二〇世紀ひみつ基地

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広告で見る「大島商会」店舗の変遷

「旧大島商会店舗」移築保存決定記念号

大島商会
▲旧大島商会店舗 2010.08

五丁目橋から横町通りを通過し新国道に抜ける都市計画道路・川尻広面線の道路拡幅工事の進展にともない、解体の危機にさらされていた、秋田市大町六丁目の旧「大島商会」店舗が、所有者である菓子舗「高砂堂」の塚本家から秋田市に寄贈され、移築保存されることが決まった。 

秋田市下肴町に明治34(1901)年竣工の同店舗は、市内に現存する煉瓦造りの建造物としては最古とされ、平成12(2000)年、国登録有形文化財に指定される。

当初は商業施設としての活用を念頭に売却先を探していた。店舗としては非常に魅力的な物件であり、たとえばカフェなどの出店を計画する飲食業者や、賃貸を目的とした不動産屋が、移転用地を確保して購入できたとしても、専門業者による解体・復元に要する費用は莫大なものとなるため二の足を踏み、なかなか話がまとまらなかった。

移転先の候補にあげられているのが、大町一丁目「秋田魁新報社」跡地の一角で、「サンパティオ大町」に隣接する、現在は市有地となっている部分。間近には復元された明治期建築の呉服店「旧金子家住宅」、そして同じ通りの大町三丁目に「赤れんが館」(旧秋田銀行本店) と、すでに2件の有形文化財がある、移転候補地としては最適なロケーション。

現在、花屋「花京都」が入居しいてる、旧「大島商会」店舗の、かつてのテナントをあげると、70年代は焼肉「平壌園」80年代に入って居酒屋「南蛮亭」そのあとに食事&喫茶「ボデゴン」と続いた。時代をさかのぼって昭和20年代、建物の所有者である「高砂堂」が短期間、喫茶店を経営していたこともあるとのこと。

▼広告で見る「大島商会」店舗の変遷・明治から大正まで

大島商会
▲明治35(1902)年 新聞広告

上掲画像は『秋田魁新報』に掲載された「大島商会」開業時の広告。開業日は明治35(1902)年5月29日(木曜日)。

前にも書いたように、当初は委託品を販売する委託商として営業を開始。広告文には開業当日に用意した委託商品として次の品目をあげている。

◎目下委託せられ開業当日よりの販売品は左の如し
◎各地産漆器◎秋田産精製漆◎秋田八丈◎地織縞木綿◎亀田ぜんまい織

汁椀・重箱・菓子器などの漆器と精製漆。「秋田地織」として県外にも販路を広げた「亀田ぜんまい織」秋田特産草木染め絹織物「秋田八丈」と、洋館店舗には不釣り合いな手工芸品がならぶ。漆職人が漆器に塗るために使う精製漆にどれほどの需要があったのだろう。

徐々に品物を増やし、この年には舶来自転車の委託販売も始め、やがて「委託商」のフレーズが広告から消えるのだが、委託商として商売を始めた理由は、店舗の建設費がふくらみすぎて、資金不足に陥ったためと推測する。

‥‥前略‥‥又当商会の建築は秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて 幾分か御目新しき所も可有之(これあるべし)と存候(ぞんじそうろう)に付 開業当日より御散策方々賑々(にぎにぎ)しく御枉駕(ごおうが)の上 御遠慮なく陳列諸品 御熟覧被下(くだされ)御購求の程 偏(ひとえ)に奉願上候(ねがいあげたてまつりそうろう)‥‥中略‥‥

秋田市下肴町
委託商 (K)商会主 大嶋勘六

古めかしい候文(そうろうぶん)が時代を感じさせる文中に「当商会の建築は秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて」とある。商店としては初の煉瓦建築だった可能性は高いが、商店以外で秋田初の煉瓦建築とされるのは、明治23(1890)年、土手長町の秋田県庁舎に隣接して創建された県会議事堂である。

大島商会
▲明治35(1902)年

上掲の新聞広告と同じイラストを使用した広告。

瓦屋根の上に避雷針。二階にバルコニーと看板。中央の石積アーチ玄関の他に、今は封鎖されてショーケースが置かれている両側の石積アーチ部分も、このイラストを見る限り、当初は出入口として使われていたようだ。

