二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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秋田航空事始め・大正三年の飛行機大会

▼秋田の空を始めて飛行機が飛んだ日
 

奈良原式鳳号
▲『秋田魁新報』広告

今から約100年前の大正3(1914)年6月、秋田市の空に初めてのエンジン飛行機が飛んだ。

飛行機大会の会場は秋田市亀ノ丁新町(現・南通みその町・南通築地)に広がる「楢山中学校運動場」通称「楢山グラウンド」。明治30年代に県立秋田中学校(現・秋田高校)運動場として整地されたこの地は、野球大会を初めとした各種スポーツのメッカであった。詳しくは次回に。

「秋田県震災救助慈善 飛行機大会」とある震災は、同年3月、秋田県仙北郡大沢郷村を震源として、死者94名、建物全壊285戸を記録したM7.1 規模の 「秋田仙北地震」(通称・強首大地震)のこと。

秋田魁新報・秋田時事・秋田毎日の地元三紙に加え、国民新聞支局が大会を賛助した。

大島商会
▲「大島商会」新聞広告

飛行機大会に御来秋の方は
必ず弊店に御枉駕(おうが)ありたし 進歩せる珍しき新しき品を店内一面に陳列してあります
大嶋商会

 秋田市下肴町のハイカラ商店「大島商会」の、ハイセンスなデザインが眼を惹く新聞広告。同商店の広告図案を数多く手がけた石嶋古城の作と思われる。

※枉駕(おうが)・来訪をいう尊敬語
 

明治の煉瓦商店・旧大島商会

大島商会開業・明治三十五年

自転車遠乗会・大島商会主催

自転車百哩大競走・大島商会主催

消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退
大島商会の広告あり

▼飛ぶように売れた記念絵葉書
 

奈良原式鳳号

大会当日、会場の露店で三枚一組七銭で発売された絵葉書の一枚(発行・旭秋絵葉書倶楽部)。キャプションに「秋田市楢山中学校運動場に於ける奈良原三次氏と航空大飛行の実況」とあるが、飛行機部分は合成。

記念絵葉書がいちばん売れるのはイベント当日。そこで発行元はあらかじめ撮影した現地の写真と飛行機を合成したものを用意して販売した。

ビデオもテレビも無く、カメラは高級品、新聞の写真も鮮明では無かった時代、写真絵葉書は“今”を記録する数少ない情報メディアであった。

記念に絵葉書を購入した人たちは、家に帰ってそれを見せながら、土産話に花を咲かせたことだろう。

 

▼民間飛行のパイオニア・奈良原三次
 

奈良原式鳳号

明治44(1911)年5月、埼玉県の所沢飛行場にて、海軍の技士から民間飛行家に転身した奈良原三次が製作・搭乗した「奈良原式二号機」が、高度約4m、距離約60mの飛行を記録、これが国産機(エンジンは外国製)による初の飛行とされている。

明治45(1912)年3月末、秋田に来た「奈良原式四号機・鳳号」完成。以降、奈良原飛行団を結成、有料飛行機大会を開き、各地を巡業し興業飛行を行う。「鳳・おおとり」の名は出資者が贔屓にしていた関取の“しこ名”とのこと。

 

▼飛行機大会実況一日目(土曜日)
 

奈良原式鳳号

 

●プロペラの音
▼満城士女の夢を驚かす
▼昨曉予備飛行せる鳳号

鳥のほかに空を飛翔するものを見たことがない村落から來た人々は、本当に飛行機と云うものは飛び上がるものだろうか?と半信半疑の眼を見張つて曇れる天空を仰いで居た

 我が鳳号! は果たして翼動かず杞憂の中(うち)に葬られ、衆人環視のうちに空中のシローレースに終わるや否や?我が鳳号は昨曉(さくぎょう)天いまだ全く明け渡らざるに堵(と)を出で、操縱者白戸栄之助氏によりて楢山運動場に於てそのモーターの試運転と予備飛行を行はれたり

