二〇世紀ひみつ基地

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正月の料亭「あきたくらぶ」川反芸者と左褄

あきたくらぶ・川反芸者

昭和30年代の撮影とおぼしき、料亭「あきたくらぶ」の玄関を写した写真。

明治10年代創業の「秋田倶楽部」の別館として、厳選された秋田杉をふんだんに使い、大正時代に建設された、秋田を代表する料亭であった「あきたくらぶ」は、平成15(2003)年に倒産。その跡地は今「はなの夢 ホテルグランティア秋田」となっている。

あきたくらぶ・川反芸者

新年の挨拶に訪れたのか、留袖の芸者さんと振袖姿の半玉 (はんぎょく) さん。関西方面では舞妓ともいう半玉さんは、底が厚い木履(ぽっくり)を履いているため背が高く見える。

「太平山」と「両関」の薦樽(こもだる)六本を三段に重ねた上に鏡餅を載せた、大きな正月飾りが眼を惹く。

酒樽や薦樽の上に鏡餅を載せた正月飾りは、酒を提供する宿屋や料理屋に、幕末頃からつづく風習らしく、今でも老舗料亭や旅館、帝国ホテル・プリンスホテルのような格式のあるホテルでも飾られるが、現在の正月飾りに使われる薦樽は、酒の入っていない飾り樽が多い。

二丁目小路突き当たりの、まんだら小路(現・山王大通り)に、明治初年に創業した料亭「志田屋」も、薦樽は一本だが、今も同様な鏡餅を飾る。

正月の11日頃、鏡餅を下ろして割り、雑煮や汁粉にして食べる行事を鏡開きというが、薦樽(酒樽)の丸い蓋を割ることもまた鏡開き。「あきたくらぶ」でも盛大な鏡開きが開催されたことだろう。

あきたくらぶ・川反芸者

こちらも同年代に「あきたくらぶ」庭園で撮影された写真。

あきたくらぶ・川反芸者

年配の芸者さんの着物は紋付きに波の裾模様がある黒留袖。若い方が色留め袖。どちらも紋付きに、縁起物である乾燥した稲穂のかんざしを挿しているように見えるので、これも松の内の撮影か。

黒を基調とする紋付きの留袖は、花柳界における正月の正装。初出(はつで)を意味する “出” を冠して “出(で)の着物” や “出の紋付” “出の衣装” と呼ばれた。

あきたくらぶ・川反芸者
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

裾の長い “お引きずり” の着物を着る芸者が歩くとき、外出するとき、着物の褄(つま・腰から下のへり)を左手で持ちあげるようにつまむ。この仕草を “左褄(ひだりづま)を取る” という。しろうとの花嫁衣装や遊女は、反対の右手で褄をつまむことから、“左褄(ひだりづま)取る” ことは芸者の代名詞となり、芸者になることを「左褄を取る身となる」かつて芸者であったことを「左褄を取っていた」などと表現する。

 “左褄を取る” 仕草は利き手である右手を空けていた方が、上掲画像のように傘を持つにしても動作が安定し、危機に対して咄嗟な反応をしやすく、立ち振る舞いも優美に見えることから習慣化されたもの。

身を売る遊女が右手で褄を取る(右妻)ことにからめて、左褄は「芸は売っても身は売らない」という芸者のプライドを表している、という野暮なデマがネット上に氾濫し、着付け教室から芸者置屋を経営する店のウェブサイトまでも、もっともらしくそれを解説している現状は、まったくもっていただけない。これはインターネットの普及以降に拡散されたものなのだろう。

上掲画像は『秋田魁新報』に掲載された、元川反芸者・若勇さんが芸者時代を語った連載企画から、昭和39(1964)年の元旦、“出(で)の着物” 姿の若勇さんらが年始回りをする光景。この年代は雪が多かった記憶があるが、路面は乾燥している。

撮影地点は川反通りとすずらん通りの交差点。背景に新屋の銘酒「寳生」の看板が見える「丸彦酒店」側面と、白い欄干に擬宝珠(ぎぼし)がある三丁目橋。川反らしい情緒あるデザインの橋であったが、橋に到るまでのアプローチの勾配がきつく、路面凍結時には滑って危険だったため、橋の手前に手すりが設置されている。詳しくは下記関連記事に。

