二〇世紀ひみつ基地

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川反みきょう小路・今は淋しき片側小路


美経小路・川反五丁目 06.09

南側が駐車場になり、片側だけの小路になって久しい川反五丁目(秋田市大町五丁目)美経小路。駐車場とビルとなった南側に存在した新美経小路も含めて、美経小路は川反最大規模の小路であった。この地に、江戸末期から営業していたのが「北潟屋」という味噌醤油醸造元。


昭和5年・6年 新聞広告

「北潟屋」は戦後、その敷地の一角で「美経」というフランス風のシックな喫茶店をオープン。「美経」の「美」は純真、「経」は「宇宙」、合わせて「広きマコト」をあらわすとのこと。

オーナーの趣味が高じて誕生した喫茶店だったが、当時はまだ珍しかった、東京の老舗コーヒー店から直送した豆を使う本格派コーヒーは通をうならせ、客が自由にレコードを選んでかけられるのも好評だったという。


昭和34年 雑誌広告

その後「北潟屋」の跡地に美経小路、つづいて新美経小路がオープン。




昭和34年 新聞広告(部分)

飲み屋街に喫茶店と甘味処があるのが面白い。喫茶店「美経」の創業は昭和28年のはずだが、昭和34年の上掲広告文に「甘くただようコーヒーの香りは八年間の実績」とある。計算が合わないのは、「六」を「八」と誤植したためか。
「美経小路」昭和34年当時
バー 裏窓・バー ミンク・鍋料理 好の家・小料理 天狗・バー ボルドー・喫茶バー アイリス・バー トップ・バー エレガ・バー メッカ・焼とり 福田屋・喫茶バー シャドウ・バー サヴォイー・バー ドリーム・おでん 高砂・クラブ ファンタジー・コーヒー店 美経・甘味の店 幸枝・なめこ汁お茶漬 なめこ・スタンドバー クラウン・バー ママ・バー 我が家・小料理 とら新・小料理 八重子・バー ラスト・小料理 小ばと・てんぷら 天広・バー 車・バー 松帆・バー ゼロ
「美経小路・新美経小路」昭和50年当時
アカシア・ポニー・モンプティ・紫・くつろぎ・めぐろ・木馬・ボルドー・とんかつや・ひとみ・福田屋・あざみ・エルモア・紫野・なるこ・京の竹・エレガ・北国・花びし・義江・くまん蜂・灯・杉・リーフ・みんく・裏窓・かおる・松帆
銀猫・再会・シャドウ・もんしぇりー・バイロン・麻美・ガーネット・紬・和子・湊・花・ゆめ・ドリーム・ハスラー・ブーケ・がらんす・高砂・左近・ファンタジー・バーディ-・グランバス・モノポリ・みっちゃん・ブラウン・ママ・我が家・公爵
1970年代には約60軒の飲食店が軒を連ねた美経小路とその周辺も、大半がビルと駐車場に変容、小路とは名ばかりの寂しい小路となった。

美経小路に創業した喫茶店「美経」はその後、東邦生命ビル地階、秋田名店街の一階を経て仲小路に移転、「cafe みきょう」の名で今も営業をつづけている。


06.03


04.09


04.09


04.04


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みきょう小路

cafe みきょう・川反発祥老舗喫茶店


川反五丁目雪景
戦前の川反五丁目



| 昭和・平成ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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浄願寺の赤門・一丁目小路の煉瓦塀

●受刑者の汗が染みこんだ煉瓦塀

土手長町通りから一丁目橋を渡り、ニューシティービルの脇を直進、寺町を抜け新国道に至る一丁目小路はもともと寺町で行き止まりであったが、交通量の緩和を目的に、昭和36年、秋田国体を前にして浄願寺境内を貫通する延長工事を実施。浄願寺本堂は新道路の北側に鉄筋コンクリート造りに一新して移転、掘りおこされた墓は南隣の西善寺の土地に移された。

