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二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

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石川達三と冬の落とし穴

ドシアナ(落とし穴)つくりは、子どもの遊びの定番だった。

原っぱに数人が集まり、子どもがすっぽり入るくらいの深さに穴を掘り、そこに枝を渡し、その上に新聞紙をのせ、さらに土をかぶせ草を散らしてカモフラージュする。積雪期はカモフラージュもしやすく、つくった自分たちでさえ、その場所が分からなくなるほど。

そしてターゲットとなる誰かを呼びだし、仕掛けた穴までうまく誘導して落とすのだが、ともすれば落とし穴をつくった仲間の誰かが、あやまって落ちてしまうという間抜けな事態も発生する。

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いつも遊んでいた原っぱは、埋立地だったせいか、深く掘ると水がしみ出してくる、落とし穴には最適な場所で、さらに穴のなかにションベ(小便)のオマケを加えたりもした。そんなふうにしてできあがった落とし穴に、自ら落ちるというみじめな失態を、幼いころに秋田市楢山裏町に暮らした石川達三*も体験している。

 雪が深くなると、人の通る道はようやく三尺くらいの幅になって、その両側は四五尺にも及ぶ雪の土手であった。この土手の上が子供たちの遊び場である。さいかちという植物に生る豆のさやが、どこの家の台所にも置いてあった。物を洗うのに使う。そのさやを持ち出して、私たちは雪の中で叩く。すると雪が真紅に染まるのだった。また、新しく降った雪にサッカリンをまぜて食べたこともあった。
 或るとき私は近所の子と二人で、この雪の中に陥し穽をつくった。大きい子供たちは学校へ行ったあとで、このはるかな雪道で遊んでいるのは私たちだけであった。陥し穿をつくる方法や、その面白さは、大きい子供たちの仕事を見て知っていた。二人は雪の中に二尺ばかりの穴を掘りあげ、それから穴の中に小便をした。これも大きい子供の真似であった。うっかりして穴に落ちた人は、そこに小便をしであるのを見て、一層くやしがるに違いない。そういう悪智恵だった。
 それから私たちは生垣の卯の花やうつぎなどの小枝を折って穴の上にならべ、さらにその上に静かに雪をのせた。するともはや穴がどこにあるのか完全に解らなくなった。きっと誰かが落ちるに違いない。‥‥‥そして、それから一分も経たないうちに、いきなり私の足もとが崩れ、自分の造った穴の、自分の小便の上に、私自身が落ちた。この時の、歯噛みするような口惜しさを私はいまだに忘れ得ない。原因は自分にある。誰に抗議することも出来ない。それが教訓だった。他人にかけた呪いが、私自身の上におちて来たのだ。(人を呪わば穴二つ‥‥‥)という諺を聞くたびに、私は必ずあの時の失敗を思い出す。胸が煮えるような口惜しさのやり場がなかった。‥‥後略‥‥

石川達三『私ひとりの私』 昭和四十年 文藝春秋社 より

>>雪が深くなると、人の通る道はようやく三尺くらいの幅になって‥‥‥
一尺は約30cm、自動車の無い時代だから、馬ソリの通らない小路は箱ゾリが通れるほどの巾があれば十分だったのだろう。道の両側には寄せられた雪が1.5メートルほどになったというから、この時代は今年のような豪雪が、さして珍しいものではなかったのだ。

>>新雪にサッカリンをまぜて食べる‥‥‥
というのはやったことがないが、新雪をコップに入れて、渡辺のジュースの素(粉末ジュース)をふりかけ、まぜて食べたことがあった。

>>生垣の卯の花やうつぎなどの小枝を折って‥‥‥
正確にいえば、ウノハナはウツギの別名、達三がいうウノハナは、ユキヤナギのことだと思う。自分の生家にもユキヤナギがあって、それを皆がウノハナと呼んでいた。生垣のある家は今も楢山に多い。

