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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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旧秋田貯蓄銀行本店解体・昭和レトロ建築

秋田銀行秋田支店
「秋田銀行秋田支店」秋田市大町五丁目(旧・本町五丁目) 2005.11

昨年(2015)末から始まった「秋田銀行秋田支店」の解体が大詰めを迎えている。

築80年、昭和初期に建てられた、近世復興式(ルネサンス様式)の銀行は、旧本町通りを象徴する近代建築であった。

秋田銀行秋田支店
2007.03

秋田市本町五丁目に、大正10(1921)年11月開業した「秋田貯蓄銀行」が、耐震耐火構造の新本店を建てたのは、昭和9(1934)年12月。

昭和18(1943)年「秋田貯蓄銀行」解散。その後、建物は「秋田銀行本町支店」となるが、終戦後わけあって「秋田銀行秋田支店」と名を変える。そのいきさつは以下関連記事に。

秋田銀行秋田支店
2007.03

秋田銀行秋田支店
小庭園 2007.03

秋田銀行秋田支店
2015.03

秋田銀行秋田支店
2015.03

秋田銀行秋田支店
2012.09

秋田銀行秋田支店
2015.01

建物の老朽化を理由に、平成26(2014)年7月18日をもって「秋田銀行秋田支店」は営業を終了、「秋田銀行大町支店」に統合された。

秋田銀行秋田支店
花崗石を貼付加工した腰廻の残骸 2016.01

羽州街道に沿う、大町通り・本町通りは藩政時代から商業の中心地だったが、明治末以降、銀行・証券会社・保険会社が集中する金融街の様相が強くなる。

1980年代初頭の住宅地図から、大町通り・旧本町通りで営業する関連会社をあげると

▼大町二丁目
「日本銀行秋田支店」「千代田生命」

▼大町三丁目
「青森みちのく銀行秋田支店」「秋田信用金庫本店」「野村證券」「安田火災海上」

▼大町四丁目(旧・本町四丁目)
「秋田郵便局」「山形相互銀行秋田支店」「荘内銀行秋田支店」「大和証券」「日興証券」「大和生命」

▼大町五丁目 (旧・本町五丁目)
「羽後銀行秋田支店」(のちに北都銀行秋田支店)「秋田銀行秋田支店」「朝日生命」「日動火災海上」「日新火災海上」

これ以前、「秋田銀行本店(現・赤れんが館)」「三和銀行秋田支店」(大町三丁目)「日本勧業銀行秋田支店」(大町二丁目)などもあった。

昨年(2015)には「秋田銀行秋田支店」のほかに、協働ビル一階「みちのく銀行秋田支店」が1月に廃止。

平成28(2016)年1月現在、同地に残ったのは「日本銀行秋田支店」「秋田信用金庫本店」「荘内銀行秋田支店」の三行のみ。 


秋田銀行秋田支店跡

 

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「お菓子のくらたビル」に「竹半スポーツ」移転

お菓子のくらた・竹半スポーツ
2015.01

2014年2月に閉店した「お菓子のくらた」ビルに、サンパティオ大町の「竹半スポーツ」本店が規模を縮小して移転、オープンは1月15日の予定。

※2018.07追記
同店は2018年5月中旬に閉店。同年8月アトリオン地下一階に転移しリニューアルオープンとのこと。

竹半スポーツ
サンパティオ大町・竹半スポーツ 2015.01

サンパティオ大町
サンパティオ大町 2008.05

左手に施設内最大面積の「竹半スポーツ」。

1997年3月、「秋田魁新報社」跡地に「サンパティオ大町」オープン。運営する「秋田パティオ協同組合」の初代理事長は、当時「竹半スポーツ」代表取締役であった竹屋直太郎氏。氏はこの地の再開発に心血を注いでいただけに、撤退するとは思ってもみなかった。

