二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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広小路堀端に物凄き怪音・昭和十年夏の怪談

昭和10(1935)年の夏、秋田市広小路「大手門堀」に、夜な夜な怪音が鳴り響く異変があり、あたりは深夜まで、噂を耳にして集まった物見高い野次馬でごった返した。

Title

真夏の夜にふさわしい猟奇的な話題が広小路濠端に提供されている……市内広小路大日本電力(*1)前濠端に毎夜午後十一時を過ぎると付近の人々は勿論、遠くから噂を聞いての恐いもの見たさの人々が朝の三時頃までずらっと並んで、向い側武徳殿(*2)土手にまで懐中電灯を照らし照らし黒山の人だかり……広小路濠端に夜十一時を過ぎると物凄き怪音がするとの噂が立ったのが数日前のことで噂はそれからそれへと伝えられて怪物が出るとか、美人が出没するとかと「こわいよ」「またきこえた」などのこわごわの見物人と、怪物の正体見届けんとの街の勇士までが現れて、寝苦しい真夏の夜にふさわしき人出となって賑やかさである……午後十一時人垣を押しわけて出ると、黒い水面の蓮の葉の彼方からカエルのゲコゲコとかまびしき中からウォーン、ウォーンと怪音が時々響いてくる、まさに怪音だ「うすきび悪いわ」若い婦人の声……この怪音の原因について街の人々は「怪物説」と「食用蛙説」との二派に別れてまちまちの論争が続けられている、その一説を聞くと目下問題中の昔ながらの矢留城のお濠を埋立てするの計画(*3)にお濠の主が何百年来住みなれた住家を奪われるのを憤慨しての怪音となるのだとの怪談までが生まれて、さすがに薄気味悪いが夜が更けるにしたがって、人の群もだんだん小さくかたまって、話も静かになってゆく、だが怪音はそんなことにはさらに頓着なく、サッと吹いてきた涼風の中にウォーンと響いた、人々の首をちょっとちゞめさせて……

昭和十年八月三日付『秋田魁新報』より

(*1)大日本電力
現在の「東北電力 秋田営業所」(広小路)

(*2)武徳殿
 「秋田県立美術館」旧館の地にあった武道場。下記リンク先に関連記事あり
二〇世紀ひみつ基地 平野美術館と大日本武徳殿・千秋公園

(*3)お濠(ほり)を埋立てする計画
昭和初期、広小路沿いの外堀を埋め立てる計画が浮上するも、各方面から反対の声があがり断念。明治から大正期にかけて埋め立てられた広小路外堀のことは下記リンク先に
二〇世紀ひみつ基地 広小路から消えたお堀とホテルハワイ

千秋公園・大手門堀
2013.07 千秋公園・大手門堀

市民を騒がせた「大手門堀」の怪音の原因は、新聞記事にも見える「食用蛙」(ウシガエル)と思われる。


ウシガエルの合唱

大正中期に米国から食用として移入されたウシガエルは、国の指導により、昭和に入ると各地で養殖が始まるが、養殖場から脱走した個体が野生化し、全国に分布するようになる。

面白いことに、秋田市における騒動と同年代、北海道旭川市街でもよく似た事件があった。 

昭和4年7月26日の旭川新聞によりますと、

この辺りで、夜な夜な不気味な鳴き声が響き、
「幽霊だ」「いや妖怪だ」と
街をあげての大騒ぎになったそうです。

現場には、怖いもの見たさに大勢の人が集まり、
まるで夏祭りのようなにぎやかさだったとか。
新聞の見出しには次のように書かれています。
 「化け物見たさに賑ふ夏の宵
 牛朱別川辺の小沼の畔 さても物凄い唸り声

で、結局この騒動、どうなったかといいますと、
なんと近くで飼育されていた食用蛙が
鳴き声の主と分かって一件落着したそうです!

旭川キャスター・スタッフブログ:NHK | 牛朱別川で〝妖怪騒ぎ〟!?」より

昭和10(1935)年の夏、秋田市民の話題となった怪音の源に違いない、ウシガエルの不気味な鳴き声は、当時の日本人にはなじみのない未知の音色であった。

千秋公園・大手門堀
2014.07 千秋公園・大手門堀

環境に順応し大型かつ貪欲なウシガエルが定着した池や沼から、モリアオガエルなどの在来生物が見られなくなるなど、生態系に被害を及ぼすことから、平成18(2006)年に施行された「外来生物法」で、ウシガエルを「特定外来生物」に指定、国内では研究目的以外の捕獲・運搬・飼育・販売が禁止されている。

昭和初期にウシガエルの餌として米国から移入後、野生化したアメリカザリガニも、生態系に影響を与える「要注意外来生物」に指定されているが、こちらは飼育・販売などの規制はない。

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関連リンク

ウシガエル - Wikipedia
特定外来生物の解説:ウシガエル [外来生物法]
ウシガエル:カエルの鳴き声図鑑

名声博すも短命に終わる-農家の副業 食用蛙養殖
農家唯一の副業『食用蛙飼養法』昭和2年

東京別視点ガイド : 牛ガエルが丸1匹乗っかった「かえるラーメン」を食べてきた!

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ホントは怖い与次郎稲荷伝説・エリアなかいち

▼与次郎のキャラ化にたまげる

与次郎稲荷

秋田市中通一丁目地区(日赤・婦人会館跡地)市街地再開発事業「エリアなかいち」のオープンにあたり、昨年(2012)7月にマスコッ卜・キャラクタ一に就任した、飛脚の白狐 ・与次郎。

やけに眼光鋭く、とげとげしい表情は、与次郎の“恐ろしい祟り神”としての一面を表しているかのようで、どうも親しみを持てない。

以下に記すような、“内に深い闇を秘めた伝説の主人公”である与次郎を公共施設のマスコットとして起用、二次元にとどまらず、着ぐるみ化されることを知ったときは正直魂消(たまげ)た。 文字通り“魂が消え入る”思いがした。

選考にあたって当事者たちは「与次郎稲荷伝説」の詳細を検討したのか?。おそらくは「殿様に寵愛され、飛脚として活躍した忠義の狐」程度の感覚で、安易に選定したのだろうが、「与次郎稲荷伝説」はそんなに単純で甘いお話しではなく、客寄せのためにキャラ化するには、あまりにもヘヴィな存在なのである。

与次郎は鳥居と標縄(しめなわ)で区画された神域に、そっと祀(まつ)っておけばよいものを・・・。

 

▼与次郎稲荷伝説とは?

