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二〇世紀ひみつ基地

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追悼・遠藤選手は僕らのヒーローだった

秋田市に生まれ、体操を始めた中学時代から、那波家が理事をつとめる感恩講児童保育院(下記関連リンク参照)で育った体操選手・遠藤幸雄氏、3月25日逝去、享年72歳。



ローマ・東京・メキシコの各五輪に出場し、全盛を迎えた東京オリンピックで、個人総合で日本人初の金メダルをはじめ、平行棒で金、床で銀メダル、五輪通算7個(金5、銀2)のメダルを獲得。



昭和30年代の終わりに開催された東京オリンピックの時代、白黒テレビジョンの向こうで大活躍する、なじみ深き秋田顔の、あなたは僕らのヒーローだった。

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那波祐生と感恩講

NPO実証研究の第一人者、ジョンズ・ホプキンス大教授、レスター・サラモン博士は、米国の権威ある外交評論誌「フォーリン・アフェーズ」に掲載された論文、「福祉国家の衰退と非営利団体の台頭」のなかで、秋田感恩講のことをとりあげている。

……日本においても慈善活動は仏教の時代までさかのぼることができるし、「報恩社」(正しい訳は感恩講)という近代的慈善組織がすでに1829年に設立されている。これは米国で慈善活動が始まるほぼ一世紀前の話である。
邦訳は「中央公論」平成六年十月号に掲載

歴史の浅い米国と比較されても困るのだが、一九世紀、日本の地方都市に生まれた、NPO(民間非営利組織)の存在はサラモンにとっては驚きであったようだ。

日本初の民営による窮民・孤児救済機関「感恩講」を起した那波祐生は、安永元年(1772)六月三日、御用商人・那波家の長子として生れ、文化三年(1806)、父の後を継ぎ、第九代那波三郎右衛門の名を継ぐ。

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明治三十八年『感恩講図巻 ALBUM DE L'ASSOCIATI0N "KAN-ON-KO"』より

京都の大火災により財産を失い、宝永五年(1708)やむなく秋田に入り、藩の御用商人として再興を果たした那波家だったが、茶町居住のころに昼火事にあい、またしても邸宅その他一切を失ってしまったため、祐生は貧困のなかで成長した。

ある日、外町の鎮守・八橋の山王社(現日吉八幡神社)に参詣した祐生は、家業を再興させ、凶作で苦しむ人々の助けになりたいと祈願し、「食事やそのほかの欲望は我慢しますので、私の願いを、どうかかなえて下さい」と誓願する。

文政二年(1819)、祐生は藩の殖産政策の一環として設立されていた「絹方」の支配人に登用され、その後、那波家でも絹織業を興し、家業の立て直しに成功、それを契機として、城下における屈指の豪商に成長していく。しかし祐生は、豊かになっても倹約に励み、質素な生活を続けた。

文政十年(1827)、奉行所に年末の挨拶に出かけた祐生は、町奉行・橋本五郎左衛門から、たび重なる凶作と飢餓により、久保田でも生活に困窮する町民が増加していたため、「藩主が貧民救済の御意向があるが、運用資金調達方法を検討して欲しい」と相談される。それは若いときに貧苦を経験した祐生にとっても、かねてからの念願であった。

考え抜いた末に祐生の立てた計画は、献金を募りその金銀で知行地(農地)を買い入れ、そこから上がる年貢収入で、平年は貧民を救済し、凶作の年には飢餓に苦しむ人たちを助け、毎年の収入の半分は救済に使い、残りの半分は貯蓄するというもの。この方法をとれば、出金者個々の経済力に影響されることなく、恒久的に安定した活動を維持することができる。

祐生はまず、自ら金四百両の献金を願い出、翌十一年から東奔西走し外町の有力町人に働きかけ、同十二年二月に至って同志七十二人の賛同を得る。祐生の熱意と善意に動かされ、一般町民の中からも加入者が増え、構成員は百九十一名となり、献金は金二千両、銀十貫匁となる。その金銀で知行地を購入し、ようやく財政基盤が出来上がる。

