二〇世紀ひみつ基地

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川反三丁目橋今昔・悪名高き昭和の太鼓橋

▼大正時代の川反三丁目橋・夏の情景

川反三丁目橋
川反三丁目橋・絵葉書より

秋田市内を流れる旭川に架かる三丁目橋をローアングルで撮影。橋の向こうに、土留めと柳が特徴的な川反(かわばた)四丁目の屋並が連なる。

川反四丁目は芸者置屋と料理屋が集中した川反の中心地だが、それ以前の川反は片側町で、旭川側は「浜」と呼ばれた藪まじりの河原のなかに、水汲み場・馬洗い場・ゴミ捨て場・荷揚場・米蔵・作業小屋などが点在していた。

明治19年の大火・俵屋火事以降、下米町にあった花街のうち、芸者屋と料理屋は川反三・四丁目に、遊郭は南鉄砲町、俗にいう常盤(ときわ)町に移った。

人徳の商家・那波家
俵屋火事のこと

川反三丁目橋

橋の下では、土手長町の土手を背景に人力車を洗う車夫。

三丁目橋下は「馬の洗い場・冷やし場」として知られ、明治から大正にかけて秋田・本荘間を往復した乗合馬車で働いた馬の、火照った体を冷やし、洗う光景がよく見られたという。馬車会社は近くの茶町扇ノ丁に集中していた。

川反三丁目橋

大きなザルを手に雑魚を狙う子ども。

川反三丁目橋

川反の川端に階段状に形成した丸太の土留めと、水辺に深く根を張り護岸の役割をする柳を背景に、洗い物をする婦人と、カメラに目を向ける二人の子ども。その奥に家から川に下りる自家用の階段。

明治末に水道が通じるまで、旭川を流れる水が大町・川反界隈の生活用水および飲料水として使われていたが、右手に見える建物の間から下りる坂が、川端の各町内にあった共同水汲み場の名残と思われる。馬や人力車もこの坂を通ってきたものだろう。

共用栓のある風景・大町三丁目通り
旭川の水汲みと水道共用栓のこと

 

 

 

ケヤキ並木のレストラン・那波家水汲み場
 

▼悪名高き昭和の三丁目橋・擬宝珠のある白橋

川反三丁目橋
川反三丁目橋・昭和30年頃

木橋を渡った右手に、うなぎの「横田屋」(昭和25年開業)左の清酒看板のある店が「丸彦酒屋」(大正3年創業)直進するとすずらん通り。 

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

秋田国体秋季大会を直前にした昭和36(1961)年9月、木製の三丁目橋をコンクリート永久橋に架け替える工事が完了。白い欄干に擬宝珠(きぼし)を配したクラシカルなデザインの新橋が開通するが、これが秋田の土木史に特記されるほどの、まれにみる欠陥物件であった。市民にとっては悪い意味で忘れがたい橋。

川反三丁目橋
土手長町通り取付け道路
秋田県広報誌『あきた』平成2(1990)年5月号より 

コンクリートで架け替えられた三丁目橋は道路よりも高く(土手長町通り側で1メートル、川反側で60センチの落差)取付け道路が急勾配になったため、積雪期はスリップによる追突事故が多発、凍結した歩道で転倒する歩行者が続出。利用者のことを考慮しない設計に批判が集まり、その形状から“太鼓橋”と揶揄された。

橋のたもとの飲食店「横田屋」の旭川に面する窓側の席は、橋を渡る人から見下ろされるようになり、食事する姿が丸見えに。その向かいの「丸彦酒屋」では坂道対策として、配送用にいちはやく4WD車を導入。

昭和52(1977)年12月、取付け道路に電線式ロードヒーティングを設置。しかし、路面がスパイクタイヤやチェーンで削られ、やがて電熱線が断線して使い物にならなくなるため焼け石に水。毎年電熱線の埋め変え工事を繰り返す。

欠陥橋が生まれた要因は洪水対策。架け替え前の木橋は隣接する橋よりも50センチほど低く、河川改修前は洪水のたびに浸水していため、隣接する橋と高さを揃え、さらにその上に約1メートルの厚さがある、旧工法の橋げたを載せた結果、このような欠陥物件が出来上がった。当時の技術でも薄くて強度が高い橋げたが可能であったにもかかわらず。

川反三丁目橋
三丁目橋開通式・秋田県広報誌『あきた』平成2(1990)年5月号より

欠陥橋の開通から約30年後、平成2(1990)年3月29日、新しい三丁目橋開通。長いあいだ市民を悩ませた、急勾配がようやく解消された。

中央部両側にすずらん灯を配したバルコニーを設置、川反側の欄干に時計塔を載せた、モダンデなザインの新三丁目橋には、連結する「すずらん通り」にちなんで「すずらん橋」の愛称が与えられた。

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

そしてもう一度、今(2014)から約100年前の川反三丁目橋界隈の情景を…

川反三丁目橋

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2004.03

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.10

 

「すずらん通り」にともる灯は
すずらん通りの今昔

 

 

 

