二〇世紀ひみつ基地

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千秋公園でスケート競技大会・昭和初期映像発掘

▼秋田の競技スケート発祥地・千秋公園スケートリンク

明治42(1909)年2月、長野県上諏訪町の南信日日新聞社が主催して開催された「諏訪湖一周氷滑大会」が、日本におけるスケート競技大会の起源とされる。

この大会で使われた用具は、地元の鍛冶職人が製造した、歯の無い下駄の底に鉄製ブレードを付けた和洋折衷ハイブリッドな下駄スケート

足袋に下駄スケートをはき、木綿で平らに編んだ真田紐(さなだひも)で、足と下駄を固く結んで滑った。地域と時代によりさまざまな形態が見られるが、本格的なスケート用具よりもはるかに安価なため広く普及。戦後まで作られ、昭和30年代の頃まで使われていた。

「諏訪湖一周氷滑大会」が開催された明治42(1909)年。秋田県教育会が諏訪湖上のスケートを視察・研究するため、秋田県女子師範学校長・樋泉慶次郎を派遣。

スケート先進県・長野に刺激された県教育会は、翌明治43(1910)年1月、家に閉じこもりがちになる冬期間の戸外運動を奨励するため氷滑練習所を開設。1月30日、教職員と児童生徒らが参加して、第1回氷滑練習会を城址・千秋園(現・千秋公園)岡本堀で開催。

同明治43(1910)年2月5日の第2回、翌6日の第3回氷滑練習会は、広小路に面した穴門堀に会場を移し、500人~600人が参加。その翌週、同地で初めての氷滑競技大会が開かれた。

第2回氷滑練習会では、中土橋で見物していた二人の子どもが穴門堀に落ちるハプニングも。当時はまだ、お堀の周囲に柵は無かった。

▲この壮挙を観んと集まる者 場を挟んで両岸に人の山を築きたり▲疾走ようやく劇(はげ)しくなる頃 場の東岸より氷上めがけて飛び降りし女児の姿あり 間もなく一の男児あり 共に氷を破りて水中深く陥りしも たちまち氷上に浮出(うきいで)しが 腰より下は当然濡れ鼠の如くなりて 悄然と帰路に就きしが 見るからに憫然なりし▲これを見るや教育会にても万一を慮(おもんばか)り 直ちに危険の個所に縄張りをなしたり

明治43(1910)年2月7日付『秋田魁新報』より

翌明治44(1911)年1月、南秋田郡面潟村夜叉袋近くの八郎湖にて、県教育会主催のスケート大会、第1回「八郎湖氷上大運動会」開催。16両編成の臨時列車で八郎湖に向かった、秋田市周辺の教職員・児童生徒ら約800人に加え、八郎湖周辺から約800人が参加する大運動会。

回を重ね、観客を含めて1万人を集める大イベントに発展した「八郎湖氷上大運動会」であったが、氷の状態が不安定なことなど諸事情により、第3回大会を最後に中止に。

※岡本堀とは

大手門通りに面した「秋田県立脳血管研究センター」斜め向かい、今は大部分が埋め立てられ、その一部が児童公園になっている場所が、第1回氷滑練習会が行われた岡本堀の跡。

藩政時代、今は脳研が建つ上中城の高台に、家老クラスの屋敷が軒を並べ、岡本堀の向いに岡本又太郎(元朝)家の広大な屋敷があった。

千秋公園・岡本堀跡
▲千秋公園・岡本堀跡 2014.01


▼千秋公園穴門堀のスケートリンク

千秋公園・スケートリンク
▲『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

全国のスキー・スケート場を紹介するガイドブック『スキーとスケート』の図版。「秋田県記念館」脇の土手から、穴門堀のスケートリンクと広小路方向を望む。後方に「秋田県女子師範学校」の寄宿舎と「県立秋田図書館」が見える。

昭和初期、スケートの強豪「慶應義塾大学」スケート部が秋田市で合宿、このスケートリンクを練習場とした。

千秋公園スケートリンク
駅から三丁。古城の外濠を利用したもの。結氷の厚さは中央部で一尺五寸、岸の方で五寸。リンクの面積は横五十間、縦三十間。スケート季節は翌二月下旬まで。
『スキーとスケート』(鉄道省、大正13年)より

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2015.07

穴門堀のスケートリンクの呼称はさまざまで、戦前は「記念館下濠リンク」「千秋公園外濠リンク」「千秋公園スケートリンク」など、戦後になると「市営リンク」とも呼ばれる。

当初は秋田県、戦後になって秋田市が管理したリンクも、昭和30年代に入ると、氷の厚さが不足するようになり廃止される。

昭和40(1965)年頃、秋田市山王大通りに県内初の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」オープン。夏場は室内プールに模様替えした。

昭和46(1971)年11月、向浜に「秋田県立スケート場」オープン。開設当時、柱を使わないアーチ式スケート場としては、東洋一を誇る規模であった。


▼千秋公園スケートリンクで北日本氷上競技大会

前置きが長くなったが、ここからが本題。

昭和3(1928)年から昭和5(1930)年にかけて、千秋公園スケートリンクを会場に、秋田県体育協会主催「北日本氷上競技大会」を開催。

以下がその競技大会を撮影した貴重な映像。

当時の新聞記事および掲載写真を参照するに、昭和4(1929)年、第2回「北日本氷上競技大会」の映像と推定。

眼科医で写真愛好家の堀江富太郎氏(1896-1989)が、フランス製家庭用小型撮影機パテ・ベビーにて撮影。9.5mmフィルムを使用するパテ・ベビーの撮影機および映写機は、8ミリカメラが登場するまで小型映画の主流であった。

千秋公園スケート競技大会

映像の冒頭、広小路側に設けられた「スケート場」ゲートの右側に「主催 秋田県体育協会」左側の文字は解像度が低くて解読しがたいが「後援 東京日日新聞社」「協賛 秋田魁新報社」と推測。『東京日日新聞社』は『毎日新聞』東日本地区版のタイトル。当時、地域により新聞名を変えて発刊していた。

千秋公園・アイスホッケー


▲GIFアニメ(動かない場合は画像をクリック)

「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)と「県立秋田中学校」(現・県立秋田高等学校)の対戦と思われるアイスホッケーの試合。

千秋公園スケートリンク・アイスホッケー
▲昭和4年1月27日付『秋田魁新報』より
キャプション「札幌師範対秋中のアイスホッケー」

ゴールキーパーはレガース(すね当て)を着用しているものの、ほかの選手はなにも防具を着けず、シャツにタイツと半ズボンの軽装。学生帽を被っている選手もいる。

アイスホッケーの長い歴史からみれば、防具が現在のような重装備になったのは比較的に最近のこと。

昭和4(1929)年の大会で秋田中学アイスホッケー部は、格上の札幌師範との対戦で11対0と惨敗。


▲GIFアニメ(動かない場合は画像をクリック)

アイスホッケーのインターバルに披露された「慶應義塾大学」の金子、西川両選手による男性ペアスケーティングと思われる。当時の新聞記事によれば「その妙技に満場の人々を酔わせた」とのこと。

コサック帽をかぶり、胸にエンブレムのあるジャケットにネクタイ、下はタイツというスタイル。

ジャンプもなく、スピンではコケて手をついているが、まだ競技人口もきわめて少なく、年間を通して練習できる施設のなかった、フィギュアスケート黎明期の日本では、これでも最高レベルの演技で、二人は国内の大会で受賞経験がある高名な選手であった。

第1回全日本スケート選手競技大会 昭和4年1月 信州諏訪湖
フィギュア競技
2位 金子 3位 西川
ペアスケーティング
1位 西川金子組

第4回インターカレッジ・スケート選手権大会 昭和4年1月 信州松原湖
フィギュア競技
団体の部
1位 慶應大学(金子・西川・和田)
個人の部
1位 金子 3位 西川