大島商会
▲2004.03

大島商会
▲明治42(1909)年 広告より

明治40年代に入ると写真を使った広告が登場。

店頭に人力車と自転車。横町通りを寺町方向へと歩を進める着物に洋傘(日傘)の婦人たち。洋傘は「大島商店」の取扱商品であったから、三人の婦人は撮影のためのエキストラなのだろう。

大島商会

店頭で一人だけカメラに眼を向けている着物姿の男性は、同商会主人・大嶋勘六氏か。

現在は瓦屋根がトタンに吹き替えられ、二階のアーチ窓はセメントでふさがれている。金属製バルコニーおよびアーチ窓に附属する観音開きの鉄扉は消失。金属類は経年劣化に弱いため、度々補修しない限り、竣工当時の姿をとどめることは難しい。

バルコニーの下、店舗前の道路に突き出して設けられた木製の軒は、北陸・山陰・東北地方の雪国にかつてみられた「小店」(こみせ) 。雨露をしのぎ、積雪時には軒下が通路となる、今でいうところのアーケードで、各々の商店で高さを揃えた「小店」を造った。写真右手、 西隣に連なる切妻造りの商店にもそれが続いている。秋田では「こもせ」とも呼ばれ、地方によっては「雁木」(がんぎ) ともいう。

大島商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工

大島商会
▲建物側面のアーチ窓 2018.12

側面に残る鉄扉は劣化が激しく今にも崩れ落ちそう。

大島商会
▲建物背面のアーチ窓 2014.07

背面のアーチ窓には鉄扉の蝶番(ちょうつがい)の痕跡が残る。

大島商会
▲明治44(1911)年 広告より

明治末期になると、煉瓦造りの洋館には不釣り合いだった「小店」は廃止され、バルコニーの下、アーチ玄関の両側に新たにショーウィンドウを設置することで、よりモダンな佇まいとなる。バルコニーに掲げられていた「洋品雑貨」の看板は屋根下に移動。

解像度が低く質の悪い凸版印刷のため、拡大すると網点が目立ち、細部は不鮮明だが、バルコニーの下に「OHSHIMA&CO.」などと書かれた横文字の看板が並び、手前のショーウィンドウには紳士物の帽子が飾られ、入口付近に商品の乳母車が見える。

画像右手、建物の裏にちらりと見える切妻屋根の日本家屋は経営者の自宅とのこと。

大島商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

大嶋商会
▲大正5(1916)年 広告

こちらの広告写真は、卒業アルバムや美術工芸印刷などに使われるコロタイプ印刷のため、上掲画像よりは解像度が高く、拡大すると細部がある程度確認できる。

冬期の撮影か、側面のアーチ窓から煙突が屋根に延びる。

大嶋商会

大嶋商会

男鹿石と推定されている重厚な石積アーチ玄関の両側に置かれた、ショーウィンドウの展示品は、手前に靴と洋傘、右に紳士用の帽子各種。玄関の上にブラケットライト。

大嶋商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

大島商会
▲2008.07

欧米のデパートメントストアを手本に、当時はまだ珍しかったカタログによる通信販売、商品切符(商品券)の発行、今でいうところのポイントカードの発行など、先進的な経営とモダンな店舗で、明治から大正・昭和初期にかけて名をはせた「大島商会」。

取扱商品は、帽子・靴・鞄・洋傘・化粧品・文房具・眼鏡・時計・スポーツ用具・煙草・乳母車・舶来自転車 等々。そのほか、春慶塗・樺細工・自社ブランドの銘菓・八郎潟産佃煮など秋田の特産・名産品も販売。

土手長町中丁に「大島商会東店」を開設、土手長町上丁・広小路角の初代「秋田ビルディング」(新田目本店跡) に支店、秋田駅構内に旅行用品とお土産品を扱う売店を置き、駅のホームでは名産品の立ち売りもして、一時は土崎駅にも出店する。

「大島商会」の主力商品は紳士用帽子。明治から昭和初期にかけて、子供から老人まで、ほとんどの男性が外出時に帽子をかぶっていたことは、過去記事「消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退」に書いたが、その帽子ブームの時代と「大島商会」が存在した時代が重なる。

