二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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秋田航空事始め・大正三年の飛行機大会

▼秋田の空を始めて飛行機が飛んだ日
 

奈良原式鳳号
▲『秋田魁新報』広告

今から約100年前の大正3(1914)年6月、秋田市の空に初めてのエンジン飛行機が飛んだ。

飛行機大会の会場は秋田市亀ノ丁新町(現・南通みその町・南通築地)に広がる「楢山中学校運動場」通称「楢山グラウンド」。明治30年代に県立秋田中学校(現・秋田高校)運動場として整地されたこの地は、野球大会を初めとした各種スポーツのメッカであった。詳しくは次回に。

「秋田県震災救助慈善 飛行機大会」とある震災は、同年3月、秋田県仙北郡大沢郷村を震源として、死者94名、建物全壊285戸を記録したM7.1 規模の 「秋田仙北地震」(通称・強首大地震)のこと。

秋田魁新報・秋田時事・秋田毎日の地元三紙に加え、国民新聞支局が大会を賛助した。

大島商会
▲「大島商会」新聞広告

飛行機大会に御来秋の方は
必ず弊店に御枉駕(おうが)ありたし 進歩せる珍しき新しき品を店内一面に陳列してあります
大嶋商会

 秋田市下肴町のハイカラ商店「大島商会」の、ハイセンスなデザインが眼を惹く新聞広告。同商店の広告図案を数多く手がけた石嶋古城の作と思われる。

※枉駕(おうが)・来訪をいう尊敬語
 

明治の煉瓦商店・旧大島商会

大島商会開業・明治三十五年

自転車遠乗会・大島商会主催

自転車百哩大競走・大島商会主催

消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退
大島商会の広告あり

▼飛ぶように売れた記念絵葉書
 

奈良原式鳳号

大会当日、会場の露店で三枚一組七銭で発売された絵葉書の一枚(発行・旭秋絵葉書倶楽部)。キャプションに「秋田市楢山中学校運動場に於ける奈良原三次氏と航空大飛行の実況」とあるが、飛行機部分は合成。

記念絵葉書がいちばん売れるのはイベント当日。そこで発行元はあらかじめ撮影した現地の写真と飛行機を合成したものを用意して販売した。

ビデオもテレビも無く、カメラは高級品、新聞の写真も鮮明では無かった時代、写真絵葉書は“今”を記録する数少ない情報メディアであった。

記念に絵葉書を購入した人たちは、家に帰ってそれを見せながら、土産話に花を咲かせたことだろう。

 

▼民間飛行のパイオニア・奈良原三次
 

奈良原式鳳号

明治44(1911)年5月、埼玉県の所沢飛行場にて、海軍の技士から民間飛行家に転身した奈良原三次が製作・搭乗した「奈良原式二号機」が、高度約4m、距離約60mの飛行を記録、これが国産機(エンジンは外国製)による初の飛行とされている。

明治45(1912)年3月末、秋田に来た「奈良原式四号機・鳳号」完成。以降、奈良原飛行団を結成、有料飛行機大会を開き、各地を巡業し興業飛行を行う。「鳳・おおとり」の名は出資者が贔屓にしていた関取の“しこ名”とのこと。

 

▼飛行機大会実況一日目(土曜日)
 

奈良原式鳳号

 

●プロペラの音
▼満城士女の夢を驚かす
▼昨曉予備飛行せる鳳号

鳥のほかに空を飛翔するものを見たことがない村落から來た人々は、本当に飛行機と云うものは飛び上がるものだろうか?と半信半疑の眼を見張つて曇れる天空を仰いで居た

 我が鳳号! は果たして翼動かず杞憂の中(うち)に葬られ、衆人環視のうちに空中のシローレースに終わるや否や?我が鳳号は昨曉(さくぎょう)天いまだ全く明け渡らざるに堵(と)を出で、操縱者白戸栄之助氏によりて楢山運動場に於てそのモーターの試運転と予備飛行を行はれたり

 飛べり飛べり 露湿めれる運動場の眞中に憩いたる鳳号の側に来た白戸氏は飛行服と眼鏡に身を堅め遙かに東方の空を睨んでゐたが、時来るや白戸氏のその右手がプロペラにかかるよと見る間に、獅子吼の音を立てて廻転しはじめ偉大な両翼を緊張して、最初は低空滑走より次第次第に高く飛んで

