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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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塩田から風力発電まで・新屋浜変遷



09.12

季節ハタハタの獲れる時期となった12月初旬、旧下肴町(しもさかなまち・現大町五丁目)に店を構えるカニ屋の店頭に積まれていた北浦産ハタハタの魚箱。


●漁場でありレジャースポットだった新屋浜

大正3年の新聞に、秋田市の新屋浜でハタハタの大漁があり、上肴町および下肴町の魚市場がにぎわいをみせたとの記事がある。
◎鰰大漁
一昨日より昨朝にかけ新屋濱にて近年珍しき大漁ありて濱相場は一駄二千五百尾にて一圓三十錢位なりしが市内行商相場は十錢に七十尾以上にして上下肴町には山の如く入荷ありて付近村落より買ひ手も群集し雜踏を極めつつあり
大正三年十二月十三日付『秋田魁新報』より
当時はまだ木箱ではなく、藁ムシロを二つ折りにして作った叺(カマス)という袋に魚を詰め、馬に背負わせて運搬した。「一駄二千五百尾」の「駄」という単位は「馬一頭に積める重量」のこと。

古くは百三段(ももさだ)海岸と呼ばれた、砂丘と松原がどこまでもつづき、遠く男鹿島や鳥海山を望む新屋浜は、遠浅で波おだやかな海水浴場と、捕れたての鮮魚・地物のキノコなどで客をもてなす海水館が建ちならぶ、年間約15万人をあつめる明治末期からのレジャースポットであった。
 ■海! 露葉
 ▲新屋濱の落日を俯瞰しつゝ
▲ あゝ海!水や空なる際涯(はて)なき日本海の波浪(なみ)打つ磯に立つて、落日の紅(あか)き紅き光線(ひかり)を浴びつゝ潮風に吹かれた涼味!呼べば答へん男鹿山の投嶋田に一抹の白雲を帶にした鳥海のお紺さん!日の半(なかば)沒した地平線の上數尺の黄橙色(だいだいいろ)、海は愈々紫色に化してヴエナス女神は西の方爛たる唯一つの星と晃(きら)めき出た、僕は今夜は此の工藤海水館の樓上で鹽燒の小鯛と鯖と初茸とを飽くまで食ひながら泊まるのです。
大正三年『秋田魁新報』より
新屋濱=勝平山後日本海に面せし大濱にして秋田市より僅かに一里、海水館軒を竝べて夏時遊浴の客を待ち、海よりは鰈、小鯛、甘鯛、アラ、金頭、飯蛸、鰮(イワシ)、鰰等を産す。殊に秋季の鰮は大漁にして、鰮網を遊覽する士女の日々萬を以て數ふべし。
明治四十年『秋田繁栄誌』より



明治四十年『秋田繁栄誌』より


●新屋はショッツルの本場

新屋浜周辺は古くから塩田の広がる塩の産地。その塩を使って大量に獲れたハタハタやイワシを塩漬けにし、仙北方面に川舟で運んで売っていた。あまった塩漬けの魚を桶に保存しておいたところ自然醗酵し偶然できた魚醤がショッツルだという。

佐竹の殿さまは新屋の大門助右衛門家に命じてショッツルを醸造させたといい、明治時代まで唄われていたという次のような古謡が伝えられている。
新屋の大門 塩辛(しょがら)の手
その手で お釈迦さんに 団子あげだ
お釈迦さん くせぇどって(臭いと)鼻まげだ(曲げた)
将軍家では年の初めに、鶴の肉を使った当時の最高級料理「鶴の吸物」で饗応する習わしがあり、佐竹の殿さまもそれにならって正月には「鶴の吸物」と称して、ショッツル(鶴)の吸い物を出したのだそうだ。



大正7年の新屋のショッツル生産量は170石(30,670リットル)。大東亜戦争中に大豆や小麦が入手困難となり、醤油が生産できなかった時代は代用醤油として重宝された。今もただ一軒、新屋でショッツルを製造している仙葉善治商店(亀甲善・キッコーゼン)は大正はじめからの味噌醤油醸造元で、ショッツルに関しては昭和10年から製造を開始している。