過去記事から帽子の広告を再掲。

大島商会▲大正10(1921)年 新聞広告

今年の秋は何(ど)んな帽子が流行(はやる)んでせう?
大島商会の店頭を御覗(おのぞ)き下されば直(すぐ)御理解(おわかり)に成ります

数ある同商会の広告のなかでも、コピーとレイアウトのバランスが絶妙でイラストもまた味がある、お気に入りの一点。

「大島商会の店頭を御覗(おのぞ)き下されば直(すぐ)御理解(おわかり)に成ります」の「店頭」は、まさに上掲画像の“帽子が陳列されたショーウィンドウ”の光景である。

大嶋商会

「大島商会」に関してはネタが尽きないが、同商会が主催した自転車遠乗会(サイクリング大会)、自転車競争(ロードレース)などの関連記事は下記リンク先に。

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秋田航空事始め・大正三年の飛行機大会

▼秋田の空を始めて飛行機が飛んだ日
 

奈良原式鳳号
▲『秋田魁新報』広告

今から約100年前の大正3(1914)年6月、秋田市の空に初めてのエンジン飛行機が飛んだ。

飛行機大会の会場は秋田市亀ノ丁新町(現・南通みその町・南通築地)に広がる「楢山中学校運動場」通称「楢山グラウンド」。明治30年代に県立秋田中学校(現・秋田高校)運動場として整地されたこの地は、野球大会を初めとした各種スポーツのメッカであった。詳しくは次回に。

「秋田県震災救助慈善 飛行機大会」とある震災は、同年3月、秋田県仙北郡大沢郷村を震源として、死者94名、建物全壊285戸を記録したM7.1 規模の 「秋田仙北地震」(通称・強首大地震)のこと。

秋田魁新報・秋田時事・秋田毎日の地元三紙に加え、国民新聞支局が大会を賛助した。

大島商会
▲「大島商会」新聞広告

飛行機大会に御来秋の方は
必ず弊店に御枉駕(おうが)ありたし 進歩せる珍しき新しき品を店内一面に陳列してあります
大嶋商会

 秋田市下肴町のハイカラ商店「大島商会」の、ハイセンスなデザインが眼を惹く新聞広告。同商店の広告図案を数多く手がけた石嶋古城の作と思われる。

※枉駕(おうが)・来訪をいう尊敬語
 

明治の煉瓦商店・旧大島商会

大島商会開業・明治三十五年

自転車遠乗会・大島商会主催

自転車百哩大競走・大島商会主催

消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退
大島商会の広告あり

▼飛ぶように売れた記念絵葉書
 

奈良原式鳳号

大会当日、会場の露店で三枚一組七銭で発売された絵葉書の一枚(発行・旭秋絵葉書倶楽部)。キャプションに「秋田市楢山中学校運動場に於ける奈良原三次氏と航空大飛行の実況」とあるが、飛行機部分は合成。

記念絵葉書がいちばん売れるのはイベント当日。そこで発行元はあらかじめ撮影した現地の写真と飛行機を合成したものを用意して販売した。

ビデオもテレビも無く、カメラは高級品、新聞の写真も鮮明では無かった時代、写真絵葉書は“今”を記録する数少ない情報メディアであった。

記念に絵葉書を購入した人たちは、家に帰ってそれを見せながら、土産話に花を咲かせたことだろう。

 

▼民間飛行のパイオニア・奈良原三次
 

奈良原式鳳号

明治44(1911)年5月、埼玉県の所沢飛行場にて、海軍の技士から民間飛行家に転身した奈良原三次が製作・搭乗した「奈良原式二号機」が、高度約4m、距離約60mの飛行を記録、これが国産機(エンジンは外国製)による初の飛行とされている。

明治45(1912)年3月末、秋田に来た「奈良原式四号機・鳳号」完成。以降、奈良原飛行団を結成、有料飛行機大会を開き、各地を巡業し興業飛行を行う。「鳳・おおとり」の名は出資者が贔屓にしていた関取の“しこ名”とのこと。

 

