二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

≫ EDIT

1970「日本海サニーランド」オープン

日本海サニーランド
▲昭和45(1970)年 新聞広告より

米代川河口に近い能代市落合の能代温泉に、昭和45(1970)年5月18日、「日本海サニーランド」オープン。

「日本海の波濤に太陽」を組み合わせたロゴマークに、 キャッチフレーズは「歌と踊りと大プール」。

37,600平方メートルの敷地に、ウォーターシュート付き温水プール、温泉、大広間、レストラン、宿泊施設、テニスコート、ゴーカート場、ゲームコーナーなどを備えた総合レジャー施設であった。

能代の「中田建設」創業者社長で県会議員の中田初雄氏が、地元有志から出資を募り「日本海サニーランド株式会社」を設立、中田氏が社長に就任。

昭和41(1966)年、福島に開業した「常磐ハワイアンセンター」(現・スパリゾートハワイアンズ)の成功を契機に、

昭和42(1967)年「山形ハワイドリームランド」開業
昭和44(1969)年「茨戸ハワイランド」(札幌)開業

等々、昭和40年代初頭から“常夏の楽園ハワイ”をテーマに、大型温水プールを中心とした総合レジャー施設が各地にオープン。「日本海サニーランド」もその流れに乗ったもの。

氷点下の真冬でも常夏気分を楽しめる「日本海サニーランド」は、当初の予想を大きく上まわる活況を呈した。

※「能代温泉」昭和40年代始め、石油試掘ボーリング中、70度の温泉が噴出したのが能代温泉の始まり。

日本海サニーランド
▲昭和46(1971)年

利用料金・大人 350円 小中学生 200円 幼児 100円。ちなみに、ラーメン一杯180円(東京)銭湯40円の時代。

熱狂的なボウリングブームのほとぼりが残る、昭和46(1971)年5月、隣接地に「能代サニーレーン」開業。

日本海サニーランド
▲昭和48(1973)年

日本海サニーランド
▲昭和48(1973)年

左手に「能代サニーレーン」。そのとなりの二基のテント、そして右上に二つ並んだドーム状の物体は、秋田における史上最大規模の博覧会「秋田博」のパビリオンを再利用したもの。

「日本海サニーランド」を経営する「中田建設」が「秋田博」の建設を請け負っていた関係で、そのパビリオンと遊具の一部がこの地に移設された。

秋田博
▲昭和44(1969)年 秋田博メイン会場の一部(会期前)

右上に、かまくらをイメージした「四季のイメージ館」のうちの二棟。右下にジェットコースターが見える。

日本海サニーランド
▲昭和45(1970)年 「日本海サニーランド」新聞広告より

ふたつのドーム状構造物の内部はゴーカート場。ゴーカート、そして、屋内に設置された遊具・コーヒーカップも、秋田博の「子供の国」から移設したものであった。

秋田博
▲昭和44(1969)年 秋田博「子供の国」(会期前)

※「秋田博」(八郎潟干拓記念・秋田農業大博覧会)秋田市臨海工業地帯をメイン会場に、「大阪万博」を翌年に控えた昭和44(1969)年8月から9月の55日間開催。県内外からの入場総数102万人。

日本海サニーランド
▲昭和50(1975)年10月撮影

「秋田博」から移設したテントおよびドーム状のパビリオンは、この時点で姿を消している。パビリオン類のほとんどは、会期中だけ持てば良い仮設建設のため、耐久性が低い。

日本海サニーランド
▲昭和55(1980)年

昭和58(1983)年5月26日11時59分57秒、マグニチュード7.7を記録する日本海中部地震発生。

砂丘を越えて高さ3メートル弱の津波が「日本海サニーランド」を襲う。駐車場、テニスコートが地割れをおこし、建物は地盤沈下による配管破損がいちじるしかった。

オープンから2年ほどは黒字であったものの、その後は経営不振がつづいていたことから、この震災を契機に「日本海サニーランド」の閉鎖が決まる。その後「能代サニーレーン」は、土床の室内ゲートボール場として整備された。

日本海サニーランド跡
▲日本海サニーランド跡 2012.09撮影・Googleストリートビュー

平成26(2014)年、「日本海サニーランド」跡地と市道を隔てた隣接地に「中田建設」が年間発電量約110万キロワット規模の太陽光発電所を建設。

かつて「太陽と波」をシンボルマークとする“陽光の楽園”が存在した地に、今は(2015)ソーラーパネルが林立している。


▲日本海サニーランド跡・能代落合太陽光発電所

中田建設株式会社

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

スケートリンクでゴーカート

山王大通りにあった「秋田スケートリンク」では、スケートシーズンが終わればゴーカートコースがオープンした。


新聞広告 昭和四十六年(1971)

● 東北ではまれに見る交通安全の一助にもと考え、近代的なゴーカートを開設いたましてから三周年、ご承知の通りゴーカートは老若男女を問わず楽しみと親しみを与えコースを存分に運転し、更には交通ルールを身につけることができると、大変好評を得ております。ぜひ一度おためしいただきますようにお待ち申しあげます。

20060114140309.gif

スケートリンクの周囲の点線部分がゴーカートコース。

-----------

関連記事
山王に屋内スケートリンクがあった


| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 12:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

山王に屋内スケートリンクがあった

向浜に県立スケート場がオープンしたのは、昭和四十六年(1971)十一月のこと。しかし、それよりも早く、60年代後半には山王大通りに民営の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」が営業していた。


昭和四十六年(1971)正月広告

それまで、厳冬期の千秋公園のお堀や、河川でスケートをしていたのだから、屋内の安定した環境で、天候に左右されずに滑りを楽しめる施設は人気を集め、おおいに賑わったようだ。

初期はバスの便がなかったためか、秋田駅前からリンクまで無料送迎バスを三十分おきに運行している。そのころのキャッチフレーズは、「東北一を誇る近代的マンモス屋内リンク」。

20060114140309.gif
1971年版住宅地図を参考

場所は、現在の生涯学習センターと児童会館のあたり。

建物の回りにある点線部分は、シーズンオフに営業されたゴーカートのコースと思われる。スケートリンクは夏には室内プールになった。

現在、秋田県立図書館の建つ場所には、ドライブインとトヨタの営業所、その東の三軒は旅館。あたりは水田が広がり、児童会館前から南に延びる道路が完成するのは数年後のこと。

広くて充実した設備の県立スケート場がオープンして間もなく、「秋田アイススケートリンク」は閉場となった。

20060114140252.jpg
国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)
撮影・昭和五十年(1975)

すでにスケートリンクの影もない。
県立体育館の西にある三色屋根の建物は、昭和四十六(1971)年十二月、ボウリングブームの波にのってオープンした「東北グランドボウリング」。そのキャッチフレーズは「東北一の規模を誇るボウリング場」。

「秋田アイススケートリンク」にしろ、「東北一を誇る」うんぬんというフレーズは、当時の広告の常套句だったようで、それが真実であるかは疑わしい面もあるが、このボウリング場は確かに広かった。

ボウリング場の北が秋田商業高校のグラウンド、校舎とつづく。商業高校は、昭和五十三年(1978)割山の新校舎に移転する。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |