鰰の喰い飽き足りて猫の餌

ハタハタで育った秋田の子どもたち
ハタハタが年間1万トンから2万トンも捕れた昭和30年代後半から40年代にかけて、季節ハタハタの時期になると連日、ハタハタの木箱を満載した浜直送のトラックが何台も、スピーカーから北島三郎や都はるみの演歌を流しながら秋田市内に行商にやって来た。
最初は一箱数百円ほどの値も、捕れすぎると数十円という捨て値でさばかれるようになる。白子ハタハタで一箱30円という下値を記憶している。塩焼きに煮付け、ショッツル貝焼、白子鍋など、連日のハタハタづくしの食卓に食傷気味になると、もうその顔も見たくなくなり、あまったものは麹漬けや鮨漬けの保存食にした。
昭和50年代末から急激に漁獲量が落ち込み、数年間の自主禁漁を決行するにおよんで、大衆魚から一躍高級魚となったとき、ハタハタをあきるほど食べられたあの頃が、とても贅沢な時代であったことを痛感し、激しいハタハタ禁断症状におちいるのであった。
雪がつもりはじめる頃になると、土崎港にちかい新屋浜のあたりから、魚屋の小母さんが魚をかついで売りに来た。冬ごもりの食糧に、鰰という小魚を大量に買い込んで、それを木の樽に何本も漬け込む。塩漬、ぬか漬、麹漬、鮨など。その魚屋の小母さんが私を可愛がってくれた。‥‥後略‥‥幼少期の石川達三が秋田市楢山裏町に住んだのは、明治末から大正のはじめにかけて。その頃の漁獲量は現在とさして変わらない。石川達三『私ひとりの私』昭和四十年・文藝春秋社 より
大正6年の魁新報に、ハタハタの豊漁が原因で列車のダイヤが大幅に乱れたという記事がある。
◎鰰汽車を遲らすハタハタの遠距離輸送に貨物列車が利用される以前、男鹿から秋田市の魚市場までハタハタを運んだのは、男鹿近郷の農家が飼っていた農耕馬。藁ムシロを二つ折りにして作った袋状の叺(カマス)にハタハタを詰め、馬の背に左右に振り分けて運搬した。
◆船川線各驛の大混雜
去る六日七日にかけて男鹿の北浦南磯とも鰰の大漁なりしが是れが郡部へ輸送積込みの爲め船川線羽立船越兩驛は大混雜を來たし爲めに貨物列車はもとより各列車とも多少の遲發を免れざる状態なりしが豐漁ありし翌八日九日の如きは天氣良かりしより海陸とも輸送大いにはかどり爲めに兩驛は人馬の往來甚だしくて一層雜踏し遂に船川發秋田驛終着列車は定時より二時間程も遲れ爲めに惹ゐて秋田驛午後九時發終列車の如きは同驛發午後十二時發下り直行が出でても尚發車し得ざるのみか夫れより尚且つ三時間遲れて漸く發車したりと云う又羽立驛は南磯は云う迄も無く北浦方面よりも積込輻輳する爲め隨つて輸送捗々(はかばか)しからざるより其後遠囘りなれど北浦方面よりの鰰は船越驛まで車馬を以て運搬し同驛より輸送しつゝあれり大正六年十二月十二日付『秋田魁新報』より
馬一頭に積める単位が「一駄」、荷物を積んで運ぶ馬のことを「駄馬」、駄馬に乗せて運ぶ荷物を「駄荷」、そして駄荷の運賃を「駄賃」という。これが子どもにご褒美として与える「お駄賃」の語源。季節ハタハタの時期、農閑期の近郊農家は絶好の駄賃稼ぎができた。
男鹿から秋田市まで駄馬を曳いて、ときには地吹雪の夜道を夜通し歩きつづける仕事のつらさは想像を絶するものがあるが、連れ立つ仲間たちと眠気覚ましに歌を唄い交わしたりしながら(民謡の馬子唄・馬方節はもともと駄馬で荷物を運ぶ際の作業歌)歩きつづけ、翌日の未明に秋田の魚市場に到着する。
秋田百点走馬燈 鷲尾よし子
上肴町今昔
‥‥前略‥‥
上肴町も、年中、未明から魚で賑わった。冬のハタハタは男鹿あたりから、夜通しで来る馬に積まれてこの町におろされると、両側の往来に戸板が布かれて小売りで賑わった。あられのふる下で貝焼皿に五匹づつ入れられたハタハタは、
ヒトウロウロ、フタァラァラ
と一種独特の節で元気よく勘定され、わらづとに入れられて、外町のおがはんや内町の御新造さん達の、あけびづるで編まれたコダシコに入れられる。‥‥後略‥‥昭和34年発行『秋田百点』より

秋田市上肴町(現・大町一丁目)・魚市場 大正末頃
はたはたのうた 室生犀星「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの・・・」と詠んだ室生犀星のふるさとは、ハタハタの捕れる日本海に面した金沢市。犀星の「はたはたのうた」に、おなじくハタハタを食べて育った、八竜生まれの友川カズキが曲をつけて唄ったものが、この6月にリリースされたアルバム『イナカ者のカラ元気』に収録されている。静かにささやくように繰り返される「ハタハタ・ハタハタ・・・」のフレーズが耳の奥に残る名演だ。
はたはたといふさかな、
うすべにいろのはたはた、
はたはたがとれる日は
はたはた雲といふ雲があらはれる。
はたはたやいてたべるのは
北国のこどものごちそうなり。
はたはたみれば
母をおもふも
冬のならひなり。
室生犀星『動物詩集』昭和18年 より
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