四丁目橋に夜のとばりが落ちる頃
橋のたもとのモダン建築

 

 

 

長町通り「勧工場」
三丁目橋と二丁目橋のあいだにあった名店街

 

 

 

光と闇を結ぶ「通町橋」

 

 

 

 

幻の仁別川の流れを辿る
仁別川=旭川

 

 

 

砂利船のある情景・秋田市旭川

 

 

 

 

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砂利船のある情景・秋田市旭川

秋田市旭川
秋田市旭川(大正期)

旭川に架かる橋の下に夫婦連れらしき砂利船が浮かぶ。その橋は保戸野新橋だろうか。

秋田市旭川
保戸野新橋

昭和初期の『秋田魁新報』より、旭川の砂利船を描写した随筆を。

早春点景

柳の青む川で
 船頭夫婦が 楽しいお昼飯
(F記者)

砂利船の夫婦

「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也…」と芭蕉は奥の細道の冒頭につぶやいている「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす…」と

 雪汁(*1)がひたひた寄せてくる頃市内旭川の川下から掛け声面白く大きな川船が遡ってくる。潟の藻草を積んだ船(*2)である、水影がユタユタ船腹に揺らいで棹を突っ張る若者や面舵を操(と)る老人の顔が赭(あか)くかゞやく……セザンヌの絵のように。

 砂利船の夫婦は冬のうち“おつね”(*3)をしても雪がとけて川があく頃になれば日に三両づゝ二人 少なくとも五両(*4)はラクラク稼げる。ヨタ船が一艘であとは腕と肩が資本でいゝから呑ン気なものである。

 彼等は川口から新川あたりに住んでいるが水の具合を見計らって泉あたりまでも遡ってゆく。夕方柳の青む川べりに沿うて何艘も砂利船の夫婦がくだってゆくのを見る。

暖かな日、舟の盛り砂に腰をおろした砂利あげの夫婦は睦ましげにワッパに詰めた白飯を頬張っているのはハタで見ると羨ましい。

昭和4(1929)年4月『秋田魁新報』より

 (*1)雪汁(ゆきしる)
 雪解け水。

(*2)潟の藻草を積んだ船
八郎潟の海藻類を積んで、雄物川経由で秋田市に到来。

(*3)おつね
越年(おつねん) 。

(*4)日に三両づゝ二人 少なくとも五両
ここでいう「両」とは「円」のこと。明治以降「円」を俗に「両」と称した。

ちなみに、昭和4年前後の大工の手間賃(日当)は3円ほど、小学校教員初任給45円ほど。

インテリ臭い売文業のF記者は「ラクラク稼げる。ヨタ船が一艘であとは腕と肩が資本でいゝから呑ン気なものである」と見下すが、砂利採りは体力を必要とするのはもちろんのこと、年中、水に浸かりっぱなし、春先の増水期などは腰まで冷たい水に浸からなければならない。一般の肉体労働者よりも高い日当も当然の結果であった。

旭川の砂利船
旭川の砂利採り(昭和はじめ頃)

小さな三人は近所の子どもか。船の後方に水汲み用の階段が見える。

水量が比較的少ない川でも運行できるように、船底が平らな造りの砂利船の上には、砂状のものから砂利まで、大きさで選別された砂礫。

旭川の砂利船

川底から鋤簾(じょれん)でかき集めた砂礫は、篩(ふる)いにかけて選り分けられる。力仕事で鍛え上げられた人夫の胸板が厚い。

鋤簾

秋田市旭川
絵葉書「秋田 旭川の清流」(大正末頃)

以前「川反に土手があったころ」に掲載した絵葉書に写る、旭川を下る砂利船。そのむこうに架かる白い橋が、県内初のコンクリート橋・二丁目橋(別名・県庁橋)。

秋田市旭川
2014.09 大町公園橋から二丁目橋を望む

秋田市旭川

 上質な旭川の玉砂利は高値で取引され、昭和30年代半ば頃まで採取がつづけられた。

 

川反に土手があったころ

ケヤキ並木のレストラン・那波家水汲み場
 

川反情緒・風景を読む
 

「県庁橋通り」は県内初の舗装道路?
 

土手長町官庁街の中心地・秋田県庁舎

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街中のアオサギ・旭川二丁目橋付近


2012.08


2012.08

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消えたケヤキ・川反定点観察


2005.02

旭川に架かる三丁目橋より二丁目橋(北)を望む。

二丁目橋手前の樹齢140年ほどのケヤキ並木は那波家の防火林、その下に那波家の水汲み場。


2007.11

那波家のケヤキ並木の手前(南側)に樹齢100年前後と思われるケヤキと樹種不明の広葉樹が、往時の旭川の風情を偲ぶように存在したが、つい先日(2011年9月初旬)通りかかったら、それらの樹木は根元だけ残して、きれいさっぱりと伐採されていた。


2011.09


2011.05


2011.09


2011.09

消滅した樹木の裏側は川反三丁目の「升屋」(那波商店呉服部)。日当たりの悪さを解消するための伐採だったのだろうか。


2010.11 中央通りより消滅した樹木を望む


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