は東京への転居を命じられる。

その石柱は国有の軍用地(久保田城址)と民有地との境界を示すために設置された、数十基の標石のうち、ただひとつだけ残されたと想像される歴史的遺産であり、廃藩置県までここから西側は佐竹氏の所有地であったわけだ。

軍用地時代の久保田城址は管理する者もなく荒れ果て、一時は県庁が置かれ、県庁移転後は住む者もなく廃墟と化していた本丸の久保田城も明治十三年七月に炎上、現存する御物頭御番所、城門などの一部を残して焼失する。

明治二十三年、陸軍は久保田城址と附属地を佐竹家に四千五百円(小学校教員の初任給五円ほどの時代)で縁故払い下げを決定。同年、秋田市が城址の一部を借り受け公園とする。

◆千秋公園(久保田城址)小史
明治二十五年、 羽生氏熟(後の秋田市長)をリーダーとする旧藩士によるグループ「有終会」が、桜の苗木千本余りを寄付植樹。
明治二十九年、秋田市から秋田県へ公園を移管、東京から著名な造園家・長岡安平を招き、県立公園として三年計画で造園を開始。
明治三十四年、大館出身の漢学者・狩野良知が、長久を祝する語「千秋万歳(せんしゅうばんぜい)」から、秋田の永い繁栄を祈って「千秋園」と命名。
昭和二十八年、再び秋田市に移管。
昭和五十九年、旧久保田藩佐竹宗家十五代・故佐竹義榮(よしなが)氏の遺族が、公園用地として貸与していた約十五万平方メートル(県民会館・明徳館・国学館・和洋女子高などの敷地は除く)を市に寄贈。


●消えた道路と標石

区画整理事業の進展で旧堀反町通りは宅地となり、かつて外堀が存在し、最近まで住宅や商店が密集していた西側に新道路を造成中。


都市計画道路 千秋久保田町線(駅方向を望む)2010.03



約百四十年間、人知れずこの地にあって、変わりゆく風景を記憶してきた「陸軍用地」の標石が、ついこの間まで存在した空き地の周辺では、結婚式場「セントポール教会」の付属施設が、この九月のオープンをめどに工事中である。


「陸軍用地」標石跡(矢印)手前に新道路 2010.04


大きな地図で見る
「陸軍用地」標石跡

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陸軍用地 石 - Google 検索

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内堀と鐘つき堂のある風景


勝平得之『千秋公園八景・雨の内濠』昭和十二年

県民会館の裏に残る千秋公園の内堀と、その上の鐘楼。内堀の水面は鷹匠町方面へつづき、柳越しに土手長町の火の見櫓がみえる。水上を這うように伸びる松は今も健在。

久保田城の時鐘の歴史をひもとくと、寛永十六年(1639)、第二代藩主・佐竹義隆が、二の丸の東側、現在の佐竹資料館の裏付近に設置したのが最初で、明治の廃藩後、寺町、土手長町と移転した鐘楼は、明治二十五年、再び旧城地・千秋公園の霊泉台下に戻る。


内堀と鐘楼 明治末から大正初期頃


鷹匠町から鐘楼を望む 大正末頃

慶応二年(1866)に改鋳された時鐘は、心に染みいる音色の名鐘だったという。しかし、大東亜戦争時の金属資源不足により、昭和十八年に供出、市民に時を告げ、心を和ませた時鐘は小坂鉱山で溶かされ、殺戮のための砲弾と化す。

昭和二十三年、当時の林金属工作所社長と兄弟が、艱難の末に鋳造した時鐘を秋田市に寄贈。

鐘を鋳造するとき、高貴な方が使う銅鏡など、日用品を混入するしきたりが古くからあり、このときは秩父宮から銅製の表彰盾と一輪挿しを拝領して製作、以前のような余韻のある美しい響きを取り戻すことはかなわなかったものの、平和への祈りをこめて「平和の鐘」と命名されて復活する。

昭和四十三年、木造鐘楼の老朽化により時鐘を降ろし、再び鐘の音が途絶える。

昭和四十八年、市民の募金活動で得た資金をもとに、鉄筋コンクリート二層建ての新鐘楼を建築、「千秋の鐘」の名で再復活。

藩政時代から鐘守を勤める吉敷家は現在で七代目。廃藩置県後の土手長町時代には、一軒から一銭五厘の鐘つき代を貰いに市内を集金に歩いたとのこと。まだ時計の普及していない時代、時鐘は時を知るかけがえのない存在であった。



中二階のある三階建て木造鐘楼の時代、吉敷家はその階下を住居としていた。昭和のはじめ頃ここで、鎌を振り回す暴漢に主人が襲われる傷害事件発生、加害者を取り調べ、理由を問い詰めると「鐘の音を聞くのが嫌いだったからやっつけた」と自供したという。

老朽化した鐘楼を取り壊したあと、吉敷家は下の内堀近くに移転、そこから新設された鐘楼へ通うための階段も整備され、雨の日も豪雪の日も、一日も休むこともなく、朝晩、鐘を撞きつづけている。


09.03

現在の鐘楼は木造時代よりも高層だが、樹木の成長により、勝平得之が『雨の内濠』をスケッチした位置からその姿を望めるのは、木々が葉を落とした時期だけ。

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