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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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浄願寺の赤門・一丁目小路の煉瓦塀

●受刑者の汗が染みこんだ煉瓦塀

土手長町通りから一丁目橋を渡り、ニューシティービルの脇を直進、寺町を抜け新国道に至る一丁目小路はもともと寺町で行き止まりであったが、交通量の緩和を目的に、昭和36年、秋田国体を前にして浄願寺境内を貫通する延長工事を実施。浄願寺本堂は新道路の北側に鉄筋コンクリート造りに一新して移転、掘りおこされた墓は南隣の西善寺の土地に移された。

この拡張工事で一丁目小路の突き当たりに存在した赤煉瓦の山門が失われた。市民に「刑務所、裁判所、浄願寺の赤門」と並び称された、全国的にも珍しい煉瓦造りの山門から、南北に連なっていた煉瓦塀が、道路の左右に分断されて残り、往時の面影を今に伝えている。


「浄願寺」煉瓦塀・南側部分 2008.05

浄願寺の山門と塀に使用した煉瓦は、南秋田郡川尻村の秋田監獄(明治45年竣工・のちの秋田刑務所)建設の際に余ったものを檀家が貰ったか、もしくは安く譲り受けたものと伝えられている。


落成間もない秋田監獄(秋田刑務所)


秋田刑務所(旧秋田監獄)事務所

監獄を取り巻く内外の煉瓦塀だけで総延長 1.200 m。その他の建築に要した総数130余万個の煉瓦は、監獄向いの田んぼに設けた直営工場で受刑者に造らせた「囚人煉瓦」。山王沼田町から採取した粘土に、赤色を出すために砂鉄が含まれた雄物川の砂礫を加え、成型・乾燥を経て焼き上げたという。製造された数量は363万個弱。

平成元年、秋田刑務所(旧秋田監獄)の改築工事による煉瓦建築の解体がはじまる。市民から保存運動の声があがり、移築保存も検討されたことから最後まで残っていた重厚な赤煉瓦の正門も平成16年に解体。


解体を待つ秋田刑務所(旧秋田監獄)正門 2004.10


秋田刑務所(旧秋田監獄)正門頭頂部 2004.10

秋田監獄の設計者は公式記録には残っていないが、当時の司法省営繕課長で監獄の改良を目的に欧米諸国を視察後、日本各地に歴史に残る監獄を設計した山下啓次郎(1868~ 1931)とされ、正門の意匠も山下の影響が見て取れるものだった。


左・旧奈良監獄正門・頭頂部 右・旧千葉監獄正門・頭頂部(二件とも、設計・山下啓次郎)
山下啓次郎 - Wikipediaより

山下啓次郎の孫でジャズビアニスとの山下洋輔は、祖父・啓次郎の事跡をもとに、史実と妄想が織りなす小説『ドバラダ門』を書く。祖父が設計した鹿児島監獄の保存運動に賛同し、監獄正門前でライブを挙行。しかし保存運動は実らず、監獄は取り壊さたが、その石造りの正門だけは国の登録文化財として今も残っている。秋田でも山下を呼んで刑務所正門前で、ゲリラライブをやる計画があったと聞く。


「浄願寺」煉瓦塀 2008.05


「浄願寺」煉瓦塀 鋸状装飾 2008.05

浄願寺に残された煉瓦塀を観察すると、柱、天端、その下の鋸状装飾部分など、枠組み部分に褐色の煉瓦を用いているのに対し、その他の壁面に比較的に色の淡い煉瓦が積まれている。

その色の濃淡は主に焼成温度の違い。焼成温度が低いと色が淡く硬度も低く、高温であれば色が濃く硬度の高い煉瓦が焼き上がるため、褐色煉瓦の柱部分は比較的に保存状態が良いが、その他は劣化が激しい。


「浄願寺」煉瓦塀 2009.09

塀の裏側に回ると、破損品、表面が高温で変質したもの、膨張変形したものなど、規格外の不良品が多く、状態の良い部分を人目に触れる表側にして積んだことがわかる。市販されるはずのない規格外煉瓦の混在こそ、これらが秋田監獄から払い下げられた「囚人煉瓦」に他ならぬことを物語っているのだ。