 空に昇る こと六十餘尺に逹し更に鉄道線を境に郊外を圓圍(えんい)百五十メートルに至つて、先に記者等に約束した地点を違はず着陸した時は、おもわず萬歳を三呼したものである、そして鳳々、彼は荒鷲のそれにも似たるけたたましき羽ばたきの音に満都の士女の眠りを覚まして当市に於ける處女航空を首尾よく飛翔し了した

 晴れよ晴れよ 願わくは天空の本日の日曜をして晴らさしめよ、而(しか)して秋田の天地に於ける航空嚆矢の壮快なるレコオドを作らしめよ

 楢山原頭の賑ひ 予備飛行は別項の如くなるが午前八時に至るや花火数発を揚げ九時より入場を許せるに、縣内の各小学校は云ふに及ばず縣立中学校・農業学校・市立技藝学校等多數の団体あり、ために定席は空地なき程充満し、今や今やと待ち居る中十二時過ぎに至るや一層の人出にて、場外には數十の露店ありキップを贖(あがな)はずして見んとする者群をなし、その賑やかさは一通りに非ず、午前零時に至るや操縱者白戸栄之助氏は鳳号を引き出し学生連に対し一つ一つ説明する所あり、それより第一回飛行に着手せり

 飛行の光景 第一回飛行は十二時三十五分より始めたるが、今か今かと待ち居る事とて満場総立ちとなりて押し合い觀覽し居るうち、助手伊藤乙治郎氏(※)約五十分にわたる説明あり、それより約十五秒間の飛行あり高さは三メートルにて、第二回飛行は同じく白戸氏操縱し十二時四十分に始め約十二秒高さ四メートルを保ち西端より東端に飛行せるが、入場者は約五千余ありて盛況を極めたり、なお高く飛行せざるは場内の狹きため負傷者等出すやうな事あるより中止せるなりと

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

※伊藤乙治郎は伊藤音次郎の間違い

奈良原式鳳号
奈良原式鳳号操縦者・白戸栄之助

 

◎川端新聞
‥‥前略‥‥
▲新しい小時と古い牡丹の二人は飛行機の搭乗を互いに、その先を争うて女宇治川をやってるそうだが落ちて大事大事の腰など痛めねばよいが

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

川反芸者
 左・牡丹  右・小時

秋田市川端(現・川反)花柳界の消息を伝えるコラム「川端新聞」から、亀喜(かめよし)の小時(おとき)と末廣家の牡丹という、当時の人気芸者二人が、どちらが早く飛行機に同乗するかを競っているというお話し。当時の飛行家は芸者に良くモテた。

「新しい小時と古い牡丹」とあるが、末廣家の牡丹のほうがデビューが早かっただけで、二人の誕生日は数ヶ月しか違わない。

 

▼飛行機大会実況二日目(日曜日)
 

◎満足を与えた
▲昨日の大飛行

▲予備飛行 昨朝は別項の如く午前五時十分楢山グランドを発し、高所約四百五十メートルを保ち手形練兵場を訪(おとな)いたるが、その距離は六千五百メートルにて、その時間は四分五秒にて、最初東方に向かい発し次第に東北に湾曲し練兵場に着陸せるが
▲二日目の盛況 は大したものにて、午前中に入場者約一万五千と註され。場内を角に囲みたる定席は人を以って埋められたり、停車場は一列車毎に数百名づつ吐き出され、午前中にて降車人員は約五千名にて、ために一時飛行場に通ずる各道路は通行杜絶する程の有様にて、今かと飛行の遅きを待ち居たる内、各助手等は飛行機を格納庫より引出し学生団に説明する所あり、それより北端の隅の所に運び点火せるや
▲プロペラの音 バッバッと立て、頃は良しと滑走を始めグランドの中央まで進みたると思うや、徐々と東南の空に飛行し、鉄道線路を越えてより湾曲になり停車場の上を通り飛行場の中央に着陸せるが
▲観客は大満足 にて満場総立ちとなり拍手喝采し、かくて午前の第一回飛行は終わりたるが、細身の白戸氏はニコニコとして「場所が狭い為に・・・」と自ら満足の色顔に現れ居たりき
▲飛行時間 は午前十時十分頃より約一分間にて最高百五十メートルにて、その距離約千メートルなりしと、なお午前の飛行は風の具合を見て二時頃飛行の筈にて、観客は引き続き潮の如く寄せ来たり正午頃には既に入場拒絶の有様なりき

