二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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保育院→キャバレー&給油所→コンビニ・南通り交差点変遷

南大通り(旧・南通り)の石敢當(いしがんとう)が建つ十字路で約50年間営業し、消防法改正による「地下タンク規制強化」の影響を受け、昨年閉鎖した「山二 秋田南通SS」が、「ファミリーマート」に生まれ変わってもうすぐオープンする。


2012.05

ガソリンスタンドが建つ前、一帯は養護施設「感恩講児童保育院」の敷地であった。

東京オリンピックの体操競技金メダリスト・遠藤幸雄は中学・高校時代を「感恩講児童保育院」で過ごし、秋田南中学校・秋田工業高校を卒業後、東京教育大学(現・筑波大学)に入学する。

明治26年、秋田市中亀ノ丁上丁に、内町の町民からの寄付金を基にした福祉機関「東部感恩講」創設。その後、保戸野諏訪町で発足した「感恩講児童保育院」が同地に移転。昭和39年頃、秋田市寺内に移転して現在に到る。


感恩講児童保育院

寺内に移転した「感恩講児童保育院」跡地の一角に「山二石炭 南通り給油所」、その東隣、現在はマンションが建つ場所に、朝日興産が本社および「キャバレー朝日」を川反五丁目から移転、「クラブ朝日」と名を改めて新規オープン。


クラブ朝日

収容人員150名、ホステス約100名を擁する大型社交場のステージには、数多くの芸能人が登場、専属バンドの生演奏でショーをくり広げた。


クラブ朝日・新聞広告
和田アキ子(昭和45年)、由美かおる(昭和45年)、中村晃子(昭和47年)


中村晃子「虹色の湖」
動画は「進め!ジャガーズ 敵前上陸」(1968 松竹)より

パンチが効いた歌声が印象的な、昭和42年(1967)のヒット曲「虹色の湖」。当時全盛であったグループサウンド調歌謡を作曲したのは、「月光仮面」「鉄腕アトム」「快傑ハリマオ」「仮面の忍者 赤影」など、昭和30年代から40年代にかけて、子ども向けテレビ番組のテーマ曲を多く手がけた小川寛興(おがわひろおき)。「虹色の湖」の翌年にリリースしてヒットした「砂の十字架」も同氏が作曲している。

「クラブ朝日」の東隣にあって、家電・家具の月賦販売で人気をあつめたのが「緑屋信販」本店。

「緑屋信販」ではじめて分割購入した、レコード・プレイヤーとスピーカーだけのステレオ・コンポは、スピーカーボックスがプラスチック製という、まったくチープな装置だったが、ドキドキしながら新品のLPレコードに針を落とし、左右のスピーカーから立体音が流れた瞬間の感動は今でも忘れない。

昭和47年(1972)、「緑屋信販」は秋田駅前の一等地に建つ「旧・やまじんビル」に進出。やまじんビル(現・緑屋ビル)に関するお話しはいずれまた・・・。


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南通亀の町「感恩講児童保育園」跡

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「感恩講発祥之地」碑・花散る里


「感恩講発祥之地」碑

大町六丁目「感恩講街区公園」に建つ「感恩講発祥之地」碑に埋め込まれた「秋田感恩講」の紋章は、香道の源氏香図の一つ「花散里(はなちるさと)」。さらに記念碑全体が「花散里」の形に配置されているのが面白い。


源氏香図

「源氏香」は五種の「香」を焚き、その種類を聴き(嗅ぎ)あてる、貴族の風雅な遊び。五本の縦線に対応して並べられた五種の「香」を聴き、その香りが同一と感じた縦線の頭を横線で結ぶ。「花散里」を例にすれば、左から一番目は単独の香り、二番と四番および三番と五番が同じ香りと判断したわけだ。「源氏香」のルールおよび「源氏香図」の詳細は、下記関連リンクを参照されたい。



「秋田感恩講」の「花散里」は佐竹藩主から下賜された拝領紋。佐竹氏の定紋(じょうもん)は、広げた扇の中央に月が描かれた「五本骨月丸扇」だが、替紋(かえもん)と称する非公式の家紋として使っていたのが風流な意匠の「花散里」であった。この非公式の家紋を裏紋・別紋・控紋ともいう。

秋田藩初代藩主・佐竹義宣公の香道好みは有名で、十種類の香の名を聴き当てて遊ぶ「十種香(じしゅこう)の宴」をたびたび催し、のちには藩の年中行事のひとつにしたほど。

文政十二年(1829)、貧民救済を目的とする民間主導の講社発足にあたって、藩は「感恩講」の名を与え、佐竹家の替紋である「花散里」を下賜。その行為は感恩講に対する佐竹氏の“認可”であり、感恩講は藩と一心同体の組織であることを示したのだろう。