『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

フィギュアスケートの日本語訳は描形氷滑。ブレードで氷上に形状を描くことから命名され、大正11(1922)年、長野において第1回「描形氷滑競技会」を開催。

描形氷滑という文字通り、氷上にブレードで課題の図形を描き、その正確さを競うのがフィギュアスケートの原型で、規定競技(コンパルソリー)としてオリンピックでも演技されてきたが、1990(平成2)年3月の世界選手権を最後に、国際スケート連盟の競技会では廃止された。

千秋公園スケート競技大

土手の上から撮影された、小学生と思われる短距離競走。スケートというよりも、わちゃわちゃとした氷上の駆けっこ。

昭和4(1929)年1月開催、第2回「北日本氷上選手権」の参加者は、札幌師範、秋田中学校、保戸野小学校、旭南小学校、旭北女子附属小学校、渟城小学校(能代)のほか、全県小中学校講習員と一般人、総数約100人。


▲GIFアニメ(動かない場合は画像をクリック)

秋田県記念館」脇の土手に二重三重に連なる見物の人垣。

中土橋側、広小路側にも人垣ができ、昭和3(1928)年開催、第1回「北日本氷上選手権」の模様を伝える新聞記事は「広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様」と、当日のにぎわいを記録している。

秋田和洋女子高校
▲秋田愛国女学館

昭和3(1928)年「愛国婦人会 秋田県支部」が社会救済事業の一環として開校した「秋田愛国女学館」(現・秋田和洋女子高校)と、戦後に秋田市指定保存樹となるイチョウの大樹。

秋田和洋女子高校
▲和洋女子高校 2004.04

屋上に阿部米蔵の手に成る新築記念のモニュメント「三愛のモニュマン」が輝く「和洋女子高校」の校舎も「県民会館」跡地に計画されている新文化施設の駐車場用地として、まもなく解体される。

「和洋女子高校」の移転先は現在地から北へ3分ほど歩いた同校のグランド。藩政時代は兵具庫(兵器庫)が並び、大正初期、初代「秋田赤十字病院」が開院した場所。

秋田県記念館
▲秋田県記念館(県民会館の前身)

秋田県記念館
▲秋田県記念館側面 ジオラマ

秋田県民会館
▲県民会館 2004.03

千秋公園・穴門堀
▲千秋公園・穴門堀 2014.01


▼新聞記事と年鑑に見る北日本氷上競技大会

◎第1回「北日本氷上競技大会」

昭和3(1928)年1月22日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、当時、秋田市で合宿、千秋公園スケートリンクを練習場にしていた「慶應義塾大学」そして「盛岡中学校」(現・岩手県立盛岡第一高等学校)。

結成したばかりの秋田中学校アイスホッケー部は盛岡中学校との対戦で延長戦の末、接戦で勝利。

千秋公園スケート競技大会

中等校アイスホッケー
 秋中優勝す
  きのう氷上競技大会

第一回北日本氷上競技大会は既報の如く大日本氷上競技連盟 秋田県体育協会主催のもとに二十二日 記念館下濠リンクにおいて開催 午前十時まづ約百名の選手の入場式あり
‥‥中略‥‥
観衆は濠内外一ぱいにうめ 広小路は人のため 荷馬車は時々交通杜絶の有様であったが 中にも盛岡中学対秋田中学のアイスホッケーは技量伯仲延長戦となり観衆を熱狂せしめたが一般の戦跡は

◆中等学校フィギュアスケーティング
一等 中田(秋中)
二等 平野(盛岡)
‥‥中略‥‥

◆一般スピードレース
千五百メートル
一着 平野(慶大)三分五十九秒六
‥‥中略‥‥
五百メートル
一着 藤野(慶大)一分十二秒
‥‥中略‥‥

◆中等学校二千メートルリレー
一着 秋中チーム
‥‥中略‥‥

◆一般五千メートルスピード
一着 平野(慶大)十四分十五秒八
‥‥中略‥‥

◆一般アイスホッケー
秋田 一対二 土崎

◆一般一万メートルスピード
一着 平川(慶大)二八分十秒六
‥‥中略‥‥

◆中等学校アイスホッケー
秋中 三対二 盛中
‥‥後略‥‥

昭和3(1928)年1月23日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和3年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和3年)より

