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広告で見る「大島商会」店舗の変遷

「旧大島商会店舗」移築保存決定記念号

大島商会
▲旧大島商会店舗 2010.08

五丁目橋から横町通りを通過し新国道に抜ける都市計画道路・川尻広面線の道路拡幅工事の進展にともない、解体の危機にさらされていた、秋田市大町六丁目の旧「大島商会」店舗が、所有者である菓子舗「高砂堂」の塚本家から秋田市に寄贈され、移築保存されることが決まった。 

秋田市下肴町に明治34(1901)年竣工の同店舗は、市内に現存する煉瓦造りの建造物としては最古とされ、平成12(2000)年、国登録有形文化財に指定される。

当初は商業施設としての活用を念頭に売却先を探していた。店舗としては非常に魅力的な物件であり、たとえばカフェなどの出店を計画する飲食業者や、賃貸を目的とした不動産屋が、移転用地を確保して購入できたとしても、専門業者による解体・復元に要する費用は莫大なものとなるため二の足を踏み、なかなか話がまとまらなかった。

移転先の候補にあげられているのが、大町一丁目「秋田魁新報社」跡地の一角で、「サンパティオ大町」に隣接する、現在は市有地となっている部分。間近には復元された明治期建築の呉服店「旧金子家住宅」、そして同じ通りの大町三丁目に「赤れんが館」(旧秋田銀行本店) と、すでに2件の有形文化財がある、移転候補地としては最適なロケーション。

現在、花屋「花京都」が入居しいてる、旧「大島商会」店舗の、かつてのテナントをあげると、70年代は焼肉「平壌園」80年代に入って居酒屋「南蛮亭」そのあとに食事&喫茶「ボデゴン」と続いた。時代をさかのぼって昭和20年代、建物の所有者である「高砂堂」が短期間、喫茶店を経営していたこともあるとのこと。

▼広告で見る「大島商会」店舗の変遷・明治から大正まで

大島商会
▲明治35(1902)年 新聞広告

上掲画像は『秋田魁新報』に掲載された「大島商会」開業時の広告。開業日は明治35(1902)年5月29日(木曜日)。

前にも書いたように、当初は委託品を販売する委託商として営業を開始。広告文には開業当日に用意した委託商品として次の品目をあげている。

◎目下委託せられ開業当日よりの販売品は左の如し
◎各地産漆器◎秋田産精製漆◎秋田八丈◎地織縞木綿◎亀田ぜんまい織

汁椀・重箱・菓子器などの漆器と精製漆。「秋田地織」として県外にも販路を広げた「亀田ぜんまい織」秋田特産草木染め絹織物「秋田八丈」と、洋館店舗には不釣り合いな手工芸品がならぶ。漆職人が漆器に塗るために使う精製漆にどれほどの需要があったのだろう。

徐々に品物を増やし、この年には舶来自転車の委託販売も始め、やがて「委託商」のフレーズが広告から消えるのだが、委託商として商売を始めた理由は、店舗の建設費がふくらみすぎて、資金不足に陥ったためと推測する。

‥‥前略‥‥又当商会の建築は秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて 幾分か御目新しき所も可有之(これあるべし)と存候(ぞんじそうろう)に付 開業当日より御散策方々賑々(にぎにぎ)しく御枉駕(ごおうが)の上 御遠慮なく陳列諸品 御熟覧被下(くだされ)御購求の程 偏(ひとえ)に奉願上候(ねがいあげたてまつりそうろう)‥‥中略‥‥

秋田市下肴町
委託商 (K)商会主 大嶋勘六

古めかしい候文(そうろうぶん)が時代を感じさせる文中に「当商会の建築は秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて」とある。商店としては初の煉瓦建築だった可能性は高いが、商店以外で秋田初の煉瓦建築とされるのは、明治23(1890)年、土手長町の秋田県庁舎に隣接して創建された県会議事堂である。