「浄願寺」煉瓦塀・裏側 2010.05


「浄願寺」煉瓦塀・裏側 2010.05

かつて一丁目小路の突き当たりに存在した、東西文化が融合した「浄願寺の赤門」、建設当時の市民の眼にそれは、ハイカラかつ珍奇なものに映ったのではないだろうか。その山門をくぐり、境内を通り、寺の裏へ抜ける細道は、秋田市の遊郭街・常盤(ときわ)町への近道であったというが、その話はいずれまた。


一丁目小路「浄願寺の赤門」跡 2008.05


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「浄願寺」の南隣「鱗勝院」の山門について


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札打ちの大喧嘩・レジャーとしての札打ち


二十六番札所・當福寺

一月十六日の深夜、日にちが変わって十七日は「札打ち」、正式名称「久保田三十三番札所巡礼」の日。今は自家用車を使い、順番もさして気にしない向きも多いが、以前は全行程を徒歩で必ず順番通りに巡礼した。

厳冬の夜、一番札所の泉から、手形、広面、楢山、牛島、川口境、寺町を経て、三十三番の八橋まで、五時間から八時間をかけて歩く。とくに手形から楢山にかけては田んぼの畦道がつづき、吹雪になると雪明かりだけの道を、前をゆく行列の背中を目当てに歩いたと聞く。

大正時代の魁新報に「札打ち」の賑わいと、その道筋で起こった傷害事件を伝える記事がある。




本日の札打ちは近来にない人出で未明から市内、市外の善男善女真ッ黒になって雪崩の如く各寺院を流れ市内寺町などは上へ下への大賑わいだったが殊に人出盛った午前七時頃寺町當福寺に意外な椿事が演ぜられた。市外八橋の一団に加わっていた同所渡邊●●(三三)が、々土崎港将軍野一団中の石田●●と當福寺境内で出会い、ちょっとした言い争いから渡邊が石田の持っていたパンを奪って屋根の上に投げつけ、こんなパン何だい!と罵ったのが石田の憤怒を買い、石田は前後も忘れて札打ちに持って来た頑丈な金槌で渡邊の前頭部を力まかせに一撃したので渡邊は血に染まって昏倒したが急報によって大工町派出所から警官急行して逃亡中の加害者を捕らえ得たが可成りの重傷らしく秋田署では目下取調中
大正十五年一月『秋田魁新報』より(名前は伏せ字にした)
札打ちの夜は各所に食べ物や酒の屋台が出た。大人は酒を飲み、女子どもは甘酒や汁粉を飲んだりと、冷え切った体を暖めたものだろう。朝になると腹もへり、八橋の茶屋や蕎麦屋も繁盛した。とくに札所が集中する寺町は出店が並び、お祭りのような賑やかさで、お祭り気分で酒を飲み、騒ぎだす異装の若者集団のことなども記録されている。當福寺での喧嘩も、酒の上でのいざこざだったのではないだろうか。

厳冬期の苦行をともなう死者への慰霊と供養である「札打ち」は、その家族のみならず、親戚縁者がうちそろい、お祭り好きの若者なども巻きこんだ、“寒中恒例のレジャー”という一面もあった。江戸時代に一大ブームとなった「西国三十三番札所巡礼」や「お伊勢参り」が「神仏の光を仰ぎ観る」=「観光」というレジャーでもあったように。


二十六番札所・當福寺

二丁目小路(現・山王大通り)のつきあたりに位置した當福寺の境内を貫通して、新国道に抜ける道路が戦前に貫通、さらに戦後の拡幅工事で再び大きく削られて、その敷地は時を経て大幅に縮小された。

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| 祭り・民俗・歳時記 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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秋田中央道路に武士の幽霊



asahi.com 2008年9月15日の記事に「武士の幽霊が事故を呼ぶ? 秋田のトンネル1年で19件」。
 秋田中央道路が開通して15日で1年を迎える。秋田駅の東西をつなぐ交通の激しいトンネルで、交通事故や車の故障などで通行止めになることも多い。ちまたでは「武士の幽霊が出る」などとうわさも流れる。事故多発の背景を探った。
asahi.com より
幽霊については記事にあるように、ありがちな都市伝説にすぎないのだろうが、竿燈まつりが広小路から山王大通りに移った当時、雨にたたられる年がつづいたため、関係者が相談の上、当福寺にて寺町に眠る御霊(みたま)を鎮める祈祷をとり行い、それ以後好天に恵まれるようになったことがあった。