秋田・山形両県に、新旧さまざまなバージョンの「与次郎稲荷伝説」があり、子ども向けの紙芝居や絵本はもちろん、市の広報誌なども残酷な場面をカットしているが、今回は原型を維持している物語を転載する。

昭和十一年当時、千秋公園本丸「八幡秋田神社」の宮司・山本富治氏が語った伝説を『月刊秋田』が採録したもの。

旧字体を新字体に、難解な語句を原文を損ねない程度にわかりやすい表現に書き替え、一部の用語については註釈を加えた。

「伝説の与次郎稲荷」

八幡秋田神社 社司 山本富治氏談

▼藩祖怪夢にうなされる

佐竹義宣公が、水戸から秋田へ御入国なされたのは慶長七年のことでしたが、初めは仙北郷六郷に居られ、後に土崎港の御仮城に移られ、久保田城の落成を待って慶長九年の八月にいよいよ御入城になったのであります。

しかし、御入城間もなく、夜な夜な怪夢にうなされ、一夜も安々と眠りに就くことが出来ませんでした。御自身が蟇目の法(ひきめのほう)などを修せられましたが一向にその効き目がなく、臣下らが額をあつめて思案にくれて居りました。

※蟇目の法(ひきめのほう)妖魔降伏のため弓弦を打ち鳴らす呪術

▼老狐の哀訴

ところがある日のこと、義宣公が連夜のお疲れでうとうとして居られたとき、御庭前に一匹の痩せた老狐が姿を現し、おそるおそる訴えて申すには、

「拙者、三百余年来この神明山に住んで居た狐であるが、この度殿様がここに御築城なされたために、住み処を失い路頭にさまよう他ない、願わくは憐憫を垂れ、少しの土地を割(さ)いて安住の場所を賜(たまわ)らんことを」

と云うのでありました。物に動じない義宣公は、うなづきながらその訴えを聞いて居られますと老狐はさらに語を継いで、

「寛仁大度(かんじんたいど)な我が君にして、幸いにこの老狐の願いをお聞き入れ賜(たまわ)らば、永く御城地の守護となり、且つ、一廉(ひとかど)の御用向きをも果たしますほどに・・・」

と、幾たびも首(こうべ)を垂れるのであります。

※寛仁大度(かんじんたいど)寛大で慈悲深く、度量の大きいこと

▼与次郎稲荷取立の事

その訴えを聴かれた義宣公は、いとも憐れに思い召され、かつ又老狐の申し出を興あることと微笑み給い、

「かねてより狐は神通自在の術ありと聴くが、いかなる御用を勉むるぞ」

と問われた。

「さればでござる、急遽の御用には、飛脚となって江戸表まで往復六日を限り、相違なく果たし申さん」

と答えるのであります。

よって義宣公は大いに喜び給い「城北の茶園を住居とせよ」と即座に御許しを給い、今後、江戸表の飛脚に取立てつかわす旨の御沙汰を給わったのであります。そして、かつて水戸に在りし日、茶畑守に与次郎という忠実なる僕(しもべ)があったことを思い出され、その名を与次郎と授けられました。

▼忠勤の狐、与次郎の活躍

当時は御遷封後間もないことでありましたから、江戸の上屋敷に種々の御用があって、煩雑に飛脚を出さなければなりませんでした。そんな時には藩公自ら御庭前に立って

「与次郎!与次郎!」

とお呼びになると、声に応じてどこからともなく旅装束に身を固め、香の字印の袢纏(はんてん)を着た佐竹家の御飛脚が、その御前にひざまづいて居るのであります。それに御文箱を渡すと、うやうやしく押し頂いて首にかけ、一礼して去るのでありますが、六日目には屹度(きっと)江戸表からの復命をもたらし帰り、かつて一日も間違えた事がありませんでした。

それが慶長九年から八月から、同一四年まで六ヶ年続いたので、殿様にはことのほかこの与次郎を寵愛されたそうであります。

※香の字印の袢纏(はんてん)
佐竹家の替紋(かえもん・非公式家紋)である「花散里」を染めた袢纏 

与次郎稲荷

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▼与次郎の遭難

その頃、山形の六田村に間右衛門と云う飛脚宿がありました。その間右衛門なる物が、考えるに近ごろ佐竹の飛脚が一向に泊まらなくなった。噂に聞けば佐竹の飛脚は、非常な足早で恰度(ちょうど)飛ぶようだということであるから、ひょとしたらただの人間ではないかもしれないと、そこで、村の手前の渡し船に乗る船頭が気をつけて見ていると飛脚が乗っても船は少しも動揺せず、船足も沈まない、ハテ合点がいかぬと、早速その事を間右衛門に報告する。間右衛門が仲間の谷蔵と呼ぶ猟師に相談すると、それは狐に違いあるまい、その奴をひとつ捕まえてやろうという良からぬ謀議をこらしたのであります。そこで狐の大好物である鼠の油揚げを餌とした罠仕掛けをして佐竹様の飛脚の来るのを待ち受けて居りました。

▼健気なるその最後

それとも知らぬ与次郎は、例によって殿の名を受け、六田村の渡し場付近くさしかかると、油揚げの香がぷんぷん鼻を突く、が、さすがは神通力を得た老狐の事ゆえ、うっかりそのたくらみには乗りません、早くもこれは我が身を殺害せんとのたくらみであると悟ったが、しかし、すでに正体を看破された上は、一度は必ず危害を免れる事は出来まい、死すべき時に死せざれば死にまさる恥ありと聞く、この所は覚悟をきめる時だと観念して、そばの並木に殿から預かった大事な状箱を掛け、自身は進んでその罠にかかって、あえない最期を遂げたのであります。まことに気の毒なことでありますが、しかし又健気な態度でもあります。