●山が割れて「割山」となり、たそがれる新屋浜

昭和13年、新屋浜の様相が一転する。この年、22年間にわたる大工事を経て、浜を分断する雄物川放水路が完工。この改修工事により雄物川下流域の洪水被害は激減したが、新屋浜が河口となったことにより、土砂の堆積、ゴミの漂着、海流と水質の変化などの影響を受け、新屋の漁業は衰退の道をたどりはじめ、昭和13年に操業を始めた「東北振興パルプ」のちの「東北パルプ」の廃水が海水の汚染に拍車をかけた。

放水路のため丘陵が二つに割られたことから、その地区に「割山」の地名が与えられ、海流と景観が変わり、魅力を失った海水浴場からやがて海水館は消え海水浴客は激減。


雄物川河川改修図


●飛行機見物でにぎわった昭和30年代

昭和27年、新屋浜の北側に市営新屋海水浴場が新設される。
新屋海水浴場開き
◇アトラクションきまる


新屋浜放水口の北側に新設された新屋海水浴場は市営直営で開設、二十日(日曜)賑々しくそのふた開けを行うが、秋田放送局、市観光協会、新屋海水浴場協力会並に木内百貨店の後援で当日呼物のアトラクションのスケジュールも次の如くきまって、市民のおいでを待っている。

午後一時開始(1)歌の花束(秋田放送局提供)(2)海水着ショー(木内百貨店提供)(3)三つの歌(秋田放送局提供)(4)ミス観光秋田のラッキーカード撒布などである。
市では脱衣所、監視哨、飛込台、洗面所、浮標、夜間電灯などの設備も完成し、市営バスは新設の道路を期間中毎日朝八時から夕八時まで三十分おきに直通の見込み。
昭和27年7月『広報あきた』No.21より
「秋田放送局」とは NHK のこと、「ラジオ東北」のちの「秋田放送」は翌28年の開局。

昭和36年9月、市営新屋海水浴場の間近に秋田空港が開港、それにともない約9年間つづいた市営新屋海水浴場は閉鎖。

秋田から東京までの所要時間2時間、航空運賃は5.800円(公務員の初任給11.000円ほどの時代)と庶民には高嶺の花で、一日の平均塔搭乗数20人と少なかったが、開港からしばらくはバスに乗って一日2.500人ほどの見物客が訪れた。



県広報誌『あきた』昭和37年7月号より

ターミナル前で飛行機を見物する人々と、秋田と羽田を結ぶ全日空のターボプロップ双発旅客機・フォッカー F27「フレンドシップ」定員40人。左手に小さく海洋掘削装置「白竜号」がみえる。



今も残る旧秋田空港の滑走路。開港当所は1.200メートル、その後、中型旅客機に対応するため1.620メートルに延長したが、大型機の滑走には距離が短く、日本海に滑走路をつき出して延長する案もあったが、強い海風の影響で欠航する確率が高い、空港には適さない場所だったこともあって、昭和56年に河辺郡雄和町に移転。その後、旧空港の建物を利用してクレー射撃場が運営されたこともあった。

現在、旧空港周辺には風力発電の巨大な風車が海風を受けてそそり立ち、放水路で分断された対岸(南側)の浜辺は「新屋海浜公園」と命名され、その一角にぽつねんと、“昔のにぎわいにカエル”ことを願って設置されたモニュメント「ももさだカエル」の、天に向かって両手を上げたユーモラスな姿が公園の珍名物となっている。(下記関連リンク参照のこと)


新屋海浜公園より対岸の風力発電風車を望む


新屋海浜公園より男鹿半島を望む

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| 秋田市今昔 | 23:30 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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三角屋のあるY字路・新屋


