かつて名曲喫茶の時代があった。
東京の繁華街に名曲喫茶が雨後の筍のように誕生したのは、長時間連続演奏が可能なLPレコードが流通しはじめた終戦間もないころ。荒廃の傷跡が残る街の片隅で、名曲喫茶は音楽に飢えた人々に、音と香りによる安らぎの時空間を提供した。
その当時、レコードは非常に高価で数も少なく、それを再生する音響装置は庶民に手の届くものではなかったが、名曲喫茶に行けば一杯のコーヒーで何時間でもクラシック音楽に身を委ねることができたのだから音楽好きにはたまらない。リクエストで自分の好きなレコードを聴くこともできる。定期的に解説つきのレコードコンサートを開く店もあった。
昭和三十六(1961)年十一月、秋田市に本格的な名曲喫茶が誕生した。その名も「立体音楽堂*・カーネギーホール」。場所は映画街が賑わいをみせていた有楽町通りの東。


昭和三十六(1961)
斬新な外観と都会的ムードが漂う「カーネギーホール」は、たちまちのうちに話題になり、クラシックファンだけではなく、多くの若者が集う人気のスポットになる。
翌三十七年(1962)には大町の名店街二階に支店を開設。

昭和三十七(1962)
名曲喫茶の全盛時代は、昭和二十年代後半から三十年代にかけてのこと、三十年代も後半になると、ステレを装置が一般家庭に普及しはじめ、名曲喫茶に足を運ばなくとも自宅でレコードを聴くことができるようになった。さらにはジャズブームなど音楽ジャンルの多様化も影響し、昭和四十年後半には名曲喫茶の時代は終焉を迎える。
有楽町の「カーネギーホール」は現在、スペイン料理「道化の館」になっている。

道化の館
昭和レトロ建築・旧カーネギーホール
地上三階、地下一階
この店が開店したのは、80年代のはじめ。
入口のテントとレンガ装飾が加わったほかは、建物はそのままだ。
有楽町の「カーネギーホール」のことを、常連だった兄が「雰囲気の良い隠れ家のような場所」と熱く語っていたのは、60年代の後半だった。まだ中学生の自分にとっては、いつかは行ってみたいあこがれの存在だったが、なにか若造を拒むような雰囲気もあって、とうとう入ることもなく、伝説の名曲喫茶は閉店してしまう。名店街支店には70年代末に何度か入ったことがあるが、すでにふつうの喫茶店になっていた。
「カーネギーホール」の通りには、「ムーラン劇場」というストリップ劇場があった。小屋の入口に置かれた、裸体が描かれた大きな看板や、外で一服するストリップ嬢(若めのお姉さんもいたが中年以上のおばさんが多かった)の姿は中学生のガキには眼の毒であったが、ここもまた、大人になったら入ってみたい、あこがれの場所だった。

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*「立体音楽堂」とは
昭和二十年代後半、NHKではラジオ第一・第二放送による立体放送の実験を始める。たとえば、第一放送が左チャンネルの音声、第二放送は右チャンネルの音声をそれぞれ放送し、聴取者は二つのラジオを並べて立体放送を楽しむというものだった。
昭和二十九年(1954)NHK第一・第二放送で、世界初の立体放送による、日曜昼の定時番組放送開始。その番組名が「立体音楽堂」。放送は1960年代半ばまで続けられた。
立体ラジオ放送「立体音楽堂」の冒頭は、「この放送を立体放送としてお聞きになる場合は、二台の受信機をご用意ください。一台を第一放送、二台目を第二放送の周波数に合わせ、それぞれの受信機を結ぶ線の、ちょうど三角形の頂点の位置でお聞きになり、私の声が真中から聞こえるように調節してください」というアナウンスではじまり、バランス調節のために蒸気機関車が走り去る音などが流されたという。クラシックのほかに放送劇なども放送している。
ステレオということばが、まだ市民権を得ていない時代から始まった「立体音楽堂」は、オーディオマニアやクラシックファンにとっては特別な存在であり、そのタイトルは立体音響を象徴するものであったのだ。
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