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

◎飛行機来る
楢山体操場より
手形練兵場まで

昨日午前五時七分の下り急行が秋田駅を出発して間もなく、何かブルブルと云う音が聞こえた、段々音響は激しくなるのでさては昨日見た飛行機か知らんと外に出て瞬きもせず遙かの空を眺めたら、幅三尺位のカーキー色したものは空中に翔(かけ)り段々と手形を指して飛んで来た、その早さは飛ぶ鳥も追いつくこと出来ない程で、間もなく練兵場の北方にピタリと下りたら、果然鳳号はその勇姿を現し飛行家の白戸氏は静かに機より下りた、草刈りの男女は吃驚して右往左往に逃げる、師範と鉱山の寄宿生は拍手して駆け付くる、奥さん嬢さん達は裳裾をからげて燃ゆるような蹴出しをちらつかせ、爺さん婆さんは杖にすがって駆け集まる、児童は飛行機だ飛行機だと万歳を絶叫する、たちまち人の黒山を築いた、白戸氏は飛行機に対して詳細なる説明を与え学生はしきりに傾聴する、かくて約一時間居りし内二千人ばかり集まったが、その内助手が来たり、機を分解して楢山の体操場に運んで行ったが、これを見て飛行機が破損したと誤解した馬鹿もあったらしい、何しろ興行場での飛行機はピーと飛んで直ぐ下りるのだから甚だ興味の薄き感じを起こすも、今この飛行を目前に見て実に愉快に堪えなかった

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

大会二日目の21日は日曜日とあって更なる大盛況。なかでも、早朝の予備飛行で楢山グランドを離陸して手形練兵場に着陸した鳳号の姿に、驚きながらも熱狂する観衆の反応が実に面白い。

手形練兵場とは現「秋田大学」の西側一帯に広がっていた十七連隊の演習地。当時は今の秋田大学の地に「鉱山専門学校」、その南側に「秋田師範学校」があった。

千秋公園より手形方面を望む
大正期の手形練兵場周辺

奈良原式鳳号

 

▼借金まみれの興行師・奈良原三次
 

●飛行会の盛況
三新聞及び国民支局の賛助の許に、来る二十日二十一日の両日楢山運動公園にて開催の飛行大会は、市内各学校は勿論、郡部も併せて数百校の学生団の申し込みあり、其他各種実業団・青年団等、陸続(りくぞく)申し込みあるが、‥‥中略‥‥又今回の飛行大会は我が国 民間の飛行倶楽部にて経営せるものにて、その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず、なお其の後の申込みは小坂鉱山山谷地新聞店主催の五十名、神宮寺清水新聞店主催の二百名、秋中生団六百名、私立技芸学校生徒全部にて、飛行家一行十余名は本日下り直行にて来秋の筈
大正三年六月十八日付『秋田魁新報』より

「その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず」とあるとおり、飛行機の研究・製作には多大な資金を必要とする。しかし、奈良原が各地で興業飛行大会を開催し、金を集めたのには以下の様な実情があったという。

海軍大技師から民間飛行家となった奈良原三次は、明治四十四年五月に「鳳号」で初飛行に成功した。しかし、その後、男爵の嫡子が飛行機に乗り、墜落でもしたら大変と親類一同から飛行機研究を中止させられる。だが、これは表向きの理由で、奈良原が飛行界を離れざるをえなかったのは、東京下谷の芸者に金を注ぎ込んだためだった。

奈良原にはれっきとした妻があったが、下谷の芸者さんだった福島よね子母子のために多大な借財をし、飛行機研究のスポンサーから財産差し押さえを受け、飛行機に乗ることができなくなってしまったのが真相だ。しかたなく興行師となって弟子ともいえる白戸栄之助の操縦で巡回飛行などをして回り、金集めをしていたものの、ついに借金地獄で身を隠さねばならなくなってしまった。
横田順彌『雲の上から見た明治−ニッポン飛行機秘録』学陽書房 より