▼飛行機大会実況一日目(土曜日)
 

奈良原式鳳号

 

●プロペラの音
▼満城士女の夢を驚かす
▼昨曉予備飛行せる鳳号

鳥のほかに空を飛翔するものを見たことがない村落から來た人々は、本当に飛行機と云うものは飛び上がるものだろうか?と半信半疑の眼を見張つて曇れる天空を仰いで居た

 我が鳳号! は果たして翼動かず杞憂の中(うち)に葬られ、衆人環視のうちに空中のシローレースに終わるや否や?我が鳳号は昨曉(さくぎょう)天いまだ全く明け渡らざるに堵(と)を出で、操縱者白戸栄之助氏によりて楢山運動場に於てそのモーターの試運転と予備飛行を行はれたり

 飛べり飛べり 露湿めれる運動場の眞中に憩いたる鳳号の側に来た白戸氏は飛行服と眼鏡に身を堅め遙かに東方の空を睨んでゐたが、時来るや白戸氏のその右手がプロペラにかかるよと見る間に、獅子吼の音を立てて廻転しはじめ偉大な両翼を緊張して、最初は低空滑走より次第次第に高く飛んで

 空に昇る こと六十餘尺に逹し更に鉄道線を境に郊外を圓圍(えんい)百五十メートルに至つて、先に記者等に約束した地点を違はず着陸した時は、おもわず萬歳を三呼したものである、そして鳳々、彼は荒鷲のそれにも似たるけたたましき羽ばたきの音に満都の士女の眠りを覚まして当市に於ける處女航空を首尾よく飛翔し了した

 晴れよ晴れよ 願わくは天空の本日の日曜をして晴らさしめよ、而(しか)して秋田の天地に於ける航空嚆矢の壮快なるレコオドを作らしめよ

 楢山原頭の賑ひ 予備飛行は別項の如くなるが午前八時に至るや花火数発を揚げ九時より入場を許せるに、縣内の各小学校は云ふに及ばず縣立中学校・農業学校・市立技藝学校等多數の団体あり、ために定席は空地なき程充満し、今や今やと待ち居る中十二時過ぎに至るや一層の人出にて、場外には數十の露店ありキップを贖(あがな)はずして見んとする者群をなし、その賑やかさは一通りに非ず、午前零時に至るや操縱者白戸栄之助氏は鳳号を引き出し学生連に対し一つ一つ説明する所あり、それより第一回飛行に着手せり

 飛行の光景 第一回飛行は十二時三十五分より始めたるが、今か今かと待ち居る事とて満場総立ちとなりて押し合い觀覽し居るうち、助手伊藤乙治郎氏(※)約五十分にわたる説明あり、それより約十五秒間の飛行あり高さは三メートルにて、第二回飛行は同じく白戸氏操縱し十二時四十分に始め約十二秒高さ四メートルを保ち西端より東端に飛行せるが、入場者は約五千余ありて盛況を極めたり、なお高く飛行せざるは場内の狹きため負傷者等出すやうな事あるより中止せるなりと

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

※伊藤乙治郎は伊藤音次郎の間違い

奈良原式鳳号
奈良原式鳳号操縦者・白戸栄之助

 

◎川端新聞
‥‥前略‥‥
▲新しい小時と古い牡丹の二人は飛行機の搭乗を互いに、その先を争うて女宇治川をやってるそうだが落ちて大事大事の腰など痛めねばよいが

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

川反芸者
 左・牡丹  右・小時

秋田市川端(現・川反)花柳界の消息を伝えるコラム「川端新聞」から、亀喜(かめよし)の小時(おとき)と末廣家の牡丹という、当時の人気芸者二人が、どちらが早く飛行機に同乗するかを競っているというお話し。当時の飛行家は芸者に良くモテた。

「新しい小時と古い牡丹」とあるが、末廣家の牡丹のほうがデビューが早かっただけで、二人の誕生日は数ヶ月しか違わない。

 

▼飛行機大会実況二日目(日曜日)
 

◎満足を与えた
▲昨日の大飛行

▲予備飛行 昨朝は別項の如く午前五時十分楢山グランドを発し、高所約四百五十メートルを保ち手形練兵場を訪(おとな)いたるが、その距離は六千五百メートルにて、その時間は四分五秒にて、最初東方に向かい発し次第に東北に湾曲し練兵場に着陸せるが
▲二日目の盛況 は大したものにて、午前中に入場者約一万五千と註され。場内を角に囲みたる定席は人を以って埋められたり、停車場は一列車毎に数百名づつ吐き出され、午前中にて降車人員は約五千名にて、ために一時飛行場に通ずる各道路は通行杜絶する程の有様にて、今かと飛行の遅きを待ち居たる内、各助手等は飛行機を格納庫より引出し学生団に説明する所あり、それより北端の隅の所に運び点火せるや
▲プロペラの音 バッバッと立て、頃は良しと滑走を始めグランドの中央まで進みたると思うや、徐々と東南の空に飛行し、鉄道線路を越えてより湾曲になり停車場の上を通り飛行場の中央に着陸せるが
▲観客は大満足 にて満場総立ちとなり拍手喝采し、かくて午前の第一回飛行は終わりたるが、細身の白戸氏はニコニコとして「場所が狭い為に・・・」と自ら満足の色顔に現れ居たりき
▲飛行時間 は午前十時十分頃より約一分間にて最高百五十メートルにて、その距離約千メートルなりしと、なお午前の飛行は風の具合を見て二時頃飛行の筈にて、観客は引き続き潮の如く寄せ来たり正午頃には既に入場拒絶の有様なりき

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

◎飛行機来る
楢山体操場より
手形練兵場まで

昨日午前五時七分の下り急行が秋田駅を出発して間もなく、何かブルブルと云う音が聞こえた、段々音響は激しくなるのでさては昨日見た飛行機か知らんと外に出て瞬きもせず遙かの空を眺めたら、幅三尺位のカーキー色したものは空中に翔(かけ)り段々と手形を指して飛んで来た、その早さは飛ぶ鳥も追いつくこと出来ない程で、間もなく練兵場の北方にピタリと下りたら、果然鳳号はその勇姿を現し飛行家の白戸氏は静かに機より下りた、草刈りの男女は吃驚して右往左往に逃げる、師範と鉱山の寄宿生は拍手して駆け付くる、奥さん嬢さん達は裳裾をからげて燃ゆるような蹴出しをちらつかせ、爺さん婆さんは杖にすがって駆け集まる、児童は飛行機だ飛行機だと万歳を絶叫する、たちまち人の黒山を築いた、白戸氏は飛行機に対して詳細なる説明を与え学生はしきりに傾聴する、かくて約一時間居りし内二千人ばかり集まったが、その内助手が来たり、機を分解して楢山の体操場に運んで行ったが、これを見て飛行機が破損したと誤解した馬鹿もあったらしい、何しろ興行場での飛行機はピーと飛んで直ぐ下りるのだから甚だ興味の薄き感じを起こすも、今この飛行を目前に見て実に愉快に堪えなかった

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

大会二日目の21日は日曜日とあって更なる大盛況。なかでも、早朝の予備飛行で楢山グランドを離陸して手形練兵場に着陸した鳳号の姿に、驚きながらも熱狂する観衆の反応が実に面白い。

手形練兵場とは現「秋田大学」の西側一帯に広がっていた十七連隊の演習地。当時は今の秋田大学の地に「鉱山専門学校」、その南側に「秋田師範学校」があった。

千秋公園より手形方面を望む
大正期の手形練兵場周辺

奈良原式鳳号

 

▼借金まみれの興行師・奈良原三次
 

●飛行会の盛況
三新聞及び国民支局の賛助の許に、来る二十日二十一日の両日楢山運動公園にて開催の飛行大会は、市内各学校は勿論、郡部も併せて数百校の学生団の申し込みあり、其他各種実業団・青年団等、陸続(りくぞく)申し込みあるが、‥‥中略‥‥又今回の飛行大会は我が国 民間の飛行倶楽部にて経営せるものにて、その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず、なお其の後の申込みは小坂鉱山山谷地新聞店主催の五十名、神宮寺清水新聞店主催の二百名、秋中生団六百名、私立技芸学校生徒全部にて、飛行家一行十余名は本日下り直行にて来秋の筈
大正三年六月十八日付『秋田魁新報』より