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楢山裏町・石川達三の旧家近く

*石川達三
明治三十八年、横手市に生まれる。父が秋田中学校(現・秋田高校)の教頭に転じたことから、三歳から七歳までのあいだ秋田市楢山に暮らす。ブラジルへ移住する秋田の小作農の一家を主人公にした小説「蒼氓(そうぼう)」で昭和十年に芥川賞を受賞。昭和六十年、七十九歳で死去。


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雪道には馬橇が走り

昭和三十年一月一日発行の『広報あきた』に、児童生徒に対する冬休みの注意事項が載っている。

「冬休みをむかえて」
(1)学習励行のため毎日きめられた時間前には友だちをさそわない。
(2)道路上の遊びはさけ、自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする。
(3)スキー遊びは安全な場所でやる。手形山には市営の山小屋が設けられ毎日十時より十七時まで管理人がつとめている。記念館前の坂は雪遊びの場所として車馬の交通止が予定されている。
(4)スケートは広小路ほりに例年通り市営リンクが開設され自由に利用できる。危険な時は赤旗が示される。
(5)映画は学校ですすめたもの以外は見ないように、父兄同伴の場合でもこのましくない。
(6)用事もないのに店頭をぶらついたり大人の遊技場に立寄らない。
(7)空気銃や、ゴムの石弓など禁止の方向に指導されたい。
(8)火の用心が夜遊びのもとになったり、悪い遊びにならないよう。
(9)それぞれ学校の帽章や、バッチ着用は是非励行されたい。

昭和三十年(1955)『広報あきた』より

(3)手形山の市営スキー場は学校のスキー授業の場所でもあった。「記念館前の坂」とは現在の県民会館への坂道だが、そこで子供たちを橇やスキーで遊ばせるために、中土橋通りを車馬禁止にしたのだろうか。
(4)厳冬期には広小路に面したお堀が無料の市営スケートリンクになったが、開設時期はその年の天候に大きく左右された。

(2)の「自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする」という項目は、その時代を生きた年配者にしかわからない。

昭和三十年代の中ごろまでの、まだ荷物を運ぶ馬車や橇が残っていた時代、道行く馬車に駆け寄って後ろにしがみついて乗ったり、積雪期には小型のスキーやスケートを履いて、馬橇の後ろにつかまり、雪道を滑って遊ぶのが冬の楽しみであった。

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昭和三十一年 角館

車の通行が少ないため、道に轍ができることもなく、橇と徒歩で平らにふみ固められた雪道は、最適な遊び場で、大人たちも下駄にスケートの刃がついた「ドッコ」などを履いて遊んでいた。

家の前を通る馬車は仁井田方面から駅前方面へ農作物を載せて往復するものだったと思う。子どもたちが数人取りつくと、馬車も重くなり、馬方のおじさんに気づかれるとゴシャガレル(叱られる)のだが、荷物の少ない帰り道は、子供たちに寛容な場合が多かったようだ。

そんなのんきな遊びも、馬車がトラックに変り、自動車が増えるに連れ消滅するのだが、馬車の変りに自動車の後ろに取りつく子どもも多かったことが、同じく『広報あきた』の記事からうかがえる。

……前略……
冬季は交通事故の発生が多く、市民の方達の一層の協力が望まれている。特に土崎地区に多く見受ける学童のスケートでバスに取付くことなどは急停車の場合バスの下敷はもとより思わぬ災害を招くことになるので父兄の方達の一段の注意をのぞんでいる。

昭和二十八年(1953)『広報あきた』「白魔悪路と戦う市営バス」より

馬橇に曳かれて滑る快感忘れがたき少年たちが、さらなるスピードを求めて、バスやトラックに取りついたのだろうが、車の台数が少ない時代とはいえ、確かにこれは危険な遊び。しかし、遊びは危険がともなうほど面白く、禁じられた遊びほどエキサイティングなものはない。公報に載ったような大人の決めた注意事項などは忘れて、ただひたすら遊びまくるのが子どもの本分なのだ。

| 昭和・平成ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

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烏瓜の灯火とカボチャランタン

ハロウィンといえば、カボチャをくり抜き、目鼻と口を開け、中にロウソクを灯すランタンが付き物だが、これは、死者の霊を導き、悪霊を追い払う、古代ケルトのかがり火に由来するものという。日本での御盆の迎え火、送り火(灯籠流し)に相当し、その時期、ハロウィンのようにカボチャや瓜で灯籠を造り、迎え火とする地方もある。