 

▼平野政吉の飛行機道楽
 

「楢山中学校運動場」で開催された飛行機大会の人混みのなかに、秋田市大町一丁目の大地主の息子・平野精一(のちの三代目・平野政吉)が居た。

彼はこのとき、始めて本物の飛行機を見て魅了され、空への憧れを募らせた末、東京に出奔する。

 大正三年(一九一四)六月、秋田に初めて飛行機が舞い降りた。日本で最初に飛行機の操縦に成功してから四年後のことである。民間飛行大会と称した一種の興行で、奈良原三次男爵飛行部の白戸栄之助が操縦する複葉機「鳳号」が秋田市楢山のグラウンドに着陸した。会場には中学生の団体など五千人以上が詰めかけ、グラウンドには露店も出た。その騒ぎの中、鳳号は高度三メートルから四メートル、僅か三十秒足らずの飛行であったが、観客を大いに驚かした。これで精一はすっかり飛行機の虜になった。
 「魔物のような、大きな飛行機を仰ぎ、胸を躍らせた。人間の壮大な夢が、巨大な飛翔感となって、天空に実現していた」その日、精一は会場の楢山グラウンドを去り難く、観衆がまばらになった後も、蓆で囲ってある仮の格納庫のまわりをうろついたが、中に入って飛行機に触って見ることは叶わなかった。そこで思案して、精一はまた一計を案じた。「飛行研究会」なるものを俄に作ったのである。
 家に戻って、精一は中学時代の友達や近所の知り合いを集めて打合せ、翌朝、みんなと一緒に会場に出掛け、精一が先頭に立って、白戸栄之助に面会を求めた。
「われわれは、飛行機を研究する者である。白戸先生の飛行機の知識をわれらにお教え願いたい……」
 これが図星であった。一同手伝い人として、一人二十銭の木戸銭を払わずに会場の出入り自由の特権を与えられ、存分に飛行機の感触を堪能することが出来た。しかし、興行は僅か二日間で、この制約が精一の飛行熱をますます募らせた。
 完全に飛行機に魂を奪われた精一は、夢見心地で世界地図を開き、その上空を飛ぶ自分を想像してあかず世界地図を眺めていた。
‥‥中略‥‥
 精一は正式に日本帝国飛行協会に入り、普通五ヵ月で卒業するところを、五年近く在籍して小栗常太郎に学んだ。この間、精一は飛行機に乗って得意満面だった。「一直線に天界に翔び立ち、二枚の翼にり燦欄とした光を跳ね返し、大都会を一望におさめ、富士山と比肩しうる高度を翔けるときもあった」

渡部琴子『平野政吉−世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』新潮社 より

平野政吉
▲所沢飛行場に於ける平野氏

大正13(1924)年、平野精一(平野政吉)自ら操縦する複葉機が東京湾に墜落、九死に一生を得て帰省、それから三年間の療養生活を送ることになる。 
 

昭和30年の秋田市と平野政吉のこと
平野政吉スピード狂時代

 

 


 

「奈良原式鳳号 製作記」
復元機製作の記録

 





▲奈良原式四号飛行機復元機・稲毛民間航空記念館

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三角形と水庭のある美術館・新秋田県立美術館

新「秋田県立美術館」(平野政吉コレクション) 秋田市中通一丁目(日赤・婦人会館跡地)再開発地区「エリアなかいち」内 設計・安藤忠雄 地上3階、地下1階、鉄筋コンクリート造り、延べ床面積3739平方メートル 2012年7月21日、暫定オープン

建材から放散し美術品に影響を与える化学物質の濃度が落ちつく、2013年秋、正式オープン予定。

大壁画「秋田の行事」の他、主な収蔵品を描いた藤田嗣治の名を美術館の通称に入れるべく、交渉を重ねたものの、藤田側の了承を得ることができずに断念。平野政吉(パトロン)と藤田嗣治のあいだに生じた確執からはじまったわだかまりが、いまだに尾を引いていることが明らかとなった。