スケート用具とウエアの進化、リンク環境の変化など現在とあまりにも大きな違いがあり、単純に比較することは無意味だが、参考として、2018年3月現在の「男子スピードスケート競技日本記録一覧」を掲載しておく。

500メートル 加藤条治 34秒21 2013年1月26日 ソルトレイクシティ
1500メートル 中村奨太 1分44秒99 2014年3月16日 カルガリー
5000メートル 平子裕基 6分21秒98 2007年11月17日 カルガリー
10000メートル 土屋良輔 13分10秒31 2018年2月15日 カンヌン

スピードスケート競技の日本記録一覧 - Wikiwand

 

◎第2回「北日本氷上競技大会」

上掲映像の撮影時と思われる、昭和4(1929)年1月26日開催、第1回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は「慶應義塾大学」と「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会
▲リンクを圍る観衆(昨日千秋公園外濠にて)

北日本氷上
 選手権大会
  札師対秋中アイスホッケー
     ◇・・・・秋中惨敗す

県体育協会主催 北日本氷上選手権大会 並びに全県中小学校講習員氷上大会は二十六日午後一時より記念館下濠リンクに開催 遠く来征の札幌師範選手を初め秋田中学校、一般スケーター、保戸野、旭南、旭北女子附属、渟城の各小学校生徒等約百名参集 周囲は黒山の如く観客を以て埋められる 定刻 安倍体育協会長の挨拶あり 昨年の優勝校 秋田中学校より優勝旗返還し 佐野審判長の注意 安倍秋中選手の宣誓ありて一時十五分競技に入る

‥‥中略‥‥

◆北日本アイスホッケー選手権競技(中等学校)
今日の呼び物である秋田中学校と札幌師範との対抗にて
前半札幌徹頭徹尾秋中を圧迫し
‥‥中略‥‥
札幌 十一対〇 秋中
‥‥中略‥‥

スケートの妙技

札師、秋中のアイスホッケーの休息中 慶大 金子選手のフリー、金子、西川両選手のペアースケーティングその妙技に満場の人々を酔わせた

◆全県小学校優勝旗千メートルリレー
1、保戸野チーム 二分二十一秒
‥‥中略‥‥
◆講習員二百五十メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権千五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆講習員五百メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権五千メートル競走
‥‥中略‥‥
◆北日本選手権二千メートルリレー

◆一般アイスホッケー
秋田チーム 三対一 土崎チーム

かくして午後六時競技終了 栄ある優勝旗は札幌師範の手に帰した

昭和4(1929)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
▲『昭和4年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和4年)より

◎第3回「北日本氷上競技大会」

昭和5(1930)年1月26日開催、第3回「北日本氷上競技大会」の県外からの参加者は、常連の「慶應義塾大学」のほか「札幌師範学校」(現・北海道教育大学)「函館商業学校」(現・北海道函館商業高等学校)。

北日本氷上競技大会

北日本氷上競技大会

氷上に躍る花形
 東北スケートの争覇戦
  外濠リンクできのう

県体協主催、第三回北日本氷上選手権は慶應大学、札幌師範、函館商業を迎え、よく晴れあがって風もおだやかな日の二十六日午前八時から千秋公園外濠リンクに開催されたが記念館脇の土手から広小路にかけては中・小学生徒その他観衆三千を越ゆるの盛況、‥‥中略‥‥八時半競技に移る

◆中等学校 アイスホッケー
函商 〇対四 秋中

‥‥中略‥‥

◆一般 アイスホッケー
秋田 〇対一 土崎

‥‥中略‥‥

札幌師範再び
凱旋あぐ

◇慶大アイスホッケー模範試合
慶大 六対六 札師

‥‥中略‥‥

競技終わって慶大帯谷、金子両君の鮮やかなフリースケーティングあり次ぎに佐野副会長は札幌師範に優勝旗を授与し安倍スケート部長の発声により万歳を三唱して四時四十分散会した
(写真はアイスホッケー・外濠リンクにて)

