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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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雪道には馬橇が走り

昭和三十年一月一日発行の『広報あきた』に、児童生徒に対する冬休みの注意事項が載っている。

「冬休みをむかえて」
(1)学習励行のため毎日きめられた時間前には友だちをさそわない。
(2)道路上の遊びはさけ、自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする。
(3)スキー遊びは安全な場所でやる。手形山には市営の山小屋が設けられ毎日十時より十七時まで管理人がつとめている。記念館前の坂は雪遊びの場所として車馬の交通止が予定されている。
(4)スケートは広小路ほりに例年通り市営リンクが開設され自由に利用できる。危険な時は赤旗が示される。
(5)映画は学校ですすめたもの以外は見ないように、父兄同伴の場合でもこのましくない。
(6)用事もないのに店頭をぶらついたり大人の遊技場に立寄らない。
(7)空気銃や、ゴムの石弓など禁止の方向に指導されたい。
(8)火の用心が夜遊びのもとになったり、悪い遊びにならないよう。
(9)それぞれ学校の帽章や、バッチ着用は是非励行されたい。

昭和三十年(1955)『広報あきた』より

(3)手形山の市営スキー場は学校のスキー授業の場所でもあった。「記念館前の坂」とは現在の県民会館への坂道だが、そこで子供たちを橇やスキーで遊ばせるために、中土橋通りを車馬禁止にしたのだろうか。
(4)厳冬期には広小路に面したお堀が無料の市営スケートリンクになったが、開設時期はその年の天候に大きく左右された。

(2)の「自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする」という項目は、その時代を生きた年配者にしかわからない。

昭和三十年代の中ごろまでの、まだ荷物を運ぶ馬車や橇が残っていた時代、道行く馬車に駆け寄って後ろにしがみついて乗ったり、積雪期には小型のスキーやスケートを履いて、馬橇の後ろにつかまり、雪道を滑って遊ぶのが冬の楽しみであった。

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昭和三十一年 角館

車の通行が少ないため、道に轍ができることもなく、橇と徒歩で平らにふみ固められた雪道は、最適な遊び場で、大人たちも下駄にスケートの刃がついた「ドッコ」などを履いて遊んでいた。

家の前を通る馬車は仁井田方面から駅前方面へ農作物を載せて往復するものだったと思う。子どもたちが数人取りつくと、馬車も重くなり、馬方のおじさんに気づかれるとゴシャガレル(叱られる)のだが、荷物の少ない帰り道は、子供たちに寛容な場合が多かったようだ。

そんなのんきな遊びも、馬車がトラックに変り、自動車が増えるに連れ消滅するのだが、馬車の変りに自動車の後ろに取りつく子どもも多かったことが、同じく『広報あきた』の記事からうかがえる。

……前略……
冬季は交通事故の発生が多く、市民の方達の一層の協力が望まれている。特に土崎地区に多く見受ける学童のスケートでバスに取付くことなどは急停車の場合バスの下敷はもとより思わぬ災害を招くことになるので父兄の方達の一段の注意をのぞんでいる。

昭和二十八年(1953)『広報あきた』「白魔悪路と戦う市営バス」より

馬橇に曳かれて滑る快感忘れがたき少年たちが、さらなるスピードを求めて、バスやトラックに取りついたのだろうが、車の台数が少ない時代とはいえ、確かにこれは危険な遊び。しかし、遊びは危険がともなうほど面白く、禁じられた遊びほどエキサイティングなものはない。公報に載ったような大人の決めた注意事項などは忘れて、ただひたすら遊びまくるのが子どもの本分なのだ。

| 昭和・平成ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

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