 飛べり飛べり 露湿めれる運動場の眞中に憩いたる鳳号の側に来た白戸氏は飛行服と眼鏡に身を堅め遙かに東方の空を睨んでゐたが、時来るや白戸氏のその右手がプロペラにかかるよと見る間に、獅子吼の音を立てて廻転しはじめ偉大な両翼を緊張して、最初は低空滑走より次第次第に高く飛んで

 空に昇る こと六十餘尺に逹し更に鉄道線を境に郊外を圓圍(えんい)百五十メートルに至つて、先に記者等に約束した地点を違はず着陸した時は、おもわず萬歳を三呼したものである、そして鳳々、彼は荒鷲のそれにも似たるけたたましき羽ばたきの音に満都の士女の眠りを覚まして当市に於ける處女航空を首尾よく飛翔し了した

 晴れよ晴れよ 願わくは天空の本日の日曜をして晴らさしめよ、而(しか)して秋田の天地に於ける航空嚆矢の壮快なるレコオドを作らしめよ

 楢山原頭の賑ひ 予備飛行は別項の如くなるが午前八時に至るや花火数発を揚げ九時より入場を許せるに、縣内の各小学校は云ふに及ばず縣立中学校・農業学校・市立技藝学校等多數の団体あり、ために定席は空地なき程充満し、今や今やと待ち居る中十二時過ぎに至るや一層の人出にて、場外には數十の露店ありキップを贖(あがな)はずして見んとする者群をなし、その賑やかさは一通りに非ず、午前零時に至るや操縱者白戸栄之助氏は鳳号を引き出し学生連に対し一つ一つ説明する所あり、それより第一回飛行に着手せり

 飛行の光景 第一回飛行は十二時三十五分より始めたるが、今か今かと待ち居る事とて満場総立ちとなりて押し合い觀覽し居るうち、助手伊藤乙治郎氏(※)約五十分にわたる説明あり、それより約十五秒間の飛行あり高さは三メートルにて、第二回飛行は同じく白戸氏操縱し十二時四十分に始め約十二秒高さ四メートルを保ち西端より東端に飛行せるが、入場者は約五千余ありて盛況を極めたり、なお高く飛行せざるは場内の狹きため負傷者等出すやうな事あるより中止せるなりと

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

※伊藤乙治郎は伊藤音次郎の間違い

奈良原式鳳号
奈良原式鳳号操縦者・白戸栄之助

 

◎川端新聞
‥‥前略‥‥
▲新しい小時と古い牡丹の二人は飛行機の搭乗を互いに、その先を争うて女宇治川をやってるそうだが落ちて大事大事の腰など痛めねばよいが

大正三年六月二十一日付『秋田魁新報』より

川反芸者
 左・牡丹  右・小時

秋田市川端(現・川反)花柳界の消息を伝えるコラム「川端新聞」から、亀喜(かめよし)の小時(おとき)と末廣家の牡丹という、当時の人気芸者二人が、どちらが早く飛行機に同乗するかを競っているというお話し。当時の飛行家は芸者に良くモテた。

「新しい小時と古い牡丹」とあるが、末廣家の牡丹のほうがデビューが早かっただけで、二人の誕生日は数ヶ月しか違わない。

 

▼飛行機大会実況二日目(日曜日)
 

◎満足を与えた
▲昨日の大飛行

▲予備飛行 昨朝は別項の如く午前五時十分楢山グランドを発し、高所約四百五十メートルを保ち手形練兵場を訪(おとな)いたるが、その距離は六千五百メートルにて、その時間は四分五秒にて、最初東方に向かい発し次第に東北に湾曲し練兵場に着陸せるが
▲二日目の盛況 は大したものにて、午前中に入場者約一万五千と註され。場内を角に囲みたる定席は人を以って埋められたり、停車場は一列車毎に数百名づつ吐き出され、午前中にて降車人員は約五千名にて、ために一時飛行場に通ずる各道路は通行杜絶する程の有様にて、今かと飛行の遅きを待ち居たる内、各助手等は飛行機を格納庫より引出し学生団に説明する所あり、それより北端の隅の所に運び点火せるや
▲プロペラの音 バッバッと立て、頃は良しと滑走を始めグランドの中央まで進みたると思うや、徐々と東南の空に飛行し、鉄道線路を越えてより湾曲になり停車場の上を通り飛行場の中央に着陸せるが
▲観客は大満足 にて満場総立ちとなり拍手喝采し、かくて午前の第一回飛行は終わりたるが、細身の白戸氏はニコニコとして「場所が狭い為に・・・」と自ら満足の色顔に現れ居たりき
▲飛行時間 は午前十時十分頃より約一分間にて最高百五十メートルにて、その距離約千メートルなりしと、なお午前の飛行は風の具合を見て二時頃飛行の筈にて、観客は引き続き潮の如く寄せ来たり正午頃には既に入場拒絶の有様なりき

