▲昭和34(1959)年 雑誌広告
秋田市の歓楽街・川反(かわばた)の四丁目にかつて存在した割烹「水月」。昭和20年代初頭に創業し、戦後復興期から高度経済成長期にかけて一時代を築いた伝説的料理店。
▲昭和34(1959)年 雑誌広告より
入母屋造(いりもやづくり)で城郭風な高楼建築は、夜ともなれば電飾でライトアップされ、今よりも数段暗かった川反の闇に、その姿を浮かびあがらせ、原色にまたたくネオンサインが彩りをそえる。
時はさかのぼって昭和10年代後半。大東亜戦争が長期化するなか、芸者置屋と料理屋が軒を連ね、夜ごとのにぎわいをみせていた川反も、次第に客足が遠のき、やがて開店休業状態に落ち入る。
さらに追い打ちをかける事態が起こる。終戦を目前にした昭和20(1945)年7月、空襲による戦災を最小限に抑えることを目的として実行された建物疎開により、川反通りの東側(旭川側)の建物は、耐火建築の土蔵など一部を残して軒並み解体されてしまう。
終戦後、建物疎開で長大な空き地となった川反通りの東側に、マッチ箱をならべたようにバラック造りの店舗が建ち始める。「水月」もそのなかの一軒であった。
昭和21(1946)年の秋、生粋の江戸っ子の寿司職人が、川反四丁目に寿司処「水月」を開業。それから6年後、敗戦からの復興が進展した昭和27(1952)年、上掲画像の新店舗を新築、日本料理をメニューに加え、割烹「水月」としてリニューアルオープン。
腕の立つ職人であった「水月」の主人は秋田調理師庖友会々長を務め、鮨組合の全県統一を成し遂げ、秋田県鮨商組合会々長に就任。昭和33(1958)年には千秋公園近くの閑静な地に旅館部を開設する。

▲昭和30年頃 「秋田市」観光パンフレットより
上掲画像は秋田市役所発行の観光パンフレットに掲載された川反通りの写真。
没個性的な低層建築が大半を占める当時の川反通りにあって、割烹「水月」の高楼は、ライトアップの効果もあいまって、ひときわ眼を惹く存在であり、戦後復興期から高度経済成長期にかけての川反を象徴する割烹建築であった。

▲昭和33(1958)年 雑誌広告
電話番号の4483を語呂合せでスシヤサンと読ませた。

▲昭和39(1964)年 雑誌広告
玄関付近に松の木らしき樹木。その両側に格子戸がある城壁めいた白壁。
昭和40年代中頃「水月」廃業。旅館部はその後も営業をつづけたが現在は廃業している。

▲2018.06
廃業して間もなく「水月」跡に日本料理「北州」と中華料理「北州飯店」が入居。かつて存在した樹木は消え、白壁をみせていた一階部分は改築されて往年の面影はない。

▲2018.06

▲2019.03

▲2018.06

▲2004.05 旭川越しに背面を
⇒ blog-entry-1032掲載の崎衆 (12/11)
⇒ around40 (12/09)
⇒ FMEN (11/16)
⇒ 梅 (11/16)
⇒ (10/21)
⇒ 川端たぬき (10/15)
⇒ taic02 (10/15)
⇒ 梅 (10/07)
⇒ 川端たぬき (10/05)
⇒ 洋 (10/05)