二〇世紀ひみつ基地

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「袋小路のイチョウ」と「濯纓楼」跡・金照寺山麓

▼保存樹「袋小路のイチョウ」

秋田市楢山大元町の奥羽本線(秋田新幹線)鉄橋方向から、金照寺山北麓を流れる太平川沿いの土手を川下(西)に向かって進むと、やがて右手にイチョウの大木が姿を現す。

太平川
2013.11

旧町名・楢山字楢山、俗称を「袋小路」というこの地は、土手の突き当たりが羽越本線鉄橋で行き止まりのため、散歩する人もめったに入らず閑散としている。

袋小路のいちょう
2013.11

「袋小路のイチョウ」秋田市楢山大元町・鈴木家地内
昭和49(1974)年10月11日 秋田市保存樹指定19号
推定樹齢450年

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

大樹の下に、子育てに御利益があるという「姥権現」(うばごんげん)の祠(ほこら)が鎮座し、幹から「ちち」と呼ばれる気根が下垂。

袋小路のいちょう
2013.11 気根・乳状下垂

お婆さんの乳房のように垂れ下がった「ちち」をなでれば、母乳の出が良くなると信じられ、近在の妊婦、子育て中の母親が参詣したものという。

イチョウの気根にまつわる、同様な「授乳祈願信仰」は各地に分布し、「姥銀杏」「銀杏姥神」「乳母神」などと称されている。「姥・うば」と「乳母・うば」はダブル・ミーニング(両義語句)。

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

いちょう
2013.11

いちょう
2013.11

いちょう

太平川
2009.04

太平川の「袋小路のイチョウ」付近は、川底が岩盤の浅瀬で、夏になると絶好の遊び場になった。

古老の話によれば、このあたりを「サナ」と呼び、ヤツメウナギが良く採れたという。「サナ」は産鉄・砂鉄に関わる地名。太平川の「サナ」は、地形的に砂鉄が溜まりやすい砂鉄採取地だったのかもしれない。
 

▼文人サロン「濯纓楼」跡

江戸時代中期「袋小路のイチョウ」の西側に、三代目・伊勢三安(儒学者で久保田藩の医師)が「濯纓楼」(たくえいろう)と薬草園を造営。城下の文人墨客が交遊するサロンとなった。

景勝の地・金照寺山と太平川を臨む、二階の三方向に露台(和式バルコニー)を設けた「濯纓楼」はその後、勘定奉行・吉川楽斎の別邸に。天保2年(1831)、江戸で人気の漢詩人・大窪詩仏(1767-1837)が、来藩のおりに訪れ詩歌を詠む。

大窪詩仏
大窪詩仏『詩聖堂詩集』第三編(天保九年刻成)より「吉川氏濯纓楼」

金照寺山
2004.02

濯櫻楼址
2013.11 「濯纓楼」跡と羽越本線鉄橋

詩仏来し濯櫻楼趾茄子木枯れ 境田素洞(楢山愛宕下の俳人)

かつて「濯櫻楼」が存在した畑に残る茄子の枯れ木。その畑地の一部は、平成初めの護岸拡張工事を経て土手に変容、樹木も伐採され、往年の野趣を失ったが、太平川と金照寺山を望む光景は、江戸時代の文人が遊んだ昔日のおもむきを今に残して、静かに時が流れている。

太平川
2009.04 下流から金照寺山を望む

太平川
2013.11 下流から「濯纓楼」跡を望む


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袋小路のイチョウ

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城下の面影「遺愛の松」名木残影

遺愛の松
2013.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」跡

しばらく見ない間に、亀の町の名木「遺愛の松」が、跡形もなく消えていた。

遺愛の松
昭和47年(1972)吉田直也 『秋田市の木と林と森』より

昭和49年(1974)秋田市指定保存樹 第15号
クロマツ「遺愛の松」推定樹齢400年(保存樹指定時点)

由緒 藩祖佐竹義宣公が常陸(ひたち)の国より国替えの折りに携えてきた鉢植えの松である説や、藩士小助川某が大阪城夏の陣の際、記念に植えられたものであるとの説が伝えられている。
掲示パネル解説文より