「その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず」とあるとおり、飛行機の研究・製作には多大な資金を必要とする。しかし、奈良原が各地で興業飛行大会を開催し、金を集めたのには以下の様な実情があったという。

海軍大技師から民間飛行家となった奈良原三次は、明治四十四年五月に「鳳号」で初飛行に成功した。しかし、その後、男爵の嫡子が飛行機に乗り、墜落でもしたら大変と親類一同から飛行機研究を中止させられる。だが、これは表向きの理由で、奈良原が飛行界を離れざるをえなかったのは、東京下谷の芸者に金を注ぎ込んだためだった。

奈良原にはれっきとした妻があったが、下谷の芸者さんだった福島よね子母子のために多大な借財をし、飛行機研究のスポンサーから財産差し押さえを受け、飛行機に乗ることができなくなってしまったのが真相だ。しかたなく興行師となって弟子ともいえる白戸栄之助の操縦で巡回飛行などをして回り、金集めをしていたものの、ついに借金地獄で身を隠さねばならなくなってしまった。
横田順彌『雲の上から見た明治−ニッポン飛行機秘録』学陽書房 より

 

▼平野政吉の飛行機道楽
 

「楢山中学校運動場」で開催された飛行機大会の人混みのなかに、秋田市大町一丁目の大地主の息子・平野精一(のちの三代目・平野政吉)が居た。

彼はこのとき、始めて本物の飛行機を見て魅了され、空への憧れを募らせた末、東京に出奔する。

 大正三年(一九一四)六月、秋田に初めて飛行機が舞い降りた。日本で最初に飛行機の操縦に成功してから四年後のことである。民間飛行大会と称した一種の興行で、奈良原三次男爵飛行部の白戸栄之助が操縦する複葉機「鳳号」が秋田市楢山のグラウンドに着陸した。会場には中学生の団体など五千人以上が詰めかけ、グラウンドには露店も出た。その騒ぎの中、鳳号は高度三メートルから四メートル、僅か三十秒足らずの飛行であったが、観客を大いに驚かした。これで精一はすっかり飛行機の虜になった。
 「魔物のような、大きな飛行機を仰ぎ、胸を躍らせた。人間の壮大な夢が、巨大な飛翔感となって、天空に実現していた」その日、精一は会場の楢山グラウンドを去り難く、観衆がまばらになった後も、蓆で囲ってある仮の格納庫のまわりをうろついたが、中に入って飛行機に触って見ることは叶わなかった。そこで思案して、精一はまた一計を案じた。「飛行研究会」なるものを俄に作ったのである。
 家に戻って、精一は中学時代の友達や近所の知り合いを集めて打合せ、翌朝、みんなと一緒に会場に出掛け、精一が先頭に立って、白戸栄之助に面会を求めた。
「われわれは、飛行機を研究する者である。白戸先生の飛行機の知識をわれらにお教え願いたい……」
 これが図星であった。一同手伝い人として、一人二十銭の木戸銭を払わずに会場の出入り自由の特権を与えられ、存分に飛行機の感触を堪能することが出来た。しかし、興行は僅か二日間で、この制約が精一の飛行熱をますます募らせた。
 完全に飛行機に魂を奪われた精一は、夢見心地で世界地図を開き、その上空を飛ぶ自分を想像してあかず世界地図を眺めていた。
‥‥中略‥‥
 精一は正式に日本帝国飛行協会に入り、普通五ヵ月で卒業するところを、五年近く在籍して小栗常太郎に学んだ。この間、精一は飛行機に乗って得意満面だった。「一直線に天界に翔び立ち、二枚の翼にり燦欄とした光を跳ね返し、大都会を一望におさめ、富士山と比肩しうる高度を翔けるときもあった」

渡部琴子『平野政吉−世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』新潮社 より

平野政吉
▲所沢飛行場に於ける平野氏

大正13(1924)年、平野精一(平野政吉)自ら操縦する複葉機が東京湾に墜落、九死に一生を得て帰省、それから三年間の療養生活を送ることになる。 
 

昭和30年の秋田市と平野政吉のこと
平野政吉スピード狂時代

 