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

◎飛行機来る
楢山体操場より
手形練兵場まで

昨日午前五時七分の下り急行が秋田駅を出発して間もなく、何かブルブルと云う音が聞こえた、段々音響は激しくなるのでさては昨日見た飛行機か知らんと外に出て瞬きもせず遙かの空を眺めたら、幅三尺位のカーキー色したものは空中に翔(かけ)り段々と手形を指して飛んで来た、その早さは飛ぶ鳥も追いつくこと出来ない程で、間もなく練兵場の北方にピタリと下りたら、果然鳳号はその勇姿を現し飛行家の白戸氏は静かに機より下りた、草刈りの男女は吃驚して右往左往に逃げる、師範と鉱山の寄宿生は拍手して駆け付くる、奥さん嬢さん達は裳裾をからげて燃ゆるような蹴出しをちらつかせ、爺さん婆さんは杖にすがって駆け集まる、児童は飛行機だ飛行機だと万歳を絶叫する、たちまち人の黒山を築いた、白戸氏は飛行機に対して詳細なる説明を与え学生はしきりに傾聴する、かくて約一時間居りし内二千人ばかり集まったが、その内助手が来たり、機を分解して楢山の体操場に運んで行ったが、これを見て飛行機が破損したと誤解した馬鹿もあったらしい、何しろ興行場での飛行機はピーと飛んで直ぐ下りるのだから甚だ興味の薄き感じを起こすも、今この飛行を目前に見て実に愉快に堪えなかった

大正三年六月二十二日付『秋田魁新報』より

大会二日目の21日は日曜日とあって更なる大盛況。なかでも、早朝の予備飛行で楢山グランドを離陸して手形練兵場に着陸した鳳号の姿に、驚きながらも熱狂する観衆の反応が実に面白い。

手形練兵場とは現「秋田大学」の西側一帯に広がっていた十七連隊の演習地。当時は今の秋田大学の地に「鉱山専門学校」、その南側に「秋田師範学校」があった。

千秋公園より手形方面を望む
大正期の手形練兵場周辺

奈良原式鳳号

 

▼借金まみれの興行師・奈良原三次
 

●飛行会の盛況
三新聞及び国民支局の賛助の許に、来る二十日二十一日の両日楢山運動公園にて開催の飛行大会は、市内各学校は勿論、郡部も併せて数百校の学生団の申し込みあり、其他各種実業団・青年団等、陸続(りくぞく)申し込みあるが、‥‥中略‥‥又今回の飛行大会は我が国 民間の飛行倶楽部にて経営せるものにて、その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず、なお其の後の申込みは小坂鉱山山谷地新聞店主催の五十名、神宮寺清水新聞店主催の二百名、秋中生団六百名、私立技芸学校生徒全部にて、飛行家一行十余名は本日下り直行にて来秋の筈
大正三年六月十八日付『秋田魁新報』より

「その収入は飛行機研究の資金となるものなれば、もとより普通一般の興行視すべきものにあらず」とあるとおり、飛行機の研究・製作には多大な資金を必要とする。しかし、奈良原が各地で興業飛行大会を開催し、金を集めたのには以下の様な実情があったという。