三角形吹き抜けのエントランスホールの天井に穿たれた、自然光とLED電球を光源ととする照明装置が、安藤建築の特徴であるコンクリート打ち放しの空間に光と影を演出。

旧県立美術館の三角屋根に対応して、俯瞰すると建物自体が三角形。内部にも至る所に三角形がモチーフとして使われている。

コンクリート打ち放しの三角形空間に、ゆるやかなカーブを描く螺旋階段。三角形と壁面および階段の直角パターンが一定のリズムを刻み、螺旋階段の曲線が旋律を奏でる。演奏者は螺旋を昇降する通行人。

無機質でモノクロームなコンクリート空間を通過して、二階のミュージアムラウンジに入ると、大きく開かれた窓から目に飛びこんでくる水と緑のパノラマに息を呑む。


▲画像クリックで拡大

水が張られた水庭越しに、広場と広小路を隔てた千秋公園を望む。


水庭とお堀の連続性

人工物と自然との間(あわい)を結ぶ媒介装置としての水庭の、鏡のように景観を映しながら静かに波打つ水面は、天候と時の流れによって、その表情を変える。

広小路が中心商店街であった時代、新県立美術館前の広場付近に存在した「セントラルデパート」や「長崎屋」(パレットビル)の上階にあったレストラン、「イワマ靴店」三階の喫茶店などから、千秋公園を眺望した遠い日の記憶が一瞬脳裏に浮かんだ。

 

やがて旧館より移される藤田嗣治の作品は自分の好みに合わず、「秋田の行事」も一度見たらもう結構だが、建造物としての「新県立美術館」には、何度も足を運びたくなるような深い魅力を感じた。

オーソドックスな方形構造物にくらべて、三角形をモチーフにした「新県立図書館」のような変形構造物は、随所にデットスペース、つまり利用価値のない無駄な空間を生み、それだけ全体の展示スペースが狭まる。

しかし、建築物を面白くしているのは他ならぬ、その「無駄」であり「遊び」。それらの要素を取りさったならば、凡庸でつまらない建物になってしまう。


旧県立美術館を望む

やはり、旧県立美術館は、新美術館に移行後も残すべき建造物だ。

安藤氏の選定により配置された、イタリアのインテリアブランド Cassina(カッシーナ)製ソファー。


竿燈妙技会の日

▲大壁画「秋田の行事」を旧美術館から搬送するための窓。搬送後はふさがれる。


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秋田における近代スキーの黎明

●秋田スキー事始め

東京高等師範学校教授・永井道明が、秋田市における体育講習会の際、スウェーデンから持ち帰ったノルウエー式(二本杖)スキーを持参し、実演および指導をしたのは、明治四十三年十二月のこと。

明治四十四年一月十二日、オーストリアのレルヒ中佐が、“日本スキー発祥の地”新潟県高田市の金谷山において、陸軍歩兵第五十八連隊の青年将校たちにオーストリア式(一本杖)アルペンスキーを指導をした数週間前のことである。


高田市におけるスキー・左にレルヒ中佐
明治四十四年刊『スキ-写真帖』第十三師団司令部蔵版より


●スキーに魅せられた永井道明

体育研究のため欧米留学を命じられた体育学者・永井道明は、明治四十年から約一年間、ストックホルムに滞在し、スウェーデン体操を研究する。このときスキーの存在を知った永井は、実用的かつ体育学的にも有効なスキーに魅せられ、その技を磨いた。
何と言っても一番感服したのは冬の遊び氷や雪の運動であった。‥‥中略‥‥至る處の湖岸のスケート、山林丘陵のスキー、冬ならでは見ることのできない活動の楽天地である。
 余は此の間に余に取りて最も珍しいスキーを試みた。暇さえあれば、出来さえすれば練兵場の雪の上に瑞典(スウェーデン)の子供達仲間に入れてもらって滑走否・・・・・・多くは転倒・・・・・・した。幸いに身丈が短小なので彼らの歓迎と愛護とを受けた。次の事は其の際生んだ奇談のひとつである。
 或時瑞典第一流の新聞第一ページに余のスキー写真を掲げ、題して「スキー上に於ける日本公使」としてある。これには時の公使(後独逸大使)杉村虎一氏も苦笑された。
‥‥中略‥‥
 他日杉村公使は、スキーのわが国民なかんずく陸軍に必要で有るべきを考えられ、其二三を寺内陸軍大臣に送付せられた。陸軍はこれを雪の高田師団に送って研究を命ぜられた。かの長岡将軍堀内中将などの奨励と相俟って、当時幸いにも同師団滞在中の墺太利(オーストリア)レルヒ中佐の指導に頼りて、スキー練習を開始したのは明治四十四年で、余が明治四十三年秋田を始め山形、岩手、青森等に試みた翌年であった。‥‥中略‥‥余と間違われた杉村閣下が送ったスキーが因をなし、わが国スキーの発祥をなしたのも余よりすれば実に奇跡好運である。而して爾来スキーが真に長足の進歩を遂げ、国際的にも民衆的にも今日の隆昌を来したのを想う時に、世間の事唯々歓喜の外はない。‥‥後略‥‥
『遺稿 永井道明自叙伝』より
明治四十三年、当時スウェーデンの日本公使だった杉村虎一が陸軍省に寄贈した二台の軍用スキー(山地用と平地用)と関連書籍は、新潟の師団に送られ、高田にスキー研究班が組織された。彼らはレルヒが来日する前に独学でマスターしてやろうとスキーを試みるも失敗に終わり、翌四十四年一月十二日からレルヒの指導を仰ぐことになる。