もっとも、当時の藩の財政は火の車で、町民を救済する費用も外町の裕福な商人たちに頼らざるを得なかったわけで、ましてや那波家には、返済するあてもない代々にわたる巨額の借財を負っており、感恩講も藩が那波家に話を持ちかけたのをきっかけとして誕生したわけで、藩主と御用商人という立場を抜きにしていえば、佐竹家にとって那波家は最後まで頭の上がらない恩人であったわけだ。佐竹家の別荘「如斯亭」が最初は那波家に譲られたのも、このようないきさつをふまえてのことなのだろう。

「秋田感恩講」跡地に昭和五十一年、社会福祉法人「感恩講」が「感恩講発祥之地」碑を建立。題字は那波雲城の揮毫。洋画家の伊藤博次が設計を担当した。

那波別家の那波雲城は秋田県書道展審査員をつとめた県内書道界の重鎮。那波伊四郎商店(那波紙店)の木彫りの屋根看板を揮毫した人物。


伊藤博次『初冬(八郎潟)』1954 第39回二科展出品


伊藤博次『けいちつ』1997

洋画家・伊藤博次(1919~1999)。大正八年、老舗料亭「秋田倶楽部」を営む家に生まれる。昭和十六年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)本科工芸図案科卒。「あきたくらぶ」「グリルアキタ」などグループ会社の専務、「アキタニューグランドホテル」の取締役を務めながら創作活動をつづけた異色の抽象画家。社長業のため途中から中央展への出品を断念。秋田美術作家協会、県造形美術家協会の設立に参画、昭和四十一年、「秋田美術学校」を開校し校長に就任するなど、県内美術界の発展と後進の育成に尽力した。

部分(花散里)と全体(花散里)が自己相似するユニークなデザインの「感恩講発祥之地」碑に、伊藤博次の機知に富む造形感覚の一端を垣間見ることができる。

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香道「香筵雅遊」 welcome to koengayu
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柳屋本店 <化粧品メーカー> * YANAGIYA since 1615 *
ヘアートニック・ポマードでお馴染み柳屋本店の商標は「花散里」

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歴史的土蔵の小道・感恩講小路

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2010.08 「新政酒造」土蔵と猿谷小路

川反六丁目から本町通りに抜ける、「新政酒造」の土蔵(旧・秋田感恩講土蔵)に沿って東西に湾曲した小道を「猿谷(さるや)小路」という。その名は川反側の北角(上掲画像右手)で、昭和四十年代頃まで質店を営んでいた旧家の名字にちなんだもの。


手前に猿谷質店、小路をはさんで秋田感恩講土蔵と「新政酒造」


2005.03 帯谷小路

「猿谷小路」の南側が「帯谷(おびや)小路」。この名も「帯谷鉄工所」を経営していた旧家の名字にちなんだもの。酒の仕込みの時期になると、あたりには麹の甘い香りが漂う。


2009.011 神田小路

「帯谷小路」を西に進み、大町六丁目の交差点を過ぎると、ここも同じく旧家にちなんだ「神田小路」。最近まで北側に「神田鉄工所」があった。突き当たりに「石敢當」あり。画像左手のバイクが停まっている年季の入った店は、知る人ぞ知る庶民的中華料理の名店。


●旧町名・小路名の魅力とその効用



「新政酒造」の界隈には古い小路名が多い。これらは町民が命名した非公式愛称だ。

秋田市内には「保戸野鉄砲町」と「鉄砲町」というふたつの、鉄砲にちなんだ旧町名がある。「鉄砲町」は鉄砲を製造する鉄砲鍛冶が住んでいたことに由来。「保戸野鉄砲町」は鉄砲で武装した「鉄砲組」の足軽が住んでいた町。

「十人衆町」については定かな記録がないので不明だが、熊野十二所権現に関連して、初期は「十二所町」と呼ばれていた「じゅうにしょ」が転訛して「じゅうにんしゅう」となったとも、藩に多額の御用金を納めた“十人の資産家”が住んでいたことに由来する、ともいわれている。この町に「銀映座」という映画館があった。

時代劇に登場しそうな粋な地名「四十間堀町」ならびに「四十間堀川反町」は、町内を堀(水路)が通っていたことに由来するが、これはまた稿を改めて考察したい。「舟大工町」については後述する。

細かく区分けされた旧町名や小路名が便利なのは、名前を聞いてすぐその場所が分かること。たとえばタクシーに行き先を告げるとき、「十人衆町」といえば一発で分かるが、現在使われている新町名においては、上掲略図の大半が「大町六丁目●番●号」となってしまい、まったくもって分かりづらい。さらに、縦軸で分割された旧地名の隙間を埋め、おぎなうように、小路名を横軸に配置して地理の万全を期しているのが素晴らしい。