すずらん通り
▲川反通りから三丁目橋を望む 2019.01

「あきたくらぶ」と川反芸者に関しては下記関連記事を参照のこと。

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川反三丁目橋今昔・悪名高き昭和の太鼓橋

▼大正時代の川反三丁目橋・夏の情景

川反三丁目橋
川反三丁目橋・絵葉書より

秋田市内を流れる旭川に架かる三丁目橋をローアングルで撮影。橋の向こうに、土留めと柳が特徴的な川反(かわばた)四丁目の屋並が連なる。

川反四丁目は芸者置屋と料理屋が集中した川反の中心地だが、それ以前の川反は片側町で、旭川側は「浜」と呼ばれた藪まじりの河原のなかに、水汲み場・馬洗い場・ゴミ捨て場・荷揚場・米蔵・作業小屋などが点在していた。

明治19年の大火・俵屋火事以降、下米町にあった花街のうち、芸者屋と料理屋は川反三・四丁目に、遊郭は南鉄砲町、俗にいう常盤(ときわ)町に移った。

人徳の商家・那波家
俵屋火事のこと

川反三丁目橋

橋の下では、土手長町の土手を背景に人力車を洗う車夫。

三丁目橋下は「馬の洗い場・冷やし場」として知られ、明治から大正にかけて秋田・本荘間を往復した乗合馬車で働いた馬の、火照った体を冷やし、洗う光景がよく見られたという。馬車会社は近くの茶町扇ノ丁に集中していた。

川反三丁目橋

大きなザルを手に雑魚を狙う子ども。

川反三丁目橋

川反の川端に階段状に形成した丸太の土留めと、水辺に深く根を張り護岸の役割をする柳を背景に、洗い物をする婦人と、カメラに目を向ける二人の子ども。その奥に家から川に下りる自家用の階段。

明治末に水道が通じるまで、旭川を流れる水が大町・川反界隈の生活用水および飲料水として使われていたが、右手に見える建物の間から下りる坂が、川端の各町内にあった共同水汲み場の名残と思われる。馬や人力車もこの坂を通ってきたものだろう。

共用栓のある風景・大町三丁目通り
旭川の水汲みと水道共用栓のこと

 

 

 

ケヤキ並木のレストラン・那波家水汲み場
 

▼悪名高き昭和の三丁目橋・擬宝珠のある白橋

川反三丁目橋
川反三丁目橋・昭和30年頃

木橋を渡った右手に、うなぎの「横田屋」(昭和25年開業)左の清酒看板のある店が「丸彦酒屋」(大正3年創業)直進するとすずらん通り。 

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

秋田国体秋季大会を直前にした昭和36(1961)年9月、木製の三丁目橋をコンクリート永久橋に架け替える工事が完了。白い欄干に擬宝珠(きぼし)を配したクラシカルなデザインの新橋が開通するが、これが秋田の土木史に特記されるほどの、まれにみる欠陥物件であった。市民にとっては悪い意味で忘れがたい橋。

川反三丁目橋
土手長町通り取付け道路
秋田県広報誌『あきた』平成2(1990)年5月号より 

コンクリートで架け替えられた三丁目橋は道路よりも高く(土手長町通り側で1メートル、川反側で60センチの落差)取付け道路が急勾配になったため、積雪期はスリップによる追突事故が多発、凍結した歩道で転倒する歩行者が続出。利用者のことを考慮しない設計に批判が集まり、その形状から“太鼓橋”と揶揄された。

橋のたもとの飲食店「横田屋」の旭川に面する窓側の席は、橋を渡る人から見下ろされるようになり、食事する姿が丸見えに。その向かいの「丸彦酒屋」では坂道対策として、配送用にいちはやく4WD車を導入。

昭和52(1977)年12月、取付け道路に電線式ロードヒーティングを設置。しかし、路面がスパイクタイヤやチェーンで削られ、やがて電熱線が断線して使い物にならなくなるため焼け石に水。毎年電熱線の埋め変え工事を繰り返す。

欠陥橋が生まれた要因は洪水対策。架け替え前の木橋は隣接する橋よりも50センチほど低く、河川改修前は洪水のたびに浸水していため、隣接する橋と高さを揃え、さらにその上に約1メートルの厚さがある、旧工法の橋げたを載せた結果、このような欠陥物件が出来上がった。当時の技術でも薄くて強度が高い橋げたが可能であったにもかかわらず。

川反三丁目橋
三丁目橋開通式・秋田県広報誌『あきた』平成2(1990)年5月号より

欠陥橋の開通から約30年後、平成2(1990)年3月29日、新しい三丁目橋開通。長いあいだ市民を悩ませた、急勾配がようやく解消された。

中央部両側にすずらん灯を配したバルコニーを設置、川反側の欄干に時計塔を載せた、モダンデなザインの新三丁目橋には、連結する「すずらん通り」にちなんで「すずらん橋」の愛称が与えられた。