▼白狐空を飛ぶ

待ち伏せていた間右衛門や谷蔵等は「してやったり」と棍棒を振りかざして現れ、滅茶苦茶に罠にかかった与次郎を叩き殺してしまったが、それは狐ではなくて、立派な人間、しかも佐竹家の紋印付きの袢纏を着た飛脚なので、これは一大事と一旦こそこそ家に逃げ隠れましたが、やがて半信半疑で恐る々々忍び寄ってみると、東天の白む頃、今まで立派な人間の姿であったのが、ついに狐の本体を現し、しかもその体内から一匹の白狐が飛び出すよと見る間に、並木に掛けたる状箱をくわえて、空中南を指して飛び去ったのであります。それは与次郎の霊が、江戸上屋敷へとこの箱を届けたのであります。

さほど不思議を眼前に見ながらも、凡夫のこととて、なお畏(おそ)れることを知らなかったために、この人々はやがてとんだ災難に遭って、まことにあさましい最期を遂げるのであります。

▼悶死するもの相次ぐ

間右衛門、谷蔵等は、そういう不思議を不思議とも思わず罠にかかった狐の屍体を持ち帰り、それを料理して飽くまでむさぼり喰ったのでありますが、間もなく六田村の男女が、続々乱心狂気し、あるいは自ら指を噛み切り、あるいは石をもって歯を打ち毀(こわ)し、あるいは自ら目を潰すなど、泣き叫び狂い廻るさま、目も当てられぬことが一ヶ月にわたり、その内死する者が十七人にも上りました。そのなか、首謀者の間右衛門、谷蔵の悶死のさまは、酸鼻の極みだったと云うことであります。

この事がいつしか江戸表に伝わったために、将軍家は代官旗本の杉本官太夫を特に下向せしめ、与次郎の霊を鎮守とし、八幡様として祀(まつ)らしめた。それから村もようやく鎮静に帰ったそうであります。

▼与次郎稲荷縁起

さて、義宣公は与次郎の死を深く悼み給い、城内の御小屋の山に与次郎神祠を建立されて、厚くその霊を祀(まつ)りされた、これが与次郎稲荷様の起源であります。飛脚役たる御足軽や小人衆がこの稲荷様を信仰されたのは当然でありましょう。 現在は、千秋公園県社八幡秋田神社の末に稲荷神社がありソレを通称与次郎稲荷さんと申します。また楢山登町にも与次郎稲荷さんがあります。

昭和十一年八月発行『月刊秋田』(編集発行人・鷲尾よし子)


▼山形の伝説・誰が与次郎を殺したか・与次郎隠密説

一方、山形の伝説は秋田の伝説を手本に、近年、脚色を加えて創作されたもので、与次郎と村娘との悲恋と、与次郎の正体に関するエピソードが盛り込まれている。

与次郎を殺害した飛脚宿の主人・間右衛門の一人娘・お花は与次郎に恋心を寄せていた。父親の殺害計画を耳にしたお花は、悲しい胸のうちを訴え「速く逃げて」と懇願する。それを聞いた与次郎はお花に自分の正体を告げ死を覚悟。父親らの手によって殺された、与次郎の亡骸(なきがら)を葬ったあと、お花は行方不明になる。

そして、与次郎の正体は幕府に対する佐竹氏の隠密、つまりスパイであったが、幕府側の隠密のたくらみによって殺害されたというお話し。

‥‥前略‥‥  その頃、佐竹公があまり栄えていくので、幕府は不信の目を光らせ、隠密を放って秋田の様子を探らせようとしました。しかし、白狐の与次郎は、身を変える事が自在なので、幕府の様子をいち早く察知してただちに殿様に知らせます。幕府から秋田に向かった隠密は秋田藩の手にかかって殺され、一人として報告を持ち帰る者がなかったのです。

 ますます不信の目を光らせた幕府は、たくさんの隠密を、あの手、この手で送り出しました。隠密たちも色々考えたすえ、ついに与次郎に目をつけるようになってきました。「あやつは、まるで風のようだ。一日百里の道を飛ぶとは、人間業ではない。」「それに不思議なことに出発する時と、帰る時の姿を見た者はない。」「さては怪しいやつ。その正体を暴き出せ。」

 隠密組一団は、黒覆面に身をかため、一路羽州街道を北進して、山形城を過ぎる頃に、茶屋の店先で、「与次郎はたびたび六田郷の間右衛門宿屋に泊まる」という話を耳にしました。隠密たちは、早速集まって相談をはじめました。「よし、六田郷の宿屋を狙って、謀るならばたとえいかなるやつとはいえども、討てぬことはあるまい」と着々計画を進めました。

 一行は間右衛門宿屋に来ました。「どうだ亭主、こちらにとっては大切な客だろうが、我らは、あの与次郎を討ち取らないと江戸に帰れない。是非力を貸してくれ。」といって、亭主の前に、チャリン、チャリンと小判の音をさせました。「やってみましょう。」小判に目がくらんだ間右衛門は、与次郎を討ち取る計画に加わったのです。‥‥後略‥‥
滝口国也著・東根市民話の会発行『北村山地方の民話』より

事細かに描写された与次郎伝説の形成には、“飛脚に関わるなんらかの史実”が存在したことを思わせる。

事件が発生した時点で殺害された当事者を「狐」に置き換えて祀(まつ)り、出来事を伝説として後世に伝えなければならなかった理由は、当時は最大のタブーだった徳川幕府がからんでいると考えるのが妥当。

山形の伝説のように、与次郎が幕府に対する佐竹側の隠密であったことが露呈し、幕府側の主導であやめられたとする説がある一方、与次郎が佐竹氏の隠密であることがバレそうになり、佐竹氏がやむを得ず第三者の手を借りて与次郎を抹殺。その罪をつぐない、怨念を鎮(しず)めるために、弥次郎を手厚く祀(まつ)った、とする説もある。