この拡張工事で一丁目小路の突き当たりに存在した赤煉瓦の山門が失われた。市民に「刑務所、裁判所、浄願寺の赤門」と並び称された、全国的にも珍しい煉瓦造りの山門から、南北に連なっていた煉瓦塀が、道路の左右に分断されて残り、往時の面影を今に伝えている。


「浄願寺」煉瓦塀・南側部分 2008.05

浄願寺の山門と塀に使用した煉瓦は、南秋田郡川尻村の秋田監獄(明治45年竣工・のちの秋田刑務所)建設の際に余ったものを檀家が貰ったか、もしくは安く譲り受けたものと伝えられている。


落成間もない秋田監獄(秋田刑務所)


秋田刑務所(旧秋田監獄)事務所

監獄を取り巻く内外の煉瓦塀だけで総延長 1.200 m。その他の建築に要した総数130余万個の煉瓦は、監獄向いの田んぼに設けた直営工場で受刑者に造らせた「囚人煉瓦」。山王沼田町から採取した粘土に、赤色を出すために砂鉄が含まれた雄物川の砂礫を加え、成型・乾燥を経て焼き上げたという。製造された数量は363万個弱。

平成元年、秋田刑務所(旧秋田監獄)の改築工事による煉瓦建築の解体がはじまる。市民から保存運動の声があがり、移築保存も検討されたことから最後まで残っていた重厚な赤煉瓦の正門も平成16年に解体。


解体を待つ秋田刑務所(旧秋田監獄)正門 2004.10


秋田刑務所(旧秋田監獄)正門頭頂部 2004.10

秋田監獄の設計者は公式記録には残っていないが、当時の司法省営繕課長で監獄の改良を目的に欧米諸国を視察後、日本各地に歴史に残る監獄を設計した山下啓次郎(1868~ 1931)とされ、正門の意匠も山下の影響が見て取れるものだった。


左・旧奈良監獄正門・頭頂部 右・旧千葉監獄正門・頭頂部(二件とも、設計・山下啓次郎)
山下啓次郎 - Wikipediaより

山下啓次郎の孫でジャズビアニスとの山下洋輔は、祖父・啓次郎の事跡をもとに、史実と妄想が織りなす小説『ドバラダ門』を書く。祖父が設計した鹿児島監獄の保存運動に賛同し、監獄正門前でライブを挙行。しかし保存運動は実らず、監獄は取り壊さたが、その石造りの正門だけは国の登録文化財として今も残っている。秋田でも山下を呼んで刑務所正門前で、ゲリラライブをやる計画があったと聞く。


「浄願寺」煉瓦塀 2008.05


「浄願寺」煉瓦塀 鋸状装飾 2008.05

浄願寺に残された煉瓦塀を観察すると、柱、天端、その下の鋸状装飾部分など、枠組み部分に褐色の煉瓦を用いているのに対し、その他の壁面に比較的に色の淡い煉瓦が積まれている。

その色の濃淡は主に焼成温度の違い。焼成温度が低いと色が淡く硬度も低く、高温であれば色が濃く硬度の高い煉瓦が焼き上がるため、褐色煉瓦の柱部分は比較的に保存状態が良いが、その他は劣化が激しい。


「浄願寺」煉瓦塀 2009.09

塀の裏側に回ると、破損品、表面が高温で変質したもの、膨張変形したものなど、規格外の不良品が多く、状態の良い部分を人目に触れる表側にして積んだことがわかる。市販されるはずのない規格外煉瓦の混在こそ、これらが秋田監獄から払い下げられた「囚人煉瓦」に他ならぬことを物語っているのだ。


「浄願寺」煉瓦塀・裏側 2010.05


「浄願寺」煉瓦塀・裏側 2010.05

かつて一丁目小路の突き当たりに存在した、東西文化が融合した「浄願寺の赤門」、建設当時の市民の眼にそれは、ハイカラかつ珍奇なものに映ったのではないだろうか。その山門をくぐり、境内を通り、寺の裏へ抜ける細道は、秋田市の遊郭街・常盤(ときわ)町への近道であったというが、その話はいずれまた。