文政十二年(1829)、藩では、この事業団体に「感恩講」という名称を与え、献金者に対して、毎年重ね餅を配ることにした。餅配りは恒例となり、その後も長く続けられたという。祐生を中心とした町民の善意と、さらに藩の支援を受け「感恩講」という、民間主導の画期的な救済事業が誕生した。

天保元年(1830)から翌年にかけて、本町六丁目・東側の火除地に備蓄米を保存する蔵二棟を建設。町民有志の献金や、木材、石材の寄付、労力奉仕があり、藩からも瓦・門・柵などの寄贈があったため、予算の半分の額で完成する。

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籾貯蔵倉庫・天保年間建築

天保四年(1833)、東北地方はかつてない大飢餓に見舞われ、翌五年にかけて餓死や疫病死があいつぐ。

通町橋から六丁目橋の下まで、橋の下は浮浪者でいっぱいとなった。死人をむしろに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどりついた親などさまざまであった。通町橋など午前十時ごろになると二百人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった。
『秋田飢饉誌』より

発足して間もない感恩講では資金がまだ不十分ではあったが、このような非常時にこそ救援活動を行うべきであると、藩からの支援も受け、祐生たちは不眠不休で救済活動を続けた。飢餓を訴え救助を求めてきた家は、約一千戸、父母を亡くした孤児の数は百二十人以上。これらの人々に施米の世話をし、病人への薬代や医療費、埋葬料を与え、孤児たちには保育の世話をした。その費用の大半は、祐生が私財を投じてまかなったという。感恩講では天保四年八月から翌年九月までの間、延べ四十三万人に対して施米している。

天保六年(1835)になり、ようやく世間も落ち着きをとりもどす。藩では天保四年の大凶荒に際して、救済活動に力を尽くした功績をたたえるとともに、「感恩講の知行高千石に限って歩合無しとするので、これを元手として備蓄に励み、今後大凶荒があっても救済活動に支障のないようにして欲しい」というお達しがあった。祐生はかねてからの念願であった貧民救済事業が軌道にのり、ほぼ当初の目的が達成されたとして、報謝のため、山王社に青銅の鳥居を奉納する。

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青銅鳥居には建立の由来と、たずさわった工人たちの名が刻まれている

天保八年(1837)、祐生は藩に対して、久保田町だけにとどまらず、さらに郡部にも事業を広げ、凶作時に備えて飯米や金銭を蓄えておくべきと進言するが、それから間もなく祐生は亡くなり、子どもの祐章に家業と感恩講が引継がれる。享年六十六歳、死の間際まで私利私欲を離れて、貧民救済に心血を注ぎつづけた晩年であった。

「講」は上のものにも非ず、下のものにも非ず
藩主のものではなく、那波のものでなく、出資者のだれのものでもない
『感恩講誌』より

天保元年には土崎感恩講が発足し、明治期までに秋田県内の感恩講(秋田感恩講とは別組織)の数は十八カ所。そのなかで、祐生が創設した秋田感恩講が救済した人員は、明治四十二年の時点で、延べ四百三万四千余名に及ぶ。

祐生の精神は、藩政期をへて明治・大正・昭和・平成と、組織の変動、存続の危機を乗り越え、脈々と受けつがれ、現在は寺内に感恩講児童保育院として残り、代々那波三郎右衛門が理事長を務めている。

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遠藤幸雄選手

東京オリンピックの金メダリスト・遠藤幸雄(現日大文理学部教授)は、感恩講児童保育院の出身。
体操競技で、日本人初の個人総合優勝をなしとげ、ローマからの団体三連覇にも貢献した遠藤は、昭和十二年秋田市に生まれ、小学校の時に母親が病死、父親は事業で失敗、中学から高校まで、当時は亀の町にあった児童保育園で過ごした。その恩を忘れず、毎年の盆暮れには、遠藤から那波家に宛てて、お菓子代として金一封が送られてくるという。

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感恩講・明治期 秋田市大町(旧本町)六丁目
昭和五十一年まで建物と蔵が残っていた

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感恩講跡地
現在は児童公園になり、「感恩講発祥地」の碑が建っている

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人徳の商家・那波家

秋田市大町三丁目の那波商店は、清酒(銀鱗)、味噌(山蕗)、醤油の製造販売、呉服衣料品(升屋)の販売を手がける、秋田を代表する老舗のひとつ。当主は代々那波三郎右衛門を襲名する。