『北村山地方の民話』に収録された与次郎伝説の全文、および、与次郎とお花の悲恋を中心に創作されたコミック「昔ばなし絵巻 与次郎狐」が以下関連リンク先にあり。

関連リンク
與次郎稲荷の伝説(山形県東根市)
昔ばなし絵巻 与次郎狐


▼各地に点在する“狐飛脚”伝説

民俗学者・柳田国男の『狐飛脚の話』(『定本柳田国男集』第22巻)によれば、秋田の他に米沢、鳥取、松江、鎌倉などにも、狐に飛脚の役を担わせる話があるという。

そのなかで与次郎稲荷伝説に酷似しているのが、鳥取の「桂蔵坊」伝説。

昔、鳥取にお城があった頃、池田の殿様に仕える「桂蔵坊」と名乗る狐がいた。桂蔵坊は若侍に化けるのがうまく、江戸まで3日で行き帰りできるすぐれた術を持っているため、殿様に大変かわいがられていた。 ある時、桂蔵坊は殿様から言いつかった仕事で江戸に出向いた。お城からほど近い百谷の村にさしかかったところ、香ばしいよい匂いがしてくる。ふと見ると道の脇で焼きねずみを罠に仕掛けている百姓がいたので、侍に化けてわけを聞いてみたところ、畑を荒らす狐を退治するために罠を仕掛けているとのことだった。 江戸で用事を済ませた桂蔵坊がその村を通りかかると、あの焼きねずみがよい匂いを放っている。罠が仕掛けられていると知りつつも、匂いに釣られ我慢ができなくなった桂蔵坊は焼きねずみに飛びつき、挟まれて死んでしまった。池田の殿様は桂蔵坊をたいそう哀れがり、お城に中坂神社を造り桂蔵坊を祀ってやったということである。

Wikipedia には「江戸時代後期に著された『鳥府志』(岡島正義著)に、桂蔵坊の伝説は池田光仲の代の出来事であるとの言い伝えが紹介されている」とある。

池田光仲が家督を継いだのは寛永9年(1632)。秋田の与次郎狐の話は慶長年間(1596~1614)の出来事とされている。鳥取の「桂蔵坊」伝説は秋田の「与次郎狐伝説」に影響を受けた可能性もある。


▼与次郎の怨念と御霊信仰・祟り神としての与次郎

他の「飛脚狐」類型説話に見られない、「与次郎稲荷伝説」のきわだった特徴が、殺された与次郎狐による「祟り」を事細かに記述し、とりわけて強調している点。

六田村に「狐憑き」と表現するにふさわしい惨状をもたらした与次郎狐の怨念を鎮(しず)めるため、その御霊(みたま)は六田村に隣接する蟹沢村の八幡宮に祀(まつ)られた。ここは与次郎の終焉の地と伝えられ、近年、境内から与次郎の墓石が発掘されている。

「御霊(ごりょう)信仰」とは、非業の死をとげた者の怨念が、天災や疫病を引き起こしすと信じられていた時代、恐るべき「怨念」を「御霊」として鎮(しず)め、祀(まつり)りあげることで、一転して守護神となるとした信仰。その怨念(霊力)が強ければ強いほど、パワーある守護神に転化するとされた。

佐竹氏が与次郎狐の御霊を城内にかくも手厚く祀(まつ)り、代々の藩主が江戸参勤の折に、山形の与次郎狐を祀る社(やしろ)に参拝・祈念した行為は、「御霊信仰」に基づくものであったすれば、少しは納得がいく。

「与次郎稲荷伝説」が一種の「御霊信仰説話」だとしたら、祟り神としての与次郎狐によ残虐性を強調した場面こそが、物語の最も重要な山場ということになる。肝心なその部分をカットすることは“物語を殺す”行為に他ならない。

関連リンク
御霊信仰 - Wikipedia 祟り神 - Wikipedia


▼足軽の町「登町」与次郎稲荷神社由来

久保田城内北の丸、金乗院の境内に祀(まつ)られていた「与次郎稲荷」を、江戸時代中期に足軽衆が勧請(かんじょう)、北の丸八幡坂下り口の足軽番所内に祀(まつ)る。

勧請(かんじょう)とは、神仏の分霊(わけみたま)を別の場所に請じて祀(まつ)ること。この時点で城内(現・千秋公園)に、二つの「与次郎稲荷」が存在した。

諸藩の大名飛脚は下級武士である足軽衆の中から、特に健脚の者が登用された。飛脚の与次郎狐を足軽衆が守護神として熱心に信仰したのもうなずける。

明治五年、足軽番所内の「与次郎稲荷」は、小人衆との誘致合戦の末、足軽衆の街・楢山登町に移される。

こびと【小人】武家に使われた走り使いの者。江戸時代には職名となる。
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店

登町の地名起源は「幟(のぼり)町」。佐竹氏の旗印が染め抜かれた幟旗(のぼりばた)を支え持つ旗持(旗組)足軽が居住したことに由来する。

与次郎稲荷
「関ケ原合戦絵巻」より 石田三成軍勢・旗持足軽

軍勢を指揮する大将の馬に随行する、戦国時代の旗持足軽。飛脚と同様に健脚と体力を必要とする役職で、江戸時代に入ると参勤交代の大名行列に随行するようになる。

明治五年建造の登町「与次郎稲荷」は現在、八幡秋田神社の所有となっているが、神事は行われていないようで、建物も老朽化が進んでいる。

与次郎稲荷
2008.06 楢山登町 与次郎稲荷神社

与次郎稲荷
2008.06 楢山登町 与次郎稲荷神社

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追記
2013年12月、楢山登町「与次郎稲荷神社」解体され更地に。
 

▼千秋公園本丸・与次郎稲荷神社の由来

嘉永2年(1849)、久保田城内北の丸、金乗院境内の「与次郎稲荷」を保戸野金砂町の金砂山「東清寺」竜聖院(現・金砂神社)に移す。

明治25年、明治維新の廃仏毀釈により廃寺となった「東清寺」から、旧城地(千秋公園)の現在地に移す。

川反二丁目で「本県和洋洗濯元祖 清光堂」の看板を掲げて洗濯屋を営んでいた、「与次郎稲荷」の熱心な信仰者・伊藤吉五郎氏が私財を投じ、篤志家の協力をえて再建。初期は小さなお堂だったが、昭和元年に現在の神社を建立。

与次郎稲荷
2009.05 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

伊藤吉五郎氏は自ら祈祷(きとう)も行ったようで、その孫が日蓮宗総本山身延山久遠寺で法華経の修業をして帰郷、以降、神仏習合の祭祀を行うようになる。

千秋公園の様子を伝える大正三年の『秋田魁新報』に、「与次郎稲荷神社」のことを、

白髪の老翁詰めて居り吉凶禍福(きっきょうかふく)を卜(うらない)居るが就中(なかんづく)縁談の卜(うらない)は最も多しとか

と書いてあるが、この「白髪の老翁」が吉五郎氏であろう。

さかのぼる明治四十五年の『秋田魁新報』読者欄に、

秋田公園「與次郎稲荷」祈祷灸点部員は当村に出張し村内の患者に灸施をなしつゝあるが第一歯痛打ち身疝気小児の寝小便その他諸病に速効あること実に驚き申し候(そうろう)兎角(とかく)灸点部の手術とは申しながら與次郎稲荷神社の霊験に依るものと推考(すいこう)仕候(つかまつりそうろう)