海軍大技師から民間飛行家となった奈良原三次は、明治四十四年五月に「鳳号」で初飛行に成功した。しかし、その後、男爵の嫡子が飛行機に乗り、墜落でもしたら大変と親類一同から飛行機研究を中止させられる。だが、これは表向きの理由で、奈良原が飛行界を離れざるをえなかったのは、東京下谷の芸者に金を注ぎ込んだためだった。

奈良原にはれっきとした妻があったが、下谷の芸者さんだった福島よね子母子のために多大な借財をし、飛行機研究のスポンサーから財産差し押さえを受け、飛行機に乗ることができなくなってしまったのが真相だ。しかたなく興行師となって弟子ともいえる白戸栄之助の操縦で巡回飛行などをして回り、金集めをしていたものの、ついに借金地獄で身を隠さねばならなくなってしまった。
横田順彌『雲の上から見た明治−ニッポン飛行機秘録』学陽書房 より

 

▼平野政吉の飛行機道楽
 

「楢山中学校運動場」で開催された飛行機大会の人混みのなかに、秋田市大町一丁目の大地主の息子・平野精一(のちの三代目・平野政吉)が居た。

彼はこのとき、始めて本物の飛行機を見て魅了され、空への憧れを募らせた末、東京に出奔する。

 大正三年(一九一四)六月、秋田に初めて飛行機が舞い降りた。日本で最初に飛行機の操縦に成功してから四年後のことである。民間飛行大会と称した一種の興行で、奈良原三次男爵飛行部の白戸栄之助が操縦する複葉機「鳳号」が秋田市楢山のグラウンドに着陸した。会場には中学生の団体など五千人以上が詰めかけ、グラウンドには露店も出た。その騒ぎの中、鳳号は高度三メートルから四メートル、僅か三十秒足らずの飛行であったが、観客を大いに驚かした。これで精一はすっかり飛行機の虜になった。
 「魔物のような、大きな飛行機を仰ぎ、胸を躍らせた。人間の壮大な夢が、巨大な飛翔感となって、天空に実現していた」その日、精一は会場の楢山グラウンドを去り難く、観衆がまばらになった後も、蓆で囲ってある仮の格納庫のまわりをうろついたが、中に入って飛行機に触って見ることは叶わなかった。そこで思案して、精一はまた一計を案じた。「飛行研究会」なるものを俄に作ったのである。
 家に戻って、精一は中学時代の友達や近所の知り合いを集めて打合せ、翌朝、みんなと一緒に会場に出掛け、精一が先頭に立って、白戸栄之助に面会を求めた。
「われわれは、飛行機を研究する者である。白戸先生の飛行機の知識をわれらにお教え願いたい……」
 これが図星であった。一同手伝い人として、一人二十銭の木戸銭を払わずに会場の出入り自由の特権を与えられ、存分に飛行機の感触を堪能することが出来た。しかし、興行は僅か二日間で、この制約が精一の飛行熱をますます募らせた。
 完全に飛行機に魂を奪われた精一は、夢見心地で世界地図を開き、その上空を飛ぶ自分を想像してあかず世界地図を眺めていた。
‥‥中略‥‥
 精一は正式に日本帝国飛行協会に入り、普通五ヵ月で卒業するところを、五年近く在籍して小栗常太郎に学んだ。この間、精一は飛行機に乗って得意満面だった。「一直線に天界に翔び立ち、二枚の翼にり燦欄とした光を跳ね返し、大都会を一望におさめ、富士山と比肩しうる高度を翔けるときもあった」

渡部琴子『平野政吉−世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』新潮社 より

平野政吉
▲所沢飛行場に於ける平野氏

大正13(1924)年、平野精一(平野政吉)自ら操縦する複葉機が東京湾に墜落、九死に一生を得て帰省、それから三年間の療養生活を送ることになる。 
 

昭和30年の秋田市と平野政吉のこと
平野政吉スピード狂時代

 

 


 

「奈良原式鳳号 製作記」
復元機製作の記録

 





▲奈良原式四号飛行機復元機・稲毛民間航空記念館

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砂利船のある情景・秋田市旭川

秋田市旭川
秋田市旭川(大正期)