●舟のひしめく旭川・湯船ひしめくソープ街

嘉永五年(1852)に「佐卯商店」(現・新政酒造)を創業した佐藤卯兵右衛はもともと米問屋だったという。この地域は県南から雄物川水運で旭川を下った穀物など、物資の荷揚場で、いにしえは米問屋、材木屋、薪炭問屋などが軒をつらねた町。


2004.03 「新政酒造」酒蔵

春になると岩見三内方面から大量の木炭や薪木が陸揚げされた。石炭・石油・ガスが燃料として使われる以前、町民が煮炊きや暖房、風呂焚きに使用した燃料は薪炭が占めていたのだから、その数は尋常ではない。先に挙げた「猿谷小路」の質店、「帯谷小路」の鉄工所も、元来は木炭と薪を取り扱う薪炭商であった。


明治三十一年『秋田市商工人名』より

木炭の産地であった岩見山内の野崎を起点とし雄物川を下る舟を「岩見舟」と称し、その終点である下新橋のたもとに置かれた舟乗りのための舟宿「岩見小屋」が昭和三十年代まで残っていたという。
‥‥前略‥‥
 春には、毎年のように河辺郡の岩見三内から、炭やマキを積んだ岩見舟というのがさかのぼってきた。ときには中島の女学校下の浜までのばり、マキなどをおろしたものだ。しかし大半は鍛冶町川反に荷揚げされ、小売り人の手に渡り、きたるべき冬の燃料としてさばかれたものだ。
 この人たちは下新橋のたもとにある岩見小屋という建物にたむろし、遊郭などで遊び、ふところを軽くしてから村へ帰るのを常とした。その建て物は"新政"の酒倉の下に今でも残っている。
‥‥後略‥‥
洞城利喜『あきたよもやま』昭和五十一年刊 より


2009.11 川反より下新橋を望む

有楽町通りの裏側にあたる、下新橋の向こう岸(東側)が「岩見小屋」の置かれた浜(河原)だが、河川改修のため浜は消滅、往時の面影はない。

雄物川水運の舟がひしめき、舟を造る職人が住んでいた、川反の旧舟大工(ふなだいく)町も、今では“舟”ならぬ“湯船”のあるソープランドがひしめく、秋田を代表する風俗街に変貌した。


●「感恩講小路」の復活を・・・

「新政酒造」北側の「猿谷小路」は「感恩講小路」とも呼ばれていた。小路に沿った土蔵は旧感恩講の倉庫であり、北側には感恩講事務所があった。そして「猿谷小路」で薪炭商ならびに質屋を営んでいた猿谷利左衛門は、高堂や本金らとともに明治二十七年から感恩講の役員に就任している。

那波祐生をはじめとする「秋田感恩講」の創設に関わった先人、維持のために協力した商人・町民たちの威徳と熱情に思いをはせ、後世に語りつぐ意味でも、旧感恩講の歴史的土蔵群が白壁を連ねる小道に、今改めて「感恩講小路」の名を復活させようではないか。


2005.02 感恩講小路(猿谷小路)


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●今、再びあらわになった歴史的土蔵建築



2004.03 「新政酒造」貯蔵タンク前


2010.08 「新政酒造」貯蔵タンク前

大町六丁目に立つ「新政酒造」貯蔵タンクのうち、北側の二本が撤去され、その裏側に隠れていた土蔵の全貌が久々にあらわになった。


2010.08 手前にタンクの痕跡

この土蔵は北隣の街区公園の地に江戸後期に創設された、窮民・孤児らに救いの手をさしのべ、水害・火災・凶作などの天災に際して被害者を救済しつづけた、日本における福祉 NPO(非営利民間組織)のさきがけと称される「秋田感恩講」が、天保年間に建造した、救済のための備蓄米を貯蔵していた倉庫。昭和三十七年の住宅地図にはまだ「秋田感恩講」と記されているこの土蔵を「新政酒造」が譲り受けて今に至る。

本町六丁目の火除け地に、工費一万貫文(かんもん)の予算で倉庫二棟の建築に着手。建設にあたって、藩から土地・瓦・門・柵などの寄贈を受け、町民有志の献金、木材、石材の寄付、老若男女の労力奉仕などを受けたため、予算の半額で天保二年(1831)に落成。当倉庫に備蓄された米が、のべ数百万人の命を繋いだ。


秋田感恩講・籾貯蔵倉庫(西倉) 大正14年『感恩講誌』より

永い年月の間、壁の塗り替えや屋根の葺き替え、補強を繰り返し、切妻の壁にみえる「感恩講」の文字は売却後に消され、腰回りに張りめぐらされていた黒い腰板も今は無いが、基本構造は創建時のままと思われる。

