二〇世紀ひみつ基地

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旭北小「寺町横断通学路」1972 開通

旭北小学校通学路
▲2019.06撮影(以下同)

秋田市旭北寺町一丁目、伝法寺と竜泉寺のあいだを東西に延びる、ブロック塀に挟まれた小路。出入口に車止めがある小道は暗渠を連想させるが、そうではない。

今回はこの小路の成り立ちを紐解いてみる。

旭北小学校通学路

実のところ、先ほどの小路の起点は、すずらん通り(三丁目小路)の突き当たりに位置する。

左手の「セブン-イレブン 秋田大町4丁目店」とその駐車場は、洋画館「秋田ピカデリー劇場」の跡。

旭北小学校通学路

昭和40年代初頭まで、この道は袋小路であった。

すずらん通り周辺の児童が「旭北小学校」に、最短距離の四丁目小路→新国道経由で通学するとき、歩道のない道路を800メートルほど歩かなければならない。

そのため、近隣の12町内会が昭和33(1958)年に期成同盟会を結成「旭北小までの直線通学路を・・・」と秋田市に陳情を開始。

旭北小学校通学路

度重なる陳情に重い腰を上げた市は用地の買収に着手。昭和42(1967)年「秋田ピカデリー劇場」脇から西方寺境内を通り、寺町一丁目に抜ける道路がひとまず開通。期成同盟会の陳情開始からすでに一昔の時が流れていた。

旭北小学校通学路

旭北小学校通学路

旭北小学校通学路
▲旭北寺町一丁目「銀光堂」前

創業90年という老舗菓子舗「銀光堂」。現在はカステラ煎餅系の「秋田城瓦煎餅」「こけし諸越」などを製造するが、昭和30年代の広告には上記のほかに「秋田城瓦諸越」「秋田城瓦まんじゅう」「秋田古銭諸越」の銘菓が載り、二丁目小路(現・山王大通り)に面した田中町の市電停留所前に支店を構えている。

平成30(2018)年、同家が南隣で経営していた、アジアの布・雑貨を販売する「ふあり」を「銀光堂」内に移設、リニューアル後「ふあり 銀光堂」となった。アジア雑貨とお菓子という組み合わせも珍しい。

旭北小学校通学路

「銀光堂」の西隣もお菓子屋「御菓子司かくた」。場所柄、両店ともに御彼岸・御盆の時期には供物の菓子、赤飯、花なども販売する。

閑話休題。

旭北小学校通学路
▲寺町一丁目「伝法寺」と通学路

寺町一丁目までの区間の開通から遅れること5年、昭和47(1972)年9月、寺町一丁目から新国道方面に抜ける約100メートルの通学路が、陳情開始から15年目にして、ようやく完成。

9月11日の“通り初め式”には、荻原秋田市長を初め、児童・父兄ら約100人が集まり開通を祝った。

旭北小学校通学路

秋田市が竜泉寺、伝法寺の境内を用地買収して造成した通学路。開通当初は砂利敷きであった。

旭北小学校通学路

旭北小学校通学路

通学路西端の両側に建つ民家は開通前後に建てられたもの。

旭北小学校通学路

上掲画像の車止めの向こう側、新国道に通じる道はかつて、田んぼのあぜ道で、寺町の裏側(車止めの向こう)を旭川上流を源とする農業用水が流れていた。

旭北小学校通学路
▲通学路を西側から望む

旭北小学校通学路
▲新国道「旭北小学校」入口

旭北小学校通学路
▲旭北小学校通学路 鳥瞰 ©Google Maps

Googleストリートビューの場合、車が通れない道には基本的に侵入できないが、寺町横断通学路はトレッカーを担いで徒歩で撮影されている。

グレー・ライン→四丁目小路・新国道経由の通学路。ライトブルー・ライン→寺町横断通学路。

オレンジ・ライン→昭和42(1967)年開通部分。グリーン・ライン→昭和47(1972)年開通部分。

旭北小学校付近
▲1962/09/15撮影

昭和37(1962)年撮影の空中写真。左手に「旭北小学校」その上に「山王中学校」。周囲にはまだ田んぼが多い。

秋田市大町五丁目「NTT東日本大町第二分局」の場所にあった「旭北小学校」が、西に約1キロ離れた、現在の山王地区に移ったのは昭和13(1938)年。その当時、寺町の裏から山王地区にかけては、一面の田んぼが広がる、まさに秋田市の郊外であった。