昭和5(1930)年1月27日付『秋田魁新報』より

北日本氷上競技大会
『昭和5年 運動年鑑』(朝日新聞社、昭和5年)より

昭和6(1931)年、第4回「北日本氷上競技大会」は、千秋公園スケートリンクの結氷状態が悪かったためか、能代市の出戸沼リンクに場所を移して開催。その後、出戸沼は埋め立てられ、跡地は昭南町という名の住宅街にになっている。

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「袋小路のイチョウ」と「濯纓楼」跡・金照寺山麓

▼保存樹「袋小路のイチョウ」

秋田市楢山大元町の奥羽本線(秋田新幹線)鉄橋方向から、金照寺山北麓を流れる太平川沿いの土手を川下(西)に向かって進むと、やがて右手にイチョウの大木が姿を現す。

太平川
2013.11

旧町名・楢山字楢山、俗称を「袋小路」というこの地は、土手の突き当たりが羽越本線鉄橋で行き止まりのため、散歩する人もめったに入らず閑散としている。

袋小路のいちょう
2013.11

「袋小路のイチョウ」秋田市楢山大元町・鈴木家地内
昭和49(1974)年10月11日 秋田市保存樹指定19号
推定樹齢450年

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

大樹の下に、子育てに御利益があるという「姥権現」(うばごんげん)の祠(ほこら)が鎮座し、幹から「ちち」と呼ばれる気根が下垂。

袋小路のいちょう
2013.11 気根・乳状下垂

お婆さんの乳房のように垂れ下がった「ちち」をなでれば、母乳の出が良くなると信じられ、近在の妊婦、子育て中の母親が参詣したものという。

イチョウの気根にまつわる、同様な「授乳祈願信仰」は各地に分布し、「姥銀杏」「銀杏姥神」「乳母神」などと称されている。「姥・うば」と「乳母・うば」はダブル・ミーニング(両義語句)。

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

袋小路のいちょう
2013.11

いちょう
2013.11

いちょう
2013.11

いちょう

太平川
2009.04

太平川の「袋小路のイチョウ」付近は、川底が岩盤の浅瀬で、夏になると絶好の遊び場になった。

古老の話によれば、このあたりを「サナ」と呼び、ヤツメウナギが良く採れたという。「サナ」は産鉄・砂鉄に関わる地名。太平川の「サナ」は、地形的に砂鉄が溜まりやすい砂鉄採取地だったのかもしれない。
 

▼文人サロン「濯纓楼」跡

江戸時代中期「袋小路のイチョウ」の西側に、三代目・伊勢三安(儒学者で久保田藩の医師)が「濯纓楼」(たくえいろう)と薬草園を造営。城下の文人墨客が交遊するサロンとなった。

景勝の地・金照寺山と太平川を臨む、二階の三方向に露台(和式バルコニー)を設けた「濯纓楼」はその後、勘定奉行・吉川楽斎の別邸に。天保2年(1831)、江戸で人気の漢詩人・大窪詩仏(1767-1837)が、来藩のおりに訪れ詩歌を詠む。

大窪詩仏
大窪詩仏『詩聖堂詩集』第三編(天保九年刻成)より「吉川氏濯纓楼」

金照寺山
2004.02

濯櫻楼址
2013.11 「濯纓楼」跡と羽越本線鉄橋

詩仏来し濯櫻楼趾茄子木枯れ 境田素洞(楢山愛宕下の俳人)

かつて「濯櫻楼」が存在した畑に残る茄子の枯れ木。その畑地の一部は、平成初めの護岸拡張工事を経て土手に変容、樹木も伐採され、往年の野趣を失ったが、太平川と金照寺山を望む光景は、江戸時代の文人が遊んだ昔日のおもむきを今に残して、静かに時が流れている。

太平川
2009.04 下流から金照寺山を望む

太平川
2013.11 下流から「濯纓楼」跡を望む


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袋小路のイチョウ

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城下の面影「遺愛の松」名木残影

遺愛の松
2013.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」跡

しばらく見ない間に、亀の町の名木「遺愛の松」が、跡形もなく消えていた。

遺愛の松
昭和47年(1972)吉田直也 『秋田市の木と林と森』より

昭和49年(1974)秋田市指定保存樹 第15号
クロマツ「遺愛の松」推定樹齢400年(保存樹指定時点)