旭川に架かる橋の下に夫婦連れらしき砂利船が浮かぶ。その橋は保戸野新橋だろうか。

秋田市旭川
保戸野新橋

昭和初期の『秋田魁新報』より、旭川の砂利船を描写した随筆を。

早春点景

柳の青む川で
 船頭夫婦が 楽しいお昼飯
(F記者)

砂利船の夫婦

「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也…」と芭蕉は奥の細道の冒頭につぶやいている「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす…」と

 雪汁(*1)がひたひた寄せてくる頃市内旭川の川下から掛け声面白く大きな川船が遡ってくる。潟の藻草を積んだ船(*2)である、水影がユタユタ船腹に揺らいで棹を突っ張る若者や面舵を操(と)る老人の顔が赭(あか)くかゞやく……セザンヌの絵のように。

 砂利船の夫婦は冬のうち“おつね”(*3)をしても雪がとけて川があく頃になれば日に三両づゝ二人 少なくとも五両(*4)はラクラク稼げる。ヨタ船が一艘であとは腕と肩が資本でいゝから呑ン気なものである。

 彼等は川口から新川あたりに住んでいるが水の具合を見計らって泉あたりまでも遡ってゆく。夕方柳の青む川べりに沿うて何艘も砂利船の夫婦がくだってゆくのを見る。

暖かな日、舟の盛り砂に腰をおろした砂利あげの夫婦は睦ましげにワッパに詰めた白飯を頬張っているのはハタで見ると羨ましい。

昭和4(1929)年4月『秋田魁新報』より

 (*1)雪汁(ゆきしる)
 雪解け水。

(*2)潟の藻草を積んだ船
八郎潟の海藻類を積んで、雄物川経由で秋田市に到来。

(*3)おつね
越年(おつねん) 。

(*4)日に三両づゝ二人 少なくとも五両
ここでいう「両」とは「円」のこと。明治以降「円」を俗に「両」と称した。

ちなみに、昭和4年前後の大工の手間賃(日当)は3円ほど、小学校教員初任給45円ほど。

インテリ臭い売文業のF記者は「ラクラク稼げる。ヨタ船が一艘であとは腕と肩が資本でいゝから呑ン気なものである」と見下すが、砂利採りは体力を必要とするのはもちろんのこと、年中、水に浸かりっぱなし、春先の増水期などは腰まで冷たい水に浸からなければならない。一般の肉体労働者よりも高い日当も当然の結果であった。

旭川の砂利船
旭川の砂利採り(昭和はじめ頃)

小さな三人は近所の子どもか。船の後方に水汲み用の階段が見える。

水量が比較的少ない川でも運行できるように、船底が平らな造りの砂利船の上には、砂状のものから砂利まで、大きさで選別された砂礫。

旭川の砂利船

川底から鋤簾(じょれん)でかき集めた砂礫は、篩(ふる)いにかけて選り分けられる。力仕事で鍛え上げられた人夫の胸板が厚い。

鋤簾

秋田市旭川
絵葉書「秋田 旭川の清流」(大正末頃)

以前「川反に土手があったころ」に掲載した絵葉書に写る、旭川を下る砂利船。そのむこうに架かる白い橋が、県内初のコンクリート橋・二丁目橋(別名・県庁橋)。

秋田市旭川
2014.09 大町公園橋から二丁目橋を望む

秋田市旭川

 上質な旭川の玉砂利は高値で取引され、昭和30年代半ば頃まで採取がつづけられた。

 

川反に土手があったころ

ケヤキ並木のレストラン・那波家水汲み場
 

川反情緒・風景を読む
 

「県庁橋通り」は県内初の舗装道路?
 

