二〇世紀ひみつ基地

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看板の落ちて師走の旭川・出来すぎた偶然


2010.12

新屋の風力発電用風車の羽根が折れた12月初旬の荒天の際に破壊されたのか、秋田市大町を流れる旭川に「洋服の菅新」の看板が落下していた。



明治30年創業という老舗、オーダーメイド紳士・婦人服の「菅新洋服店」はもともと、すぐそばの「秋田名店街」一階で営業していて、「本金デパート」と「秋田名店街」が大町再開発で取り壊されたとき、一丁目橋たもとの居酒屋「あみもと」向かいに建つ「旧・竹内スポーツ店」ビルに移転。もう30年ほど前のその頃「菅新」であつらえたスーツは仕立てが丁寧で、まだたまだ現役だ。


2010.05

一年ほど前からビルの灯りが消えて、店頭に「都合によりしばらく休業」するゆえの告知が貼られ、先日は備品が運び出されていた。

文字通り“看板を下ろした”状況での今回の落下事故は偶然にしてはあまりにも出来すぎ。店の顔である“店名文字”という言霊(コトタマ)の宿った看板が、役割を終えたことを悟り、あたかも自らの意志で落下したかのよう。

川に落ちた看板はすでに撤収済み、そして屋上に残った看板もフレームもろとも撤去された。なじみの看板が消えた師走の街に“諸行無常”と吹く風がやけに身に染みる。


2010.11


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秋田広小路モノレール計画・昭和30年代


トッパンの愛児えほん『はしれのりもの』(昭和30年代発行)より

昭和41年の市電(秋田市営電車)廃止を前にした昭和39年(1964)、市電に変わる交通網として、秋田市内のデパート業界間でモノレールを導入する計画が持ちあがった。

「協働社ビル」の浅利社長と「新秋田ビル」の北林社長が中心となって構想した計画は、秋田駅二階のステーションデパート・木内・協働社・新秋田ビル・本金のそれぞれの屋上をモノレールで結び、駅前から広小路・大町を一大ショッピングセンターにし、三、四年後には市内の商店街を空の交通で結び、将来的には市内を縦横に走らせようというもの。


淡色文字は昭和40年以降の商業施設


秋田市街モノレール計画 1964
距離1.048km

1 ステーションデパート
2 木内デパート
3 協働社ビル
4 新秋田ビル
5 本金デパート

しかし、支柱を建てるスペースの確保が難しく、上空をさえぎって走るモノレールは、住宅や商業施設の密集した市街地には適さない交通機関。秋田空港が新屋から雄和に移転した80年代に、市街地と新空港を結ぶ新交通システムとして、モノレールを導入する計画があったが、同様に実現するには至らなかった。


木内デパート屋上から大町方向を望む・昭和三十年代

さいわい橋をわたると「秋田名店街」入口、大町通りにそびえる本金タワー。まだ「新秋田ビル」は建っていない。


ランドマーク秋田(旧協働社ビル)から新秋田ビル、大町公園橋 06.03

広小路の突きあたりから旭川を渡り川反に抜ける「さいわい橋」(現・大町公園橋)はもともと、昭和36年(1961)、先代の辻兵吉が「秋田名店街」(現・AD)をつくったとき、広小路と「秋田名店街」を短距離で結ぶために架けられた私設橋で、現在よりも少し川下(南側)に位置し橋幅が狭かった。昭和40年(1965)、橋を渡った場所に「新秋田ビル」竣工、現在はブティックが入居するビル一階部分に開けられた通路を抜けると、正面に「秋田名店街」の入口があった。

「新秋田ビル」オープン当時の入居者は、地階に「茶の間」「鳥吉」「なぎ」「銀寿し」「りんでん」など飲食店。一階のファッションフロアに「杉」「ササキ」「ミウラ」。三・四階「農林漁業金融公庫」。四階「日立製作所」「住友火災海上」「千葉歯科医院」。五階「高千穂交易」「北林道場」(柔道場のちに日本拳法道場)。

現在は地階に「関西割烹・三四郎」、一階のブティック、二階に「ほくと商事」など、上階はほとんど空き部屋のようだ。

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立体音楽堂・カーネギーホール

かつて名曲喫茶の時代があった。

東京の繁華街に名曲喫茶が雨後の筍のように誕生したのは、長時間連続演奏が可能なLPレコードが流通しはじめた終戦間もないころ。荒廃の傷跡が残る街の片隅で、名曲喫茶は音楽に飢えた人々に、音と香りによる安らぎの時空間を提供した。

その当時、レコードは非常に高価で数も少なく、それを再生する音響装置は庶民に手の届くものではなかったが、名曲喫茶に行けば一杯のコーヒーで何時間でもクラシック音楽に身を委ねることができたのだから音楽好きにはたまらない。リクエストで自分の好きなレコードを聴くこともできる。定期的に解説つきのレコードコンサートを開く店もあった。

