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二〇世紀ひみつ基地

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土曜の午後は「ヤング広場」へ

はじめに前編「広小路に「ヤング広場」オープン・1972」をご覧ください。

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昭和47年(1972)7月、広小路「秋田プラザ」二階にオープンした「ヤング広場」で、ABS秋田放送が公開録音していたラジオ番組「POP IN」は、その年の12月で終了、翌年の1月からは、会場名を冠した新番組「LET'S GO ヤング広場」が始まる。


1972.12.30 新聞広告(部分)

秋田で活動していた、フォークを中心にしたミュージシャンたちをゲストに迎えての公開番組で、第一回の録音が12月30日におこなわれている。司会は佐藤春雄アナ、丹内百子アナの二人。

土曜の午後「ヤング広場」で公開録音が行われている同じ時間、すぐ近くの協働社ビル内「サテライトスタジオ」では、ABSラジオの公開生放送があって人気を集めていたが、「ヤング広場」のオープン以来、多くの若者が「秋田プラザ」に流れていった。


1973.01 新聞広告(部分

フラワームーブメント系のサイケデリックなイラストが時代を感じさせる。公開録音のゲストは「土崎山車曳き仲間」。「パントパ」というのは、幼児向けのリズム体操のようだが記憶にない。


1973.02 新聞広告(部分)

「LET'S GO ヤング広場」のあとに、前年の一月に新日本プロレス旗揚げしたアントニオ猪木が登場。この時期はまだ、あのビンタパフォーマンスはやっていない。


1973.03 新聞広告(部分)

この週は三階のイベント会場にて、二日間にわたる特別公開録音。この年、エレックレコードから「田吾作音頭」でデビューする、あべ十全のコミック路線フォークデュオ「田吾作」も出演している。あべ十全の最新レコーディングである「超神ネイガー 歌っこ全集」の冒頭に収録された「ネイガー音頭」の原点も70年代にある。

昭和48年(1973)9月、公開録音番組「LET'S GO ヤング広場」終了。この年の10月から「ヤング広場」にて、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(通称・ポプコン)秋田地区予選が行われている。

昭和49年(1974)、番組名を「ヤングのど自慢」と改め、公開録音は継続されるが、「ヤング広場」は「いこいの森」と名称を変更し、早い時期に、オーディオショップとスナックは撤退したと記憶している。


1974.01 新聞広告(部分)

華々しくスタートした「ヤング広場」であったが、徐々にトーンダウンして、約一年という短期間で終焉を迎える。それだけに、その存在を記憶にとどめるものは非常に少ない。

秋田フォーク界のカリスマ・山平和彦は名古屋に拠点を移し、「マイペース」もそのあとを追って秋田を離れていった。フォークソングのメジャー化が進行するとともに、シンガーソングライターの曲が、ニューミュージックと呼ばれるようになった、70年代中頃のことである。

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広小路に「ヤング広場」オープン・1972

昭和47年(1972)7月、秋田市広小路「秋田プラザ」(現・キャッスルズアーケード)二階に「ヤング広場」オープン。前日の秋田魁新報朝刊に全面広告を載せるほどの力の入れようであった。


1972.07 新聞広告
フィーリング豊かなヤングのための新しい情報!!
ヤングプラザ〈ヤング広場〉

プラザ2Fにヤングナショナルテクニクスアキタと秋田で始めてのアメリカンスタイルのメニューを多彩にもったスナックをレイアウトしたユニークな広場〈ヤングプラザ〉誕生!! 君も僕も生演奏に包まれて出演者と一体となって自由に参加できる楽しい広場です。
広告文より


ステージの前に客席、その後ろにアメリカンスタイルスナックのカウンター。広場に隣接してパナソニック系テクニクスのオーディオショップが並ぶ、当時の秋田では最先端をいくスポットだった。

この人フォークシンガー 見てる人ものってるカンジで歌ってる人と一心同体なのです!
★4chステレオコンサートもあるよ!

このステージは誰でも自由に参加できるので~す!
申込先・・・・・

★テクニクス・アキタ
音・光・メカ ヤングのハートがジーンとくるのです。
みんな勝手にどんどんタッチしてもいいので~す。
★22日23日のみパナヤングクラブ入会者にゴキゲンなカラーポスター進呈!!
★来店者に抽せんで記念品進呈!!

★ アメリカンスタイルスナック
秋田初のメニューがいっぱい 味もグンバツです!!
とにかくヤング好みのメニューがワンサカあります!!

テクニクス・アキタはパナソニック系のオーディオショップ
アメリカンスタイルスナックのメニューピザパイ、プラザカツサンド、ハンバーガーサンド、クロームムッシュ等
エクスクラメーション(!)をやたら使ったイラストの解説は、今あらためて読むと、ちょっとイタく、トホホなコピー。


1972.08 新聞広告より


1972.08 新聞広告(部分)



この日の「ヤング広場」は、友川かずき(現・友川カズキ)と昭和精吾というディープな二人が顔を合わせるレアなステージ。

まだレコードデビュー前の友川は、東京での夢破れて八竜に帰省し、「能代唄捨て社」とかいう事務所をつくり地元で唄う一方で、能代一中でバスケのコーチをしていた。このとき友川はコーチとして生涯を送ることを決意して、能代工高バスケの名監督であり恩師である加藤廣志に相談し、紹介されたのが能代一中だった。このコーチ時代の教え子が、能代工高三年時に三冠を達成し、住友金属工業に入社したあとは、オールジャパンの主力選手として活躍、現在はJBL日立サンロッカーズのヘッド・コーチである小野秀二。友川は早くから小野のバスケットセンスを見抜き、徹底して鍛え上げたという。

友川はこの時期、ヤクザになりかけていた親友のことを詩にした「○○ヤクザになんかなるなよ!!」(○○に名前が入る)とサビで叫ぶ曲を唄っていた。その友人がヤクザになったかどうかは知るよしもないが、後日に行われたライブでこの曲をリクエストされて友川は「それはちょっと‥‥」と拒否していた。決してレコード化されることのない、極めて短期間だけのまぼろしの名曲である。

昭和精吾の実家は大館市で満州生まれ、寺山修司の「天井桟敷」に出演する俳優・詩人で、秋田に「奥羽企画」をつくり、フォークの連中とも同じステージにあがり活動していた。このときすでに三十代、自作の詩をギターで弾き語るスタイルの絶唱が忘れ難い。

この二人だけは、ナウなヤングが集まる「ヤング広場」というイメージとは縁遠い、アングラ色の濃い存在だった。


1972.10 新聞広告(部分)

「新しいヤング」ってヘンな言い回しだ。「フレッシュなヤング」というような意味なのだろうが。

この年の10月から「ヤング広場」を会場に、ABSラジオの公開録音が始まる。当初は日曜日午後の収録で番組名は「POP IN」。

広告が掲載された土曜日の午後2時から、山平和彦のバックバンド「マイペース」のライブ。山平は名古屋東海ラジオの深夜放送「ミッドナイト東海」でディスクジョッキーを開始した時期にあたるが、まだ秋田を拠点にして中央と往き来していたと思う。

「マイペース」の音楽センスは当時から、他を圧倒して光るものがあった。しかし、この数年後、山平のプロデュースによる「東京」でレコードデビューを果たし、それが100万枚を越えるミリオンヒットを記録することなど誰にも予想できなかった。

60年代末から70年代初頭は、秋田フォーク界のカリスマ・山平和彦が率いた「あきたおんがくくらぶ」を筆頭に、天井桟敷・昭和精吾の「奥羽企画」、さらには八竜の鬼才・友川かずきなど、個性あふるる表現者たちが顔をそろえてミュージックシーンを創っていた、秋田のポピュラー音楽史にとって記憶すべき時代であり、広小路は「秋田プラザ」内に誕生した「ヤング広場」という存在も、これらのバッククラウンドがあってこその、ひとときの夢のステージであったのだ。