土手長町官庁街の中心地・秋田県庁舎

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広小路堀端に物凄き怪音・昭和十年夏の怪談

昭和10(1935)年の夏、秋田市広小路「大手門堀」に、夜な夜な怪音が鳴り響く異変があり、あたりは深夜まで、噂を耳にして集まった物見高い野次馬でごった返した。

Title

真夏の夜にふさわしい猟奇的な話題が広小路濠端に提供されている……市内広小路大日本電力(*1)前濠端に毎夜午後十一時を過ぎると付近の人々は勿論、遠くから噂を聞いての恐いもの見たさの人々が朝の三時頃までずらっと並んで、向い側武徳殿(*2)土手にまで懐中電灯を照らし照らし黒山の人だかり……広小路濠端に夜十一時を過ぎると物凄き怪音がするとの噂が立ったのが数日前のことで噂はそれからそれへと伝えられて怪物が出るとか、美人が出没するとかと「こわいよ」「またきこえた」などのこわごわの見物人と、怪物の正体見届けんとの街の勇士までが現れて、寝苦しい真夏の夜にふさわしき人出となって賑やかさである……午後十一時人垣を押しわけて出ると、黒い水面の蓮の葉の彼方からカエルのゲコゲコとかまびしき中からウォーン、ウォーンと怪音が時々響いてくる、まさに怪音だ「うすきび悪いわ」若い婦人の声……この怪音の原因について街の人々は「怪物説」と「食用蛙説」との二派に別れてまちまちの論争が続けられている、その一説を聞くと目下問題中の昔ながらの矢留城のお濠を埋立てするの計画(*3)にお濠の主が何百年来住みなれた住家を奪われるのを憤慨しての怪音となるのだとの怪談までが生まれて、さすがに薄気味悪いが夜が更けるにしたがって、人の群もだんだん小さくかたまって、話も静かになってゆく、だが怪音はそんなことにはさらに頓着なく、サッと吹いてきた涼風の中にウォーンと響いた、人々の首をちょっとちゞめさせて……

昭和十年八月三日付『秋田魁新報』より

(*1)大日本電力
現在の「東北電力 秋田営業所」(広小路)

(*2)武徳殿
 「秋田県立美術館」旧館の地にあった武道場。下記リンク先に関連記事あり
二〇世紀ひみつ基地 平野美術館と大日本武徳殿・千秋公園

(*3)お濠(ほり)を埋立てする計画
昭和初期、広小路沿いの外堀を埋め立てる計画が浮上するも、各方面から反対の声があがり断念。明治から大正期にかけて埋め立てられた広小路外堀のことは下記リンク先に
二〇世紀ひみつ基地 広小路から消えたお堀とホテルハワイ

千秋公園・大手門堀
2013.07 千秋公園・大手門堀

市民を騒がせた「大手門堀」の怪音の原因は、新聞記事にも見える「食用蛙」(ウシガエル)と思われる。


ウシガエルの合唱

大正中期に米国から食用として移入されたウシガエルは、国の指導により、昭和に入ると各地で養殖が始まるが、養殖場から脱走した個体が野生化し、全国に分布するようになる。

面白いことに、秋田市における騒動と同年代、北海道旭川市街でもよく似た事件があった。 

昭和4年7月26日の旭川新聞によりますと、

この辺りで、夜な夜な不気味な鳴き声が響き、
「幽霊だ」「いや妖怪だ」と
街をあげての大騒ぎになったそうです。

現場には、怖いもの見たさに大勢の人が集まり、
まるで夏祭りのようなにぎやかさだったとか。
新聞の見出しには次のように書かれています。
 「化け物見たさに賑ふ夏の宵
 牛朱別川辺の小沼の畔 さても物凄い唸り声

で、結局この騒動、どうなったかといいますと、
なんと近くで飼育されていた食用蛙が
鳴き声の主と分かって一件落着したそうです!

旭川キャスター・スタッフブログ:NHK | 牛朱別川で〝妖怪騒ぎ〟!?」より

昭和10(1935)年の夏、秋田市民の話題となった怪音の源に違いない、ウシガエルの不気味な鳴き声は、当時の日本人にはなじみのない未知の音色であった。

千秋公園・大手門堀
2014.07 千秋公園・大手門堀

環境に順応し大型かつ貪欲なウシガエルが定着した池や沼から、モリアオガエルなどの在来生物が見られなくなるなど、生態系に被害を及ぼすことから、平成18(2006)年に施行された「外来生物法」で、ウシガエルを「特定外来生物」に指定、国内では研究目的以外の捕獲・運搬・飼育・販売が禁止されている。