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.09

そしてもう一度、今(2014)から約100年前の川反三丁目橋界隈の情景を…

川反三丁目橋

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2004.03

川反三丁目橋
川反三丁目橋 2014.10

 

「すずらん通り」にともる灯は
すずらん通りの今昔

 

 

 

四丁目橋に夜のとばりが落ちる頃
橋のたもとのモダン建築

 

 

 

長町通り「勧工場」
三丁目橋と二丁目橋のあいだにあった名店街

 

 

 

光と闇を結ぶ「通町橋」

 

 

 

 

幻の仁別川の流れを辿る
仁別川=旭川

 

 

 

砂利船のある情景・秋田市旭川

 

 

 

 

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さようなら「ホテルはくと」協働社のウサギ


2013.02 クルーザー・バレー ホテルはくと

アパホテル県内初、秋田市に進出 「はくと」買い取り営業

 総合都市開発のアパグループ(東京)が、秋田市千秋矢留町の「クルーザーバレー・ホテルはくと」の土地、建物を買い取り、21日から「アパホテル秋田千秋公園」として営業を始める。県内にアパホテルがオープンするのは初めて。

 ホテルはくとは、鉄骨造り10階建てで客室は134室。分譲マンション販売のフナコシヤ(札幌市)が1999年、経営破綻した協働社から土地、建物を購入し、「ホテルはくと」の名称を残して営業を継続。2007年7月にリニューアルオープンした。

 しかし、その後、JR秋田駅周辺のホテルとの競争で苦戦を強いられ、売り上げが思うように伸びなかった。東日本大震災以降は、稼働率が1割程度にとどまる日もあり、ホテル経営はフナコシヤの不採算事業になっていたという。

 全国で192ホテルを運営するアパグループは、チェーン拡大計画の一環でホテル購入を決定。今後、全室に32型以上の大型液晶テレビを導入するほか、オリジナルブランドのベッドを設置するなどし、順次、ホテルをリニューアルしていく。 (2013/03/09 10:46 更新)
さきがけonTheWeb より

「アパホテル」は「ホテルハワイ」一号店(川反店)から数えて、この地で四代目のホテル経営会社となる。

昭和54年(1979)秋田市に本店を置く量販チェーン「協働社」が「ホテルハワイ」川反店を譲り受け、長期滞在者用客室を備えた「ホテルはくと・パンションはくと」としてリニューアルオープン。


ホテルはくと・パンションはくと(旧・ホテルハワイ川反店)

手前がホテル、奥にパンション、その向こうに「鷹の松」が小さく見える。

関連記事
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メーカー直接仕入れ・大量仕入れ・薄利多売、そして協働共栄をモットーに、東北各地にチェーンを広げ、晩期はホテル業にも進出した「協働社」は、翌昭和55年(1980)浅利社長の地元で「協働社」創業の地である角館町の中心地に、ホテル兼商業施設「角館プラザビル」を建設。


角館プラザ

ホテルに「協働社」が同居し、最上階に回転展望レストランを設置した「角館プラザ」は、「角館プラザホテル」と名を変えて今も営業しているが、展望レストランは回転停止中。最近の姿は以下関連リンク先に。(追記・平成26年(2014)2月「角館プラザホテル」廃業。) 

関連リンク
角館プラザホテルの写真一覧 - 旅行のクチコミサイト フォートラベル

「協働社」が経営した「ホテルはくと」の「はくと」とは「白兎」のこと、秋田市広小路「協働社ビル」の食堂街には、自社経営の和食レストラン「はくと」があった。

ウサギといえば「靴と傘なら協働社」のなつかしきシンボルマーク。多産なウサギは古来より「子孫繁栄・豊穣」を象徴する縁起の良い動物とされたが、それに加えて「協働社」のウサギには、創業者社長・浅利喜智治氏の経営精神が秘められていた。
昭和41年(1966)新聞広告より
絵と文・長崎抜天(ながさき ばってん・漫画家・1904-1981)