と、「与次郎稲荷神社」の「祈祷灸点部員」による地方出張のことが紹介されている。「秋田公園」とは「千秋公園」のこと。

与次郎稲荷の信者で結成された稲荷講の中から、お灸の心得のある者が、祈祷とお灸を施しながら、「与次郎稲荷神社」のお札などを配り、布教に努めたものだろう。吉五郎氏も同行したのかもしれない。

「稲荷の占い」で思い起こすのは、江戸時代に流行した「稲荷下(さ)げ」のこと。「狐下(さ)げ」とも称したそれは、巫女・修験者などの民間宗教家、いわゆる霊能者が、稲荷神の使わしめである狐を我が身に降ろし、託宣(たくせん)や占い、祈祷などを行なっていた。

たくせん【託宣】 神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣
広辞苑 第六版 (C)2008  株式会社岩波書店

ちなみに「勝手な言い分をくどくどと、気ままに言いたてる」ことをいう「御託(ごたく)を並べる」の「御託」は、「御託宣」の略語。

その内容はさておき、吉五郎氏の活躍した明治・大正期は、庶民信仰としての与次郎稲荷信仰が最も活性化した時代と言えよう。

現在も伊藤家が「与次郎稲荷神社」を守っているが、神事・祭事については隣接する「八幡秋田神社」の宮司が担当している。

与次郎稲荷
2004.01 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社
 

▼神道系、仏教系・二種類の稲荷神社

稲荷神社の狐は神の眷属(けんぞく)、いわば「神霊と人を結ぶ神の使い」。稲荷信仰には神道系と仏教系があり、祀(まつ)られる主祭神が全く異なる。

神道系稲荷の主祭神は、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)に代表される、五穀・稲作を司る食物の神。同じ食物神である豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)保食神(うけもちのかみ)なども稲荷神として祀(まつ)られる。京都の「伏見稲荷大社」が、日本全国の神道系稲荷神社の総本社。

一方の仏教系稲荷の御本尊は、インド伝来の荼枳尼天(だきにてん)。死者の心臓や肝を喰う鬼女神として恐れられたが、大日如来が化身した大黒天によって善神になったとされる。日本に入ってから狐を介して稲荷信仰と習合し、「剣と宝珠を手に、または稲穂の束を担いだ天女が白狐にまたがる」神像で表現されるようになった。仏教系稲荷で名高いのは愛知県の「豊川稲荷」(曹洞宗)、岡山県の「最上稲荷」(日蓮宗)。

関連リンク
(10)狐信仰とそのイコノグラフィー - 山田維史の遊卵画廊
稲荷神 - Wikipedia
伏見稲荷大社
豊川稲荷公式ホームページ
最上稲荷山妙教寺
荼枳尼天と稲荷―古寺散策

▼附録「与次郎稲荷」きつね尽し

与次郎稲荷
与次郎稲荷願文

「与次郎稲荷伝説」をもとに幕末の頃に創作されたものか、与次郎狐が殿様へ居住地を所望して提出した嘆願書とされるもの。与次郎の名が与えられる前であるため署名は「玉」。

右肩に「乍惮奉願上候私事数百年来当地住居罷在候所此度御城地御取立に付住居地所無之候何卒御慈悲以住居地拝領披仰付披下度奉存候 八月八日 玉」と解読文が添えられている。願文を印刷・軸装したものを伊藤吉五郎氏が発行、信者に頒布した。

秋田藩士・石井忠行(1818-1894)が明治時代に著作した『伊頭園茶話』に、「古くより金砂東清寺所持を長山盛晃(伝左衛門)写をもて、小野崎通亮写したるをかりてここに写。」として、この願書の模写が掲載されている。その模写の写真は文章も書体も同じだが、行数が多い書状形式であることから察するに、上掲画像の願文は吉五郎氏が発行する際、軸装用に編集したものと思われる。

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

大正十五年、川反五丁目の劇場「演芸座」にて、「与次郎稲荷伝説」を題材にした狂言「怪異劇・秋田巷談・与次郎稲荷」を上演。 主演の市川紅三郎は黎明期の活動写真でも活躍した革新歌舞伎役者。「与次郎稲荷神社」稲荷講が後援し、幕間には客席に紅白の餅が撒かれた。

 與次郎稲荷  今晩から演芸座

演芸座に開演中の革新歌舞伎市川紅三郎一座は時節柄木戸も大勉強で初日来大入りつゞきで賑わって居るが本日替わり狂言はその初日より観客に期待された怪異劇秋田巷談「與次郎稲荷」を上演するとあるが夕五時開幕本日序幕は太守佐竹義宣公より白狐が城内に住むを許されるくだりより佐竹騒動に入り江戸表まで往復六日の與次郎稲荷狐の有名な飛脚まで上場で狂言は毎晩つゞきで当日は俳優一同千秋公園の與次郎稲荷に参詣して大車輪で演ずる由なるが與次郎狐は市川紅三郎が力演でなお当狂言中は講中の後援あり毎夜紅白の餅撒きなどある由で珍しい狂言なれば評判であろう
大正十五年四月『秋田魁新報』

与次郎稲荷
 昭和七年にも、「与次郎稲荷伝説」を題材にした狂言が、秋田市亀之丁西土手町(現・有楽町通り)の「演舞場」に於いて上演されている。

与次郎稲荷
2009.11 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

「与次郎稲荷神社」境内で最も古い狐の石像。万延二年(1861)に保戸野の「東清寺」境内に奉納されたものを現地に移したもので、当初は小さなお堂の前に、この一対の狐が鎮座していた。

耳や口が損傷し、セメントで補修している。「東清寺」は神仏習合の寺院で、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となった。その時、境内の地蔵とともに打ち壊されたものだろう。