昭和初期にウシガエルの餌として米国から移入後、野生化したアメリカザリガニも、生態系に影響を与える「要注意外来生物」に指定されているが、こちらは飼育・販売などの規制はない。

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ウシガエル - Wikipedia
特定外来生物の解説:ウシガエル [外来生物法]
ウシガエル:カエルの鳴き声図鑑

名声博すも短命に終わる-農家の副業 食用蛙養殖
農家唯一の副業『食用蛙飼養法』昭和2年

東京別視点ガイド : 牛ガエルが丸1匹乗っかった「かえるラーメン」を食べてきた!

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玩具商戦の目玉はボウリングゲーム・1971

ボウリングゲーム

 売れるボウリング・セット

 ボウリング・ブームにあやかって、県内でおもちゃのボウリング・セットが不況知らずの売り行きを示している。家族ぐるみで手軽に楽しめる利点が、うけているポイントだが、県内で相次ぐボウリング戦のテレビ放映なども刺激剤になっているようだ。

 早くも、おもちゃ売場の“切り札商品”にのし上がったこのセット、全国各地の大手デパート間で奪い合いの状態。というのは、家族連れの買い物客をねらうデパートにとって、人気のよしあしが、ほかの商品の売上げに連鎖的に影響するからだ。

 おもちゃ会社が室内で遊べるこのボウリング・セットを生産し始めたのは今年初め。そして、クリスマス・プレゼント、お年玉用品の品揃えが始まる夏ごろには、各社のセットが勢ぞろいした。大手各社の調べでは、七月から毎月二、三割の売上げ増をたどり、同月から十二月までの半年間にざっと五十億円の売上げになる……と、“カワ算用”している。

 最近では、各社の販売、量産体制が軌道に乗ったことから、当初割高であったセットの値段は、千円クラス(小)から二、三千円クラス(大)と安定、買いやすいということも、売れ行き増加の一因になっている。

またABSテレビでは「ストライク・ボウル」「レディス・チャレンジ・ボウル」、AKTでは「パンチアウト・ボウル」「ビッグ・チャレンジ・ボウル」といったいま人気のプロ女子ボウラーなどが登場するレギュラー・テレビ番組が目白押し。いやがうえにも茶の間はボウリング・ラッシュになるわけだ。

 秋田市のあるデパートでは、現在、人気の集中しているE社の「パーフェクト・ボウリング」を含む四社の製品の確保に力を入れ、千二百セットを仕入れた。今月の歳末商戦でこの商品だけで二、三百万円程度の売上げを見込んでいる。

 ここの売上げ主任は「今年四、五月の土、日曜日には二百四十セットも売れました。ジワジワと売行きは延びていたが、ここにきて爆発した感じ。歳末用に予定数をやっと確保したが、人気セットは売り切れも考えられる」と話している。

【写真キャプション】人気上昇中のおもちゃ「ボウリング・セット」=秋田市のデパートで

昭和46年(1971)12月11日『秋田魁新報』 

ボウリングブームがピークを迎え、ボウリングセンターが雨後の筍のように乱立した70年代のはじめ、おもちゃ業界もブームに乗ってボウリングゲームを販売。

なかでも完成度が高く、他社を圧倒する人気をあつめたのが、エポック社の「パーフェクトボウリング」シリーズ。

ボウリングゲーム

「パーフェクトボウリング」(昭和46(1971)年発売)レーン長約80cm、2,650円。「パーフェクトボウリング ジュニア」レーン長約60cm、1,200円。ちなみに、ラーメン一杯150円ほどの時代である。

シリーズのパッケージを飾ったのは、プロボウラー界のスーパースター中山律子。

ボウリングゲーム
2013.08 秋田市川反二丁目「川端角のレトロ博物館」にて

エポック社の「パーフェクトボウリング ジュニア-S型」(昭和47(1972)年発売)レーン長約60cm。その右手「巨人の星・野球盤」の下に、「ジュニア-S型」と同サイズの復刻版「パーフェクトボウリングPRO」(平成8(1996)年発売)。

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