2006.06

秋田市新屋の日吉神社前から北へ向かい、汗かき地蔵で有名な愛宕町地蔵堂の前を過ぎてほどなく、目の前におもむきのある Y字路が現れる。

分岐点から右手に伸びる街道、左手にゆるやかに蛇行する裏道。これらの古道を北上すると雄物川放水路にぶつかる。

街道に面した Y字路の分岐点に建つのが、地元で「三角屋」と呼ばれている、木造二階建てレトロ建築。


2006.06

裏道の曲線に沿ってゆるやかにカーブを描く壁面と、そこにパッチワークのように貼られた、新旧の波トタンの表情が面白い。

明治の初めまで空き地であった三角地帯に下駄屋が開業、その後、下駄のほかに文具・小間物・荒物をあつかう「三浦雑貨店」を経て、近年はクリーニング店、運動具店などが入居する貸店舗となっていた。


大正期の地図より


戦前の三角屋前

しばらくのあいだ空き家になっていた三角屋が、新屋地区活性化の拠点として改装され、展示ギャラリー・カフェ・アトリエ兼フリースペースを備えた「新屋参画屋」として、10月30日にオーブンした。

二階の窓を覆っていた大きな看板は取り外され、錆びた波トタンも張り替えられて、ずいぶん小綺麗になったが、建物が放つ寂れた存在感が以前と比べると薄れてしまったように感じる。

歴史的街並が続く、いにしえの道にはさまれた分岐点に、この町のひとつのシンボルである三角屋が存在するY字路は、秋田市内では、同様にレトロ建築が建つ、楢山の「理髪館のあるY字路」と並んで、Y字路マニアの心を惹きつけてやまない、たぐいまれな物件である。


三角屋のあるY字路 No.02/2004


大きな地図で見る

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関連リンク

まちづくり拠点施設オープン 秋田市新屋、空き店舗を改装|さきがけonTheWeb

秋田のまちづくり活動拠点「新屋参画屋」開所-築70年の下駄屋改装 - 秋田経済新聞

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二〇世紀ひみつ基地 理髪館のあるY字路

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桜田淳子が天使だった時代・阿久悠物語

●夢みる天使

昭和47年(1972)7月19日、秋田県民会館を会場に、日テレ系のオーディション番組「スター誕生!」秋田大会の収録が行われた。

当日は約700人の秋田予選を通過した14人が出場、7人ずつ2週分(7月30日・8月8日放送分)を、竿燈や秋田音頭など郷土芸能を織りこんで収録するのだが、スタッフと番組の企画者であり審査員もつとめていた作詞家の阿久悠は、県民会館の客席に座り収録開始を待つ、秋田市新屋に生まれ、西中に在学中のひとりの少女に注目していた。
‥‥前略‥‥
「あのこ、音痴でさえなければ合格させたいね」と、ぼくはプロデューサーに言った。ごくごく普通の中学生たちの緊張のない語らいと書いたが、その通りでありながら、実に見事に背後からの視線を受けとめている少女が一人いて、それが桜田淳子だったのである。彼女は白いベレーをかぶっていた。そして本番で彼女は、けして上手ではないが音痴でもなく、圧倒的に人の目を惹いて合格した。
 そのデビュー曲に、第一印象を伝えようとして書いたのが「天使も夢みる」で、白いエンゼル・ハットで愛らしく世に飛びだす。そして、第三弾で、これまた初会の思い入れそのままに「わたしの青い鳥」というのを書いた。
‥‥中略‥‥

ようこそ ここへ クッククック わたしの青い鳥…

 この時代、まだ、「幸福」とか「夢」とかが、言葉として存在した。青い鳥や天使に仮託する幸福や夢は、実態がないだけに尊さと有り難さがあった。逆にいえば、姿かたちがあってはいけないもので、そのために青い鳥や天使たちを仮のものとして探していたのである。人間は利口で、姿のある幸福や夢がいかがわしいものであることを知っていたのである。
 その頃の幸福は十人十色、一人一人が微妙に色の違う、鳴き声の違う青い鳥を求めていたため、それぞれがそれぞれなりに幸福であった。
 だが、今は幸福や夢は心ではなく形だといい、ハンドバックやブーツが幸福ジルシだと叫んでいる。

阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社 より
同じ年に東京で開催された第4回決勝大会(9月放送)の投票は、客席に陣取るプロダクションのスカウトマンが手にする、社名を記入したプラカードを上げることで獲得の意思を表明するという、人買いのような形式。


「スター誕生!」第4回決勝大会

このとき、彼女に対して番組史上最高の25社(34社説もあり)がプラカードを上げ、最優秀賞を獲得。その後、所属プロダクション(サンミュージック)も決まり、同年10月に上京、デビューを目指してレッスンに励む。


●アイドル誕生

昭和48年(1973)2月25日、「天使も夢みる」(作詞:阿久悠 作曲:中村泰士)でビクターレコードから歌手デビュー。当日は彼女がプロ歌手として始めてステージに上がる「スター誕生!」の放送日(ABS 日曜 AM11:00-11:56)とかさなり、秋田魁新報のラテ欄下には、全五段の新聞広告が掲載され、そのデビューを華々しく告知した。


1973年2月25日 秋田魁新報

右に「秋田県レコード商組合が推薦します。」とあり、その下に県内のレコード店の名前が列記されている。



キャッチフレーズが「そよ風の天使」。番組で視聴者から募集して決まったペットネームは「そよ風ジュンちゃん」。

阿久悠が秋田県民会館で彼女を見たときの印象をそのままに、白い帽子をトレードマークに売り出し、たちまち人気アイドルに。「スター誕生!」から生まれた同世代アイドル、山口百恵・森昌子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれる。

彼女が予選のときから被っていた白い帽子を、所属事務所は「エンゼル・ハット」と命名、帽子会社とタイアップし、これもヒット商品となる。

同年5月、セカンドシングル「天使の初恋 」リリース。8月にリリースしたサードシング「わたしの青い鳥」がヒットし、日本レコード大賞最優秀新人賞、日本歌謡大賞放送音楽新人賞を受賞。その後もヒットチャートのベストテン常連に。



二十歳頃からドラマ、映画、舞台にも進出。昭和55年度・文化庁芸術祭賞優秀賞。(ミュージカル「アニーよ銃をとれ」における演技で)。昭和61年度・芸術選奨文部大臣新人賞。昭和62年度・菊田一夫演劇賞(舞台「女坂」の演技で)などを受賞。


●地に落ちた天使


順調な芸能活動を続けていた平成4年(1992)、霊感商法で有名な韓国のカルト教団「統一教会」の合同結婚式に参加することを記者会見で表明。姉夫婦(現在は脱会)の影響で19歳頃から入信していたことを明かす。この数日前には元新体操選手・山崎浩子も同様の会見を開いていた。教団がタレントを広告塔として送った記者会見であった。

それ以後芸能界から姿を消す、いや消さざるを得ない状態に自らを追い込んでしまう。純粋とは罪なものである。当時、こともあろうに……と嘆いたファンも多かったと思う。
‥‥前略‥‥
 君がデビューして間もない頃、中村泰士さんとこんな冗談を言い合ったことがあるのです。
“あの天使も天使でなくなる時が来る”
“人間が天使の顔をしていられるのもほんの短い季節の間だけなのだ”
“しかし、あの娘を堕天使にしようとする奴を見つけたら、二人でいって撲(なぐ)ろうか。それは、宿命や約束事と無関係に、正直な感情だから”
‥‥後略‥‥

1976 『月刊 you』(月刊阿久悠) 第2号
「阿久悠からの手紙・桜田淳子の巻」より
デビュー時から作詞家として支え続け、例の記者会見では複雑な思いを抱いたに違いない阿久悠が、自ら制作するフリーペーパーに掲載した、娘に対する父親のような心情があふれる公開書簡である。この時点で、「撲(なぐ)りに行く」相手がカルト教団になろうとは、夢にも思わなかっただろう。


●TV ドラマ「阿久悠物語」

桜田淳子のため約124曲という多くの詩を残した阿久悠は昨年の夏逝去。氏の一周忌にあたる8月1日、日テレ開局55年記念番組「ヒットメーカー阿久悠物語」が放映される。2008年8月1日、金曜ロードショー特別枠、夜9時3分-11時24分。