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

与次郎稲荷
2008.11 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

与次郎稲荷
与次郎稲荷・土人形

秋田市内の旧士族の家の神棚に祀(まつ)られていた「向かい狐」。すすけてずいぶん古く見えるが、明治から大正期の作か。

前掲の「与次郎稲荷伝説」にある、飛脚の与次郎の袢纏に印された佐竹家の替紋(かえもん)「花散里」が描かれていることから、「与次郎稲荷神社」が頒布したものに違いない。

与次郎稲荷
2011.06 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

与次郎稲荷
2011.08 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

宝珠をくわえる狐。首に巻いた手拭いは、竿燈の差し手が鉢巻にする豆絞り。与次郎稲荷を町紋とする鉄砲町竿燈会では、竿燈の初日、「与次郎稲荷神社」に参拝するのが恒例となっている。

与次郎稲荷
与次郎稲荷御影

「与次郎稲荷神社」が信者に頒布した御影(ごえい)。紋付きの御状箱をくわえて雲に乗る与次郎狐の優しい顔は、エリアなかいちのキャラとは対照的。

秋田市鉄砲町生まれの版画家・勝平得之は、この御影を参考に鉄砲町の町紋をデザイン。鉄砲町と与次郎稲荷に直接的な関係は無いようだ。

与次郎稲荷 与次郎稲荷

与次郎稲荷
2012.07 2012与次郎駅伝

与次郎稲荷
2012.09 秋田市広小路東電前

与次郎稲荷
2012.10 エリアなかいち

与次郎稲荷
2013.05 エリアなかいち

平成25年(2013)4月、秋田市文化団体連盟から寄贈された、イラストと同様に目つきが怖い与次郎石像。

設置して間もなく、樹脂製のヒゲがへし折られる被害が四件ほど相次ぎ、最終的に画像のような、みすぼらしいゴム製のヒゲが新調された。

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穴門の堀に龍神を観た・広小路「蛇柳」跡ポケットパーク

広小路「木内」向かいにポケットパーク誕生


2004.04 旧瀧不動産・旧マルキン本店(消失物件)

平成十九年(2007)に更地となったあと、しばらくは不動産屋の看板が立っていた、秋田市広小路「木内」向かい、旧「瀧不動産」および旧「マルキン本店」跡地で、昨年春から始まったポケットパーク造成が、平成二十四年(2012)春に竣工した。


完成予想図

イラストでは人物の比率が小さく描かれているため、実際よりもずいぶん広く見える。北側水上に係留した移動式デッキは、最近まで広小路・キャッスルホテル向いのお堀に係留されていたもの。オープン以降、デッキはイベント時における、カヌーおよびボート乗り場として利用されている。


2011.08

広小路側に千秋公園方向を眺望する芝生の斜面を配置。平成二十三年(2011)九月、植栽した茨城県産の芝生から、県の通常レベルを超える放射線が検出されていたことが公表され、同年十月初旬、汚染芝生を除去。

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2011.10 汚染芝生除去作業


2011.09


2012.05


2012.04


2012.04


2012.05

「芝生の外野席」めいた傾斜を観客席にして、小規模なアコースティック・コンサートをやるのも面白い。ただし、人家に隣接しているため大きな音は出せず、車道に近く日中は騒音が気になる。


▼蛇柳の伝説

以前に書いたように、かつてこの地に、「蛇柳」(じゃやなぎ)と称する柳の名木が存在した。


勝平得之『蛇柳夜景』昭和十年発表

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堀端の「蛇柳」にまつわる伝説はさまざま。
  • 久保田城の築城のみぎり、初代藩主・佐竹義宣公が萬代までの形見(記念)として植樹。
  • 久保田城築城のとき、築城師が差し込んだ杖が柳になった。
  • 築城に際して人柱を立て、その供養のために柳を植樹。
  • 築城に使役した者を城内の秘密が他藩に漏れることを恐れて殺害、この地に死体を埋め柳を植樹。
  • 旧藩時代、柳を切り払った人夫が、柳の霊の祟りで急病にかかった。その柳の霊は大蛇でお堀の主という。
明治期にまとめられた『羽陰温故誌』「蛇柳神社」の項によれば、
・・・広小路の堀端に妖しい小祠(しょうし)があり、祭神は不詳。祈願する者は編笠と七種類の菓子を供えるという。子供の夜泣きにこの笠を借りてきて、頭にかぶせると必ず霊験があり、そのため編笠と穴明き石が多く納められている。・・・
明治末から大正初期、同地はベンチや八重桜を配した小公園となる。
市内広小路の城濠(俗称穴門)の角に蛇柳(ぢゃやなぎ)と称するローマンスに活(い)きたる名木あり幹枝反曲(かんしはんきょく)して濠中に延び根本に濠(ほり)の主と云う大蛇を祀(まつ)れる石の小祠あり其の辺りの小溝を画して児女の戯遊さるべき空地にベンチを設けなどし更に近年は誰が風雅の士の手すさびにや枝も見事なる八重桜を植えつけ一層付近の風致を増し道行く人の足を停(とど)め春の花の晨(あした)秋の月の夕(ゆうべ)今日此頃の納涼などには近くして好適な場所たりし‥‥後略‥‥
大正三年『秋田魁新報』より
『羽陰温故誌』で「祭神不詳」とされ、奉納品を納めるほどのスペースがあった祠(ほこら)は、記事が書かれた大正三年の時点ですでに無く、その代わりに「濠の主と云う大蛇を祀れる石の小祠」が祀(まつ)られている。その石祠のそばに「大柳・熊柳」の文字が刻まれた石碑が存在したとの昭和初期の記録もある。

大正三年、同地に「佐々木靴店」開業、広小路側からは靴屋の建物にさえぎられて「蛇柳」の上部しか見ることができなくなる。


秋田市広小路・大正六年頃の絵葉書(人工着色印刷)

右手に見える白壁の土蔵建築が「木内商店」。



広小路名物「疋田家の三本松」の後ろに「風間洋服店」、そして掘端通りを隔てた堀端に「佐々木靴店」。建物の裏手に見える緑が「蛇柳」か。「佐々木靴店」より東側はまだ埋め立てられていない。

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大正三年の新聞記事にみえる、「蛇柳」の根本に存在した石の祠(ほこら)とおぼしき物は、終戦後、古川堀反(ふるかわほりばた)町の堀端の埋め立て地に創建された「雄柳大龍王尊神社」に蛇柳神社の遺物として遷(うつ)される。

