二〇世紀ひみつ基地

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まぼろしの金照寺山公園化計画

金照寺山

秋田市楢山から牛島にかけて広がる丘陵地・金照寺山は、旧藩時代から城下の人々に郊外の景勝地として親しまれていたが、明治の末、この山を公園化する計画があった。

※金照寺山の詳細については巻末の過去記事リンクを参照のこと。

まず初めは、私立「秋田病院」院長・穂積孝春が金照寺山を買い取り、桜を植樹した上、秋田市に寄贈する計画を立てるが、地権者である秋田市大町の商家・那波家は「同地は先祖の縁故もあり手放すことはできない。しかし、いずれ自分が桜を植えて市民の用にも供するつもり」と断られて断念。

次ぎに立ちあがったのは秋田県知事・森正隆。茨城県知事を経て、明治41(1908)年に秋田県知事に就任した森知事は「楢山は全国無比の勝概」(「楢山」は金照寺山の古名、「勝概(しょうがい)」 は「すぐれた景色」) と惚れ込み、当時は県営の公園であった千秋公園に次ぐ、県の第二公園とすべく、県会で予算を決定して公園化を推進するも、志なかばの明治45(1912)年、森知事の転出にともない計画は立ち消えとなる。

今回取りあげるネタは、造園家で日本人初の公園デザイナー、秋田では千秋公園を初めとして、横手公園、真人公園、池田氏庭園などの設計者として知られる長岡安平が、森知事在任中に県の依頼を受けて作成、明治44(1911)年に提出した「金照寺公園設計図」(秋田県公文書館所蔵・秋田県庁旧蔵古文書) 。

金照寺山公園
↑ 金照寺公園設計図に加筆

西側に配置された運動場(陸上競技場)と、その東側の人工湖が、ひときわ眼をひく。

古代ギリシアのスタジアムのように、直線が長いトラックの中央に芝生のインフィールドが広がる。

トラックの幅員は八間(14.55 m)延長三百八十間(690.9 m)。ちなみに、秋田市八橋運動公園にある陸上競技場のトラックの延長は400m

長岡安平による初期「千秋公園設計図」にも、規模は小さいものの、同様な運動場が描かれている。

金照寺山公園

かつては水田と、その奥に沼が存在し、熊沢と呼ばれた谷間に計画された人工湖。

1962金照寺山
↑ 熊沢周辺 昭和37(1962)年撮影

金照寺山
↑ 金照寺山より熊沢の沼跡を見下ろす 2007.07

水田と沼があった熊沢も1970年代中頃から次第に宅地化が始まり、今では谷間の新興住宅街。広い庭にオブジェが置かれた、某工芸家のアトリエもある。

農業資材・種苗販売の高井南茄園(たかいなんかえん)が、昭和の初め、熊沢の斜面を中心に農園を開く。その段々畑では、春にはいちご狩り、夏は西瓜狩りも楽しめたが、その話はまたの機会に。

迷路

金照寺山の山頂・七つ森の下に見える迷園とは、背の高い生垣で造る迷路園のこと。その中央に描かれた東屋のようなものは、迷路を見下ろすことができる展望台だろう。

Longleat Hedge Maze
↑ イングランド「ロングリート」生垣の迷路・画像はWikipediaより引用

ヨーロッパでは古くから修道院の庭園などに造られた迷路園は、明治の初めに日本に導入されて、ちょとしたブームとなり、大正の初め、秋田市八橋公園内にもオープンする。

金照寺山公園

迷園の西側、今は民家が建ちならぶあたりの中央に音楽堂がある。

ちなみに当時の野外音楽堂はこんな感じ。

日比谷音楽堂
↑ 東京日比谷公園・音楽堂 明治38(1905)年竣工、日本初の野外音楽堂

周囲に観客を配置する、多角形の野外音楽堂のルーツをたどると、1861(万延2)年に英国は南ケンジントン王立園芸協会庭園に建設された Bandstand(バンドスタンド)まで溯るという。産業革命により環境が悪化した都市の、市民がリラックスするために造成された緑化公園内に建設され、公園に不可欠のものとして急速に普及した。

金照寺山公園

七つ森の北側に平田神社。

幕末の国学者・平田篤胤(あつたね)を祀る平田神社は、明治14(1881)年、八橋日吉(ひえ)八幡神社境内に創建されたものを、明治42(1909)年、広小路に面した東根小屋町にあった八幡神社の旧社殿に遷し、経済学者で農学者の佐藤信淵(のぶひろ)を合祀して弥高神社を創設。