ハロウィンのカボチャのランタンは、子供のころの「烏瓜の提灯」の想い出につながる。

夏休みの終わる頃、隣家の生け垣に黄烏瓜が青い実を付ける。この実を使い提灯を造って遊ぶのが楽しい恒例行事となっていた。

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烏瓜の実が適度に育った時期、近所の子供たちが集まり、青くて固い烏瓜をもぎとり、父親たちの指導のもと、ナイフで穴を開けて種をほじくり出し、目鼻を開ける。尻から釘を刺してロウソク立てとし、頭のツルに針金をからませて持ち手となる木の枝を結び完成する。当時は目と口だけで鼻は開けなかったような気もする。

小さなロウソクに火と灯すと、チラチラとゆらめくあかりで烏瓜は緑色に透き通り、ロウソクの熱で皮が焼ける特有の香りがあたりに漂う。このあと、子供たちは手に手に烏瓜の提灯を提げ、暑さも和らいだ夜の街を徘徊するのだった。

宮沢賢治の小説には「烏瓜のあかり」が何度か登場する。賢治も幼少のころ烏瓜で提灯を造って遊んだのだろう。

それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。
『銀河鉄道の夜』より

星祭の夜、子供たちが手に手に烏瓜の灯火をもって、送り火の灯籠流しのように川へ流しに行くのだが、カンパネルラは烏瓜の灯火を流そうとして、過って川に落ちた級友・ザネリを水に飛び込み助けるものの、自身は帰らぬ人となってしまう。

徳冨健次郎(徳冨蘆花の本名)の随筆には、「烏瓜の燈籠」のことが記録されている。

 今日誤ってもいだ烏瓜を刳(く)って細君が鶴子の為に瓜燈籠をつくり、帆かけ舟を彫って縁につり下げ、しばしば風に吹き消されながら、小さな蝋燭をともした。緑色に透き徹った小天地、白い帆かけ舟が一つ中にともした生命の火のつゞく限りいつまでもと其表(おもて)を駛(はし)って居る。
(明治四十五年 七月十八日)
徳冨健次郎『みみずのたはこと』より

母親が娘のために造った烏瓜の燈籠には、風流な帆掛け船の透し彫りがほどこされ、初夏の縁側をゆらめきながらほのかに照らしている。そんな情景が眼に浮かぶような、さすがの名文である。

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黄烏瓜の花

夕刻に開き朝には花を閉じる白き花は妖艶で幻想的。

烏瓜は東北地方南部以南にみられ、青い果実には縞があり、秋には赤く熟すが、東北以北にもみられる黄烏瓜は縞が無く、秋には黄色く熟す。秋田で烏瓜といえば黄烏瓜のことをさし、賢治の「烏瓜のあかり」も黄烏瓜と思われる。

黄烏瓜の根から採取される澱粉は、解熱、催乳剤や、あせもの治療薬である天瓜粉(てんかふん・天花粉とも)の原料となった。今でも年寄りはベビーパウダーのことをテンカフと呼ぶ。

| 祭り・民俗・歳時記 | 23:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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紙鉄砲で遊ぶ

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紙鉄砲のつくりかた・クリックで拡大
紙は新聞紙がベスト。

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遊びかた
強く降り下ろすことにより、風圧で折り込んだ部分が開き、大きな音を出す。

油断している友だちや兄弟の背後に、足を忍ばせ近づき、おもいっきり降り下ろす。
「パン!」。
その大きな音に、目を丸くして驚いている姿をみて歓声をあげ、相手によっては、その場から逃げ出したり、駆けっこのピストルの代わりにも使った紙鉄砲。

こんな単純な遊びなのに、あんなに夢中なっていたあのころを、紙鉄砲をつくって想いだしてみませんか。

| 昭和・平成ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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