二〇世紀ひみつ基地

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スケートリンクでゴーカート

山王大通りにあった「秋田スケートリンク」では、スケートシーズンが終わればゴーカートコースがオープンした。


新聞広告 昭和四十六年(1971)

● 東北ではまれに見る交通安全の一助にもと考え、近代的なゴーカートを開設いたましてから三周年、ご承知の通りゴーカートは老若男女を問わず楽しみと親しみを与えコースを存分に運転し、更には交通ルールを身につけることができると、大変好評を得ております。ぜひ一度おためしいただきますようにお待ち申しあげます。

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スケートリンクの周囲の点線部分がゴーカートコース。

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達三少年のスケート遊び

石川達三が秋田市楢山裏町時代を回想した随筆には、冬の暮らしに関する記述が多い。物心のつき始める三歳から七歳まで秋田市で暮らし、その後は雪の積もらない東京に出ているため、幼いころの雪国での生活はとくに印象深く心に刻まれたのではないだろうか。

達三少年たちは、雪道に「氷の道」(スケートリンク)をつくって遊んでいる。

 雪道を踏みかためて、私たちは毎日すべっていた。小学校の五年ぐらいになるとスケートをはき、もっと小さい子は(まくりがね)という、もっと安全な道具。そして私たちは(どう)と言って極く安全な、女の子でもはけるような物ですべっていた。
 自分たちのいつも遊ぶ場所を、五十メートルばかり踏み固め、夕方水をまいて夜のうちに凍らせておくと、翌日は水盤のようになっていて、いくらでも滑れる。この氷の道はほとんど融けることがなかった。新しい雪が降ると、また子供たちが整備作業にはたらく。そういう時はみんな気がそろって、せっせと労働をしたものだった。通りがかりの大人たちが足を滑らせて、(こんなにして、危ないじやないか)といって怒った。怒られても、だからと言って吾々の遊び場を失うわけには行かない。‥‥後略‥‥

大正初期の秋田市、道路が子どもらが心置きなく遊べる場所だった、幸福な時代の一コマ。

「スケート」は、下駄にスケートの刃を取り付けた「軍艦」などと呼ばれた「下駄スケート」のことだろう。そのほか、下駄に太めの鉄板を埋めこんだもの、さらに二本の鉄板を埋めこんで安定感を増したものなどがあった。

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下駄スケート

さて、裏町と同様に表町(ト一屋楢山店の通り)にも、その町内の子どもらが「氷の道」をつくっていたのだが、ある日、裏町の少年たちが相談して、表町の「氷の道を壊す」という計画を実行する。

 計画は極秘だった。夕飯のあと、日が暮れてから町角に集れ。誰にも言うな。金槌を持って来い。‥‥というのだった。囲炉裏のそばで鍋をかこんで、父と母と兄たちと、あたたかい食事をすませてから、私はそっと家を出た。二人の兄が一緒であったかどうか、記憶にはない。集ったのは七八人だった。声を忍んで、私たちは路地をぬけて行った。表町の商店街も冬の夜ははやく大戸をおろして、人通りもなく、灯影もすくなかった。
 私たちは適当な間隔をおいて氷の道の上にうずくまり、持ってきた金槌で氷に穴をあげた。早く、早く、人に見つからないように。‥‥‥金槌のうしろの釘抜きが尖っているので、氷を割るにはその方が都合がよかった。そのとき私は罪を意識した。自分がいま悪事をはたらいているのだということを、はっきりと意識した。おそらく私の生涯に於て、自分の罪を意識したのはこの時が最初であった。‥‥後略‥‥

石川達三「私ひとりの私」文藝春秋社 より


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楢山裏町・石川達三の旧家近く

似たようなことがあった。
自分の生まれた楢山の町内は学区の境界にあって、となりの町内の子どもたちは違う小学校に通っていた。そのせいか対抗意識のようなものがあり、何かある度にいがみ合い、喧嘩に発展することはなくとも非常に険悪な仲だった。

町内の境界にあった原っぱ(児童公園)は、どちらの町内の子どもたちも遊ぶ共有の場だった。冬休みの天気のよい日、大人たちも加わって、そこに巨大なトンネル形カマクラをつくった。最初はカマクラをつくるつもりが、調子に乗ってでき上がったら、迷路のような長いトンネルになったのだ。

日の暮れるころには完成し、「明日ゆっくり遊ぶべ」と家に帰り、翌朝、公園に行ってみると、一日がかりでつくった雪のトンネルが、めちゃくちゃにされていた。「やられだ!」「昨日、遠くから、となりのヤヅらがずっと見でだべ。あれがだの仕業だ‥‥」。となりの町内の子どもたちが、夜のうちに壊したのだ。

目には目を、歯には歯を、隣りの町内の連中が、公園に大きな「雪の迷路」をつくったときは、夜になって壊してやったのだが、そのとき公園には一人の見張りがついていた。そいつが仲間を呼びに行こうと走りだしたところを捕まえ、無事に作戦を成功させる。

達三の住んだ裏町と表町は、どちらも築山小学校の学区であり、そんなに険悪な仲だったとは考えにくい。ただ「表町」「裏町」という町名が気になるところで、表町の子どもたちは、裏町のことを見下していて、それが確執になっていたのかもしれない。


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| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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山王に屋内スケートリンクがあった