一丁目小路「浄願寺の赤門」跡 2008.05


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「浄願寺」の南隣「鱗勝院」の山門について


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「すずらん通り」にともる灯は



●すずらん灯の時代

土手長町通りから、旭川に架かる三丁目橋を渡った、通称「すずらん通り」、かつては「三丁目小路」、もしくは「三丁目橋通り」と呼ばれた商店街である。

「すずらん通り」の北に位置する通称「山王大通り」が、旧「二丁目小路」であり、現在の大通りも戦前は「すずらん通り」と同じ道幅の小路であった。

昭和初期、すずらんをイメージした街路灯「すずらん灯」が設置されたことから、三丁目小路が「すずらん通り」と呼ばれるようになったのは戦後のことと思う。


初期「すずらん灯」の一例(京都)

大正末期、京都の商店街に設置された「すずらん灯」をデザインしたのが、関西を中心に活躍した建築家であり、アール・ヌーヴォーを日本に紹介したことでも知られる武田五一(1872-1938)。

武田は祇園祭の山鉾の邪魔にならないように、祭りのときには首を振って折りたたむことがてきる、機能的かつ優美なヌーヴォー調の「すずらん灯」を考案。設置された街灯は好評を博し、その意匠はまたたく間に全国の商店街に波及していく。


静岡市 昭和初期


神戸元町商店街 昭和初期

昭和五年に封切られた映画「神戸行進曲」の主題歌に「雨の元町すずらん燈 ぬれて光ったアスファルト・・・」と歌われた、螺旋模様が眼を惹く元町の街路灯。

●秋田市一の盛り場・すずらん通り


『春宵・スズラン燈の市内三丁目橋通り』昭和十年「秋田魁新報」より
多重露光で街頭の数を増やした芸術写真

飲食店の他に、菓子店、酒屋、洋服店、電気店、レコード店、銭湯などが軒を連ね、戦前には夏になると夜店が並び、直進した突き当たりに、明治期から昭和四十年代末まで、劇場(凱旋座で始まりピカデリー劇場で終わる)があったことも手伝い、人通りの絶えない活気にあふれる商店街であった「すずらん通り」。

「すずらん灯」が設置されて間もない頃の、三丁目小路のにぎわいを文学的に活写した、昭和四年の新聞記事をご覧頂きたい。

一町一景(六)鈴蘭街燈の三丁目橋通り
 秋田市にも盛り場があるかと聞かれたら先づ三丁目橋通りを擧げるに躊躇しない。物産館から秋田劇場前へ通ふあの細い小路を足どり輕く行き交ふ夜の享樂者逹には唯(ただ)わけもなく明るく息づまるばかり雑沓する一種の集團意識がどんなに懷しく思はれることであらう。カフ井ー(カフェー)、蕎麥屋、菓子屋、エハガキ屋、化粧品屋、果物屋等々々に根をおろして生活するものゝ、すべては通りがゝりの銀ブラ連相手のしやうばい(商売)のみである。
 つぶらなスズラン街燈ににポツカリあかりがつく頃にはめまぐるしいテムポをもつてラッシュアワーが訪れる。褄(*つま)をとつて忙しげにお座敷通ひする川端の姐さん、バイブルを手に教會へゆくクリスチャン、もみあげ長きモダンボーイ、スカートをまくしあげて闊歩するフラッパー(*)等々々げにこの街こそは秋田市一の盛り場だ。(後略)
昭和四年「秋田魁新報」

   *褄(つま)をとる=着物の裾の端(褄)を持上げて歩くこと
   *フラッパー(flapper)はすっぱな娘。はねっかえり。おてんば。昭和初期の流行語。

戦時中の鉄鋼不足に影響され、各地の商店街に可憐な明かり灯していた「すずらん灯」のほとんどが、大戦末期までに金属回収のために撤去され街から消えてしまう。


すずらん通り 昭和三十年頃

昭和二十九年に復興完成した「すずらん灯」。



劇場は消え、商店も人通りも少なくなった今もまだ、「すずらん通り」には往年のにぎわいの残り香のような、特有の雰囲気が残っている。


三丁目橋にともる「すずらん灯」

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神戸元町商店街のすずらん灯



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「付木小路」に響く音(ね)は‥‥

秋田市・歴史の小路(四)