監督は新ガメラシリーズを手がけた金子修介。アイドルグループ・℃-ute (キュート)の鈴木愛理が桜田淳子を演じる。

阿久悠が企画と審査員をつとめた「スター誕生!」の立ち上げから、番組から誕生した少女たちが、アイドル黄金時代を築き上げてゆく1970年代にスポットを当て、当時の秘蔵映像を満載したドキュメンタリードラマ。秋田大会の収録を前に行われた秋田予選会のフィルム映像も流れるという。


秋田予選会

予選会の時点ですでにアイドルのオーラを放っていた彼女も今年で50歳。それにしても、よりによって……。

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関連リンク

ヒットメーカー阿久悠物語

金子修介の雑記 "Essay":『ヒットメーカー阿久悠物語』速報PART4
「出場者の中で一人だけ浮き上がって見え、淡い蛍光色に光っている少女がいた」阿久悠

桜田淳子 - Wikipedia

有田芳生の『酔醒漫録』: 桜田淳子の芸能界復帰はない

おすすめ youtube 動画(初期)

akitanosyoujyo _iza_kessenn
旧秋田駅、新屋の風景、「決勝大会」の音声など

「スタ誕!淳子物語」1972~77年トリオ解散まで
「秋田予選会」の秘蔵フイルム、「秋田大会」および「決勝大会」のスナップなど

Sakurada Junko Paper Sleeves Digest Part 1
「天使も夢みる」「わたしの青い鳥」「花物語」他
ファーストシングル「天使も夢みる」の初々しい歌声が良い

桜田淳子 私の青い鳥
プロモーションフイルム

桜田淳子 - わたしの青い鳥/ 十七の夏

レコード大賞受賞式 わたしの青い鳥
母親と朝丘めぐみにはさまれて

| 昭和・平成ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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初夏の風物詩・鹿嶋流し

秋田市祭事記・初夏(二)


勝平得之『鹿嶋流し』昭和十三年

六月から七月はじめにかけて、「鹿嶋流し」、または「鹿嶋送り」と呼ばれる祭りが、秋田県内の各地で行われる。

●新屋の鹿嶋祭り

秋田市新屋地区に伝わる「鹿嶋祭り」はもともと、田植えを終えて田の神を送る「さなぶり」の時期に行われた、五穀豊穣と無病息災を願う行事だったというが、のちに月遅れの「端午の節句」六月五日となり、近年は参加しやすいように、六月の第二日曜日が祭日となった。

祭の前日「宵節句」の夜、子どもらは菖蒲湯で身を清め、自作の鹿嶋人形に笹巻きを供えて祈る。当日の早朝、朝露にぬれた草を裸足で踏み無病息災を願う「露踏み」を行い、朝食のあと、笹巻きを二つ背負わせた鹿嶋人形に、息を三度吹きかけてケガレ(邪気・災厄)を移し、町内の鹿嶋船(舟形の山車)に届ける。ちなみに「露踏み」の行事は、環境の変化もあり現在はすたれている。



鹿嶋人形に笹巻きを背負わせるのが、新屋の鹿嶋祭りの特徴で「笹巻き祭り」ともいわれ、見返しに当世流行のアニメキャラを乗せたりと、現在は子ども中心のお祭り。鹿嶋船のガツギ(マコモ)に挿した五色の流れ旗に書かれた文字は「家内安全」「町内安全」「交通安全」「無病息災」など。



子どもらに曳かれて町内を練り歩いた十九町内の鹿嶋船は、日吉神社でお祓いをうけた後、雄物川にケガレを託した人形を流し、一年の無病息災を願う。昔はガツギ(マコモ)で作った船もろとも流していて、千葉県の「国立歴史民俗博物館」に、湯沢市岩崎地区の鹿嶋様(大型の藁人形)とともに展示されているが、今は人形だけを小型の船や板にのせて流している。人形の一部を流す町内、また一体も流さない町内もある。