後編につづく

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土曜の午後はサテライトスタジオで

広小路が放課後の遊び場だった中高生のころ、半ドンの土曜の午後は、協働社へ行ってサテライトスタジオを見物するのが定番のコースだった。

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協働社ビルの二階への階段を上ってすぐ、天井にぶらさがるように設置された、ガラス張りのサテライトスタジオ、そこからは秋田放送のラジオ番組が生中継されていた。

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昭和四十二年(1967)広告

秋田にただひとつの“音のショーウインドー”
<秋田放送・協働社サテライトスタジオ>
音楽・クイズ・リクエストでつづる楽しい30分番組
毎週 日曜・火曜・木曜・土曜日 2:00PM~2:30PM

写真/大映スター 姿美千子・倉石功
を招いてのサテライトアワー(昭和39年1月)1964

姿美千子は1960年代の女優。現役俳優の倉石功との共演は、昭和三十八年、舟木一夫主演「高校三年生」がある。映画スターがゲストということで、店内は鈴なりの見物客でごったがえしている。

時はアイビーファッションの全盛期。石津謙介の「VAN」と、女性版アイビールックの「エフエル」、どちらも、この時点では協働社が県内随一の特約店。

昭和三十八(1963)年八月、協働社・広小路本店オープン。その年の十二月二十四日、サテライトスタジオが開局し、第一回目の「サテライトアワー」が放送された。当初は日曜と水曜の午後二時からの一時間番組で、司会は、神永光と柏木椒子。

ラジオの新しい魅力
サテライト・アワー

【秋田放送二・〇〇】新鮮なアイデアに富む番組が生まれ、聴取者を引き寄せ、リアルなコマーシャルができる画期的なラジオのスタジオ「サテライト・スタジオ」が開設する。このサテライト・スタジオは、秋田市広小路にある協働社ビル内に設置したもので、ガラス張りで常時いろいろな照明でいろどられるウインドー形式のスタジオ。いわば音と光りのショーウインドーである。放送形式は、これまでの放送局のスタジオをそのまま局外に出したもので、アナウンサー、プロデューサー、ミキサーがスタジオにはいり、サテライトの最大の魅力“通行人が番組に参加する”。

開設を記念して第一回のサテライト・アワーの放送は、こけら落としの意味も含めて、落語家・三遊亭三笑をゲストに迎え「サテライト・アワーあなたもあなたもリクエストをどうぞ」で処女電波を発する。

番組内容は、音楽、クイズ、ゲスト・コーナーなどで構成されるが、音楽は全曲リクエストで、カードとインタビューによって場内のお客さんからリクエスト曲をうかがう。クイズは“ずばり買いましょう”“ピョン・ピョン・クイズ”などで、商品に関係あるプライス・クイズである。

初放送当日のラテ欄より

「ずばり買いましょう」のネーミングは、当時の人気ТV番組「ナショナルプライスクイズ・ズバリ!当てましょう」のパクリ。「ピョン・ピョン・クイズ」は協働社のうさぎのマークにちなんだもの。

のちに番組名は「サテライトタイム」となり、丹内百子、藤尾隆造などが単独で司会を務めている。竿燈の会場内アナウンスを永くつとめていた藤尾隆造の美声は忘れがたい。祭りの前日、この人のマイクテストの声が界隈に響くと、祭りの季節がやってきたことを身にしみて実感したものだ。

サテライトスタジオからの中継が終われば、上階のゲームコーナーで、ピンボールなどで遊び、ジュークボックスで音楽を聴き、フトコロに余裕があれば、食堂街で飲み物を飲みながら、たわいもない話をする。あとは広小路のデパートを巡り、天気が良い日はお堀のボートに乗ったり、楽しい土曜の午後はまたたく間に過ぎてゆくのであった。

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