籾米の貯蔵といっても、米俵が積まれていたわけではない。内部には“田の字型”に仕切られた大きな籾櫃(もみびつ・籾を貯蔵する容器)が三つ、土間に埋められており(落とし込み式)、まず下層に籾米を入れ、その上を覆うように、厚く籾殻が積まれていたという。この貯蔵法は鼠の被害から籾米を守り、土中であることから低温で長期保存するために非常に有効であった。


施物運搬・平福百穂筆
明治三十八年『感恩講図巻 ALBUM DE L'ASSOCIATI0N "KAN-ON-KO"』より

倉庫から施し物を運び出した橇は鍛治町方向へ進行中。

この土蔵の裏(東側)に連なる、現「新政酒造」の土蔵も、おなじく旧「秋田感恩講」の倉庫。


2010.08 旧感恩講倉庫(東倉)

壁から伸びて屋根を支える鉄製もしくは木製の方杖(支柱)は、雪国秋田の土蔵建築に特徴的な耐雪手法。

天保二年に竣工した二棟の倉庫について、『感恩講誌』に「東倉ハ梁間四間桁間八間西倉ハ梁間三間半桁間十二間ナリ」とある。「梁間」は間口、「桁間」は奥行きを表すが、この記事に反して現状では西倉よりも東倉の方が奥行きがある。東倉には屋根の段差がみられることから、最初に建てた土蔵(東倉)が手狭になり、さらに東側にもう一棟を増築し、売却後に連結されたものだろう。


2010.08 旧感恩講倉庫(東倉)連結部分

白壁の中ほどを横切る突起ラインがとぎれている部分が二つの土蔵を連結した個所。この突起ラインの意味については後述する。

昔の空中写真を見ると二つの土蔵は分離しており、鳥瞰すれば今でも連結される前からの二つの屋根を確認することができる。


2006



ブルーマーキング部分が旧「秋田感恩講」敷地、白い部分が現存する旧感恩講土蔵群。


「秋田感恩講」事務所 大正14年『感恩講誌』より

昭和五十一年まで残っていた事務所と土蔵。昭和五十二年、その跡地に街区公園開園。


2010.08 感恩講街区公園(感恩講跡地)


2009.11 感恩講跡地

突き当たりに感恩講街区公園。左手の石垣の上にも土蔵が存在した。ここから川反へ抜ける小路は、感恩講の土蔵が東西に連なる、言うなれば「感恩講小路」であった。


2010.08 旧感恩講土蔵

窓枠の両側に伸びる突起ラインの下、窓枠を除く部分の腰回りに、墨を塗るなどの防水加工を施した黒い腰板を張りめぐらせていた。土蔵の漆喰は水に弱く傷みやすいため、雨水の跳ねっ返りや積雪から壁を守るために腰板をめぐらせる。そのため豪雪地帯では軒下まで腰板で覆っている土蔵がみられる。

かつてはその下を腰板が覆っていた、壁を横切る突起ラインを近くで見ると、若干のカーブを描く庇(ひさし)状になっている。これは雨水が腰板の裏に回り込まないように工夫した「水切」とよばれるもの。


2010.08 旧感恩講土蔵・水切

腰板の黒と漆喰の白がコントラストをみせていた土蔵も、いまでは下半身を裸にされ、なんだかしまりがない。



2010.08 川反側から旧感恩講土蔵


2010.08 那波紙店倉庫の腰板

災害や飢饉に備えて籾米を貯蔵した倉庫を「義倉」(ぎそう)または「社倉」という。旧「秋田感恩講」土蔵群は国内に現存する数少ない「義倉」のなかでも規模が大きく、それに加えて、“残された感恩講遺構”としても、保存する価値のある重要物件といえる。


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追記

関連リンクを貼るために、新政酒造のオフィシャルサイトをのぞいたら、専務さんのブログに貯蔵タンクの撤去と旧感恩講の土蔵のことが語られていた。(下記関連リンク参照)現在使われていないその土蔵(西倉)の用途について「公共的な使い方、文化的な用途」も含めて検討しているとのこと。

是非とも無理のない範囲で実現させ、秋田の歴史的遺産である土蔵群を保存・継承する契機としていただきたいものだ。手始めに感恩講時代の外観を復元したらどうだろう。しかし、酒蔵として土蔵を維持しつづけるのもまた、文化的意義のある“活用方法”なのだとも思う。

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感恩講(かんのんこう)|蔵元駄文
新政酒造株式会社オフィシャルサイト

義倉 - Wikipedia
西尾市の文化財 義倉蔵 - 西尾市役所
四国村土佐三崎の義倉 文化遺産オンライン
ひろしま文化大百科 - 福田の社倉
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