 


 

「奈良原式鳳号 製作記」
復元機製作の記録

 





▲奈良原式四号飛行機復元機・稲毛民間航空記念館

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百七年目の「自転車百哩大競走」復刻版


新聞広告 明治三十五年

明治35年9月21日、秋田市下肴町のハイカラ商店・大島商会の主催により開催された、県内初の本格的ロードレースと思われる「自転車百哩(マイル)大競走」から100余年の歳月が流れた、平成21年9月21日の早朝、今も同地に残る旧大島商会の前に一台の自転車の姿があった。

車上の人は当ブログの「自転車百哩大競走・大島商会主催」を読んで感銘をうけ、数ヶ月前にそのレースの再現を決意し、この日のために準備を進めてきたチャリンジャーさん。

平成21年9月21日「自転車百哩大競走」

100余年前は舗装も整備もされていない悪路がつづくコースにくわえ、あいにくの雨天、自転車の性能も今とは格段に違う。好天に恵まれたコースを完走したチャリンジャーさんは、過酷なレースにチャレンジした当時の参加者の“凄さ”を常に感じながらの走行だったとブログで語っている。

明治の世に百哩大競走を企画した大島商会店主・大嶋勘六氏をはじめ、9人のレース参加者たちも彼の世から、秋風をうけて往時と同じコースを颯爽と走るその姿を、目を細めて見守っていたのではなかろうか。



この(2009)6月6日にはおなじく大島商会主催の「自転車遠乗会」、そして今回の「百哩大競走」と、今年は当ブログのエントリーに誘発された、21世紀版復刻企画がつづいた。

それらのエントリーが心を動かし、復刻企画を実行するきっかけになったのであれば、こんなブログでも存在する価値が幾分はあったということで、書き手としては正直うれしい。

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関連リンク

そよ風と一緒に♪ : 平成の「自転車百哩大競走」 2009年9月21日
そよ風と一緒に♪ : 秋田で最初の自転車レース!?
そよ風と一緒に♪ : 平成の『自転車百哩大競走』

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マイテーとは何か?・大島商会の不思議広告



大正元年の秋、秋田魁新報三面に、「マイテー 何か」という、謎の文面の一段広告が掲載され、それから十四日のあいだ、その不可解な広告が延々とつづく。はたして「マイテー」の正体はいかに。






ナポレオンは マイテー人物(マン)
大日本帝国は マイテー邦国(カントリー)
英京倫敦は マイテー都市(シテー)

埃及金字塔は マイテー遺物(ニユメント)
日本富士山は マイテー山嶽(マウンテン)
さて其の次のマイテーは?
最初の掲載から十五日目、皆様ながらくお待たせしました、ようやく「マイテー」の正体を明かす謎解き広告が・・・・・・。



その正体は、秋田市下肴町に煉瓦造りのモダン店舗を構える大島商会特製の「マイテー靴」。

「特色は如何(いかん)」と、また翌日へと広告はつづき、半月にも及ぶ連載広告は完結を迎えた。


靴の需要増加と共に徒に外見を飾れる粗製濫造品の多きに鑑み特約工場を東京に設置し厳重なる監督の下に欧米の最新方式に則り製作せしめたるもの是れ即ち特製マイテー靴なり堅牢にして持久力に富み全くマイテーの名に反かず而も実用を主とせるが故に価格の低廉なる多く他に類を見ず。一度び使用せられなれば二たぴ三たび否な永久にマイテー靴を忘れ給う能わざらむ
明治の創業時から広告を重視した大島商会は、秋田市手形出身の人気文筆家で文明批評家の青柳有美を顧問として迎え、当時としては斬新な経営と広告を展開。この「マイテー靴」のアイデア広告を考案し、広告文を書いたのも青柳有美ではないだろうか。

謎かけの惹句を仕掛け、数日後に謎解き広告を載せる、このようなタイムラグ広告は、せわしなく情報があふれかえり、埋もれるスピードも早い現代では考えられない、ゆるやかなる時代の広告表現といえよう。


旧大島商会店舗 正面入口の石積アーチと要石が重厚にして優美

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