●もうひとつのスキー発祥地・秋田

海外留学から帰国し、東京高等師範と東京女子高等師範の教授を兼任していた永井道明が、明治四十三年十二月、秋田女子師範学校における体操講習会(秋田県教育会主催・十二月二十四日~二十九日)のために来秋。この講習会、前秋田県師範学校長・横山栄次と、秋田市出身で女子体育教育の先駆者であった井口あくりの要請で実現したらしい。


左・大正二年書籍広告 右・永井道明『家庭体操』明治四十四年より

そのとき、永井はスウェーデンから持ち帰ったノルウエー式(二本杖)スキーを持参、体操講習会の合間を見て、自ら実演してみせたほか、希望者にスキーを履かせて指導した。実演した場所として記録されているのは、千秋公園坂下門跡をはじめとして、手形山、楢山運動場(平地)、手形練兵場(平地)。


千秋公園坂下門跡

永井道明によるスキーの実演と指導は、高田市におけるレルヒによる指導に先立つ、前年の歳末に行われたのだから、秋田こそが“スキー発祥地”といえそうだ。ところが、永井(秋田)、レルヒ(高田)以前の日本スキー史をさかのぼると、以下のような記録もある。

■明治四十一年、札幌の東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)予科のドイツ語講師・ハンス・コラー(スイス人)が、母国からスキー一台を輸入し学生等ともに試乗、ハンスはスキー術に未熟で、履いて歩く程度だった。

大正時代、「スキー発祥地は札幌か高田か」をめぐって論争が起こったが、正式なスキー術を導入し、全国普及の契機となった高田を発祥地とすべき、との結論にいたり高田に軍配が上がる。

理解ある師団長(長岡外史)の下、陸軍が主体となりスキーを組織的に導入した高田では、レルヒの初指導から間もない、明治四十四年二月、日本初のスキークラブ「高田スキー倶楽部」の設立、競技会の開催など、スキーが着実に定着し、全国へ普及してゆく端緒となったという意味では、新潟の高田(現・上越市)が“スキー発祥地”の名にふさわしい。


高田市におけるスキー
明治四十四年刊『スキ-写真帖』第十三師団司令部蔵版より

北海道および、まだスキー用具も満足になかった秋田には、それを受け入れる体制がなく、永井道明の来秋がスキーの普及に結びつくには至らなかった。

それでも、本場仕込みのスキー術に熟練した人物が、スキーを指導した例として、千秋公園および手形山は、“秋田のスキー発祥地”であることは言うに及ばず、雪国に点在する“日本スキー発祥地のひとつ”ということができよう。


●平野政吉のスキー道楽

そのほか、土地の富豪が道楽としてスキーに乗った例として、青森の豪商・野村治三郎が明治三十七年、ノルウェーからスキー二台を輸入し試乗(野辺地に「スキー発祥の地碑」あり)。

永井道明が秋田にスキーを持って来た明治四十三年、秋田市大町の大地主の息子・平野精一(三代目・平野政吉)が十五歳のとき、ノルウェーからスキー用具一式を取り寄せて滑ったことを自ら語っている。その日付はわからないが、平野は秋田でスキーを履いて滑った初めての人物かもしれない。