お菓子のくらた
婦人会館・日赤跡地 2003.07

1970(昭和45)年4月、湯沢市の老舗菓子店「くらた」が仲小路に秋田店を開設。

1977(昭和52)年10月、改築オープン。
一階・菓子店舗、二階・パーラー、三階・洋菓子工場、四階・パン工場、五階・社員寮。

新たにパン・デニッシュ・ドーナツの製造販売を初め、二階にパーラーを新設。

北・西方向に大きく開いたガラス張りのパーラーは、焼きたてのパン類、抹茶・玉露に和菓子のセットやランチも提供し、主に女性客でにぎわっていた。

お菓子のくらた

90年代初頭

1998年、秋田赤十字病院が秋田市上北手に移転。以降、売上げが激減、パーラーも一時閉鎖。隣に明徳館ビルがオープンした機会に再開するが長続きせず。

お菓子のくらた
2005.03

店舗前の電話ボックスは最近撤去された。

2012年7月、婦人会館・日赤跡地に「エリアなかいち」がオープンするも、期待した売上げは微増にとどまり、開店から約44年、2014年2月に閉店する。

現在(2015.01)お菓子の「くらた」は、県内で11店舗を経営、その内、秋田市内に4店舗がある。

エリアなかいち
エリアなかいちより 2012.07

お菓子のくらた
エリアなかいちより仲小路を望む 2012.10

 


お菓子のくらたビル

お菓子のくらた

 

 

 

 

竹半スポーツ

 

 

 

 

サン・パティオ

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川反三丁目橋今昔・悪名高き昭和の太鼓橋

▼大正時代の川反三丁目橋・夏の情景

川反三丁目橋
川反三丁目橋・絵葉書より

秋田市内を流れる旭川に架かる三丁目橋をローアングルで撮影。橋の向こうに、土留めと柳が特徴的な川反(かわばた)四丁目の屋並が連なる。

川反四丁目は芸者置屋と料理屋が集中した川反の中心地だが、それ以前の川反は片側町で、旭川側は「浜」と呼ばれた藪まじりの河原のなかに、水汲み場・馬洗い場・ゴミ捨て場・荷揚場・米蔵・作業小屋などが点在していた。

明治19年の大火・俵屋火事以降、下米町にあった花街のうち、芸者屋と料理屋は川反三・四丁目に、遊郭は南鉄砲町、俗にいう常盤(ときわ)町に移った。

人徳の商家・那波家
俵屋火事のこと

川反三丁目橋

橋の下では、土手長町の土手を背景に人力車を洗う車夫。

三丁目橋下は「馬の洗い場・冷やし場」として知られ、明治から大正にかけて秋田・本荘間を往復した乗合馬車で働いた馬の、火照った体を冷やし、洗う光景がよく見られたという。馬車会社は近くの茶町扇ノ丁に集中していた。

川反三丁目橋

大きなザルを手に雑魚を狙う子ども。

川反三丁目橋

川反の川端に階段状に形成した丸太の土留めと、水辺に深く根を張り護岸の役割をする柳を背景に、洗い物をする婦人と、カメラに目を向ける二人の子ども。その奥に家から川に下りる自家用の階段。

明治末に水道が通じるまで、旭川を流れる水が大町・川反界隈の生活用水および飲料水として使われていたが、右手に見える建物の間から下りる坂が、川端の各町内にあった共同水汲み場の名残と思われる。馬や人力車もこの坂を通ってきたものだろう。

共用栓のある風景・大町三丁目通り
旭川の水汲みと水道共用栓のこと

 

 

 

ケヤキ並木のレストラン・那波家水汲み場
 

▼悪名高き昭和の三丁目橋・擬宝珠のある白橋

川反三丁目橋
川反三丁目橋・昭和30年頃

木橋を渡った右手に、うなぎの「横田屋」(昭和25年開業)左の清酒看板のある店が「丸彦酒屋」(大正3年創業)直進するとすずらん通り。 

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

秋田国体秋季大会を直前にした昭和36(1961)年9月、木製の三丁目橋をコンクリート永久橋に架け替える工事が完了。白い欄干に擬宝珠(きぼし)を配したクラシカルなデザインの新橋が開通するが、これが秋田の土木史に特記されるほどの、まれにみる欠陥物件であった。市民にとっては悪い意味で忘れがたい橋。

川反三丁目橋
土手長町通り取付け道路
秋田県広報誌『あきた』平成2(1990)年5月号より 

コンクリートで架け替えられた三丁目橋は道路よりも高く(土手長町通り側で1メートル、川反側で60センチの落差)取付け道路が急勾配になったため、積雪期はスリップによる追突事故が多発、凍結した歩道で転倒する歩行者が続出。利用者のことを考慮しない設計に批判が集まり、その形状から“太鼓橋”と揶揄された。

橋のたもとの飲食店「横田屋」の旭川に面する窓側の席は、橋を渡る人から見下ろされるようになり、食事する姿が丸見えに。その向かいの「丸彦酒屋」では坂道対策として、配送用にいちはやく4WD車を導入。