「蛇柳」の御神体はこの時点で大蛇から龍神へと昇格したわけだが、龍神の原型は「水神としての蛇」であるから不自然なことではない。「雄柳大龍王尊」の名は、法華経に登場する「八大龍王」にあやかったものだろう。実際、「雄柳大龍王尊神社」では法華経に基づく神仏習合の祭事が執り行われていた。

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雄柳大龍王尊神社・蛇柳の石祠

大正三年の新聞記事に記載された「濠の主と云う大蛇を祀れる石の小祠」とおぼしき物件。これは「蛇柳神社」にまつわる遺物に違いないが、上部に「三つ星に一文字」の渡辺紋があることから、元々は旧家の屋敷神を祀(まつ)る祠(ほこら)であったものを、「蛇柳」の地に移して再利用したものと思われる。そのなかに納められた騎龍観音(きりゅうかんのん)の絵は印刷物で古いものではない。


2007.06 広小路より古川堀端町通り「雄柳大龍王尊神社」を望む

古川堀端町通りの「雄柳大龍王尊神社」は諸事情により維持困難となり、平成十九年(2007)六月、千秋公園本丸「八幡秋田神社」に御神体を遷(うつ)し、まもなく社殿は解体。水辺の龍神(水神)はお堀(水)から離れて、本来の存在意義を薄める。


2010.09 「八幡秋田神社」内「雄柳龍神」


2012.05

「蛇柳」跡ポケットパークに植樹された樹木は柳ではなく桜(染井吉野)。

「蛇柳」が存在した往時の小公園が、時を経てポケットパークとして再生されたこの機会に、自分が担当者ならば、伝説を偲ぶよすがとして柳を植え、藩政期からこの地に刻まれた歴史を今にとどめたい。勝平得之の版画『蛇柳夜景』を解説付きパネルにして掲示するのも良いが、そこまでするのは野暮な気もする。


大きな地図で見る
「蛇柳」跡・ポケットパーク


▼蛇柳の起源と柳の霊力

湿潤を好み、深く根を張る性質を生かし、柳木は水害をふさぐ自然護岸として利用されてきた。秋田市の中心地を流れる旭川の運河部分、川反に面した一帯にも護岸を目的とした柳を植樹。旭川の川岸に風情を添えた柳は花柳街・川反のシンボルとなる。


川反柳・川反四丁目橋から三丁目橋を望む 大正後期

「蛇柳」(じゃやなぎ)という名称の起源は和歌山の高野山にある。『紀伊国名所図会』によれば、「その昔、悪さをなす大蛇を弘法大師空海が法術をもって退治。その体から柳の木を生じ、臥した蛇体を連想させる形姿から「蛇柳」と名付けられた」。


『紀伊国名所図会』(天保九年発行)三編 六之巻「高野山之部」より「蛇柳の図」

もうひとつの伝承は、「高野山の寺に一人の僧あり、陰謀をめぐらし寺主の地位を奪い取ろうとしていたことが発覚して捕らえられる。その行為に対する見せしめのため、僧を生き埋めの刑に処しにしたうえに柳の木を植え「蛇柳」と名付けた」というもので、この伝説を元に、歌舞伎『蛇柳」が創作された。

関連リンク
歌舞伎『蛇柳』 - Wikipedia


歌舞伎十八番『蛇柳』 作・香蝶楼豊国 出版・嘉永五年

高野山における「生き埋め処刑」、久保田城の「人柱(生き埋め)と殺害」、ほかに「柳の下に幽霊」の例もあるように、柳には陰気な伝説がつきまとう。しかし、柳自体は「陰木」ではなく、縁起の良い「陽木」とされてきた。
「柳」の字を分解すると「木」と「卯」。方位学(風水)で「卯・う」は「日いづる真東」に位置し「春・物事の始まり」を表す。春一番に勢いよく芽吹く生命力あふれる姿から、柳は長寿・繁栄の象徴。

正月の三が日に使う「祝い箸」は柳の木を削った「柳箸」。白木の「柳箸」は清浄にして、しなり強く、邪気を祓(はら)い長寿をもたらすとされる。

古代中国では、親しい人の旅立ちのおりに、柳を手折ってはなむけとした。

中国北魏(386−534)の農書『齊民要術』にいわく「正月旦、取楊柳枝著戸上、百鬼不入家」(正月の朝、楊柳の枝を戸口に挿しておけば、百鬼が家に入らない)。

陰陽道では柳木を植えて鬼門除けにした。
つまり、邪気・陰気の強い場所に「陽木」である柳を植えることで、邪気を祓(はら)い、陰気を中和して場のバランスを図ろうとしたわけだろう。久保田藩の処刑地、八橋村の「草生津刑場」にも柳の古木があった。


▼佐竹氏の町割・旭川仁別川)堀替え・「穴門堀」変遷

秋田市広小路「蛇柳」跡に造成されたポケットパークは、旭川(仁別川)旧河川ライン上に位置する。詳細は下記リンク先に。

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ピンクラインが旭川の旧河川(想像図)

秋田へ移封された佐竹義宣は城下の町割りのため、旧河川を埋め立て、その西側に運河を堀替えて内町(うちまち・武家屋敷)と外町(とまち・商工業地帯)を区画し、旧河川の一部をお堀として活用。そのうち現存するのが「穴門の堀」の一部であり、旧河川の名残「穴門の堀」沿いに南北に延びる、高禄の家臣が住んだ武家町が「古川堀反(ふるかわほりばた)町」(古い川の堀端の町)、そして「蛇柳」の別名は「穴門の柳」。


千秋公園より「古川堀反町」および「穴門の堀」を望む(明治四十年代)



旧河川を利用して造築された「穴門の堀」を横切る土橋「穴門橋」以北(画像下手)の、鷹匠町へと連なるお堀は、大正から昭和にかけて埋め立てられた。

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2012.05「蛇柳」跡ポケットパークより穴門を望む


蛇柳ヨリ穴門ヲ望ム 画・広瀬柴波
『千秋園風景-秋田県公園-』(明治三十六年刊)より

右上方に千秋公園の木造鐘楼(昭和四十八年、鉄筋コンクリートに改築)。「穴門の堀」の突き当たりは土橋の穴門橋、その北側にもお堀が水をたたえ、水上に鷹匠町方向へ通じる木橋が描かれている。

