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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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さようなら、噴水と芝生広場・秋田市役所前


2012.11 秋田市役所前

来年(2013)着工する秋田市役所・新庁舎建設を前にして、市役所前の芝生広場に仮設駐車場を整備する工事が、予定より遅れた11月中旬から始まった。


秋田市役所・新庁舎完成イメージ

新庁舎は現庁舎に隣接する「NHK秋田放送局」跡地(現・来庁者用駐車場)に2015年竣工予定。イメージ図の右手に山王大通り、正面玄関は西向きとなる。


2008.03 山王「NHK秋田放送局」2008年3月、秋田駅東口に移転

秋田市役所前の噴水、撤去へ 10月中、新築に伴う整備で


竿燈期間中、期間限定でライトアップされた市役所前の噴水

 秋田市は市役所前の噴水を10月中に撤去する。来年にも予定される新庁舎建設に伴う周辺整備のためで、噴水がある芝生広場は仮設駐車場となる。47年間、水を噴き上げ官庁街に潤いを与えてきたが、今月いっぱいでその役割を終える予定だ。
 噴水は、市役所が千秋矢留町から山王に移転新築された1964年の翌年4月、秋田銀行が庁舎完成を記念して寄贈した。縦12メートル、横18メートルの長円。水が39本のノズルから噴出し、10分で30種類の“噴水ショー”を演じる仕掛けだ。
 市新庁舎建設室によると、噴水は構造上、移設が難しく、やむを得ず撤去、廃止することにした。噴水は現庁舎正面を想定して設計、配置されており、NHK秋田放送局跡地に新庁舎が完成すると位置関係も変わるという。
 最高3メートルの高さまで噴き上がる噴水は竿燈まつり期間中、赤、黄、青、緑色の水中ランプに彩られた。噴水の周りでは観光客らが記念撮影をしたり、縁に腰掛けてくつろいでいた。(2012/08/10 16:33 更新)


2012.08

●秋田市役所前噴水
新庁舎の完成を記念して秋田銀行が寄贈
総工費・約570万円(当時の小学校教員初任給1万8千円ほど)
完成通水式・1965年(S40)4月24日

●通水期間(当初)
4月中旬から10月中旬まで通水、日没後一時間ライトアップ
夏期は日没から午後9時までライトアップ

昭和40年代初頭の数年間、7月の夕刻、ライトアップされた噴水前で市内中・高校のブラスバンド総出演による納涼音楽会を数日間開催、市民の好評を得る。


2012.08 秋田市役所前芝生広場


1970年代 秋田県庁から秋田市役所を望む


2012.08 花時計と噴水


2012.08


2012.10

噴水とともに秋田市役所のシンボルだった花時計は新庁舎周辺に移設予定。

秋田市が推進した「花百万本の街づくり運動」のシンボルとして企画された花時計は、資金を「秋田市元市議会議員懇談会」が寄付、「秋田市時計貴金属メガネ商組合」から時計装置の寄贈を受け、1980年(S55)7月に完成した。


2012.08


2012.08


2012.08


1972年頃

まだ自家用車所有率が低く、クーラーも贅沢品だった時代、夏期は涼を求めて家族連れやカップルが集まり、ライトアップされる夜間は格好のデートスポットなった市役所前芝生広場の噴水も今年で見納め。

市役所が山王地区に移転して50年弱、秋田市の高度経済成長期を象徴する、なじみ深い市役所前の景観は失われ、その大半がアスファルト舗装の駐車場に。よく手入れされた芝生広場に配置された噴水と花時計も、記憶と記録の中だけの光景となる。


1972年頃

芝生広場の向こう、山王大通りの十字路に初代「秋田市立体育館」。空が広い。


初代「秋田市立体育館」

秋田県庁舎の東側、今の駐車場付近にも、大きな長方形の噴水があった。


2012.10


2012.10


2012.11


2012.11


2012.11


2012.08 山王散歩道 水の広場

新庁舎の工事に関連してか、山王散歩道の噴水も撤去され、そのあたりに鉄骨が建っていて驚いたが、作業員の話によれば、噴水は工事完了後、同じ場所に復元されるとのこと。

秋田県庁東側からスタートし、「NHK秋田放送局」跡地東側、市役所裏を通って秋田消防署に到る、延長610メートルの山王散歩道が全面開通したのは1981年(S56)の春。噴水のある山王大通り北側は、前年の1980年(S55)6月に開通している。

