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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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何と読む?「難読看板」川反五丁目小路

川反五丁目小路
▲2019.04 川反五丁目小路

川反五丁目小路

秋田市大町五丁目の「川反五丁目小路」に残る、廃業して久しいスナックの看板。はたして何と読むのでしょう?その答えは後半で。

このスナックの存在を知らない人には、まず読めない。視認性を重視する看板としては失格だが、仲間内にだけ通じる暗号性・記号性という点において、街角にはびこるグラフィティ(落書き)に通じるものがあり、ラフでスピード感があるタッチも、その系統の匂いがする。

川反五丁目小路
▲2005.02 川反五丁目小路

 入口にアーチがあった時代の「五丁目小路」。

川反五丁目小路
▲2004.09 川反五丁目小路

今はもう無いアーチをくぐって進むと右手にみえるスナック「銀座四丁目」が、さきほどの難読看板の店。ご覧のようにその初期は普通に読める看板だった。

今も残る難読看板のほうは、ひらがなで「ぎんざよんちょうめ」と記されているようだ。

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昭和・平成「公衆電話スペース遺構」川反編

秋田市の歓楽街・川反(かわばた)にある飲食ビルで、昭和・平成の「公衆電話スペース遺構」を発掘する。

かつて規模の大きい飲食ビルの一階ホールには公衆電話が置かれ、利用者は待ち合わせの連絡を取り、タクシーや代行車を呼んだ。

携帯電話の急速な普及により、いつの間にか公衆電話が撤去され、無用の長物、前時代の遺物と化した「公衆電話スペース」の今を見る。

公衆電話遺跡
▲2019年撮影(以下同)

●台座素材:御影石

宙に浮く赤御影石の台座がシンプルで美しい

公衆電話遺跡

公衆電話遺跡

●台座素材:スチール・ピアノブラック塗装

台座の下に電話帳収納スペースあり

公衆電話遺跡

●台座素材:鏡面仕上げステンレス

米国の彫刻家 Bill Mack による 3Dレリーフ作品とともに

公衆電話遺跡

●台座素材:御影石

最後は川反のなかで最大規模、三連の「公衆電話スペース遺構」

公衆電話遺跡公衆電話遺跡

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昭和残影「オリンピック釣具店」川反一丁目

2019年6月初旬のこと、通町通りから川反通りに入ってすぐ、目の前の町並みに何か違和感をおぼえた。

オリンピック釣具店跡▲秋田市川反一丁目(大町一丁目) 2019.06

しばらくシャッターが閉じたままの状態が続いていた「オリンピック釣具店」が、2020 東京オリンピックを待たずして解体されて、駐車場に様変わりしていたのだ。

オリンピック釣具店 ▲川反一丁目 2004.03

オリンピック釣具店 ▲2004.03

もう50年近く、川反一丁目のシンボル的存在であった、壁面に大きく「つり具」と、丸ゴシック体で描かれた、アイキャッチ効果抜群の看板は、店舗改装の際、手を加えずに保存されたが、二階に新設された窓で文字が分断された。

オリンピック釣具店▲2010.08

オリンピック釣具店 ▲2018.11

オリンピック釣具店 ▲昭和33(1958)年

1955(昭和30)年「オリンピック釣具店」創業。その当時北隣に、湖沼や河川から切り出した天然氷を貯蔵する氷室(ひむろ)が残されていたが、その話はまたいつか。

店名の由来は「植野精工」が手がけたリールの人気ブランド「オリムピック」(オリンピック) だろう。ブランド・マークは「五輪にトビウオ」。

植野リール製作所 ▲昭和12(1937)年「植野リール製作所」広告

植野リール製作所
▲昭和18(1943)年「植野リール製作所」広告

日本におけるリール製造のパイオニアで「ダイワ精工」と双璧をなす釣具メーカーであった同社は、1961(昭和36)年「オリムピック釣具」次いで「オリムピック」と改称、1992(平成4)年「マミヤ光機」と合併し「マミヤ・オーピー」となるが、2000(平成12)年、釣具事業から撤退。

大阪に本社を置き、釣具・ゴルフシャフトなどを製造販売する「オリムピック」は「マミヤ・オーピー」の和歌山県すさみ工場を引き継ぎ、2001(平成13)年に創業された別会社だ。

 
 
 
 
 
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川反四丁目・割烹「水月」→「北州」戦後復興期建築

川反四丁目・水月▲昭和34(1959)年 雑誌広告

秋田市の歓楽街・川反(かわばた)の四丁目にかつて存在した割烹「水月」。昭和20年代初頭に創業し、戦後復興期から高度経済成長期にかけて一時代を築いた伝説的料理店。

 川反四丁目・水月▲昭和34(1959)年 雑誌広告より

入母屋造(いりもやづくり)で城郭風な高楼建築は、夜ともなれば電飾でライトアップされ、今よりも数段暗かった川反の闇に、その姿を浮かびあがらせ、原色にまたたくネオンサインが彩りをそえる。

時はさかのぼって昭和10年代後半。大東亜戦争が長期化するなか、芸者置屋と料理屋が軒を連ね、夜ごとのにぎわいをみせていた川反も、次第に客足が遠のき、やがて開店休業状態に落ち入る。

さらに追い打ちをかける事態が起こる。終戦を目前にした昭和20(1945)年7月、空襲による戦災を最小限に抑えることを目的として実行された建物疎開により、川反通りの東側(旭川側)の建物は、耐火建築の土蔵など一部を残して軒並み解体されてしまう。

終戦後、建物疎開で長大な空き地となった川反通りの東側に、マッチ箱をならべたようにバラック造りの店舗が建ち始める。「水月」もそのなかの一軒であった。

昭和21(1946)年の秋、生粋の江戸っ子の寿司職人が、川反四丁目に寿司処「水月」を開業。それから6年後、敗戦からの復興が進展した昭和27(1952)年、上掲画像の新店舗を新築、日本料理をメニューに加え、割烹「水月」としてリニューアルオープン。

腕の立つ職人であった「水月」の主人は秋田調理師庖友会々長を務め、鮨組合の全県統一を成し遂げ、秋田県鮨商組合会々長に就任。昭和33(1958)年には千秋公園近くの閑静な地に旅館部を開設する。

川反四丁目・水月
▲昭和30年頃 「秋田市」観光パンフレットより

上掲画像は秋田市役所発行の観光パンフレットに掲載された川反通りの写真。

没個性的な低層建築が大半を占める当時の川反通りにあって、割烹「水月」の高楼は、ライトアップの効果もあいまって、ひときわ眼を惹く存在であり、戦後復興期から高度経済成長期にかけての川反を象徴する割烹建築であった。

川反四丁目・水月
▲昭和33(1958)年 雑誌広告

電話番号の4483を語呂合せでスシヤサンと読ませた。

川反四丁目・水月
▲昭和39(1964)年 雑誌広告

玄関付近に松の木らしき樹木。その両側に格子戸がある城壁めいた白壁。

昭和40年代中頃「水月」廃業。旅館部はその後も営業をつづけたが現在は廃業している。

川反四丁目・北州飯店
▲2018.06

廃業して間もなく「水月」跡に日本料理「北州」と中華料理「北州飯店」が入居。かつて存在した樹木は消え、白壁をみせていた一階部分は改築されて往年の面影はない。

川反四丁目・北州飯店
▲2018.06

川反四丁目・北州飯店
▲2019.03

川反四丁目・北州飯店
▲2018.06

川反四丁目・北州飯店
▲2004.05 旭川越しに背面を

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