穴門橋北側の埋め立てられた道路沿いに、大正末の頃から飲食店が建ちはじめ、その後、穴門橋南側も同様に埋め立てられ、昭和三十年前後から徐々に飲食店などが建ちはじめる。


古川堀反町より久保田城を望む・明治初期

穴門堀にかかる木造時代の穴門橋、右上の建物は御出し書院。左端に小さく御隅櫓が見える。


久保田城郭ジオラマ「穴門堀」旧河川部分

手前に今はポケットパークとなった「蛇柳」跡、上手に穴門橋。穴門橋を城内(東)に向かうと、今の和洋女子高前に城門「穴門」があり、見張り番が常駐していた。

明治二十四年、穴門橋(木橋)を撤去、その下を埋め立てて土橋とする。


2012.05 「穴門橋」跡より城門「穴門」跡を望む


城門「穴門」跡より「穴門橋」跡を望む


▼蛇柳の別名「穴門の柳」

江戸時代後期の紀行家・菅江真澄は文化十二年(1815)の紀行文『久保田の落穂』に「蛇柳」のことを「穴門の大柳」と記している。

千秋公園の「内堀」に柳の大木があり、近年その根元に「穴門の柳」と記された解説文の無い標柱が建てられのだが、千秋公園の造園が始まった明治二十九年以降に植樹されたと思われるこの柳は、「蛇柳」(穴門の柳)のような来歴があるものでなく、どのような根拠をもってこれを「穴門の柳」としたのか解せない。


2012.05

文化財愛護シンボルマークが付けられたこの標柱が『久保田の落穂』に記された「穴門の大柳」を指すのであれば、「穴門の柳跡」と書き替えて、本当の「穴門の柳」が存在した「蛇柳」跡ポケットパークに移すべきだ。


2012.05

右手に「穴門の柳」の標柱がある柳。左手に県民会館。


秋田県公会堂

明治四十五年頃の同地点。内堀の堀端に連ねて植えらた柳も、今は一本を残すのみ。県民会館の高台にあった「秋田県公会堂」についての詳細は下記リンク先を参照のこと。

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▼蛇柳龍神の風水学的考察

ユーラシア大陸を流れるアムール川・中国名「黒竜江」。日本の「九頭竜川」「天竜川」「蛇尾川」(さびがわ)「蛇喰川」(じゃばみがわ)など、地表をうねりながら流れる河川には「竜」や「蛇」に例えた河川名が散見する。

日本神話のヤマタノオロチの正体は「斐伊川」(ひいかわ)であり、スサノオによるオロチ退治とは「氾濫を繰り返す斐伊川の治水」を意味するとの解釈もある。

とうとうと流れる河川は大地に恵みをもたらし、ときに激しく氾濫し水害をもたらす。その両面性は「慈愛と破壊」という「龍神」の両義性に相通ずる。

河川の流れを風水では「水龍」と称し、「水龍」=「気の流れ」の変化は、都市の吉凶に少なからぬ影響を及ぼすと信じられていた。

秋田の「蛇柳」にまつわる「お堀の主・大蛇」=「龍神」とは、風水でいうところの「水龍」=「旧河川の水流」のことであり、旧河川・水龍ラインの南端に位置する、埋立地への柳の植樹には、埋立てにより分断され動きを封じられた「龍神の鎮魂」=「変質した気(水龍)の流れを整える」という風水学的な意味合いもあったのではないか・・・、などと妄想を巡らせてみると、上掲図の旧河川ラインが蛇行する蛇体・龍体に見えてきた。

そして、旧河川・水龍ラインの真上にあたる「穴門の堀」の堀端に存在し、数年前に惜しまれて閉店した中華料理店「萬帝楼」の壁面に、奇しくも龍神が居たのだ。


「萬帝楼」2009年解体

中華料理店の装飾に龍は定番。しかし、こんなにも大きく描かれた龍は珍しい。偶然といってしまえばそれまでだが、その壁画は「地霊」がささやく「土地の記憶」を、施主が無意識のうちに感受した結果の産物だったのかもしれない。


2012.08 千秋公園より「蛇柳」跡ポケットパーク


秋田市広小路「木内」付近・大正6年(1917)頃


2012.12 秋田市広小路「木内」付近

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地球への置き土産・黄金の龍神雲



2012年辰年の元旦、 Twitter から発信された一枚の画像。

躍動し黄金に輝く龍体を思わせる画像は話題を呼び、たちまちネット上に拡散されたが、実はこれ、2010年4月、フロリダで撮影されたもの。俗に言う地震雲とも形状が違う。

Tweet 元の本人は画像の出所を知っていて、軽い気持ちでネタとして投稿したが、あまりの反響の大きさに、いまさらネタでしたとは言えず、そのまま放置したらしい。さすがに「バカ発見器」と揶揄される Twitter。釣るほうも釣られるほうもバカだらけ。


by Dan Gore

2010年4月5日、午前6時21分(米国東部夏時間)、 NASA ケネディ宇宙センターから、国際宇宙ステーション組み立てを任務とする STS-131(スペースシャトル・ディスカバリー)打ち上げ。日本から山崎直子宇宙飛行士がミッションスペシャリストとして搭乗した。

スペースシャトルシャトルの軌跡にできた雲は、時間の経過とともに形を変え光を放ち、やがて朝焼けの空に龍体の如き姿を現す。




by Doug Shytle

自らの尾を咥えるウロボロスを思わせる雲。


Dragon Cloud: STS-131 Space Shuttle Discovery water vapor trail

薄明の時刻にスペースシャトルシャトルを打ち上げたとき、空に夜光雲といわれる現象が発生することは以前から報告があったが、これほど見事な雲は珍しく、現地では「空にドラゴンが現れた」と話題になった。

龍雲は吉兆の徴(しるし)とされるが、これはスペースシャトルという現代科学のたまものが生んだ、地球への置き土産といえよう。

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Twitter / @Hondada: さっきの地震の後の地震雲。龍ですねヽ(;´Д`ヽ)( ...

探偵ファイル~速報・ニュースウォッチ~/ツイッターで大反響、龍のような地震雲はデマ!その証拠/高橋

STS-131(スペースシャトル)が残した夜光雲
NOCTILUCENT CLOUDS
Shuttle Plume
Space Shuttle Discovery - STS 131
Launch of the Space Shuttle Discovery
STS 131

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