東西に延びる山王大通り、ならびに一丁目小路(ニューシティ脇小路)から五丁目小路(横町)はもともと、寺町で行き止まり。藩政時代の寺町は西から来る敵に備えた防衛線でもあった。

昭和十年、二丁目小路(現・山王大通り)の二丁目橋線が当福寺境内・墓地を貫通して新国道に結ばれる。戦後になり昭和四十年代の道路拡幅でさらに大幅に削られて山王大通りが完工した。
 山王大通り南側の真敬寺の入り口には「5人男の墓」と呼ばれる墓石が五つ並んでいる。長崎孝住職(69)によると江戸時代に悪事を働く武士を倒し、打ち首になった侠客(きょうかく)たちの墓という説がある。
asahi.com より
「侠客五人男」は明暦(1655-1658)の頃、八橋山王さんの祭典のとき、暴行をはたらく武士を見かねて殺害したもの。庶民が武士を殺したとなれば打ち首は必至、そのため彼らは覚悟して自害したというから、この世に未練をもって化けて出るはずもない。それにしても、自らの命を賭してまで正義を貫く、昔の侠客はカッコイイ。

このエピソードを持ち出すならば、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟を離脱しようとする秋田藩の説得に来藩し、事故多発地点に近い、茶町の旅館で殺害されて五丁目橋にさらし首に、残る者は捕らえられ処刑された、仙台藩士十二名の怨念とするほうが、ストーリー的には説得力がある。


五丁目橋・川反観音

仙台藩士のさらし首が並べられた五丁目橋のたもとに建立された「川反観音」。

かつてこの場所で営業していた小料理屋の主人が、約三十年間、毎日店で線香をあげて仙台藩士の供養をしていた。五丁目橋の拡幅工事でその店が取り壊されることになったとき、常連客らから慰霊碑建立の話が持ち上がり、平成十二年、除幕式が執り行われた。

台座には「この観音像は秋田戊辰の役に先立つ慶応四年七月四日、この地で殉難された仙台藩士を供養し、川反をこよなく愛した先人に感謝し、慰霊するために、多くの方々のご芳志により建立するものです」とあり「夕されば 川反の灯はやすらげり 観音像に 路ゆく人に」の句が刻まれている。

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関連リンク

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お堀の下を歩く・秋田中央道路

殺された保存樹たち・寺町定点観察

| 秋田市今昔 | 23:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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久保田城の裏門を訪ねる

千秋公園の二の丸、胡月池を望む鯉茶屋前から本丸に至る石段を、裏御門坂、略して裏門坂という。かつては石段を登り、さらに左折して登りきった場所に久保田城の裏門が存在し、今は礎石だけが残っている。


千秋公園 裏門跡

千秋公園から消えた裏門は、秋田市寺町の曹洞宗寺院・鱗勝院の山門として生まれ変わった。


鱗勝院 山門

明治十九年四月三十日、秋田町を大火(通称・俵屋火事)が襲い、外町を中心とした約三千五百戸が全焼、寺町の寺院のほとんども貴重な文化財とともに焼失してしまう。

その後、焼失した伽藍を再興するに際して、佐竹家から拝領したのが現在の山門である。鱗勝院はもともと、佐竹家の転封により常陸から移ってきた、佐竹東家六代義直の夫人、保徳院が創建した佐竹家ゆかりの寺院。

この元裏門は、安永七年(1778)久保田城大火の際に焼失し、その後再建したもの。もともとは千秋公園に復元された表門のような二層楼(二階建て)だったが、鱗勝院への移築にともない現在の形になった。



裏門の原型は失われ、瓦葺きの屋根は後年、銅板葺きになったものの、二百余年前の築材はそのままで、永年の風雪に耐えた歴史と風格を感じさせる、堂々たる山門となっている。

藩政時代から現存する久保田城の建造物は、表門前の御者頭御番所と、この元裏門だけとなった。


木組の美

鱗勝院は「秋田音頭」発祥の地としても知られる。寛文三年(1663)七月、踊り手らが寺に集まって数日間にわたり協議、町踊りとしての原型があった「秋田音頭」を、柔術の型をヒントに現在のものに近い振り付けがされたという。

千秋公園・裏門跡と鱗勝院・山門の画像を合成して、久保田城の裏門を復元してみた。二層楼であったことを考慮し、高さを若干延ばしている。




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久保田城・裏門跡


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鱗勝院

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人徳の商家・那波家(俵屋火事についての記述)

| 秋田市今昔 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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