昭和三十六(1961)年十一月、秋田市に本格的な名曲喫茶が誕生した。その名も「立体音楽堂*・カーネギーホール」。場所は映画街が賑わいをみせていた有楽町通りの東。

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昭和三十六(1961)

斬新な外観と都会的ムードが漂う「カーネギーホール」は、たちまちのうちに話題になり、クラシックファンだけではなく、多くの若者が集う人気のスポットになる。

翌三十七年(1962)には大町の名店街二階に支店を開設。

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昭和三十七(1962)

名曲喫茶の全盛時代は、昭和二十年代後半から三十年代にかけてのこと、三十年代も後半になると、ステレを装置が一般家庭に普及しはじめ、名曲喫茶に足を運ばなくとも自宅でレコードを聴くことができるようになった。さらにはジャズブームなど音楽ジャンルの多様化も影響し、昭和四十年後半には名曲喫茶の時代は終焉を迎える。

有楽町の「カーネギーホール」は現在、スペイン料理「道化の館」になっている。

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道化の館
昭和レトロ建築・旧カーネギーホール
地上三階、地下一階

この店が開店したのは、80年代のはじめ。
入口のテントとレンガ装飾が加わったほかは、建物はそのままだ。

有楽町の「カーネギーホール」のことを、常連だった兄が「雰囲気の良い隠れ家のような場所」と熱く語っていたのは、60年代の後半だった。まだ中学生の自分にとっては、いつかは行ってみたいあこがれの存在だったが、なにか若造を拒むような雰囲気もあって、とうとう入ることもなく、伝説の名曲喫茶は閉店してしまう。名店街支店には70年代末に何度か入ったことがあるが、すでにふつうの喫茶店になっていた。

「カーネギーホール」の通りには、「ムーラン劇場」というストリップ劇場があった。小屋の入口に置かれた、裸体が描かれた大きな看板や、外で一服するストリップ嬢(若めのお姉さんもいたが中年以上のおばさんが多かった)の姿は中学生のガキには眼の毒であったが、ここもまた、大人になったら入ってみたい、あこがれの場所だった。

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*「立体音楽堂」とは

昭和二十年代後半、NHKではラジオ第一・第二放送による立体放送の実験を始める。たとえば、第一放送が左チャンネルの音声、第二放送は右チャンネルの音声をそれぞれ放送し、聴取者は二つのラジオを並べて立体放送を楽しむというものだった。

昭和二十九年(1954)NHK第一・第二放送で、世界初の立体放送による、日曜昼の定時番組放送開始。その番組名が「立体音楽堂」。放送は1960年代半ばまで続けられた。

立体ラジオ放送「立体音楽堂」の冒頭は、「この放送を立体放送としてお聞きになる場合は、二台の受信機をご用意ください。一台を第一放送、二台目を第二放送の周波数に合わせ、それぞれの受信機を結ぶ線の、ちょうど三角形の頂点の位置でお聞きになり、私の声が真中から聞こえるように調節してください」というアナウンスではじまり、バランス調節のために蒸気機関車が走り去る音などが流されたという。クラシックのほかに放送劇なども放送している。

ステレオということばが、まだ市民権を得ていない時代から始まった「立体音楽堂」は、オーディオマニアやクラシックファンにとっては特別な存在であり、そのタイトルは立体音響を象徴するものであったのだ。

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お家も見えるよ「本金タワー」

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昭和四十年(1965)

本金デパートのタワーは、先行した木内デパートの展望塔よりも高く築き、その展望の良さを誇ったのだと、この広告から想像できる。

木内デパートの展望塔は三階建てだが、天井が低く、店舗部分に換算すると、おおよそ二階建ての高さで、店舗三階+二階で最上部までおよそ五階建てに相当。これでも周囲に高層建築物がなかった時代は大層見晴らしが良かった。対して本金デパートは、最上階の180度ガラス張りの展望室は地上八階。当時は市内最高層の建物だったに違いなく、「お家も見えるよ」というコピーも誇大表現ではない。

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昭和四十三年(1968)

タワーを見せずにタワーをアピールするデザインが洒落ている。

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木内デパート屋上から大町方向を望む・昭和三十年代

天を衝く「本金タワー」。
東芝テレビのネオンの向こうが「秋田名店街」、まだ「新秋田ビル」は建っていない。その手前の幸橋は現在は広小路の突当りにあるが、ご覧のように掛け替えられる前は、もうすこし南側(左側)にあって、川べりの「新秋田ビル」一階部分を通って「秋田名店街」入口のある川反通りに抜けるようになっていた。

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現在の幸橋周辺

左手のグレーのビルが「新秋田ビル」。
ワシントンホテルの文字が見えるあたりに「本金タワー」が聳えていた。
あの日本海中部地震で倒壊するまでは・・・・。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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