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赤いブランコのある公園『遠くでずっとそばにいる』ロケ地

8月初旬から約半月間の秋田市内ロケをクランクアップして帰京した、映画『遠くでずっとそばにいる』の主演女優・倉科カナが久々にブログを更新。


2012年08月25日のブログ|倉科カナ オフィシャルブログ より

今回の映画撮影は女優活動のターニングポイントとなる意味深い体験だったとのこと。来年(2003)の公開が楽しみ。

ブランコで無邪気に遊ぶ画像の撮影場所は、官庁にほど近い山王第二街区公園(昭和41年4月開設)。中央に植樹された柳の大木と赤いブランコの対比が印象的。


山王第二街区公園

山王第二街区公園でのロケは、御盆の8月14日(2012)、柳の木をバックに主人公と相手役の二人がブランコに乗るシーンが撮影された。

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二〇世紀ひみつ基地 2012.8.18 千秋公園・エリアなかいち周辺スケッチ


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山王第二街区公園

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象さんが居るポンプ場・街角の顔


秋田市「山王雨水排水ポンプ場」放流先・草生津川

大雨のとき活躍します

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名物「八橋とうがらし」と寿量院

●寿量院は徳川幕府のスパイ機関?


日吉八幡神社裏門

外町の総鎮守、八橋の山王さん(日吉(ひえ)八幡神社)の、羽州街道に面した裏門はもともと、神社南隣の台地にあった東照宮・寿量院(天台宗・寺禄二百石)の山門であった。

徳川幕府はその威光をあまねく知らしめすため、日光東照宮(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る)を総本山とする分社を各地に配置。そのひとつであった秋田の東照宮・寿量院の前史をひもとくと、天和二年(1682)、三代藩主佐竹義処(よしずみ)が、天徳寺内に徳川将軍家代々の御霊(みたま)を祀る御霊屋を造営したことにはじまり、元禄年間の八橋帰命寺を経て、延享三年(1746)造営の寿量院に御霊屋を移す。

初代久保田藩主・佐竹義宣は、関ヶ原の戦いにおいて石田三成の西軍に内通したことが、徳川家康の怒りを買い、水戸から東北の片田舎・久保田に左遷されたあげく石高は半減、大家臣団を抱えて財政の困窮がつづく。そんな佐竹氏が徳川将軍家の位牌を祀る霊廟を造営した理由は、徳川家に二心無きことを証明すること、つまり服従を表明するため。内心は忸怩たるものがあったに違いないが、この時代、幕府に逆らうことは一族の滅亡を意味した。

上野の寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)もしくは日光東照宮から一年交替で派遣された寿量院の院主(住職)は、数十人の僧侶とともに徳川方に対する佐竹氏の感情と藩の動向を監視する探偵の役目を兼ねていたともいわれている。

幕末から維新の動乱期に入り、徳川幕府の息がかかった寿量院は急速に衰退し廃寺に。戊辰戦争では官軍の野戦病院として利用された後、かつては華麗な伽藍を誇った大寺院は明治四年に解体。その一部は同年に焼失した八橋菅原神社の再建に活用され、山門は北隣の日吉八幡神社に移設された。


日吉八幡神社裏門


菅原神社

大正十五年、寿量院跡地に秋田測候所(現・秋田地方気象台)が牛島町から移転。八橋球場を見下ろす気象台の高台は、プロ野球の試合があると無料外野席としてにぎわった。平成元年、秋田地方気象台は山王の合同庁舎に移転。


寿量院跡地

垣根の向こうが寿量院跡地。左手に八橋球場のスコアボードがみえる。


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●名物「八橋とうがらし」は寿量院の置き土産?

日光から派遣された寿量院の僧侶がこの地にもたらしたと伝えられているのが、寺内村八橋の往年の名物「八橋とうがらし」。
名物「八橋唐辛子」と云うのは牛蒡の千切りにせるものを紫蘇の葉にて包み軽い塩味と蕃椒(※ばんしょう・唐辛子の異称、またはその粉)に依る辛みとを施せるもので、その昔寿量院の僧日光より持ち来たって植え之を作りその後連綿として続き現在に到るものである。八橋唐辛子製造は八橋部落の大半の家庭により行われているが、特に農家に多く秋の農繁期である稲上げが済むと女の手に依り牛蒡きざみやら紫蘇巻やらが行われ、樽漬けにされる。こうして約五十日が過ぎた十二月の末頃唐辛子は樽から取り出されて何本かゞ一把に結ばれ、商品となる。吹雪吹く師走の町をモンペに白ホーカブリそしてショイカゴ姿の女達に依って「トウガラシヤアーエ」と叫び売り歩かれる八橋唐辛子はやはり何と云っても本町での忘れられない名物である。然しこの行商も今では昔の如き主婦の正月前のホマツセンコカセギ(※泡沫銭コ稼ぎ)の小経営販売の域は脱して組合組織に変わり多量に遠地に売り出される様になった為、あまり見ることが出来ないのは残念である。
昭和二十二年刊『寺内町史』より
稲刈りの終わった農閑期、八橋の大半の農家で栽培していたトウガラシを加工し、行商によって販売していた「八橋とうがらし」はやがて、組合組織の会社で大量生産されるようになる。