 「世間一般のデパートは、商品の品種を揃えることを目標としていますが」  ウチは少々違うと、協働社の浅利社長は解説してくれる。一般デパートは何でもあるが、さて好みの品を選ぼうとすると品数が少なくて案外希望するものが買えない。  「狭く深く・・・・・・がウチの目標です。カサ、クツ、ゴムグツ、電気器具などは特に重点的に揃えております」ゴム靴の売上げでは、日本中のデパートの最高だと自信満々。その表情には誠実さがあふれている。  「協働社という名に経営者の気持ちがうかがえますが、このウサギのマークも変わっていますね、耳の長いのと尻ッ尾の短いのは当然だが口が無くて後ろ足の短いのはどういうことで」  「他人の言をよく聞けと長いミミ、饒舌を慎めと口を描かず、捕らえられるような悪事をするなと尾を短く、亀に負けた愚を忘れるなと、長すぎた足を亀の足に代えました」経営者と従業員はこの精神で奉仕しているという。

「協働社」と浅利社長にゆかり深い、約35年間つづいた「ホテルはくと(白兎)」の名は失われ、間もなく「アパホテル秋田千秋公園」として生まれ変わる。「協働社」が元気だった昭和の記憶がさらに遠のくようで、なんだかさみしい。

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約束の花の落ちるとき・旧相互銀行本店

◆銀行の稲荷神社の由来

  
2007.04


2008.05

土手長町通りに面する「北都銀行別館」の庭園に祀られている赤い鳥居の稲荷神社。会社や工場の構内に神社が存在すること自体はさして珍しくないが、これが銀行となると非常に少ない。

秋田市中通五丁目(旧・土手長町末丁)界隈には、かつて多くの医院が軒を連ねていた。北都銀行別館の建つこの地にも、明治から大正時代にかけて内科医院が存在し、今に続く稲荷神社はその家を守る屋敷神であったが、終戦後同家は秋田を離れることに。跡地を銀行に売り渡すに際して同家は、いくつかの要望を提示。そのひとつが、この稲荷神社を守り祭祀を継続することであった。


秋田相互銀行本店

昭和26年(1951)、秋田相互銀行本店を土手長町末丁に新築移転。


北都銀行別館(旧・秋田相互銀行本店)2011.05

昭和57年(1982)、通りに対して斜めに配置したユニークな設計の新本店ビル落成。

平成元年(1989)、普通銀行化にともない、秋田あけぼの銀行と改称。
平成5年(1993)、羽後銀行と合併し北都銀行と商号を変更。秋田あけぼの銀行本店(旧・秋田相互銀行本店)は北都銀行別館となる。
平成21年(2009)、荘内銀行と経営統合、持株会社としてフィデアホールディングス株式会社を設立。

土手長町末丁に相互銀行本店が移転して以降、経営母体が変わっても、前地権者との約束通り、毎年5月には役員が参加して稲荷神社の祭事が執り行われてきた。


◆約束の花の名は・・・

そしてもうひとつ、前地権者からのつよい要望により残されたのが、医院の庭を造園した当時「秋田市に一本しかない珍木」といわれ、御主人がこよなく愛したというクロフネツツジ。







和名・クロフネツツジ(黒船躑躅)
英名・Royal azalea(ロイヤル・アザレア)
分布・中国北部、朝鮮半島、シベリア

江戸前期に朝鮮から黒船に乗って渡来したという大輪のツツジ。いかつい和名とは裏腹に、気品ある薄桃色の花は「ツツジの女王」と称される。他のツツジ種にさきがけて開花し、秋田市ではゴールデンウィークの前後に見頃となる。

新本店ビルを建てたとき、クロフネツツジは東側(旧店舗裏手)から、少庭園が整備された西側に移植された。


北都銀行前バス停 2007.05

緑に囲まれた銀行敷地内のバス待合室。その裏手にクロフネツツジの薄桃色がチラリと見える。手前の黄色はヤマブキの花。

昭和58年(1983)、庭園の緑と調和した近代的ビルは、秋田市役所が企画した、第一回「都市景観賞」(昭和57年度)を受賞。

平成23年(2011)早春、「北都銀行別館」から「ほくと相談プラザ」転出。貸ビル「北都ビルディング」への改装工事にともない、庭園の西側で駐車スペースの造成が始まり、クロフネツツジを含む樹木群が忽然と消滅。


2011.05


2011.05


2011.05


庭園より西側を望む 2007.05


庭園より西側を望む 2011.05

平成23年(2011)6月、「北都ビルディング」(旧北都銀行別館)に「日本政策金融公庫・国民生活事業」入居。


見納め花 2010.05

今にして思えば、見納めとなった昨春のクロフネツツジは、自らの運命を悟ったかのように、例年になく沢山の花を咲かせて、その終焉をあでやかに装っていた。


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