大島商会
▲明治35(1902)年

上掲の新聞広告と同じイラストを使用した広告。

瓦屋根の上に避雷針。二階にバルコニーと看板。中央の石積アーチ玄関の他に、今は封鎖されてショーケースが置かれている両側の石積アーチ部分も、このイラストを見る限り、当初は出入口として使われていたようだ。

大島商会
▲2004.03

大島商会
▲明治42(1909)年 広告より

明治40年代に入ると写真を使った広告が登場。

店頭に人力車と自転車。横町通りを寺町方向へと歩を進める着物に洋傘(日傘)の婦人たち。洋傘は「大島商店」の取扱商品であったから、三人の婦人は撮影のためのエキストラなのだろう。

大島商会

店頭で一人だけカメラに眼を向けている着物姿の男性は、同商会主人・大嶋勘六氏か。

現在は瓦屋根がトタンに吹き替えられ、二階のアーチ窓はセメントでふさがれている。金属製バルコニーおよびアーチ窓に附属する観音開きの鉄扉は消失。金属類は経年劣化に弱いため、度々補修しない限り、竣工当時の姿をとどめることは難しい。

バルコニーの下、店舗前の道路に突き出して設けられた木製の軒は、北陸・山陰・東北地方の雪国にかつてみられた「小店」(こみせ) 。雨露をしのぎ、積雪時には軒下が通路となる、今でいうところのアーケードで、各々の商店で高さを揃えた「小店」を造った。写真右手、 西隣に連なる切妻造りの商店にもそれが続いている。秋田では「こもせ」とも呼ばれ、地方によっては「雁木」(がんぎ) ともいう。

大島商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工

大島商会
▲建物側面のアーチ窓 2018.12

側面に残る鉄扉は劣化が激しく今にも崩れ落ちそう。

大島商会
▲建物背面のアーチ窓 2014.07

背面のアーチ窓には鉄扉の蝶番(ちょうつがい)の痕跡が残る。

大島商会
▲明治44(1911)年 広告より

明治末期になると、煉瓦造りの洋館には不釣り合いだった「小店」は廃止され、バルコニーの下、アーチ玄関の両側に新たにショーウィンドウを設置することで、よりモダンな佇まいとなる。バルコニーに掲げられていた「洋品雑貨」の看板は屋根下に移動。

解像度が低く質の悪い凸版印刷のため、拡大すると網点が目立ち、細部は不鮮明だが、バルコニーの下に「OHSHIMA&CO.」などと書かれた横文字の看板が並び、手前のショーウィンドウには紳士物の帽子が飾られ、入口付近に商品の乳母車が見える。

画像右手、建物の裏にちらりと見える切妻屋根の日本家屋は経営者の自宅とのこと。

大島商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

大嶋商会
▲大正5(1916)年 広告

こちらの広告写真は、卒業アルバムや美術工芸印刷などに使われるコロタイプ印刷のため、上掲画像よりは解像度が高く、拡大すると細部がある程度確認できる。

冬期の撮影か、側面のアーチ窓から煙突が屋根に延びる。

大嶋商会

大嶋商会

男鹿石と推定されている重厚な石積アーチ玄関の両側に置かれた、ショーウィンドウの展示品は、手前に靴と洋傘、右に紳士用の帽子各種。玄関の上にブラケットライト。

大嶋商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

大島商会
▲2008.07

欧米のデパートメントストアを手本に、当時はまだ珍しかったカタログによる通信販売、商品切符(商品券)の発行、今でいうところのポイントカードの発行など、先進的な経営とモダンな店舗で、明治から大正・昭和初期にかけて名をはせた「大島商会」。

取扱商品は、帽子・靴・鞄・洋傘・化粧品・文房具・眼鏡・時計・スポーツ用具・煙草・乳母車・舶来自転車 等々。そのほか、春慶塗・樺細工・自社ブランドの銘菓・八郎潟産佃煮など秋田の特産・名産品も販売。