書籍広告・大正七年

大正七年に名古屋で開催された「全国食料品博覧会」において一等賞を受賞した、八橋商会謹製の「八橋とうがらし」、商品名「とうがらし佃煮」。
八橋の名物は数多いが、その一つに“八橋のトウガラシ”ことシソ巻きがある。秋のとり入れの後の、農家のアルバイトであった。‥‥中略‥‥
ゴボウにシソを巻き、トウガラシをきかせた塩づけで、数本の細いワラで結ぶ。 からし、とンがらーし。 と女の人たちが市内で呼び売りした。男のほうは ああ、辛いはナンバの粉。 とトウガラシ粉を売る。カラシの伝来については、寿量院の日光僧がもたらしたという説がある。
昭和三十九年『秋田魁新報』より
この記事が書かれた時点で、まだシソ巻の「八橋とうがらし」を製造する家があったというが、もしかしたら今も八橋地区では自家用に造る家があるのかもしれない。記事中に「男のほうは ああ、辛いはナンバの粉。 とトウガラシ粉を売る」とあるが、昭和四年の新聞記事に、それを売り歩いたと思われる「唐辛し爺ちゃ」を惜しむ記事がある。
惜しまれる・・・
 唐辛し爺ちゃ

  市中をふれあるいた
    あの声はもう聴けぬ


市外寺内村が出所であり名物の一つとして今以て賞美され又同村唯一の財源として売れ高も相当額に上っているものに例の唐辛しがあり今でも八十余歳の老翁が朝まだき市中をふれ歩いているので人これを呼んで「唐辛し爺ちゃ」とされるものに同村時治祖父井筒武助(八五)があってこれが抑もこの唐辛しの元祖と称されているのである然るに去る二十八日午前九時過ぎ八橋畷を通行中自動車にはね飛ばされ惨たらしくも死んだので今後同爺の姿を永久に見ることが出来なくなった訳である‥‥後略‥‥
昭和四年『秋田魁新報』より
はたしてシソ巻の「八橋とうがらし」はどんなものだったのか、ネットを検索するとそれに類似した商品がいくつかあった。


漬物王国山形の辛いお漬もの【桂巻】いげたや庄司醸造株式会社

こちらは山形の老舗漬物屋が造る、ゴボウとトウガラシをシソの葉で巻いた味噌漬け「桂巻」。材料は「八橋とうがらし」と同じだが、塩漬けではない。同店では、きざんだトウガラシをシソで巻いた「しそ巻なんばん」も製造している。

そしてもうひとつ、青トウガラシをシソの葉で巻いた塩漬け、日光名物「志そ巻きとうがらし」。



 志そ巻きとうがらしは、日光修験が体を暖める耐寒食として愛用したことから起こったといわれ、日光東照宮造営以後は、日光詣りのお札にそえる「日光みやげ」にされたといわれています。このことにより、志そ巻きとうがらしは「日光とうがらし」ともいわれています。

 修験道は普通の仏教と違って、香辛料や薬味を嫌わないところがあります。とうがらしは16~17世紀に日本に渡来した香辛料ですが、羽黒修験でも「南蛮いぶし」というとうがらしの煙りでいぶす修行が行われています。

 日光修験の強飯式(日光の輪王寺で行われる山盛りの飯を強要する神事)でも、山盛り飯で責めた後、『中禅寺の木辛皮、蓼ガ湖のたで、御花畑のとうがらし、寂光の大根……』の口上とともに、とうがらし、木辛皮(山椒の樹皮)、蓼、大根をのせた『菜膳』が出されています。

◇ ◇ ◇

 そんな修験道と共に三百年前から伝わるのが志そまきとうがらしです。当店は古くは輪王寺へ供物を納める店でもあり、江戸末期から明治初期頃から志そまきとうがらしの本格製造をはじめ、現在では日光で唯一の製造元となり、伝承三百年の志そまきとうがらしを中心に日光伝統のたまり漬など幅広く販売しております。

とうがらしは青色がベッコウ色になるまで塩漬けにして、特別な種類の紫蘇の葉を塩漬けにし、一本一本丁寧に手で巻いています。

 このとうがらし1本のビタミンCはレモン10個分に相当するほどで、山にこもって修行する修験者たちの知恵ある食べ物でもありました。

落合商店「当店と志そまきとうがらしの歴史」より
この「志そ巻きとうがらし」別名「日光とうがらし」こそ、日光修験の流れを汲む日光東照宮から派遣された、寿量院の僧侶が八橋にもたらした「八橋とうがらし」のルーツに違いない。

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元祖 志そまきとうがらし 落合商店
日光修験者たちの耐寒食「志そまき とうがらし」【 Flavo! 】

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