●その後の秋田スキー史

■明治四十五年一月、新潟県高田市における三週間のスキー講習会に、降雪地師団専修員として、歩兵第十七連隊の村野誠一中尉を派遣、レルヒの指導でスキー術を習得。

■明治四十五年二月、オーストリア人クラッツアーを横浜から招き、小坂鉱山においてスキー講習会開催。

■明治四十五年二月、高田市でレルヒから指導を受けた、歩兵第十七連隊の村野誠一中尉を指導者に、秋田市で十五日間にわたりスキー講習会を開く。森正隆県知事は、スキー講習会が始まった二月十四日付で各学校・役所に宛てて「スキー及び相撲」を奨励する訓令を出す。

この講習会は連隊だけではなく、希望があれば学生など一般人にも門戸を解放、県内の各学校、電灯会社、大林区署から各一名ずつ、計二十数名の民間人が参加。レルヒのプログラムに従い、講習、学科、実技指導が行われた。

実地講習の場所は、千秋公園と金照寺山。最終日の二日間は、木曽石経由で前岳に宿泊し、夜明けに下山する、有志による太平山への一泊行軍で締めくくられたが、これは積雪が少なく満足のいく結果ではなかった。

■大正元年十二月、先のスキー講習会参加者を中心に「日本スキー倶楽部秋田支部」結成、秋田県知事が支部長に就任。

■大正二年二月、高田市で「第一回全国スキー大会」開催。秋田県から煤賀儀八郎(旭北小学校教員)、三浦弥(秋田中学校)、武藤鉄城(秋田中学校)の三人が出場。雪質の違いに苦しむも、煤賀は長距離で六等、武藤は長距離で八等、短距離で四等に入賞する。

当時、秋田中学校の四年生だった、秋田市豊岩生まれの武藤鉄城は、著作も多い考古学・民俗学者でありながら、スポーツセンスに優れた文武両道の人で、大正十二年には、ラグビー、スキー、ホッケーなど西洋近代スポーツ普及を趣旨とした「秋田運動倶楽部」を結成、のちにラグビーとスキーの功労者ととして、県体育功労賞を受賞している。


秋田市のスキー風景・大正期

一本杖と二本杖が混在するスキー風景を写した、「秋田市付近のスキー」とキャプションが付けられた、手形山と思われる写真。


●新聞広告にみる秋田スキー黎明期


新聞広告 大正二年一月


新聞広告 大正二年一月


新聞広告 大正二年十二月

教員の初任給が十円ほどの時代、輸入スキーの価格は五円から八円と高価だったが、スキー人口が増え始めると、ほぼ半額の国産品が造られるようになり、大正二年頃から県内でも、曲木家具で有名な秋田木工などが製造が始め、さらに安価に販売するようになった。

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関連リンク

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スキーの歴史(世界と日本の歴史年表・年譜)

スキー発祥の地碑 - 青森県野辺地

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昭和30年の秋田市と平野政吉のこと

昭和30年の秋、全国の映画館で映画の前に上映されたニュース映画。(現在、動画配信元が公開を停止中)

冒頭のタイトルバックは、土手長町通りの消防署(現・ホテルはくと界隈)火の見櫓から、左下に秋田市役所の明治建築を俯瞰した市街。

夜明け前、秋田駅からあふれ出て市場へと向かうガンガン部隊(行商人)の群れで始まり、市場の青空マーケット、農協倉庫、大町三丁目の町家・醤油の田中太吉商店、大町一丁目の平野政吉邸、藤田嗣治画伯の大壁画とつづき、田圃の中の八橋油田で終わる。

なかでも興味深いのは、まだ60歳前後の平野政吉(1895~1989))の姿。本金(現・イーホテル秋田)から俯瞰で、大町一丁目の平野本邸をとらえるカメラは室内に移り、真贋取り混ぜた膨大なコレクションに囲まれた三代目・平野政吉。つづいて、下米町の平野家米蔵に眠る、藤田画伯の手になる門外不出の大壁画「秋田の行事」。