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那波呉服店・大正期 現在の交通公社付近

秋田に来る前は京都室町の両替屋で、諸国の大名に資金を用立てるほどの財力だった。初代は佐竹氏の常陸藩時代から、京都の佐竹屋敷に御用商人として出入りする。五代目の時に火災に遭い、那波家ではほとんどの財産を失う。佐竹家に再建の資金として借金返済を願い出るも、久保田藩の経済事情も悪く「秋田に来れば良きにはからう」と言われ、止むを得ず久保田に入ったのが宝永五年(1708)。藩では、那波家を御用商人として取りたて、さまざまな便宜を図り、これまでの義理に酬いる。

電気の時代になっても、維持費の安いランプを使い続けた那波家の家風は「ケチ」といわれる。しかし、質素な生活で倹約した分は寄付金に当て、火災、飢饉となると被災者に援助の手をさし伸べる、人々に尊敬される家だった。

明治十九年四月三十日、秋田町を大火(通称・俵屋火事)が襲う。午後十一時過ぎ川反四丁目から上がった火の手は、おりからの三十メートル近い南東の風にあおられ、外町、保戸野の半分、さらに八橋から寺内までも飛び火し、三千四百五十四戸を焼失、死者十七人、行方不明二人、負傷者百八十六人。当時人口三万そこそこの秋田町の、半分近くが焦土と化した歴史的大火である。

当時キリスト教布教のために秋田町に滞在していた、米国人宣教師チャールズ・ガルストの婦人、ローラ・ガルスト女史は、次のように記している。

(出火当時)恐ろしいほどの風が吹いており、数時間のうちに、街は荒廃した。火が街を荒らすのを止めるために、消防士が火の行く手にある一番みすぼらしい掘立小屋を壊すことさえもままならなかった。秋田弁で「いたわし」(もったいない)と人びとは叫んだ。それに「仕方がない」(困った、気の毒、申し訳ない)がこの呪われた街を救うためのあらゆる努力をマヒさせた。(中略)
焦土の街に朝が訪れた。いくつかの耐火倉庫(土蔵?)が空を背景にわびしく立っていた。町の商業地区のすべてが焼失した。(中略)
抄訳『ローラ・ガルスト回想録』より

この大火の中心にあって、那波家は奇跡的に延焼を免れている。

火の手が大町の那波邸に迫りつつあるころ、「那波家を焼ぐな!」と叫びながら、日頃から那波家に世話になっている何百人もの町人が駆けつけた。大屋根に上り、水に浸けたモクむしろ(男鹿の海藻で編んだムシロ)を屋根いっぱいに広げ、邸宅をすっぽり覆い、飛んできた火の粉は、屋根に据えつけた水がめにホウキを浸し、片っ端からたたき消す。さらに那波家周辺の屋根へ消防団や男たちが上がり火の粉を払った。家財道具を旭川対岸まで運びだす者もいる。

当時、那波家の道をはさんだ向かい(当時の山王大通りは、数メートルの狭い小路だった)にあった、お菓子の「榮太楼」と周囲の数軒の家も、町人の活躍と、榮太楼の裏に那波家の土蔵があって、土蔵と榮太楼の間に十坪ほどの用水池があったことから、九死に一生を得、それ以来、榮太楼では那波家の恩を忘るべからずと、子々孫々に言い伝えているとか。

ようやく火がおさまった翌朝、荒涼とした風景のなか、ポツンと那波家と周辺の家だけが焼け残っていた。那波家の人徳、伝統的な福祉の心は庶民によって報われることとなった。

この俵屋火事で那波家では、消防に尽力した各消防組に対して金五十円ずつを贈り、ほかに白米一千俵を出して被災者に配分し、文政十二年、那波祐生が創設した救済組織・感恩講の赤倉(緊急用)からも一千俵を救済に充て復興に寄与し、多くの被災者に感謝された。

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焼け残った那波家の一部
左に曲ると川反
昭和四十三年頃に解体、跡地に呉服と衣料品の「升屋」がオープン

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右手に升屋(那波商店呉服衣料品部)

火災から那波家を守った町民の心情を突き動かす要因となった、感恩講と那波祐生のことは続編で……。

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