土手長町中丁に「大島商会東店」を開設、土手長町上丁・広小路角の初代「秋田ビルディング」(新田目本店跡) に支店、秋田駅構内に旅行用品とお土産品を扱う売店を置き、駅のホームでは名産品の立ち売りもして、一時は土崎駅にも出店する。

「大島商会」の主力商品は紳士用帽子。明治から昭和初期にかけて、子供から老人まで、ほとんどの男性が外出時に帽子をかぶっていたことは、過去記事「消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退」に書いたが、その帽子ブームの時代と「大島商会」が存在した時代が重なる。

過去記事から帽子の広告を再掲。

大島商会▲大正10(1921)年 新聞広告

今年の秋は何(ど)んな帽子が流行(はやる)んでせう?
大島商会の店頭を御覗(おのぞ)き下されば直(すぐ)御理解(おわかり)に成ります

数ある同商会の広告のなかでも、コピーとレイアウトのバランスが絶妙でイラストもまた味がある、お気に入りの一点。

「大島商会の店頭を御覗(おのぞ)き下されば直(すぐ)御理解(おわかり)に成ります」の「店頭」は、まさに上掲画像の“帽子が陳列されたショーウィンドウ”の光景である。

大嶋商会

「大島商会」に関してはネタが尽きないが、同商会が主催した自転車遠乗会(サイクリング大会)、自転車競争(ロードレース)などの関連記事は下記リンク先に。

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百七年目の「自転車百哩大競走」復刻版


新聞広告 明治三十五年

明治35年9月21日、秋田市下肴町のハイカラ商店・大島商会の主催により開催された、県内初の本格的ロードレースと思われる「自転車百哩(マイル)大競走」から100余年の歳月が流れた、平成21年9月21日の早朝、今も同地に残る旧大島商会の前に一台の自転車の姿があった。

車上の人は当ブログの「自転車百哩大競走・大島商会主催」を読んで感銘をうけ、数ヶ月前にそのレースの再現を決意し、この日のために準備を進めてきたチャリンジャーさん。

平成21年9月21日「自転車百哩大競走」

100余年前は舗装も整備もされていない悪路がつづくコースにくわえ、あいにくの雨天、自転車の性能も今とは格段に違う。好天に恵まれたコースを完走したチャリンジャーさんは、過酷なレースにチャレンジした当時の参加者の“凄さ”を常に感じながらの走行だったとブログで語っている。

明治の世に百哩大競走を企画した大島商会店主・大嶋勘六氏をはじめ、9人のレース参加者たちも彼の世から、秋風をうけて往時と同じコースを颯爽と走るその姿を、目を細めて見守っていたのではなかろうか。



この(2009)6月6日にはおなじく大島商会主催の「自転車遠乗会」、そして今回の「百哩大競走」と、今年は当ブログのエントリーに誘発された、21世紀版復刻企画がつづいた。

それらのエントリーが心を動かし、復刻企画を実行するきっかけになったのであれば、こんなブログでも存在する価値が幾分はあったということで、書き手としては正直うれしい。

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関連リンク

そよ風と一緒に♪ : 平成の「自転車百哩大競走」 2009年9月21日
そよ風と一緒に♪ : 秋田で最初の自転車レース!?
そよ風と一緒に♪ : 平成の『自転車百哩大競走』

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マイテーとは何か?・大島商会の不思議広告



大正元年の秋、秋田魁新報三面に、「マイテー 何か」という、謎の文面の一段広告が掲載され、それから十四日のあいだ、その不可解な広告が延々とつづく。はたして「マイテー」の正体はいかに。






ナポレオンは マイテー人物(マン)
大日本帝国は マイテー邦国(カントリー)
英京倫敦は マイテー都市(シテー)

埃及金字塔は マイテー遺物(ニユメント)
日本富士山は マイテー山嶽(マウンテン)
さて其の次のマイテーは?
最初の掲載から十五日目、皆様ながらくお待たせしました、ようやく「マイテー」の正体を明かす謎解き広告が・・・・・・。