由緒 藩祖佐竹義宣公が常陸(ひたち)の国より国替えの折りに携えてきた鉢植えの松である説や、藩士小助川某が大阪城夏の陣の際、記念に植えられたものであるとの説が伝えられている。
掲示パネル解説文より

「遺愛の松」とは「佐竹義宣公が愛された松」というような意味だが、命名は戦後のことだと思う。

佐竹義宣が大切に携えてきた鉢植え(盆栽)であったとすれば、身近な城内に置くはずで、後述の新聞記事を見ると、小助川なにがしの記念植樹説のほうが、比較的に説得力があるように感じる。

遺愛の松
2005.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」

よく手入れされた盆栽のように、それは見事な枝振りを見せていた「遺愛の松」も、平成3年(1991)の台風19号で大枝を折られたのを手始めに、樹幹および大枝の腐朽(空洞化)が進み、四方に大きく広がっていた大枝を失い満身創痍。近年は御覧のように無残な姿に変わり果て、いつ指定を解除されてもおかしくない状態となっていた。

路上に大きく突き出して、影を落としていた枝も、電線・ケーブル類増設の障害になるため伐採された模様。

遺愛の松
2005.05「遺愛の松」消失物件

晩期はパネルの後ろに鉄柱が立てられ、空洞化した樹幹をワイヤーで支えていた。

平成25年1月10日発行『秋田市広報』の「保存樹指定解除一覧」に当物件が掲載されているところをみると、撤去は昨年の暮れと思われる。

保存樹指定解除の理由は「樹幹の著しい腐朽」。積雪の影響で倒壊したのか、または、倒壊の恐れがあるため、前もって伐採したのか。
 

▼武家屋敷の「さむらいの松」参勤交代の道筋

クロマツ(遺愛の松)のあった中亀ノ丁上町(旧地名)は、中級家臣が住んだ屋敷町。佐竹氏の参勤交代の際は、久保田城・二の丸から大手門通りに出て、広小路、根小屋町、中亀ノ丁、登町、牛島を経由して江戸に向かった。

昭和4年(1929)の『秋田魁新報』に、中亀ノ丁上町のクロマツ(遺愛の松)のことが写真入りで載っている。

遺愛の松
昭和4年(1929)『秋田魁新報』より

藩政時代の面影が残る旧家の黒板塀に、見事な枝振りのクロマツがよく似合う。

クロマツのある御屋敷を守るお婆さんが、魁新報記者に語ったところを要約すれば……、

佐竹義宣公の時代に大坂夏の陣(家康と秀頼の戦い)に出征した小助川なにがしは、戦功を挙げ五百石加増を賜る。その記念として大阪から鎧櫃(よろいびつ)に入れて持ち帰ったのがこのクロマツ。

クロマツの根元には鎧、兜の類が埋めてあると伝えられ、今も根元三尺は踏まぬようにしている。日露戦争の頃は「さむらいの松」と呼んで、参詣人などもあったようだ。

という面白いお話し。

遺愛の松
2013.05 社団法人「秋田県林業土木協会」敷地内

名木「遺愛の松」のあった庭に残る屋敷神の石祠。ひょっとすると、このあたりに、江戸時代の鎧兜が埋められているのかも知れない。


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保存樹「遺愛の松」跡

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ケヤキの大木を惜しむ・寺町定点観察


2009.05

「秋田音頭」発祥の地といわれ、久保田城の裏門を山門として移築したことで知られる寺町の曹洞宗・鱗勝院は昨年(2010)、無粋なブロック塀を古風な板塀に改修、古刹にふさわしい景観がよみがえった。


2010.06

板塀に改修したのは良かったが、工事の支障になったためか、境内の塀際に存在した樹齢100年はあろうかと思われるケヤキの大木が伐採されたのが惜しまれる。


2006.07


2010.04


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