同地に県立図書館を建設するため、大正5(1916)年、弥高神社を千秋公園二の丸の現在地に再び遷して今に至るが、このとき、金照寺山も移設候補地に挙げられていた。

金照寺山公園

一本松のある通称・一つ森に「ホテル建設場」と記されている。

往年は太平川を眼下に市街地を一望することができたこの地はホテル用地にふさわしい。

以前に書いたように、昭和50(1975)年、国鉄の通信部門(現・ソフトバンクテレコム)が一帯を買収し、マイクロ回線用電波塔と無線中継所を建設、出入口はフェンスで封鎖され、進入禁止地帯になってしまった。

一つ森といえば、奥羽本線で分断された金照寺山の裏山・一つ森を造成し、昭和61(1986)年に開園した一つ森公園を先ず思い浮かべるだろうが、こちらの一つ森は、古墳を思わせる“一つの盛り土”があったことからきた俗称。山伏の墳墓と伝えられる“七つの盛り土”がある山頂・七つ森は、古くは山伏塚とも呼ばれていた。

金照寺山と太平川
↑ 太平川から金照寺無線中継所・電波塔を望む 2009.04

1962金照寺山
↑ 昭和37(1962)年撮影

Google Earth 金照寺山
Google Earth より

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花に酔う太平川桜並木 2017

浩宮生誕記念植樹・太平川沿い桜並木
秋田市太平川[百石橋・愛宕下橋・太平川橋]周辺

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

秋田市太平川桜並木

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氷水屋と銭湯と・消える昭和

季節外れな話題だが、秋田市内で営業していた昔ながらの氷水屋が、この数年間に次々と店を閉じた。その主な理由は経営者の高齢化と後継者の不在。

かき氷
▲「佐々木商店」2004.07 三皇祭の日

夏期以外は大判焼き・鯛焼きを商う、牛島商店街の「佐々木商店」通称・牛島のババの店。

切妻屋根の町家建築に、かき氷の氷削機および大判焼機による製造工程が外から見える出窓を設けた古典的スタイルの、大正・昭和の風情が色濃く残る店であった。

かき氷
▲「佐々木商店」2004.07 三皇祭の日

かき氷
▲廃業後、三皇祭の日に「岡崎製氷」が店頭を借りて臨時出店 2009.07

内風呂率が低く電気冷蔵庫がまだ贅沢品だった時代、銭湯の近くで営業する氷水屋が多く、風呂上がりにかき氷で涼味を楽しむ客で繁盛した。

牛島商店街の場合、「佐々木商店」から北へ1分ほど歩いた「三皇神社里宮」の近くに「三皇の湯」、さらに3分ほど北へ進み、太平川橋を越えた左手に「牛の湯」があった。

かき氷
▲「竹内商店」2008.08 竿燈祭りの夜

大町三丁目「すずらん通り」の突き当たりに近い「竹内商店」も、「佐々木商店」と同様に、店頭で製造工程を見せる出窓がある、涼しくなると大判焼・おやきを商う店だったが、この数年間はカーテンを閉ざしたまま。(2017.04 大判焼きの営業を確認、不定期開店とのこと)

昭和8年頃の地図にも名がみえる「竹内商店」はもともと菓子屋で、以前は自家製のパンなども売っていた。

「竹内商店」の斜め向かい、柳町の角地にあった銭湯「松の湯」は、古くは「柳の湯」の名で、場所柄、川反の芸者さんが常連客だったという。「松の湯」はのちに「秋田ピカデリー」南側の田中町に移転。

かき氷
▲「竹内商店」2008.08 竿燈祭りの夜

すずらん通り
すずらん通り 2016.11

手前に「竹内商店」、黄色い日除けテントの「美容室イク」、その奥に「土田果物店」。これらの店も廃業して久しい。

「すずらん通り」の突き当たりには、昭和49(1974)年まで映画館「秋田ピカデリー」が存在し、川反方向から延びる「すずらん通り」はかつて、昼夜を通して人通りの多い商店街だったが、近年は古くからの店が次々に店を閉じて、ずいぶん寂しくなった。

「竹内商店」の東隣、今は空き地になっている場所に70年代まであった中華料理「王芳」は、田中町の「松の湯」北隣を経て、秋田県庁の裏側、山王四丁目に移転し、大町五丁目「第二NKビル」入口左側に大町支店をオープン。料理はボリューム満点で安く、セロリを使った炒飯が癖になる味で、水餃子とセットでよく食べたものだが、平成20(2008)年10月頃に閉店。