付木小路・秋田市大町六丁目

かつて映画館「銀映座」があった十人衆町から、本町六丁目に抜ける小路を「付木小路」という。小路を抜けた左手は樹木の茂る児童公園(旧感恩講)、右手に新政酒造の酒蔵がある。

昭和初期までこの小路に「付木屋」があったことから、「付木小路」と呼ばれたが、今ではその名を知る人も少ない。

「付木・つけぎ」とは、杉や檜(ひのき)の薄く削られた木片の先端に硫黄を塗ったもの。火打石と火打金で切りだした火花を、火口(ほくち)に移し火種とし、これに「付木」の硫黄の部分を近づけると青紫色の炎をあげて燃えあがる。この炎をさらに薪に移して竃の火をおこし、またロウソクや行灯(あんどん)に点灯するために用いた。

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付木

束にして売られた「付木」。経年変化により硫黄は変色し剥離もめだつ。
使うときは木目に沿って1~2cm幅に割って火を付ける。

「付木」が発明されるまで、小さく低温な火種から竃の火をおこすことは、頭から灰をかぶりながら、火吹き竹で「ふうふう」と空気を送る、主婦にとっては難儀な仕事であったが、「付木」の登場により容易に大きな炎を得ることができるようになる。

「付木」の記録がある最も古い文献とされる『源平盛衰記』(十三世紀頃)の中の「円満院大輔登山の事」に、「付木」は「付茸硫黄・つけたけいわう」の名で登場する。「つけたけ」というのは、その初期において材料に竹が多く用いられたためらしい。

時代は下って、江戸および太平洋側では「硫黄付木」を略した「付木」、京阪地方においては「硫黄・いわう」、九州から奥羽地方までの日本海側ではおもに「つけだけ」と呼ばれていた。

「硫黄・いわう」は「祝う」に通じ縁起がよいことから、隣近所からのもらい物の返礼として「付木」が使われた地方では、マッチの時代になってもその風習がのこり、頂いた重箱などの容器にマッチを入れ、「付木のかわりに」と言ってお返しにするのだという。

「付木」をつくる職人は「付木突き」「付木師」と呼ばれた。

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付木師『今様職人尽百人一首』(享保)より

切り揃えた角材を長い鉋で削り(突き)、火鉢で温めて硫黄を塗る工程が描かれ、会話として「皆精を出しましょう。明日は休みでござるぞ」「おまつ、そこのあいろうをくりゃ」「此硫黄はよい花じゃの」と記されている。

添えられた歌は「鳴かせつつ つけ木屋 猿の真似をつく 硫黄付けつつ 藁束ねおく」。

「猿の真似」とは、付木を鉋で削るときに鳴る音が、猿のキーキーという声に似ていることから。その音は鳥のさえずりなどにもたとえられて、多くの俳句・川柳に残されている。

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「五月闇水鶏ではなし人の家」五月の闇夜、どこかでクイナが鳴いているようだと耳をそばだててみると、なんのことはない、音の主は付木屋の家の付木を削る音だった。

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付木売り『江戸職人歌合』(明応四年・1495)より

天秤棒を担ぎ「付木」を売り歩く老人。 添え歌は「灯火(あんどん)もけち(消し)て月をや眺むらん今日は付木を買う人もなし」「忘られば忘れん事も安付木きえて物おもふ我や何なる」。

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団扇絵『闇の夜の蛍』絵師・玉蘭貞秀(天保十三年)

行灯に「付木」で火を灯さんとする女。

江戸末期に渡来したマッチは、オランダ付木、早付木、西洋付木、摺り付木などと呼ばれ、明治初期には国産化されるが、当時はまだ値の張る贅沢品であり、広く一般に普及するのは大正に入ってからのようだ。

瞬時に火をおこせるマッチの普及により、「付木」は過去の遺物となったが、今もわずかに製造され、神に捧げる灯明を点火する道具として、神棚・神具を扱う店で販売されている。

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周辺地図

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