向浜に県立スケート場がオープンしたのは、昭和四十六年(1971)十一月のこと。しかし、それよりも早く、60年代後半には山王大通りに民営の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」が営業していた。


昭和四十六年(1971)正月広告

それまで、厳冬期の千秋公園のお堀や、河川でスケートをしていたのだから、屋内の安定した環境で、天候に左右されずに滑りを楽しめる施設は人気を集め、おおいに賑わったようだ。

初期はバスの便がなかったためか、秋田駅前からリンクまで無料送迎バスを三十分おきに運行している。そのころのキャッチフレーズは、「東北一を誇る近代的マンモス屋内リンク」。

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1971年版住宅地図を参考

場所は、現在の生涯学習センターと児童会館のあたり。

建物の回りにある点線部分は、シーズンオフに営業されたゴーカートのコースと思われる。スケートリンクは夏には室内プールになった。

現在、秋田県立図書館の建つ場所には、ドライブインとトヨタの営業所、その東の三軒は旅館。あたりは水田が広がり、児童会館前から南に延びる道路が完成するのは数年後のこと。

広くて充実した設備の県立スケート場がオープンして間もなく、「秋田アイススケートリンク」は閉場となった。

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国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)
撮影・昭和五十年(1975)

すでにスケートリンクの影もない。
県立体育館の西にある三色屋根の建物は、昭和四十六(1971)年十二月、ボウリングブームの波にのってオープンした「東北グランドボウリング」。そのキャッチフレーズは「東北一の規模を誇るボウリング場」。

「秋田アイススケートリンク」にしろ、「東北一を誇る」うんぬんというフレーズは、当時の広告の常套句だったようで、それが真実であるかは疑わしい面もあるが、このボウリング場は確かに広かった。

ボウリング場の北が秋田商業高校のグラウンド、校舎とつづく。商業高校は、昭和五十三年(1978)割山の新校舎に移転する。

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雪道には馬橇が走り

昭和三十年一月一日発行の『広報あきた』に、児童生徒に対する冬休みの注意事項が載っている。

「冬休みをむかえて」
(1)学習励行のため毎日きめられた時間前には友だちをさそわない。
(2)道路上の遊びはさけ、自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする。
(3)スキー遊びは安全な場所でやる。手形山には市営の山小屋が設けられ毎日十時より十七時まで管理人がつとめている。記念館前の坂は雪遊びの場所として車馬の交通止が予定されている。
(4)スケートは広小路ほりに例年通り市営リンクが開設され自由に利用できる。危険な時は赤旗が示される。
(5)映画は学校ですすめたもの以外は見ないように、父兄同伴の場合でもこのましくない。
(6)用事もないのに店頭をぶらついたり大人の遊技場に立寄らない。
(7)空気銃や、ゴムの石弓など禁止の方向に指導されたい。
(8)火の用心が夜遊びのもとになったり、悪い遊びにならないよう。
(9)それぞれ学校の帽章や、バッチ着用は是非励行されたい。

昭和三十年(1955)『広報あきた』より

(3)手形山の市営スキー場は学校のスキー授業の場所でもあった。「記念館前の坂」とは現在の県民会館への坂道だが、そこで子供たちを橇やスキーで遊ばせるために、中土橋通りを車馬禁止にしたのだろうか。
(4)厳冬期には広小路に面したお堀が無料の市営スケートリンクになったが、開設時期はその年の天候に大きく左右された。

(2)の「自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする」という項目は、その時代を生きた年配者にしかわからない。

昭和三十年代の中ごろまでの、まだ荷物を運ぶ馬車や橇が残っていた時代、道行く馬車に駆け寄って後ろにしがみついて乗ったり、積雪期には小型のスキーやスケートを履いて、馬橇の後ろにつかまり、雪道を滑って遊ぶのが冬の楽しみであった。

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昭和三十一年 角館

車の通行が少ないため、道に轍ができることもなく、橇と徒歩で平らにふみ固められた雪道は、最適な遊び場で、大人たちも下駄にスケートの刃がついた「ドッコ」などを履いて遊んでいた。

家の前を通る馬車は仁井田方面から駅前方面へ農作物を載せて往復するものだったと思う。子どもたちが数人取りつくと、馬車も重くなり、馬方のおじさんに気づかれるとゴシャガレル(叱られる)のだが、荷物の少ない帰り道は、子供たちに寛容な場合が多かったようだ。

そんなのんきな遊びも、馬車がトラックに変り、自動車が増えるに連れ消滅するのだが、馬車の変りに自動車の後ろに取りつく子どもも多かったことが、同じく『広報あきた』の記事からうかがえる。

……前略……
冬季は交通事故の発生が多く、市民の方達の一層の協力が望まれている。特に土崎地区に多く見受ける学童のスケートでバスに取付くことなどは急停車の場合バスの下敷はもとより思わぬ災害を招くことになるので父兄の方達の一段の注意をのぞんでいる。

昭和二十八年(1953)『広報あきた』「白魔悪路と戦う市営バス」より

馬橇に曳かれて滑る快感忘れがたき少年たちが、さらなるスピードを求めて、バスやトラックに取りついたのだろうが、車の台数が少ない時代とはいえ、確かにこれは危険な遊び。しかし、遊びは危険がともなうほど面白く、禁じられた遊びほどエキサイティングなものはない。公報に載ったような大人の決めた注意事項などは忘れて、ただひたすら遊びまくるのが子どもの本分なのだ。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

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