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ケヤキの大木を惜しむ・寺町定点観察


2009.05

「秋田音頭」発祥の地といわれ、久保田城の裏門を山門として移築したことで知られる寺町の曹洞宗・鱗勝院は昨年(2010)、無粋なブロック塀を古風な板塀に改修、古刹にふさわしい景観がよみがえった。


2010.06

板塀に改修したのは良かったが、工事の支障になったためか、境内の塀際に存在した樹齢100年はあろうかと思われるケヤキの大木が伐採されたのが惜しまれる。


2006.07


2010.04


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金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山


2010.06

金照寺山にニセアカシアの甘い香りが漂う初夏の頃、山道に点在する観音さんの石像が、ある日を境に真っ白なお札におおわれるのが、子ども心にとても不可思議だった。今でこそ巡礼者も少なく、お札の数は少ないが、当時は石像とセットで建てられた御詠歌の碑もろとも、白い衣装を着たかのように、観音さんは沢山のお札に埋めつくされていた。


2010.06

七つ森の登り口近くに建つ「四恩之碑」。隷書体の題字は土手長町で医院を開業していた書家・赤星藍城(あかぼしらんじょう)の揮毫。

「四恩」とは、衆生・三宝・父母・天皇(原典では国王)に対する“四つの恩”。人間はこの「四恩」を受けると説く“仏の教えを広めよう”との眼科医・堀氏の遺志を継ぎ、その婦人が昭和九年に建立した。

「四恩之碑」建立をきっかけとしてその後、妙覚寺住職を中心に、秋田市内で一月に行われる「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)の三十三観音が安置されている寺院住職らの発起により、金照寺山を三十三観音霊場とする計画が進められるが、不景気な時代だけに建立資金を集めるのに苦労したという。


2007.04




2007.04

三十三観音像のうち約半数が建立された昭和十一年六月、観音さんの縁日にあたる十八日に第一回の巡礼が行われた。
郊外金照寺山の観音初順礼
     善男善女に賑はふ

金照寺山の観音初順礼は十八日うす曇りの空の下に約五千人の善男善女をあつめ盛大に行われた。朝から梅雨をふくんだ曇天であったが市内、近郷町村から参詣にあつまった善女人の数夥しく金照寺山はどこもかしこも大賑ひ、午前十時より市内寺院住職により厳かに読経あり、完成仏体の開眼式をあげ、補陀寺住職導師のもとに三十数名の衆僧により読経、山の周囲から御詠歌の声が流れ、いたるところ香煙たちのぼっている。参道から七つ森下には腰掛け茶屋が立ちならび、又、高井農園のいちご畑には数百人を入れて非常なる賑やかさ、かくして、金照寺山は新霊場地としての名実全くととのへ、午後からも続々と参詣人があった。
昭和十一年六月十九日『秋田魁新報』より
三十三体が揃った翌昭和十二年六月十八日、曹洞宗大本山総持寺貫首・伊藤道海禅師を招請し、四恩碑前にて完成供養の大法要を営む。
‥‥前略‥‥この日午前十時より三十三観音各札番より選ばれた稚児の巡礼により数千人の善男善女がその後につゞき御詠歌を誦し同山一体はさながら人波を描き出し道路も車馬通行止めの雑踏ぶり、‥‥後略‥‥
昭和十二年六月十九日『秋田魁新報』より



2010.06

厳冬の一月十六日未明から翌朝にかけて秋田市内の寺院を巡る「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)は、平安時代後期に成立し、江戸時代に庶民のあいだで爆発的に流行した「西国三十三番札所巡礼」を縮小コピーしたバーチャル巡礼であったが、「金照寺山三十三観音巡礼」は、それをさらに縮小化したミニ巡礼。当時の一月十六日の札打ちと同じく、金照寺山でも参拝者を目当てにした、腰掛け茶屋など飲食の屋台も並んで客をもてなした。

ときには吹雪舞う厳冬の暗夜、20キロ以上の道のりをひたすら歩きつづける(今は歩く人はいないが)札打ち(久保田三十三番札所巡礼)にくらべ、足腰の弱った老人や婦人にも気軽に巡礼ができることもあって、当時の新聞記事が語るように、金照寺山の三十三観音は多くの参拝者をあつめる人気の巡礼スポットであった。

秋田市における現在の「札打ち」は、主に死者の冥福を祈る追善行事であり、打つ(貼る)札(ふだ)に近親者の戒名を書くのが通例になっているが、本来の札所巡礼は巡礼者が観音菩薩との結縁(けちえん)を願い、木製の奉納札を堂宇に打ち付けたことに由来する。


天保十一年『西国順礼道中細見大全』より

上図のような奉納札に、参拝年月日、同行者の人数、国名(住所)、氏名、祈願などを記した木札を堂宇に打ち付ける。その風習は貴重な建造物を傷めるため、のちには紙札に取って代わり、現在は箱に納めるようになった。

「西国三十三番札所巡礼」をモデルにした「久保田三十三番札所巡礼」、さらにそれをミニチュア化して、一日に数千人を集めた「金照寺山三十三観音巡礼」の初期においても同様な意味合いの巡礼が行われたものだろう。それがいつの間にか「死者の追善供養」に限定されるようになるのだが、それは意外に最近のことなのかもしれない。

「観世音菩薩」の「観世音」とは「世の音(衆生の声・願い)をよく観る」ということ。慈しみに満ちあふれる寛大な心で、苦しむ者が祈りを捧げれば、時に応じて三十三の姿に変身して救いの手を差し伸べ、苦難除去・病気平癒・子授け・願望成就・開運授福などの現世利益をもたらし、霊魂の成仏・罪障消滅・極楽往生を約束するという、なんでも揃う仏像界のデパートのようなありがたい存在。

そんな観音さまは当然に庶民の人気(信仰)をあつめ、三十三体の観音像を巡る「三十三番札所巡礼」に参拝すると、現世で犯した罪業がことごとく消滅し、極楽往生をとげることができるとされ、江戸時代に大ブームとなる。それは信仰心と遊び(行楽)が織りなす「神仏の光を仰ぎ観る」=「観光」という物見遊山の旅でもあった。

巡礼のための大量のガイドブックや御詠歌集が出版され、やがてそのブームは全国に広がり、各地に「三十三番札所」が誕生。秋田では「久保田三十三番札所巡礼」のほかに、県内全域に広がる「秋田六郡三十三観音巡礼」があるが、こちらの成立年代は長久年間(1040-1044)と古く、その後七百年余のあいだ途絶え、巡礼がブームとなった江戸中期に復活したもの。


『西国三十三所御詠歌』より




2007.04



保戸野鉄砲町の石工・三浦善一氏が「四恩之碑」の聖観音を手始めに、金照寺山三十三観音像のうち十五体を彫刻。昭和五十三年に秋田市の「技能功労者」に選ばれた名工だけに、見る者の心がほころぶ、作者の人柄がうかがえる、やさしいお顔の観音さんが多い、

建立者は資産家の婦人などの個人、各寺院の檀家有志、観音講などのグループ。著名な建立者を少し挙げると、本間金之助(本金)夫人、河村周吉(河周)婦人、笊町の花巻家、大堰端の湊家など。女性名が多いのは、金照寺山三十三観音の信仰が婦人を主体として行われたことのあかしだ。