●地震除けとしての鹿嶋流し

秋田市内で今も鹿嶋祭りが行われているのは、新屋、川尻、登町(旧御船町)など。古くは大町、本町、上肴町、四十間堀町、八日町、豊嶋町、八橋、明田、牛島、川口、四ツ小屋、仁井田大野など、多くの地域で盛大に行われた秋田の初夏の風物詩であった。

延宝四年(1676)の上肴町の記録によれば、祭りの三、四日前から屋根の上に立てておいた武者人形を舟(山車)に乗せ、その他の練り物(祭礼の山車)とともに、鼓や太鼓を打ち囃しながら土崎湊まで練り歩き、人形を乗せた舟を沖に流す。帰りに寺内で赤飯や酒で祝い町内に帰る。とある。

「地震」などの天災もまた鹿嶋船に乗せて流す災厄のひとつ。菅江真澄の文化八年(1811)の紀行文『軒の山吹』にはつぎのような記述がある。
二十八日 あすは、鹿嶋流しといって、家ごとに餅をつき、例のように、篠の葉に玉のように小餅つけて軒にさしている。家々では人形をつくって、ここかしこに持って行き、御饌を供える。そしてその人形の腰に銭をいくらかつけて、ほかの家に送ってやる。どこでも同じようなことを行っている。こうしてその日になると大船を造り、それに思い思いにつくった武者姿をはじめとして、楫取り・水夫までつくって、船いくさのまねごとをする。だいたい、それを年ごとに流す行事は陸奥にもあるが、きちんと行われるわけではない。これを地震がゆらないための祭というが、考えてみるに、国の守(くにのかみ・佐竹藩主)はむかし、常陸の国からこの出羽の国にこられたので、祖先の国の風俗をまねておこなわれたものであろうか。去年の地震を恐れて、男鹿の浦々はいうまでもなく、どこの村でも「鹿嶋船ながし」といって、笛・太鼓ではやし、神酒に酔って、たいそう賑やかであるが、これが豊かな世の姿であろう。
菅江真澄『軒の山吹』より
「去年の地震」とは文化七年(1810)八月の男鹿大地震のこと、真澄自身、男鹿にいてそれを体験している。このような大地震や天災を期に「鹿嶋流し」が県内に流行し、既存の祭りではその規模が盛大になったようだ。

「地中の大鯰が暴れると地震が起こる」との江戸時代の俗説があり、常陸の国(茨城県)の一の宮・鹿島神宮には「要石」(かなめいし) が大鯰の頭を動かないように抑えているため、この地方には大きな災害がないと伝えられている。古くは鯰ではなく龍が地震を起こすとされ、鹿島大神は地震除けの神としても信仰を集めてきた。


『地震錦絵』より

安政二年(1855)の江戸大地震の直後、地震鯰をモチーフとした「鯰絵」といわれるユーモラスな錦絵が大量に出版される。

この世の災厄(ケガレ)を一身に受け、船に乗せて流される「鹿嶋さん」(鹿島神)という存在について、民俗学者の宮田登はつぎのように考察している。
……人形は災厄がこめられた悪神であり、この悪神を現世の周縁部にあたる鹿島の地へ送りこむという神送りの形式を示している。災厄を送り出す代わりに幸福をもたらしてくれる、そうした境の両義的性格が鹿島信仰の特徴といえる。
『平凡社大百科事典』より
鹿嶋祭りは鹿島信仰を中核に、夏越(なごし)の人形(ひとがた)流し、道祖神・サエの神(村の境に立ち邪気を防ぐ)信仰、端午節句の邪気祓い、さなぶりの神送り、虫送り(作物に付く害虫を村はずれまで送る行事)など、さまざまな風俗・庶民信仰が重層的に習合された興味の尽きない祭事である。

画伯は鹿嶋神社の生き神様・楢山御船町


楢山御船町の鹿嶋祭り


川尻の鹿嶋祭り


旧暦五月は「サの神」の月


諏訪愛宕神社の端午祭


| 祭り・民俗・歳時記 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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