●奇人・平野政吉スピード狂時代

平野家は佐竹氏にともない水戸から秋田に来た米穀商、もともとは米町で営業していた。終戦後の農地解放までは、300町歩の水田と600人の小作人をかかえる大地主で、金融業(質屋)も営む。精一(幼名)は、その三代目として明治28年に誕生。

三代目・平野政吉にまつわる枚挙にいとまがないエピソードから、若き日のスピード狂時代のことを。

15歳のときの毎月の小遣いが75円、教員の初任給が約10円の時代である。この頃から、安い物は10銭ほどで買えた浮世絵版画を蒐集し始め、輸入車のオートバイを東京の代理店から取り寄せ、フルスロットルで乗り回し市民を驚かす。これが秋田で最初のオートバイという。

大正2年、今度は自動車に熱中、まだ国産自動車が販売される前、東京帝大の博士に設計を依頼して造らせた、秋田初の自動車を購入、舗装されていない道路を土煙をあげ、フルスピードで脱兎の如く走り回った。手漕ぎボートしかなかった時代、秋田で最初のモーターボートで、秋田市の中心部を流れる旭川で轟音としぶきをあげて操縦。

オートバイ、自動車、モーターボートの全てを赤色にペイントし、白文字で大きく「HIRANo」と入れた。「o」だけを小文字にしたのは、大文字だけをフランス語読みで読めば「いらん」つまり「問答無用」という意味だとか。

さらに、乗り物に乗るときの服装も赤一色に統一、その奇人変人ぶりに「キ記だ!」「平野のあんちゃ、とうとう乗物バカになってしまった」と噂され、秋田市でその名を知らぬもののいない名物男に。

大正3年、秋田に初めて飛行機が来て空を舞って以来、飛行機に夢中になった青年は、自動車の前に本物のプロペラを取り付けて走らせ、飛行士への夢を募らす。

大正6年、「飛行士になって後世に名を残す」との書き置きを残して東京に出奔。日本帝国飛行協会で操縦を学ぶ。

平野政吉
▲所沢飛行場に於ける平野氏

大正13年、軍の払い下げで購入した百二十五馬力の複葉機を、強風のなか制止を聞かず操縦中、木更津沖に不時着、九死に一生を得、秋田で療養生活を送る。
 

●米蔵の大壁画

なんでも「いちばん」にならなければ気が済まず、人を驚かせることが大好きだった男が、映画撮影のため秋田を訪れた、“世界一の絵描き”を自称する藤田嗣治に「それならば世界一の絵を・・・」と迫り、やがて完成したのが、平野政吉美術館の目玉として展示されている「秋田の行事」。

米蔵をアトリエに15日間で完成した、長さ20.5メートル、畳64枚分の壁画に平野が支出した金額は50万円、当時、家百軒はゆうに建つ金額だったとか。

秋田の行事
▲秋田の行事

平野は「秋田の行事」ばかりではなく、全国都道府県の風俗壁画を藤田に描かせ、レールを敷いた長屋形式の美術館を建てて展示し、トロッコに乗せて観覧させる計画だったというから驚く。そんな夢のようなお話も、実現しかねないほどの富豪であった。

昭和42年、永年の念願だった美術館が千秋公園入口に竣工、米蔵を壊して運ばれた壁画は、大きすぎて美術館の入口から入らず、できたばかりの壁をくり抜き、約一週間をかけて展示された。

平野政吉に関するエピソードの数々は、平成14年に出版された『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』渡部琴子(新潮社)に詳しい。

当初は「藤田美術館」とする計画だった名称が、最終的に「平野政吉美術館」となったことで、絵描き(藤田)とパトロン(平野)の間に亀裂が入り両者は絶交するが、その経緯については、藤田側の証言と、平野の言い分に食い違いがある。その点を補完する意味でも、同時期に出版された『藤田嗣治「異邦人」の生涯』近藤史人(講談社)を併読することをおすすめしたい。


▲一丁目小路・平野本邸勝手口

大町一丁目の角地にあった平野本邸と土蔵は駐車場に、藤田画伯が壁画製作中に止宿した鷹匠町の平野別邸跡地にはマンションが建ち、今はそのコレクションの一部と美術館だけが残された。


「平野本邸」跡

▼平野政吉、始めて飛行機を見る 

秋田県立美術館 -

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