斉藤もちや
▲斉藤もちや 2005.07

秋田市楢山本町で昭和10(1935)年創業の老舗「斉藤もちや」。今年(2016)の春頃に廃業。

夏期はかき氷を商い、真向かいに秋田市最後の銭湯「星の湯」がある。

かき氷屋跡
▲秋元商店跡 2004.05

ここからは遠い記憶の彼方にある氷水屋。

楢山愛宕下と牛島東の境界を東西に延びる新屋敷(しんやしき)小路にあって、夏はかき氷をやっていた駄菓子屋「秋元商店」。建物の右手にかき氷の製造工程を見せたとおぼしき小窓が残る。

新屋敷小路を東に進むと金照閣踏切、振り向いて西に進み、突き当たりを左折すると、冒頭の「佐々木商店」に到る。

銭湯跡
▲愛宕湯跡 2004.05

「秋元商店」の西隣のアパートは「愛宕湯」跡。所在地名は牛島だが隣町である愛宕下の「愛宕」を冠した銭湯は、70年代後半頃に廃業。子どもの頃に通っていたなつかしい銭湯だ。

黒澤家住宅
▲「黒澤家住宅」長屋門・東根小屋町(中通三丁目)

金照寺山・一つ森公園に移築された上級武家屋敷「黒澤家住宅」が、「たまご公園」の南側、東根小屋町(現・中通三丁目)にあった時代、長屋門形式の表門の両側に店舗を増築して貸していたが、左手の駄菓子屋のような店が氷水屋をやっていた記憶がある。画像右手は「佐々木表具所」。

至近距離にあった銭湯は「黒澤家住宅」から中通小学校方向に向かい、十字路を右折した池永小路の「鶴の湯」。徒歩1分の距離。

「黒澤家住宅」跡地には今、11階建てのマンション「パークハイツ中通」が建っている。

旧黒澤家住宅(旧所在 秋田県秋田市中通三丁目) 表門 文化遺産オンライン

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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さようなら「斉藤もちや」氷水と大福餠

斉藤もちや
▲斉藤もちや 2005.07

秋田市楢山本町で昭和10(1935)年創業の老舗「斉藤もちや」が今年(2016)の春頃に廃業。

営業品目は「大福餅・のし餅・お供餅・赤飯」など。夏は氷水屋を兼業、ふんわりときめ細やかなかき氷に、自家製の白玉と餡を添えたものが定番で、真向かいに秋田市内で最後の銭湯となった「星の湯」があるため、内風呂普及率の低かった時代、夏の夜は銭湯帰りの客でにぎわったものだ。

斜め向かいには「生グソ」(生グレープフルーツソフト)で名が知られた、氷水屋「広栄堂」がある。その影響で近年は「斉藤もちや」も、果実・果汁を使用した新感覚かき氷も出していた。

斉藤もちや
▲Googleストリートビューより 2015.08撮影

斉藤もちや
▲Googleストリートビューより 2015.08撮影

斉藤もちや跡
▲斉藤もちや跡 2016.07

「斉藤もちや」があった通りの大堰端から楢山郵便局までの通称を楢山表町(おもてまち)といい、その北側に延びる通りの通称を楢山裏町という。芥川賞作家・石川達三が幼少期を過ごした町だ。

楢山表町(楢山本町)と楢山裏町(旧・楢山本新町)は、どちらも徒士衆(かちしゅう)の住んだ屋敷町。本町を表御徒行町(おもておかちまち)、本新町を裏御徒行町(うらおかちまち)と呼んでいたことから、それを略した「表町・裏町」という通称が後世まで残った。徒士衆は参勤交代の大名行列の先頭を徒歩で警護し、平時は城の警備にあたった下級武士。

「斉藤もちや」の小路を南へ進むと、魔除けの石敢當(いしがんとう)多発ストリート(下記関連リンク参照)にぶつかる。突き当たり西角で営業していた「今野(いまの)製菓」は、もうずいぶん前に廃業。

今野製菓
▲昭和34(1959)年4月 新聞広告
皇太子殿下御成婚記念の集合広告から

「今野製菓」は「斉藤もちや」と同様に大福餅や正月用の「ちん餅」も製造し「今野餅屋」とも呼ばれていた。

楢山界隈の餅屋で唯一残ったのは「斉藤もちや」から500メートルほど北へ離れた、聖霊高校通りに店を構える「鈴為もちや」。名物の乳白色のおやき「ミルク焼」が人気で、若い後継者もいるため廃業の心配は今のところ無い。この店も以前はかき氷をやっていたはず。

斎藤もちや (秋田/和菓子)

斉藤もちや跡

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