「遺愛の松」とは「佐竹義宣公が愛された松」というような意味だが、命名は戦後のことだと思う。

佐竹義宣が大切に携えてきた鉢植え(盆栽)であったとすれば、身近な城内に置くはずで、後述の新聞記事を見ると、小助川なにがしの記念植樹説のほうが、比較的に説得力があるように感じる。

遺愛の松
2005.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」

よく手入れされた盆栽のように、それは見事な枝振りを見せていた「遺愛の松」も、平成3年(1991)の台風19号で大枝を折られたのを手始めに、樹幹および大枝の腐朽(空洞化)が進み、四方に大きく広がっていた大枝を失い満身創痍。近年は御覧のように無残な姿に変わり果て、いつ指定を解除されてもおかしくない状態となっていた。

路上に大きく突き出して、影を落としていた枝も、電線・ケーブル類増設の障害になるため伐採された模様。

遺愛の松
2005.05「遺愛の松」消失物件

晩期はパネルの後ろに鉄柱が立てられ、空洞化した樹幹をワイヤーで支えていた。

平成25年1月10日発行『秋田市広報』の「保存樹指定解除一覧」に当物件が掲載されているところをみると、撤去は昨年の暮れと思われる。

保存樹指定解除の理由は「樹幹の著しい腐朽」。積雪の影響で倒壊したのか、または、倒壊の恐れがあるため、前もって伐採したのか。
 

▼武家屋敷の「さむらいの松」参勤交代の道筋

クロマツ(遺愛の松)のあった中亀ノ丁上町(旧地名)は、中級家臣が住んだ屋敷町。佐竹氏の参勤交代の際は、久保田城・二の丸から大手門通りに出て、広小路、根小屋町、中亀ノ丁、登町、牛島を経由して江戸に向かった。

昭和4年(1929)の『秋田魁新報』に、中亀ノ丁上町のクロマツ(遺愛の松)のことが写真入りで載っている。

遺愛の松
昭和4年(1929)『秋田魁新報』より

藩政時代の面影が残る旧家の黒板塀に、見事な枝振りのクロマツがよく似合う。

クロマツのある御屋敷を守るお婆さんが、魁新報記者に語ったところを要約すれば……、

佐竹義宣公の時代に大坂夏の陣(家康と秀頼の戦い)に出征した小助川なにがしは、戦功を挙げ五百石加増を賜る。その記念として大阪から鎧櫃(よろいびつ)に入れて持ち帰ったのがこのクロマツ。

クロマツの根元には鎧、兜の類が埋めてあると伝えられ、今も根元三尺は踏まぬようにしている。日露戦争の頃は「さむらいの松」と呼んで、参詣人などもあったようだ。

という面白いお話し。

遺愛の松
2013.05 社団法人「秋田県林業土木協会」敷地内

名木「遺愛の松」のあった庭に残る屋敷神の石祠。ひょっとすると、このあたりに、江戸時代の鎧兜が埋められているのかも知れない。


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保存樹「遺愛の松」跡

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ケヤキの大木を惜しむ・寺町定点観察


2009.05

「秋田音頭」発祥の地といわれ、久保田城の裏門を山門として移築したことで知られる寺町の曹洞宗・鱗勝院は昨年(2010)、無粋なブロック塀を古風な板塀に改修、古刹にふさわしい景観がよみがえった。


2010.06

板塀に改修したのは良かったが、工事の支障になったためか、境内の塀際に存在した樹齢100年はあろうかと思われるケヤキの大木が伐採されたのが惜しまれる。


2006.07


2010.04


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消えたケヤキ・川反定点観察


2005.02

旭川に架かる三丁目橋より二丁目橋(北)を望む。

二丁目橋手前の樹齢140年ほどのケヤキ並木は那波家の防火林、その下に那波家の水汲み場。


2007.11

那波家のケヤキ並木の手前(南側)に樹齢100年前後と思われるケヤキと樹種不明の広葉樹が、往時の旭川の風情を偲ぶように存在したが、つい先日(2011年9月初旬)通りかかったら、それらの樹木は根元だけ残して、きれいさっぱりと伐採されていた。


2011.09


2011.05


2011.09


2011.09

消滅した樹木の裏側は川反三丁目の「升屋」(那波商店呉服部)。日当たりの悪さを解消するための伐採だったのだろうか。


2010.11 中央通りより消滅した樹木を望む


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