昭和52(1977)年12月、取付け道路に電線式ロードヒーティングを設置。しかし、路面がスパイクタイヤやチェーンで削られ、やがて電熱線が断線して使い物にならなくなるため焼け石に水。毎年電熱線の埋め変え工事を繰り返す。

欠陥橋が生まれた要因は洪水対策。架け替え前の木橋は隣接する橋よりも50センチほど低く、河川改修前は洪水のたびに浸水していため、隣接する橋と高さを揃え、さらにその上に約1メートルの厚さがある、旧工法の橋げたを載せた結果、このような欠陥物件が出来上がった。当時の技術でも薄くて強度が高い橋げたが可能であったにもかかわらず。

川反三丁目橋
三丁目橋開通式・秋田県広報誌『あきた』平成2(1990)年5月号より

欠陥橋の開通から約30年後、平成2(1990)年3月29日、新しい三丁目橋開通。長いあいだ市民を悩ませた、急勾配がようやく解消された。

中央部両側にすずらん灯を配したバルコニーを設置、川反側の欄干に時計塔を載せた、モダンデなザインの新三丁目橋には、連結する「すずらん通り」にちなんで「すずらん橋」の愛称が与えられた。

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

そしてもう一度、今(2014)から約100年前の川反三丁目橋界隈の情景を…

川反三丁目橋

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2004.03

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.10

 

「すずらん通り」にともる灯は
すずらん通りの今昔

 

 

 

四丁目橋に夜のとばりが落ちる頃
橋のたもとのモダン建築

 

 

 

長町通り「勧工場」
三丁目橋と二丁目橋のあいだにあった名店街

 

 

 

光と闇を結ぶ「通町橋」

 

 

 

 

幻の仁別川の流れを辿る
仁別川=旭川

 

 

 

砂利船のある情景・秋田市旭川

 

 

 

 

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薄型店舗「プラタビル」山王大通り 1970

昭和45年(1970)秋田市大町二丁目「日銀秋田支店」南側、山王大通りに沿った長方形の土地に「プラタビル」竣工。

奥行き2メートルに満たないほどの超薄型ビルであった。

プラタビル
昭和45年11月 新聞広告

まだ二丁目小路(現・山王大通り)の拡幅工事は終わらず、「山王大通り」と命名される前のため「秋田市中央大通りに…」となっている。

近くの秋田市茶町に創業した老舗「三傳商事」が、ナショナル家電を販売する「三傳バザール」を一階に開業。二階は喫茶店「コーヒー・プラタ」。西隣の角地にバイク販売店「モトショップ・ヒラタ(平田自動車販売)」 。向かいには倒産した「山一証券秋田支店」があった。

ちなみに、当時の20形カラーテレビの定価は15万~18万円ほど。公務員の初任給が3万6千円ほどの時代だから、かなりの高額商品である。

関連記事
二〇世紀ひみつ基地 茶町の老舗・三傳

関連リンク
moto works HIRATA 平田自動車販売株式会社

喫茶プラタ
昭和46年 新聞広告

あまりにも狭すぎたこともあってか「三傳バザール」は数年で閉店。その後、一階に名刺・同人誌印刷などを業務とする「プリントショップ・オオガタ」(能代市「大潟印刷」出店)と雀荘が入居。

プリントショップが撤退した跡に、同じ並びの西側から「靴の病院フジイ」が移転する。

 山王大通り
2013.06「プラタビル」跡

昭和43年(1968)激増する交通量に対応するため、二丁目橋から山王十字路間の拡幅工事が始まる。

幅12メートルの二丁目小路(現・山王大通り)北側の土地・建物を買収し、車道幅36メートルに拡幅、四ヶ所(現在は三カ所)に地下道を付設した。

拡幅工事により「日銀秋田支店」横から「當福寺」前まで生じた半端な土地に、薄型の建物が建ちならぶ。

最も奥行きが浅かったと思われる「プラタビル」や、その西隣の「モトショップ・ヒラタ(平田自動車販売)」のように、すでに空き地となった場所もあるが、下掲画像のように、今も数棟の薄型建造物が残っている。

山王大通り
2012.06

「プラタビル」から移転した「靴の病院フジイ」。

山王大通り
2012.06

「靴の病院フジイ」の西隣、「ハンドメイドジュエリー LUCE」。かつては一階にブティック、二階にスナックが入っていた。

関連リンク
LUCE(ルーチェ)


大きな地図で見る
「プラタビル」跡

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