建立から七十年以上の時を経て石像の風化が進み、宅地の造成などにより何体かは移動。誰かが持ち去ったのか、行方不明となっている石像も数体ある。


八番欠番・土台石だけが転がっている 2010.09


番外「善光寺」2010.09

三十三番目の観音像の近く、七つ森へ向かう自動車道に沿った民家の庭に、番外の「善光寺」阿弥陀如来の石像がある。阿弥陀さんを中心にして両脇に観音菩薩と勢至菩薩を配した立像は昭和十二年の建立で、裏に那波家をはじめとして十数名の建立者名が刻まれて、その隣には観音像と同じく御詠歌の碑が建つ。

三十三番の近くにあるということは、「三十三観音巡礼」を終えたあと、参詣者たちはこの阿弥陀如来像に立ち寄り、バーチャル「善光寺詣り」で巡礼を締めくくり、清々しい心持ちで家路についたものだろう。

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関連リンク

みちのくプチ巡礼情報:: 久保田 金照寺山 卅三番札所巡礼

永泉寺公式ホームページ 『秋田三十三観音』

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妙覚寺の腹高地蔵さんと地母神

●おなかの大きなお地蔵さん


10.06

秋田市旭北寺町、曹洞宗・妙覚寺境内の六地蔵。ありゃ?六体じゃなくて七体あるぞ!と良くみれば、右端の大きな地蔵さんの脇に「子安地蔵」の標柱。妊婦を守護する安産の地蔵さんだ。


10.06

「子安地蔵尊」の標柱は平成六年に建てた新しいもの。

この地蔵さん、古い観音菩薩がいつしか地蔵尊に変身したものと伝えられ、お腹が少しふくらんだ妊婦の姿をしていることから「腹高(はらたか)地蔵さん」と親しまれ、安産を願う者は豆腐を供えるのが古くからの習わしで、以前はその前面に豆腐を供える木製の台が置かれていた。ふっくらと突き出た腹をなでると安産するともいわれている。

「子安地蔵」「腹帯(はらおび)地蔵」など、安産に関する地蔵さんは多いが、妊婦の姿をそのまま表現した物件は全国的にも珍しい。


●地蔵菩薩のルーツは大地の母

お釈迦さんの入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの五十六億七千万年のあいだ、混濁した無仏の世の中で、さまざまに姿を変え、六道をめぐって人々を救済・教化する役割を託され、日本では安産と子どもの守護神としても庶民に信仰された地蔵菩薩。優しくおだやかな顔を持つ反面、地獄の閻魔大王に化身し憤怒の形相で亡者を叱咤する。

右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ修行僧の装束をまとい、童子の石像も少なくはない地蔵さんに女性のイメージはない。ましてや妊婦とは結びつかないが、そのルーツをたどると古代インドの女神にたどりつく。

地蔵菩薩の語源、サンスクリット語のクシティガルバを訳すと、「クシティ」=「大地」、「ガルバ」=「胎蔵」、これを意訳して「地蔵」。「胎蔵」は「一切を含有する母胎・子宮」を意味する。

つまり「地蔵」はもともと、大地の生命力・生産力を神格化した、万物を生み育てる大地の母・地母神、ギリシャ神話でいうガイア、日本神話ではイザナギノミコトに相当する女神だった。それならば妊婦をかたどった地蔵さんがいてもおかしくはなく、むしろそれが地蔵さんの本来の姿といえる。

おだやかな表情の地蔵菩薩が閻魔大王に化身するように、ありとしあるものの命を育む大地母神もまた、人々を黄泉(よみ)の国へと誘う恐ろしい破壊神の一面を持つ。その母胎である大地は死と再生が絶え間なく繰り返される輪廻(サイクル)の場であるのだから。


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