その正体は、秋田市下肴町に煉瓦造りのモダン店舗を構える大島商会特製の「マイテー靴」。

「特色は如何(いかん)」と、また翌日へと広告はつづき、半月にも及ぶ連載広告は完結を迎えた。


靴の需要増加と共に徒に外見を飾れる粗製濫造品の多きに鑑み特約工場を東京に設置し厳重なる監督の下に欧米の最新方式に則り製作せしめたるもの是れ即ち特製マイテー靴なり堅牢にして持久力に富み全くマイテーの名に反かず而も実用を主とせるが故に価格の低廉なる多く他に類を見ず。一度び使用せられなれば二たぴ三たび否な永久にマイテー靴を忘れ給う能わざらむ
明治の創業時から広告を重視した大島商会は、秋田市手形出身の人気文筆家で文明批評家の青柳有美を顧問として迎え、当時としては斬新な経営と広告を展開。この「マイテー靴」のアイデア広告を考案し、広告文を書いたのも青柳有美ではないだろうか。

謎かけの惹句を仕掛け、数日後に謎解き広告を載せる、このようなタイムラグ広告は、せわしなく情報があふれかえり、埋もれるスピードも早い現代では考えられない、ゆるやかなる時代の広告表現といえよう。


旧大島商会店舗 正面入口の石積アーチと要石が重厚にして優美

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自転車百哩大競走・大島商会主催

秋田市下肴町に大島商会が創業して間もない明治三十五年(1902)の秋、大嶋勘六氏の企画により、自転車の普及宣伝を兼ねた「自転車百哩大競走」なるイベントが開催された。


新聞広告 明治三十五年

秋田市を早朝に出発、本荘、浅舞、横手、六郷、大曲を経て秋田市に帰着する、延長百二十哩(マイル)約193.1 kmの走行コース。

賞品として、一着・金側懐中時計、二着・銀側懐中時計、三着・秋田八丈一反、四着から十着・木綿反物一反が用意され、参加できる自転車として、英米製の舶来自転車主要メーカーの名前が並ぶ。まだ国産自転車は性能が低く、輸入車が主流だった。

当時、自転車を所有することができるのは、資産家か地元の名士など一部の富裕層のみ。自転車がステータスシンボルであり、また贅沢な娯楽・スポーツであった時代である。

九月二十一日の大会当日、あいにくの雨模様の中、集まった参加者は九名、午前五時三十五分スタートの号砲が鳴る。

結果およびタイムは以下の通り。

一着・三森定治氏、午後三時四分着
二着・鈴木忠治氏、午後四時二十五分着
三着・小野周八氏、午後四時二十七分着
四着・伊藤徳松氏、午後五時三十五分着

その他の出場者は午後六時までの制限時間をオーバーするため、大曲で中止したという。当時の自転車の性能と乗り心地、未舗装の道路などの条件を考えると、出場したアマチュア選手にとって、相当過酷なレースだったことが想像できる。

日本で最初の自転車競走が開催されたのが明治三十年前後、これは短距離レースだったようだが、それから五年後に大島商会が開催した百哩競走は、秋田県に於けるロードレースの嚆矢であり、全国的にみても早い時期に開催された長距離レースだったのではないだろうか。

明治期に県内初の煉瓦商店を建て、列車を利用したサイクリング大会、ロードレース、さらにはミステリートレインなどの、当時としては画期的かつ独創的なイベントを企画開催した、大島商会店主、大嶋勘六氏の先進性と行動力には目を見はるものがある。

※明治大正期の広告等の店名は「大嶋」と「大島」が混在し「大嶋」のほうが多いが、登録有形文化財の登録名は「旧大島商会店舗」であり、文献も「大島」としているものがほとんどなので、表記は「大島商会」に統一した。

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